/*/ 帰り道、傘の下の距離 /*/
モールを出る頃には、雨はほとんど止んでいた。
街灯の光が、まだ乾ききらないアスファルトの上でぼんやりと滲んでいる。
「送ってくよ。どうせ方向一緒だし」
「……ん」
言いながら、惣一郎はコンビニで買ったビニール傘をひょいと持ち上げた。
さっきまで地下で感じていた異様な寒気が、まだ体の奥に少しだけ残っている。
(ひとりで歩いて帰るの、今日はさすがにキツいわ……)
自分で自分にそうツッコみながら、愛香の方をちらりと見る。
「惣くん、顔、真っ赤」
「いやまあ、色々とエネルギー持ってかれた感はある」
「……返さないからね?」
「そこは返すポーズくらいしろや」
口では不満を言いつつ、
傘の下でふたりの距離は、いつもより半歩だけ近い。
四十九囲区の夜道。
国道のヘッドライトが遠くを走り抜け、
その向こうを、東北道と磐越道のランプが静かに削っていく。
このエリアの地図を上から見れば、
まるで巨大な「井戸の縁」を、道路で四重に囲っているみたいだ。
「なあ」
「なに?」
「さっきさ」
惣一郎は、言葉を探すように少し黙った。
「……なんか、夢見てるみたいだった」
「うん」
「沈み口の水の中に引きずり込まれそうで。
でも、途中で方向が変わって、別んとこに落ちそうになって」
「別んとこ?」
「海ん底、みたいな……洞窟みたいな。
暗いんだけど、やたら生温かい感じで、
『あ、これ戻ってこられねーやつだ』ってなって」
愛香の喉が、かすかに鳴った。
「――それ、喜多島の方」
小さく呟く。
惣一郎には聞こえないくらいのボリュームで。
「で、まあ」
彼は続ける。
「そこでなんか、別のデカい“手”に襟首掴まれて、
『方向違うだろバカ』って感じで、地上の方にぶん投げられたみたいな……」
「それ誰?」
「知らん。声も聞いてねぇし。
ただ、やたらムカつく感じはした」
「ふーん……」
愛香は、傘の柄を握りしめながら、
心の中でひとりごとを足した。
(……絶対、貴也さんか、その“上”だ)
沈み口に引きずられる惣一郎を、
喜多島側の“淀み”が方向修正して、
こっちの管理下に引き入れ直した。
そこに、今日、自分が割り込んで、さらに引き寄せた。
(惣くんの足、三方向から引っ張ってるじゃん。
わたしと、沈み口と、伊集院家)
胃のあたりが重くなる感覚を、冗談めかした声で誤魔化す。
「ねえ惣くん」
「ん?」
「今んとこ、どっち向いて歩いてると思う?」
「え、方角の話?」
「そう」
「そりゃあ、うちの方向……じゃねぇの?」
「じゃなくて」
愛香は、彼の袖をつまんだ。
「沈み口と、喜多島と、四十九囲区。
どこにいちばん近いと思う?」
「……」
少し考えてから、惣一郎はあっさりと言った。
「学校」
「即答なんだ」
「だって、結局あそこから全部始まるし。
オカ研も結先生も、青見も彩女も玲子も、
だいたい全部、学校経由で変なことに巻き込まれてんだろ」
「それ、多分誉めてないよね?」
「でも事実だろ。
……まあ、だからこそ、多分そっち側に戻ってくるんだろな、って」
そう言って、いつもの調子で笑う。
何もかもを深刻に受け止めすぎない、その軽さ。
それは時々、心底腹が立つけれど――
今夜に限っては、ひどく救いだった。
「じゃあさ」
愛香は、少しだけ真面目な声に戻した。
「惣くんが、どっかに“引っ張られそう”になったら。
学校と、わたしと、沈み口と喜多島の中で、
いちばんマシな方に逃げるって約束して」
「お前、その選択肢並べ方おかしくね?」
「マシな方、だから」
「どれもこれもロクな方向に見えねぇんだが」
ぶつぶつ言いながらも、
惣一郎は「分かった」と短く答えた。
「じゃ、マシそうな順にランク付けしとくわ」
「教えて」
「1位:学校。
2位:お前んち。
3位:沈み口。
4位:喜多島。
5位:知らんとこ」
「喜多島、最下位じゃないんだ」
「“知らんとこ”よりはマシだろ。
どこまで行っても日本語通じなさそうだし、そこ」
「それは、そうかも」
ふふ、と小さく笑って、
愛香はようやく少し肩の力を抜いた。
沈み口の渦も、喜多島の胎蔵も、
伊集院家の線引きも、
きっとこれから大きく動く。
でも今は、ただ、
学校に帰っていく途中の、
ごく普通の、ちょっと変な高校生カップルの夜道だ。
/*/ 窓越しの目撃者 /*/
やがて、四十九囲区の住宅街が見えてくる。
街灯の数が減り、代わりに民家の窓明かりが並ぶエリアだ。
「ここまでくれば、まあ大丈夫か」
「何が?」
「雰囲気的な話。
モールの敷地から出て、国道の線も越えたし。
“結界の外縁”ってやつ」
「用語の使い方、オカ研っぽくなってる」
「実際そうだし」
そんな話をしながら歩いていると、
見慣れた家並みが見えてきた。
東家と、その隣の安達家。
その少し先に、松坂家のアパートへ続く曲がり角。
「じゃ、今日はここまでで」
角の手前で立ち止まり、愛香は傘から少しだけ身を離した。
「うん。また明日」
「明日こそ、普通のバイト報告で済むといいなぁ……」
「フラグ立てない」
「立ててねぇよ、俺の意思とは無関係に立ってんだよ」
「それをフラグって言うんだって」
くだらないやりとりをひとしきりして、
軽く手を振って別れる。
その様子を、
二階の窓から見下ろしている視線がひとつあった。
カーテンの隙間から、黒髪がするりとのぞく。
「……へー」
安達彩女は、頬杖をつきながら、
傘の下で笑い合っていたふたりの後ろ姿をしばらく見つめていた。
何かを疑っているというより、
ただ、「知ってしまった」という顔。
(あの距離感。
あー、そっか)
驚きと、ちょっとした納得と、
ほんの少しだけ胸の奥がきゅっとなる感じ。
それを、彩女は
「まあ、そうだよね」と
乱暴にまとめてしまうタイプだ。
「――彩女」
背後から、母親の声。
「なにー?」
「さっきニュースでやってたんだけどね。
モールの駐車場でまた軽いスリップ事故あったって。
“水たまりにハンドル取られた”って」
「ふーん」
適当に返事をしながら、
彼女はもう一度だけ外を見る。
沈み口モールの方角は、
夜の闇に溶けて見えない。
(惣一郎が、また変なとこ首突っ込んでるんだろうな)
そして、その隣には、
いつの間にか「本気の顔」の愛香がいる。
「……ま、いいか」
彩女は窓を閉めた。
(それでも結局、あいつはこっちに戻ってくる。
だったら、“帰ってくる場所”をちゃんと守っとけばいい)
そう思って、寝る前のストレッチを始めた。
/*/ 松坂家の体温 /*/
アパートに着いた頃には、
愛香の額にうっすら汗が浮かんでいた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
キッチンから顔を出した理恵子は、
娘の歩き方を一目見て、眉をひそめる。
「……やりすぎたわね?」
「んー。
ちょっと、いっぱい食べちゃったかも」
「自覚あるならよろしいけど」
理恵子はタオルを手に取り、
愛香の首筋に当てた。
体温が、わずかに高い。
けれど、それは風邪の熱ではなく――
“糧”を多く取り込んだ時の反応だ。
「惣一郎くんは?」
「ちゃんと生きてるよ。
沈み口に持ってかれそうだったから、
こっち側にぐいって引っ張り直した」
「喜多島の方に?」
「ううん」
愛香は、タオルを自分で受け取りながら首を振る。
「わたしの方に」
理恵子の目が、少しだけ見開かれる。
「……大胆ね」
「“保険”でしょ?」
娘は、昼間に母が言った言葉を、そのまま返した。
「惣くんが誰かに食べられるくらいなら、
最初から、わたしが大きめにかじっとく」
「言い方」
苦笑しながらも、
理恵子はどこかほっとした表情を浮かべた。
沈み口の渦が本気で手を伸ばすなら、
伊集院家の“契約線”だけでは足りない。
そこに、実際に惣一郎のPOWを取り込んでいる存在――
愛香のような“落し子”が噛みつくことで、
ようやく拮抗する。
「今日は、早く寝なさい」
「うん」
「夢見が悪くなったら、起きてきなさい。
ココアでも飲ませるから」
「ありがと、お母さん」
その一言にだけ、
アブホースでも伊集院家でもない、
普通の母娘の重さが宿っていた。
/*/ 沈み口のメモ /*/
同じ頃。
郡山駅近くの高層ビルの一室で、
モニターに映るグラフを眺めている男がいた。
伊集院貴也。
逢瀬学園理事長にして、伊集院グループの実務を取り仕切る男。
「……今夜、1回目か」
画面には、沈み口モール地下ピットの水位データと、
結界ライン上の簡易センサーが拾った“揺らぎ”のログ。
そのうちのひとつが、
さきほど、ぴょんと大きく跳ねていた。
通常の浸水とは明らかに違うカーブ。
そのすぐ後に、「影響範囲内にいる“契約済み対象”の反応上昇」という注記が自動で付いている。
「伊東惣一郎……と、松坂愛香」
貴也は、小さく笑った。
「いいですね。
やはり“落し子”の守りは、落し子に任せるのが一番だ」
モニターの端に、別のウィンドウが開く。
伊集院謙吾からの、短いメッセージ。
《沈み口、今夜はこれでよし。
あとは“子どもたち”の動きを見る》
「……はいはい」
軽く肩をすくめて、
貴也はキーボードに指を走らせる。
新規メモ欄に、数行。
『沈み口エリア 初期胎動
伊東惣一郎 → 部分的リンク形成
松坂愛香 → 深度+1(喜多島側との接続強化)
東・安達ライン → 次回以降の反応観測』
「さて」
彼は小さく、
誰にも聞こえない声で付け足した。
「四十九囲区の“英雄”候補たちが、
どこまで“怪異の側”に踏み込むか。
楽しませてくれよ、子どもたち」
モニターの中では、
沈み口モールのセンサーが、
まだ微かに揺れ続けていた。
地の底で、何かが息をしている。
それに触れてしまった高校生たちが、
それでも翌朝には普通に制服を着て、
「おはよう」と言い合う。
――そんなバランスの上に、
四十九囲区の夜は、今日もかろうじて成り立っていた。