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夕飯を片づけ終えたあと、松坂家の小さなリビングには、湯気の残り香とテレビの音だけが漂っていた。
ニュースでは、沈み口モールの「軽微な浸水と設備点検」の話題が、さらりと流されている。
「……軽微ねぇ」
リモコンで音量を絞りながら、松坂理恵子はソファにもたれた。
エプロンを外し、ひとつ伸びをすると、隣で教科書を広げている娘に視線を向ける。
「テスト勉強、進んでる?」
「進んでるよー。数学はまあまあ。国語はまあまあ。英語はまあまあ」
「それ進んでるって言わないのよ」
「“まあまあ”のレベルが高いから大丈夫」
「はいはい、万能アピール」
そんな軽口を交わしながらも、
理恵子の目は、愛香の“輪郭”をじっくり観察していた。
肩まわり。
指先の色。
視線の強さ。
数日前、沈み口の夜で惣一郎から“大きくひと口”もらって以来、
愛香の中の「核」は、はっきりと密度を増している。
(想定より早いわね)
心の中で、静かに計算する。
本来なら、惣一郎ひとり分の生命力なら、
時間を掛けてじわじわ啜りながら、自分も巻き込んで育てるつもりだった。
それが、この短期間でここまで“詰まる”とは。
ふっと笑って、理恵子は口を開いた。
「愛香が成長しきる頃には、惣一郎くんは干からびていると思ったのに、丈夫よね。
流石は伊集院の血かしら」
その言い方は、半分冗談で、半分本気だ。
伊集院家の血筋は、無駄にしぶとい。
普通の人間なら、とっくに立っていられないくらい生命力を削られているのに、
翌朝ケロッと学校に行って、テストだ部活だオカ研だと騒いでいる。
「うちの“まれびと”候補たちの中じゃ、間違いなく当たりよね」
「言い方が怖い」
愛香は教科書のページをぱたんと閉じて、
テーブル越しに母をじっと見た。
「惣くんは、干からびないよ」
「あら、自信ありげね」
「うん」
間髪入れず、きっぱりと。
「わたしがちゃんと調整するもん。
生きてる分だけもらって、死なない分だけ残す」
「それ、一般的には“ギリギリを攻める”って言うのよ?」
「ギリギリっていうか、ぴったり」
言葉の綾を、当然のようにねじ曲げてくる。
理恵子が肩をすくめるのを見て、
娘は、ほんの少しだけ口元を引き結んだ。
「それに」
今度の声は、いつもより静かだった。
「惣くん、あげないよ。
惣くんは、わたしと一緒に生きるんだから」
その一言には、“二重の意味”が詰まっている。
――誰かに“まれびと”として差し出したりはしない。
――沈み口にも、喜多島にも、伊集院家の計画にも渡さない。
それと同時に、
――惣一郎の生きる長さは、自分の生きる長さとセットだ。
――ふたり分まとめて、“こっち側”に繋ぎ止める。
そういう宣言でもあった。
「……そう」
理恵子は、娘の目をまっすぐ見返した。
その瞳の奥には、アブホースの落し子の“飢え”と、
ただの女の子の“恋”が、綺麗に同居している。
どちらか片方だけなら、制御は簡単だ。
両方あるからこそ、ややこしくて、そして強い。
「だったら、ちゃんと責任取りなさい」
「責任?」
「惣一郎くんが、沈み口にも喜多島にも持っていかれないように。
“伊集院の血”としても、“あなたの糧”としても。
最後まで、面倒みなさいってこと」
「うん」
愛香は、ためらいなく頷いた。
「最初から、そのつもりだよ」
その答えに、理恵子は目を細める。
「……そっか。
じゃあ、お母さんは少し、安心して見ていられるわ」
「貴也さんは?」
「あの人は、最後の最後まで計算するでしょうね。
でもまあ――」
理恵子は、少し意地の悪い笑みを浮かべた。
「“計算外の執着”って、あの人、一番嫌がるのよ」
「あ、それちょっと分かるかも」
ふたりして、くすりと笑う。
リビングの片隅の時計が、静かに時を刻む。
四十九囲区の夜は、表向きは穏やかだ。
沈み口の渦も、喜多島の胎蔵も、
伊集院家の線引きも、
今はまだ本気では動かない。
その手前で――
母と娘、ふたりのアブホースの落し子が、
ひとりの少年を中心に、静かに覚悟を固めていた。