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雨の音が、窓ガラスをやさしく叩いていた。
まだ彩女が、小学校に上がったばかりの頃。
日曜の夜、風呂から上がってパジャマに着替え、髪をタオルでわしゃわしゃやっていると――
「あやめー、こっちおいでー」
リビングのちゃぶ台の向こうから、おばあちゃんの声がした。
テレビは消えていて、代わりに古い電気スタンドが、黄色い光をじんわりと部屋に落としている。
おばあちゃんは座布団にあぐらをかいて、湯のみ茶碗を両手で包み込んでいた。
「なにー?」
「昔話してやる。寝る前に、丁度ええ」
「昔話」という単語に、彩女の目がきらりと光る。
おとぎ話も昔話も、大好きだ。
「こわいの?」
「ちょっとだけな」
「聞く!」
彩女はタオルを椅子に放り出して、ぴょこんとおばあちゃんの隣に座った。
畳の冷たさがまだ少し足の裏に残っている。
キッチンの方から、お母さんが顔を出した。
「おかあさん、また変な怖い話してビビらせないでよ? この子、トイレ行けなくなるんだから」
「大丈夫じゃ、大丈夫じゃ。……なあ、あやめ。怖くなったら、ばあちゃんが一緒にトイレ行ってやっから」
「こわくならないもん!」
胸を張ると、おばあちゃんが「にやっ」と口の端を上げる。
「よし。じゃあ、今日は……“安達ケ原の鬼”の話にするかの」
「……おに?」
その単語に、彩女はごくりと喉を鳴らした。
でも目は、期待でぱっちりしている。
おばあちゃんは、湯のみをちゃぶ台に置いて、外の雨音に一度だけ耳を澄ませた。
風が、窓の隙間を鳴らしていく。
「むかしむかーしな」
いつもの語り出し方で、声のトーンが少しだけ低くなる。
「安達ケ原っちゅう原っぱの向こうに、山があった。……いや、今もあるがの。
そこには“風を従えた女”が住んどったんじゃ」
「かぜを、したがえる?」
「そうじゃ」
おばあちゃんの指先が、ひゅうっと空に線を描く。
「そいつが歩けば、山の木々はざわめき、畑の麦は波打つ。
怒れば嵐、笑えばそよ風。そんな“嵐の女”じゃった」
彩女は、頭の中に絵を思い浮かべようとする。
風と一緒に歩くお姉さんのイメージ。なぜか、ちょっとかっこいい。
「その女はな、もとは人のために風を呼んどった。
干ばつの時は雨を。洪水のときは風を。
“人が死なんように”って、山の神さまと交渉して回っとった」
「いいひとじゃん」
彩女が素直に言うと、おばあちゃんは「そうじゃの」とうなずいた。
「そう。はじめはな」
「?」
「でものう。神さまっちゅうのは、ただで願いは聞いてくれん。
風ひとつ、雨ひとつでも、“代わりに何をくれる?”って聞いてくる」
おばあちゃんの瞳が、ふっと彩女を見た。
さっきまでより、すこしだけ真剣な色。
「山の神さまは、“人の命”が好きじゃった。
特にの……恐がった顔のまま死んだ命が、よく効く」
「……」
彩女は、膝の上で手をぎゅっと握りしめる。
おばあちゃんは続けた。
「最初はな、悪い奴を差し出しとった。盗賊とか、人をいじめた庄屋とか。
“この村守ってください、その代わりこいつを持ってってください”ってな」
「うん……」
「けどのう、“それ”が続くうちにな」
おばあちゃんは、腰を少し前に倒して、彩女との距離を縮めた。
「その女は、自分で“食う”ようになったんじゃ」
「……たべる?」
「そうじゃ」
声が、雨音と混ざり合う。
「はじめは、“神さまに渡す前に殺す係”のつもりじゃったかもしれん。
けどな、人の命ってのは、不思議なもんで……一度、血の味を知ると」
おばあちゃんは、わざと間を空ける。
「――だんだん、それ自体が欲しくなってくる」
彩女は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「女は、“村を守るために”喰い始めたはずじゃった。
洪水を止めるため。山崩れを防ぐため。飢饉を乗り切るため。
悪さした奴、よそから流れてきた無頼者、罪を犯した人間。
そういうのを……ひとり、またひとりと、風の夜に連れてって喰った」
「……」
「でものう」
おばあちゃんは、畳を指でとん、とん、と軽く叩いた。
「いつの間にか、“村を守るため”が消えとった。
嵐を止めんでも、洪水を防がんでも――腹が減ったら、人を喰いに出るようになってしもうた」
彩女の脳裏に、ぼんやりとした“白い髪の女”の姿が浮かぶ。
目だけが、暗闇でぎらぎらと光っている。
「その女がな、風を従えて、夜の安達ケ原を歩いとるとき」
おばあちゃんの両手が、空中でふわりと揺れる。
「髪は白銀にほどけて、風にざわざわ鳴らされる。
目は金色に光って、獲物を探す獣みたいになる。
山の木はざわめき、家の戸はがたがた鳴る。
――“安達ケ原の鬼婆”って、村の者が呼び始めたのは、その頃じゃ」
「……ほんとに、いたの?」
思わず、小さな声で聞いてしまう。
おばあちゃんは、一瞬だけ外の窓の方を見た。
風が強くなったのか、雨がガラスを叩く音が大きくなる。
「さあ、どうじゃろうな」
そう言いつつも、その横顔はどこか遠くを見ているようだった。
「人はな、“怖い話”にしてしまわんと、耐えられんことがある。
“鬼がいた”ってことにしとけば、自分たちのしてきたことも、ちぃと楽になるからのう」
「してきたこと……?」
「“助けてください”って、鬼に頼んだことじゃ」
おばあちゃんは、彩女の頭に手を置いた。
指先は、思っていたよりあたたかい。
「村を守るために、山を守るために、“どうかあの人を喰ってください”って、誰かが願った。
それを何度も繰り返したら――鬼は、育つ」
彩女は、うまく返事ができなかった。
人を食べる鬼を、村の人が“育てた”という言い方に、
子どもなりの違和感と、ぞわっとした怖さが混ざる。
「じゃあ、そのおに、どうなったの?」
しばらく黙ってから、彩女は勇気を出して尋ねた。
「退治された。表向きはな」
おばあちゃんの口元が、少しだけ笑った。
「山伏さまが来て、祈って、呪文を唱えて、鬼婆を斬ったって。
首を落とされて、血が流れて、原っぱが真っ赤になって……って話じゃ」
「……おわり?」
「“話”としては、な」
言い方が、どこか引っかかる。
「さっき言ったろ。鬼は“育つ”って。
人が、“誰かを喰ってでも生き延びたい”って思う限り。
“自分は手を汚したくないから代わりにやってくれ”って思う限り。
安達ケ原の鬼は、どこかで風に紛れて生きとる」
おばあちゃんは、彩女の額に指を当てた。
「ここにも」
「……え?」
「そして――」
今度は、彩女の胸のあたりを、こん、と軽く突く。
「ここにもな」
「……わたし、おにじゃないもん」
むっとして言い返すと、おばあちゃんは「そうじゃの」と笑った。
「あやめは、鬼にならんでええ」
その言い方は、冗談めいているようで、どこか切実でもあった。
「でも、覚えときなさい。
“誰かを守るためなら何してもいい”って思い始めたらな。
人は、いつでも鬼になれる。
風を従えようが、筋肉もりもりになろうが、頭がよかろうが、同じじゃ」
彩女は、きょとんとしながら、おばあちゃんの顔を見つめる。
おばあちゃんの髪は、昔からところどころ白かった。
でも今、スタンドの灯りと窓からの稲光が重なった瞬間――
ほんの一瞬だけ、その白が、銀色に見えた気がした。
瞳も、いつもの黒ではなく、金色っぽく光ったような。
(……きのせい)
すぐに、彩女は首を振って打ち消す。
おばあちゃんは、いつものおばあちゃんだ。
「じゃ、最後に一つ約束じゃ」
「やくそく?」
「うん」
おばあちゃんは、手を差し出した。
小さな彩女の手と、しわの刻まれた手が、ぽすんと触れ合う。
「あやめは――“お腹がすいても、人は喰わない”」
「……たべないよ」
「“誰かを守りたい”って思ったときも、自分でちゃんと考える。
“それで本当にええのか”ってな」
「……うん?」
よく分かっていない返事に、おばあちゃんはくすっと笑った。
「それでええ。それでええんじゃ」
外の雨が、少しずつ弱まっていく。
その夜、布団に入った彩女は、
白い髪の鬼婆と、風の中を歩く女の人の姿がごっちゃになった夢を見た。
風の音は、怖いようでいて、どこか安心する子守唄にも聞こえた。
――数年後。
自分の髪が風を受けてざわめき立つたび、彩女はときどき、この夜のおばあちゃんの話を思い出すことになるのだが――
そのときの小さな彩女は、まだ、何も知らない。