◆それぞれの放課後・剣道部
ユイリィがそこへ足を向けたのは、本当にちょっとした好奇心からだった。
春から逢瀬学園に編入した彼女は、姉たちと一緒にカフェテリアでバイトをしているせいで、同級生たちがどんな部活をしているのか、ちゃんと見たことがない。
学校。
そして「部活動」というもの。
そういうものに、ユイリィはまだ少し“幻想”を持っていた。
まず向かったのは、同じクラスの東青見と安達彩女のいる体育館。
1階のバスケットコートを横目に通り過ぎ、軋む階段を上がって、2階の格技場へと進む。
祖父と父の影響で、同年代の「武」を見てみたいという思いもあった。
姉たちには「期待するだけムダ」「見ても仕方ない」と散々止められたのだが、それでも――どうしても、自分の目で確かめてみたかった。
◇
「胴ォッ!!」
格技場の戸を開けた瞬間、空気を裂くような気合と、鋭い打ち込みの音が響いた。
ドン、と重い踏み込み。
床がビリビリと震え、道場の空気がぴたりと静まり返る。
ユイリィの目には、それなりに鋭く、速い一撃に見えた。
だが――。
胴を打たれた生徒は、その場に崩れ落ちるように膝をつき、面を外す間もなく、胃の中のものをぶちまけた。
「お、おい! 大丈夫か!」
慌てて駆け寄る部員たち。
「……もういいだろ、東。お前の実力なら、最早この中じゃ敵なしだ。次の大会は、間違いなく優勝できるぞ」
竹刀を構えたまま声を掛けたのは、部長らしき男子だった。
その言葉に、ユイリィは――ああ、と姉たちの言葉を理解する。
(なるほど……この“レベル”で突出した存在なら、ここで得るものは少ない、ってことね)
彼女たちの感覚からすれば、「その程度でしかない」剣でも、この場所では圧倒的になってしまう。
「すみません……でも、オレは──強くなりたいんです」
面の奥から聞こえたのは、悔しさを滲ませた声だった。
「しかしなあ、これ以上やったら、他の部員がもたねぇぞ」
「分かってます。それなら、出稽古に――」
「どうして、強くなりたいんですか?」
口を突いて出た問いに、自分でも驚いた。
ひとりだけ抜きん出た実力。
それでもなお、悔しそうに拳を握る東青見。
誰も彼を直視せず、まるで「同じ場所」に立てていないような孤独。
教室では見たことのない顔に、ユイリィの好奇心は、いつの間にか違う色を帯びていた。
部員たちが一斉に入り口を振り返る。
長い銀髪。
透き通る青い瞳。
夕陽の赤を受けて、金色にも見えるその姿は、一瞬、場にいる誰の目にも“幻”のように映った。
「──もう、逃げたくない」
青見の拳が、きゅっと強く握り締められる。
「次があるなら、オレは……今度こそ、守りたい」
血を吐くような声色だった。
身を切る悔しさと悲しみが混じったその響きに、部員たちは思わず一歩、二歩と後ずさる。
「……そう、ですか」
ユイリィは、何かを思い出したように瞳を伏せた。
そして、決意を固めた顔で顔を上げる。
「私が、お相手しましょう」
その宣言に、格技場の空気が揺れた。
◇
「ちょ、ちょっと待て! ダメだ、危ない!」
当然、部長からは即座に制止の声が上がる。
だが、その肩を押しとどめたのは、当の東青見だった。
「お願いします、部長」
まずユイリィに、真摯に頭を下げる。
そして部長の方を向くと、きっぱりと言い切った。
「彼女は、多分、オレより強いです」
「はあ!? 昨年の全国ベスト4の、お前より強い女子なんて――」
「います。目の前に」
断言だった。
言葉の重さに、部長がたじろいだ、その時。
「お待たせしました」
制服の上に防具を身につけた――なんとも言えずちぐはぐな格好のユイリィが、竹刀を抱えて立っていた。
「……どうなっても知らんからな!」
半ば投げやりに、部長は試合の開始を許可した。
◇
ユイリィは、竹刀を一度握ってから、そっと立て掛ける。
「剣は、まだ慣れていませんので」
そう言って手に取ったのは、隅に立て掛けられていた杖術用の丸い杖だった。
部活メニューのひとつとして使っているのだろう。
「はじめ!」
号令と同時に、竹刀と杖が交差する。
――刹那。
ガンッ、と乾いた音と共に、双方の武器が下方へ弾き飛ばされた。
触れた瞬間に相手の武器を巻き込み、たたき落とす「巻き落とし」。
だが、その威力は、剣道部員たちの知るそれを遥かに超えていた。
青見の両腕は、まるで見えない手に捻じり取られたかのように引き下ろされ、
無理に耐えた瞬間には、ユイリィの杖が、その側頭部を薙いでいた。
(――間に合わない!)
青見は、堪えた力に逆らわず、敢えて無様に転がる。
振り抜かれた杖が、紙一重で宙を切り裂いた。
シッ――。
風を裂く音。
背筋を流れる冷や汗。
訓練ではなく「実戦の勘」が、転がれ、と全身に叫ぶ。
背後から、床をえぐるような音が連続して響く。
立ち上がる前に頭を狙われていたら、ヘルメットごと持っていかれていたかもしれない。
(……本物だ)
飛び起きながら、青見は内心で舌を巻いた。
道場の空気が、静まり返る。
竹刀と杖を構えて向かい合う二人。
互いに一歩も引かず、隙を探り合う沈黙の中で、ユイリィが口を開いた。
「東さん……道場以外での経験も、お有りですね」
「ああ、分かるか」
青見の声に、微かに滲む悲しみ。
「はい」
ユイリィは、どこか遠くを見るような目になる。
――そして、その瞬間。
ドンッ、と床を震わせる踏み込み。
次の一拍には、青見の胴が鋭く突き抜かれていた。
誰も、その動きを「見て」いなかった。
青見が過去に囚われた答えを口にした、その僅かな揺らぎ。
その心の隙間を、ユイリィの突きは一瞬で貫いていた。
道場の空気が、再び凍りつく。
遅れて、体育館の床板を伝う振動と、吹き飛ばされた青見が叩きつけられる鈍い音だけが、静けさの中に響いた。
◇
「守りたいなら――囚われては、ダメです」
勝者の声は、勝ち誇りとは無縁だった。
悲しみと、痛みと、自戒を帯びた声音。
面を外し、ユイリィは大きく頭を振る。
銀の髪が茜色の光の中でふわりと広がり、煌めいた。
「過去に囚われ続ける人は、今日も、明日も見ることが出来ません」
それは、どこか、「不幸な天使」の呟きのようにも聞こえた。
床に倒れたままの青見の手が、震えながら持ち上がる。
穿たれた胴当ての傷へと、そっと触れる。
「……オレは、弱いな」
感情の色が抜け落ちたような声。
ユイリィは、その青い瞳をそっと伏せた。
「それでも――いつか、必ず……!」
震える手で、足で、青見はゆっくりと立ち上がる。
そしてユイリィの方へ向き直り、深々と一礼した。
そのまま、糸が切れたように前のめりに倒れる。
「あっ――!」
慌てて駆け寄ろうとして、ユイリィは足をもつらせた。
つるり。
「きゃっ」
盛大に転んで、そのまま倒れている青見の背中に、追い打ちの一撃(物理)が加わる。
「……」
「…………」
道場全体に、なんとも言えない沈黙が広がった。
こうして、逢瀬学園剣道部は――この春一番の衝撃と、ちょっとした笑い話を手に入れたのだった。