/*/ 東家の朝、波紋の残り香 /*/
翌朝。
目覚ましのアラームが鳴るより少し前に、東・青見は目を覚ました。
胸のあたりに、まだ水の冷たさの感覚が残っている。
肺の奥がじんわりと重い。息を吸うたび、少しだけ潮の匂いがするような気がした。
(……夢、か)
天井を見上げる。
そこには、当然、洞窟も水面も、中陰の渦もない。
ただの、築年数そこそこの天井。
けれど、まぶたを閉じると、すぐに映像が戻ってきた。
――沈み口モールの地下ピット。
――ふくらんだ水面。
――そこに映る、鎮田と、そのもっと奥の、言語化し難い“穴”。
それと、もうひとつ。
――水面の縁で踏ん張っている、誰かのシルエット。
――片腕で誰かを引き寄せて、もう片方の腕で“下”を睨みつけている。
(惣一郎と……愛香、か)
そう思うと、急に現実味が増す。
スマホを手に取り、時刻を確認する。
いつもの起床時間より、五分だけ早かった。
「……行くか」
青見は布団から起き上がった。
冷えたフローリングに足をつける感触が、やけに“地上”を意識させる。
洗面を済ませ、制服に袖を通す。
居間に出ると、テーブルの上には、昨日の夜のままのコーヒーカップと、
簡単なメモが置かれていた。
――冷凍庫の中にカット野菜。朝はスープにして食べること。
自分で書いたメモだ。
それでも、ふと、一瞬だけ“家族の字”に見えた。
苦笑して、鍋に水を張る。
コンロに火をつけると、青見は窓際に立った。
カーテンを少しだけ開けると、隣の安達家の窓も、ちょうどカーテンが揺れた。
向こう側で、影が伸びをしている。
彩女だろう。
朝のストレッチをしているに違いない。
(……昨日、見てたな)
帰り道。
愛香と惣一郎が、傘の下で笑っていたのを。
あの距離感を。
胸の中で、何かがちくりとした。
嫉妬と言うほどドロドロしてはいない。
ただ、バランスが一つ変わった感覚。
コンロの上で湯気が立ち始める。
「……全部ひっくるめて、見てりゃいいか」
青見は、小さく呟いた。
沈み口も、中陰の渦も、喜多島も、
愛香の中にいる“それ”も。
惣一郎も、彩女も、自分自身も。
四十九囲区という、変な数字で囲まれたこの街で、
“まとも”でいるつもりなら――
ちゃんと目を逸らさずに見ておかないと、足を取られる。
スープが沸き立つ音がして、青見はキッチンに戻った。
/*/ ホームルーム前の保健待合 /*/
登校してすぐ、青見は違和感に気づいた。
教室に入ってきた惣一郎の歩き方が、いつもよりほんの少しだけ重い。
「うぃー……」
鞄を机に置くなり、惣一郎は椅子に腰を落とした。
「おはよ、惣くん」
先に来ていた愛香が、さりげなく声をかける。
表情はいつも通りのにっこりだが、その目の奥には微妙な“検査”の色があった。
「おう。……おはよ」
惣一郎は片手を挙げて答える。
その指先を、青見はじっと見た。
(色は悪くない。
動きも、そんなにガタガタじゃない。
ただ――)
人間ってのは、寝不足したり、風邪気味になったりすると、
何となく“輪郭がボケる”時がある。
今の惣一郎の輪郭は、逆に、
やけにはっきりしているのに、どこか“厚み”が違う。
「おはよー、青見」
背後から、明るい声。
振り返ると、彩女がいつものように髪をポニーテールにまとめながら入ってくる。
その後ろには、玲子と、カーの毛が制服に付いたままの小柄な影。
「……お前ら、朝から元気だな」
「元気じゃないとやってらんないでしょ」
彩女は当然のような顔で言い、
惣一郎のいる列をちらりと見た。
ほんの一瞬――視線が、
惣一郎→愛香→惣一郎、と往復する。
(気づいてるな)
青見は、心の中でそう結論づけた。
そのあと、チャイムが鳴るまでの数分。
クラスの空気はいつも通りなのに、
この5人の間だけ、薄く張り詰めた糸のようなものが一本、通っている。
ホームルームが始まる。
結先生が出欠を取り、いつもの連絡事項を済ませる。
その途中で、一度だけ、
結先生の視線が沈み口モール方向の窓の外を見たような気がしたのは――
多分、気のせいだ。
/*/ 昼休み・オカ研の机の上 /*/
昼休み。
教室の隅にある“オカ研スペース”に、
いつもの4人+玲子が揃っていた。
机を寄せて弁当を広げる。
その真ん中には、
昨日愛香が買ってきた「沈み口モール限定・謎ゼリー」のパッケージが置かれている。
「……で、そのゼリーは?」
「“沈みゼリー”って名前、センスどうなのって思う」
「沈み口で売ってるゼリーなら、他に名前浮かばねーだろ」
「沈まないでゼリーとか、浮かびゼリーとかにしろよ」
「余計に不穏じゃない?」
わいわいやっているが、
話題は自然と「沈み口モール昨夜の様子」に流れていった。
「惣一郎、昨日の夜、地下行った?」
唐突に、彩女が聞く。
箸を止めた惣一郎が、
「なんでバレてんだ」みたいな顔をして固まる。
「うわ、その顔。
行ったね?」
「いや、その。
ちょっとだけ、な?」
「“ちょっとだけ”地下ピットに行く高校生いる? 常識的に考えて」
彩女が、容赦なくツッコミを入れる。
「設備の人には近づくなって言われてたんだろ?」
「言われた」
「守れよ」
「いや、なんかこう……呼ばれた感じがして」
「はい出ました、フラグ体質」
玲子がぽりぽりと唐揚げをかじりながら、
心底どうでもよさそうな口調で言う。
「で、沈んだ?」
「沈んでねぇよ。今ここにいるだろ」
「“一回沈んで戻ってきてる”可能性もある」
「お前は時空ホラーの見過ぎだ」
そうやって笑いに変えようとしつつも、
愛香だけは、冗談を挟まずに惣一郎の様子を観察していた。
箸の持ち方。
ご飯の減り方。
瞬きの回数。
(……大丈夫。
ちゃんと“戻って”きてる)
その確認が取れたところで、
愛香はようやく、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「地下でさ」
惣一郎が、ぽつりと続ける。
「水の中に、変なもん映ってた」
「変なもん?」
「前に話したろ。
埋め立て前の鎮田の窪地の風景とか、そのもっと前とか。
昨日は、もう一段階よく分かんねぇもんが映ってさ」
「よく分かんねぇもんの説明が欲しいとこだな」
「洞窟とか、井戸とか。
……海の底っぽいのも一瞬あった」
その単語に、愛香の手が一瞬止まる。
箸が小さく震えるのを、青見は見逃さない。
「海の底?」
「いや、説明しづれぇな。
どろっとしてて、でも冷たくなくて……」
「温泉の底?」
「そういうふうにまとめるな。
何にせよ、“ここじゃないどっか”だよ」
「それ、“ここじゃないどっか”って言葉でまとめてる時点で既にクトゥルフだよね」
彩女が言うと、玲子が「わかる」と頷く。
「でもさ」
青見は、そこでようやく口を挟んだ。
「惣一郎が、“その先”まで持ってかれなかったのは確かだ」
「青見?」
「戻ってこられなかったら、今ここで弁当食ってない」
「そりゃそうだろ」
「いや、そうでもない」
青見は、冷静に続ける。
「“戻ってきたと思ってるだけ”ってパターンもある。
記憶だけ上書きされて、中身が別物になってるとかさ」
「おい縁起でもねえこと言うな」
「だから確かめた」
そう言って、彼は惣一郎をじっと見た。
「さっき、教室入ってきたときから、
歩幅と、姿勢と、視線の動かし方をずっと見てたけど」
「ストーカー?」
「いつもの惣一郎だ。
中身も、たぶん変わってない」
「“たぶん”って付けるなよ不安になるだろ!」
「安心しろ。もし中身が入れ替わってたら――」
一拍置いて、青見はさらりと言った。
「その場で殴ってたから」
それを聞いていた彩女が、思わず吹き出す。
「そこで暴力基準なんだ」
「分かりやすいだろ」
「分かりやすいけど」
机の下で、愛香は、自分の膝の上に握った手に、少しだけ力を込めた。
(……そうだね)
もし、“向こう側”の何かが惣一郎に入り込んでいたら。
自分も、青見と同じことをしただろう。
殴るか、噛みつくか。
その違いだけで。
「それと」
青見は、さらに付け加える。
「昨日、地下ピットにいたのは惣一郎だけじゃない」
「……だよね」
愛香が、観念したようにうなずく。
「迎えに行った。
沈み口に、惣くん持ってかれそうだったから」
「お前、ほんとに――」
惣一郎が何か言いかけて、やめる。
言葉にすると、
“助けられた”ことを認めるようで、気恥ずかしい。
「……ありがとう」
代わりに、それだけを絞り出した。
「うん」
愛香は、ゆっくりと笑う。
その笑顔には、
恋する女の子としての柔らかさと、
アブホースの落し子としての“確保完了”のニュアンスが、
きれいに混ざっていた。
/*/ 沈み口の向こうで /*/
その昼休みの時間。
沈み口モールの地下ピットでは、
昨夜ほどではないものの、水面が静かに揺れていた。
監視カメラの死角。
センサーも届かない、水底近く。
そこに、わずかな“隙間”ができている。
中陰の渦が、昨夜接触した“味”を、
何度もなぞって確かめているのだ。
――伊東惣一郎。
――松坂愛香。
ひとりは、この街で自然発生した“巻き込まれ体質”。
もうひとりは、遠い島から連れてこられた“落し子”。
ふたりの間に流れているものは、
単に恋愛感情とか友情とかではない。
もっと、底の方の、
「こっち側」と「あっち側」の境目に近い何か。
渦は、昨夜の引き合いでそれを知った。
沈み口としての“食性”が、少しだけ書き換えられていく。
――ただ沈めるだけでは、もったいない。
――繋がったものごと、まるごと味わった方が、きっと美味い。
水面には何も映らない。
ただ、“味付け”の変化だけが、
ゆっくりと、しかし確実に進んでいった。
/*/ 英雄候補たちの放課後へ /*/
昼休みが終わり、午後の授業が過ぎる。
放課後のチャイムが鳴る頃には、
沈み口のことを頭から追いやって、
テストだの部活だの、
ごく普通の高校生の悩みが教室を満たしていた。
それでも――
四十九囲区の地図の上では、
国道4号線と49号線、東北自動車道E4、磐越自動車道E49が、
相変わらず十字に交わり続けている。
その中心近く。
沈み口モールの地下で、
中陰の渦が“次の胎動”のタイミングを計りながら。
その上の街では、
東青見、安達彩女、伊東惣一郎、松坂愛香――
四人の高校生たちが、それぞれの帰り道を歩き出す。
誰もまだ、自分が
“この街の英雄候補”だなんて思っていない。
ただ、少しだけおかしな出来事が増えた日々を、
それでも笑いながら過ごしているだけだ。
――本当の「沈み」の夜は、
まだ、ほんの触りに過ぎない。
四十九囲区のどこかで、
誰にも聞こえないさざ波のような笑い声が、
そっと、夜の底に溶けていった。