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授業が全部終わって、部活もお休みで。
珍しく、今日の放課後はぽっかりと空いた。
「たまには、まっすぐ帰る?」
教室を出るとき、なんとなくそう言ったのはわたしの方だった。
「そうだな。期末も近いしね」
そう言って笑う青見の顔が、昼休みに夢を語っていたときと同じで、ちょっとだけ悔しかった。
どうして、この男はこういうときに限って、ちゃんとカッコいいんだろう。
*
逢瀬学園の坂を下りていく。
朝は心臓破りの上り坂。帰りは足を止めなければ、勝手に速度の出る下り坂。
「競争する?」
つい口から出た。
「負ける気はしないけど?」
そう言って、青見はいつもの、少しだけ悪戯っぽい顔をする。
ずるい。そういう顔、好きなの知ってるくせに。
「じゃあ、あそこのコンビニまで。負けた方が今日の飲み物奢りね」
「了解」
合図もなし。
青見がペダルを踏み込んだのと、わたしが踏み込んだのはほとんど同時だった。
風が髪を引っ張っていく。
ブレーキを握ればすぐに減速することぐらい分かってるのに、なかなか握れない。
飛ぶみたいに走る、この瞬間が、わたしは嫌いじゃない。
結局、コンビニの入口で、ほとんど同時にブレーキをかけた。
「……引き分けじゃない?」
「そうだな。じゃあ、奢りはナシか」
「なにそれ。つまんない」
文句を言いながらも、内心ではほっとしていた。
本気の勝負は、どこかでまだ怖い。
速さも、気持ちも、負けるのも、勝つのも。
並んで自転車を止めて、二人で店に入る。
わたしは何となくスポーツドリンクを、青見は紙パックのコーヒー牛乳を手に取った。
「さっきの続き、聞いてもいい?」
会計を終えて、店の脇のベンチに座ったとき、青見が唐突に言った。
「……続き?」
「昼のさ。“わたしの進路も夢じゃなくて願い”って、言いかけたろ」
覚えてるなぁ、ほんと。
こういうところだけ、無駄に記憶力いいんだから。
「別に、大した話じゃないわよ」
わたしはペットボトルのキャップをいじりながら、わざとそっけなく答える。
「言いたくなければ、いいけどさ」
青見は、それ以上押してこない。
それが、余計にずるい。
黙ってコーヒー牛乳を飲んでいる横顔を見ていると、胸の中に溜まっていた言葉がぐるぐる回り出す。
──言わなきゃ、きっと一生「分かるだろ」で済ませられる。
──でも、言わないままだと、たぶん後悔する。
そういう種類の言葉。
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「……ねぇ」
自分の声が、思ったよりも小さくて驚く。
「なに」
「もしさ。青見が、その……“世界の守り手”とか“守り手の守り手”とか、そういうの目指して、どっか遠くに行くって言ったら」
そこで、一度言葉が詰まる。
わたしらしくない。いつもみたいに、勢いで押し切ればいいのに。
「ちゃんと、わたしも連れて行きなさいよね」
ようやく出てきたのは、そんな半分だけの台詞だった。
「……連れて、行く?」
青見が、少しだけ目を丸くする。
わたしは、そっぽを向いたまま続けた。
「だってさ。あんたが“誰か守りたい”って思うときに、どうせわたしもそこにいるんだから。
だったら、最初から“セット”で考えなさいよ。守り手と、守り手のサポート役ぐらい」
「サポート役、か」
「そ。あんたが走るんなら、わたしは隣でペダル踏むから。
あんたが倒れたら、あんたの腕引っ張ってでも起こすから。
……そういうの、ダメ?」
最後の一言だけ、どうしても声が小さくなった。
数秒の沈黙。
紙パックを持つ指が、ぎゅっと握られる音が聞こえた気がした。
「ダメなわけ、ないだろ」
青見は、そう言って笑った。
さっきまでの、なんとなくの笑いじゃない。
本気で少し嬉しそうな、ずるい笑顔。
「俺が“世界の守り手”目指すならさ。
彩女は、俺の“一番の味方”でいてくれるんだろ?」
「……なによ、それ。勝手に決めないでよ」
否定の言葉が口から出る。
でも、胸の真ん中は、じんわりと熱くなっていた。
「勝手じゃないって。今、そう言ったも同じだろ」
「言ってない」
即答する。
でも、視線は合わせられない。
ベンチの下を通り過ぎていく影が、少しだけ伸びて、重なった。
わたしたちの影は、地面の上で、自然と肩を寄せ合っていた。
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わたしの「進路」は、きっと世間的には立派じゃない。
オリンピックに出たいわけでも、世界で一番の体操選手になりたいわけでもない。
大企業に入って偉くなりたいとか、そういう野心も、あんまりない。
ただ──
この、真っ直ぐすぎて不器用で、時々すごくカッコいい男の隣で。
その人が折れそうになったら支えて。
間違えそうになったら殴ってでも止めて。
それでも歩いていく背中に、ちゃんと追いついて。
そのうえで、「好きだよ」って、ちゃんと言えるようになりたい。
それがわたしの願いだ。
青見の「世界を守る」っていう願いに、堂々と寄りかかって、
わたしも「あんたが守りたい世界には、わたしも入ってるんだからね」って、胸張って言えるようになりたい。
──だから、わたしの進路は“夢”じゃなくて、“願い”。
わたしの願いは、青見に寄り添って、青見を支えて、
いつかちゃんと、愛し合って生きていくことだ。
そのことを、今ここで全部口に出してしまわないあたりが──
たぶん、わたしの意地であり、弱さであり、そして少しだけの、楽しみでもある。