◆学校の怪談
外灯の光が、廊下の窓から細く差し込んでいる。
昼間は生徒たちが泣き、笑い、青春を重ねる校舎も、夜になれば誰もいない。
人が消えた学校は、まるで「共に在るべきもの」を失った建物そのものが、ぽつりと取り残されているようで――だからこそ、夜の学校は、薄暗く、物悲しく、そして少し怖い。
その闇の中。
廊下の奥から、鉄が擦れ合う、きしむような音が響いた。
嘆き声にも聞こえるその音に混じり、リノリウムを叩く、一定のリズムの足音が近づいてくる。
――紅い光。
二つの赤い輝きが暗闇の奥から現れ、外灯の薄明かりの差す範囲へと歩み出た。
光に照らされて、廊下に青い反射光が舞う。
それは、全身をブルーメタリックに輝く金属で覆った、一揃いの騎士鎧だった。
盾と剣を携えたその兜の奥で、二つの赤い光がぎらぎらと燐光を放っている。
眼が光る人間など、いるはずがない。
ならば、これは「在り得ないもの」だ。
かつーん、かつーん――。
拍車が床を叩く乾いた音が、誰もいない廊下に規則正しく響いていく。
何かを探すように鉄をきしませ、何かを守るように一歩一歩を踏みしめながら、「在り得ないモノ」は廊下の果てから姿を現し、やがて、外灯の光も届かない暗闇の奥へと消えていった。
◆カフェテリア・天文部
初夏の日差しが山の向こうへ沈み始め、人影のまばらになったカフェテリア。
いつものように――いや、いつも以上にだらだらと――天文部の面々が集まり始めていた。
「それで、部長は今日、どちらへ?」
期末前にも関わらず、ちゃんと天文関係の下調べ(流星群や彗星の情報)をしてきた三森玲子が、他の部活からちゃっかり戻ってきた天文部長に、冷ややかに問いかける。
「今日はジュネーブで、アジア経済に関する会議に――」
「部長?」
可憐な笑顔。
それは、玲子が「本当に怒っている時」の顔だと、春からの付き合いで惣一郎は学習していた。
「……あー、女子バスケに助っ人。その後マン研でトーン貼りの手伝い。最後に料理部に顔出して、廃棄予定のケーキの処理を手伝ってきた」
この後輩に対しては、変に逆らわない方が命のためだ。
出来れば関わらないのが一番だが――それはもう、手遅れである。
「つまり、片付けは愛香さんに押しつけてきたわけですね。それで、“天文部長としての活動”はどうなっているんですか?」
「任せろ。カフェテリアのメニューと値段を全部覚えた」
惣一郎は自信満々に胸を張る。
「運営委員以外で、全部言える奴はいねぇぞ?」
「写真記憶レベルで何を威張ってるんですか……。じゃあ、『サーモンのベーグルサンドとカプチーノと自家製プリン』で、いくらでしょう?」
「「640円」」
重なった声は、惣一郎と、注文を取りに来た安生梨花のものだった。
「凄いな。本当に、運営委員以外で初の快挙かもしれない」
梨花は切れ長の瞳で惣一郎をじっと見つめる。
「……惚れるなよ?」
「それだけはない」
即答して踵を返していく梨花。
今日は長い髪を綺麗に編み込んでいて、ウェイトレス姿も板についている。
入れ違いに、料理部の片付けを終えた松坂愛香がトレイを抱えてやって来る。
ほのかにバニラエッセンスの甘い匂いが漂った。
「私も、たまには髪型変えてみようかな?」
梨花の後ろ姿を見ながら、自分のツインテールを指先でつまみ、愛香は惣一郎に笑いかける。
「好きにすりゃ……」
「あ、そうそう、そーくん。さっき調理実習室からここに来る途中ね、今年の“学校の怪談”の新作、見ちゃった」
「新作? 今年のは、あれだろ。夜の構内を徘徊する騎士鎧。ブルーメタリックの兜の中から、赤く光る目が見えるってやつ」
毎年毎年、新作が増えていく学園怪談。
それ自体が、逢瀬学園の「七不思議」の、もう何番目かも分からないひとつになっている。
「音がするのに、しなくてさ。体育館の方に歩いていったんだよね」
「へー、体育館の方にねー」
惣一郎は、生返事で愛香の話を聞き流した。
その時、格技場では――。
◆剣道部
竹刀と木の棒がぶつかり合う、硬い音が格技場に響いていた。
ユイリィは、今日も道場に顔を出し、東青見の稽古相手を務めていた。
互いに防具をつけているとはいえ、青見の竹刀に対して、ユイリィの手にあるのは「杖術用の棒」――つまり木刀と同じ。
おかげで青見の身体は、見事なまでの痣だらけである。
あの一件以来、青見はユイリィとの稽古に加えて、彼女が来られない日には、顧問と部長の紹介で、警察署の道場へも出稽古に行くようになっていた。
部員たちとあまりに実力差があり、伸び悩んでいた少年は、より強い相手と、より広い世界へ飛び込むことで――打ちのめされながらも、また一歩強くなっていた。
竹刀と杖が触れ合い、双方の獲物が、下方へと弾け飛ぶ。
巻き落とし。
触れた瞬間、相手の武器を巻き込んで叩き落とす技だ。
最初の稽古では、青見の両腕は捻られ、地面に引きずり込まれるようにして終わっていた。
だが今は違う。
弾かれた竹刀を、殺さずそのまま右手で背後まで流し――背後で左手に持ち替え、そのまま上段から振り下ろす。
かつて存在した流派の技、『背車刀』。
死角からの一撃は、それでもなお届かず、杖に受けとめられ、逆に閃光のような返しの一撃を胴に叩き込まれる。
◇
「青見さんは、どうして『武』を求めるんですか?」
稽古の後。
打ちのめされて、道場に仰向けに倒れた青見に、ユイリィが静かに問いかけた。
「今の時代、武なんて持ってたら、むしろ不幸になるだけじゃないですか?」
剣道“だけ”とは言い難い二人の稽古を、最後まで見ている者は誰もいない。
外はすっかり夜の帳が落ち、格技場に残っているのは、二人だけだった。
銀の少女の問いに、青見は少し黙り、天井を見上げる。
やがて、遠くを見るような目で口を開いた。
「……父さんの、口癖だったんだ」
『僕はね、魔法使いなんだ』
「そう言ってさ。オレ、信じてなかった。子供騙しだって思ってた」
短く息を吐き、大切な記憶を言葉に変えていく。
「でも、違ったんだ。父さんは、たった一つだけ――本当に、“偉大な魔法”が使えた」
それは、炎を呼ぶ力でも、剣を振るう技でもない。
どこにでもいる、ひとりの父親が使った、たった一度きりの魔法。
「それは、嘘だったかもしれない。でも……最弱にして最強の、世界を変える魔法だった」
思い出すのは、赤い夜の光の中で見上げた、大きな背中。
切なく、強く、息子を守ろうとする、ひとつの意志。
「その魔法が使われて――オレは、生き延びた」
それはただの一言だった。
たった一言を息子に贈り、父親は“父”として立ち上がったのだ。
母を無残に殺した“何か”の前に、自分の身体を盾にして立ち塞がり、その命を賭けて息子を守った、一人の父親。
背中を、覚えている。
声を、覚えている。
『イキナサイ』
そのたった一言で、青見は逃げた。
逃げることしか出来なかった自分を、今も許せずにいる。
視線を、過去から現在へと引き戻す。
ユイリィを見据えた眼差しは、さっきまでより鋭く、熱かった。
「――全ての理想は、嘘から始まってる」
静かな声。
「強いものに、弱いものが勝てる道理なんて、本当はどこにもない」
純然たる事実を言い切る。
その視線の鋭さに、ユイリィは思わず息を呑んだ。
「でもさ。『己より強きに克つのが武だ』って、誰かが“嘘”をついた」
視線がふっと揺れ、床へと落ちる。
遠くの嘘に触れ、少年の心は震え、こみ上げるものを必死で飲み込む。
「皆、信じた。信じたいと、願った」
再び顔を上げる。
その表情には、痛いほどの決意と覚悟――そして、悲しみと苦しみに彩られた理想の色が浮かんでいた。
「それが不幸に繋がるなら、オレは不幸でいい」
静かに、けれどはっきりと。
「不幸の中で、幸せを夢見て、足掻きながら頑張る。それがオレの幸せで、いい」
だから、頑張れる。
そう言って、青見は、誰にも分からない微笑を浮かべた。