◆対峙
青見の前に、青い鎧が立っていた。
兜の奥、真紅の双眸が爛々と燃えている。
まだ間合いの外にいるはずなのに――心臓を鷲掴みにされたような圧迫感が、胸を締めつけた。
息ができない。
浅く、早い呼吸だけが勝手に繰り返される。
(ダメだ、ダメだ……)
青見の中の青見が、必死に叫ぶ。
――あれは、本物の戦士だ。
幾多の戦場を駆け、数えきれない命を刈り取ってきた者の、成れの果て。
穏やかな日常しか知らない自分が勝てる相手じゃない。
負ける理由はいくらでもあるのに、勝てる理由なんてどこにもない。
鎧が、一歩踏み出すたびに。
息を吐くように、鎧そのものが存在を揺らすたびに。
それだけで、青見の意志は根こそぎそぎ落とされていく。
立ち向かうことなど無駄だと、全身の細胞がささやきかける。
――勝てはしない。
――立ち向かうだけ無駄だ。
だが、その声にかぶさるように、胸の奥でもう一人の自分が問いかける。
(……父さんは、諦めたか?)
絶対の運命を前にして――諦めたか?
否。
あの夜、父は確かに“魔法使い”だった。
最期の最期で、子に魔法を見せてくれた。
人のために血を流せる、「勇気」という名の魔法を。
誰もが目を背けるとしても、自分だけは目を逸らさない。
見失わない。忘れない。
――その勇気は、どこにある?
青見は震える右拳を、ぎゅっと左胸に押し当てる。
そこにある。
父の残した、ただひとつの偉大な魔法。
何よりも大事な、たった一つの遺産が。
これだけは失えない。
汚してはならない。
ユイリィは、生きなきゃダメだ――そう言ったのは、他ならぬ自分だ。
ならば今、自分がすべきことは何か。
彼女の命と心を、守ることだ。
そのために。
(そのために――戦う)
◆開戦
少年は、喉の奥から絞り出すように叫んだ。
それはまるで、神代の英雄が会戦を告げる雄叫びのようだった。
空と大地を震わせるほどの声ではない。
だが、理性も感情も、心も意思も――すべてを塗りつぶす恐怖を、それでも押さえつけてなお溢れ出た叫びだった。
手に握られているのは、ただの竹刀だ。
それでも、青見はその一本に、己の弱い手札に、己の全部を賭けると決めた。
この一年の苦しみも、努力も、迷いも。
全部、この一瞬――この一戦のためだったのだと。
(笑いたきゃ笑えよ)
誰がどう思っても構わない。
他人の評価など要らない。賞賛も、理解も、求めていない。
ただ、自分の意思で決めた。
戦う、と。
だから――もう止まらない。
◆剣と魂
どう突くか。どう避けるか。
この一撃で倒れるか。堪え切れるか。
拳で語る、という言葉がある。
刃と刃が触れあう白兵戦では、それがそのまま剣に置き換わる。
触れあう刃は、互いの心を映し出す。
振り下ろされる剣は、叫びとなって想いを伝える。
青見の剣は、泣いていた。
己の無力を嘆き、守られることしかできなかった自分を糾弾し、だからこそ立ち上がり――戦うと叫んでいた。
青い騎士鎧の剣もまた、泣いていた。
戦い続けた末に、何よりも守りたかった者を守れなかった悔い。
それでもなお、立ち上がり、戦うことしかできない魂の叫び。
己の限界を超えて、死を超えて、なお立ち上がる。
それでもなお信じている。
かつて自分を守った誰かの意志を。
勇気を。優しさを。
奇しくも――違う声が、同じことを叫んでいた。
賞賛はいらない。評価もいらない。
戦うと決めたのは、何のためか。
守りたいと願ったのは、誰のためか。
それが「綺麗」だったから、憧れた。
ああなりたいと、夢見た。
時が過ぎても、挫けそうになっても、「無理だ」と笑われても、諦められなかった。
浮かんでは消える数多の顔。
救えなかった命。腕の中で消えていった温もり。
それでも――最も守りたかった存在には、手が届かなかった。
運命には間に合わなかった。
それでも今、守るべき者を得た。
戦うべき相手を見つけた。
後を託せる誰かさえ、現れた。
ならば、恐れるものなど、もう何もない。
やがて思考すらも削ぎ落とされる。
胸の中に残るのは、ただ一つ。
――目の前の敵と戦うこと。
どう突くか。どう退くか。
どう攻めるか。どう避けるか。
それすらも消え、ただ、心が青く燃え上がる。
青金の炎となって――。
◆決着
「止めて……お父様。
もう止めてください……わたしも一緒に逝くから。
だから、もう……止めて……!」
銀の少女が、泣いていた。
友が傷つくのが悲しくて。
彷徨う父が哀れで、切なくて。
(誰が――泣かせている?)
答えは、ひとつ。
(オレだ)
ユイリィを泣かせているのは、自分だ。
彷徨う父に打ち勝つこともできないくせに、大口を叩いて立ち向かって。
傷ついて、倒れるだけの不甲斐なさに泣いている。
その姿に、他ならぬ自分自身が腹立たしくて、情けなくて。
それでも――脳裏に浮かぶのは、あの夏の夜。
血塗れで、穴だらけで、それでも『イキナサイ』と背中越しに告げた声。
それまで見たどんな背中よりも大きく、切なく、儚く、強かった背中。
どんな言葉よりも、熱く重い一言。
オレは――まだ、生きている。
限界を越えて酷使された手足が、痙攣しながら芋虫のように蠢く。
見苦しい。だが、それでも精一杯の力を込めて、立ち上がる。
立ち上がる。
生きている限り、何度でも。
(泣いている。オレが弱いから泣いている)
(なら――どうすればいいかなんて、とっくに分かってる)
――オレが強くなればいい。
人は変われる。
世界は、変えられる。
あの夏の夜に教えられた。
父に。あの人に。
人は、あんなにも強くなれるのだと。
(オレを打ち据えろ。オレは倒れない)
痛みを鎚に変えて、己を鋼へ鍛える。
痛みの数だけ、強くなる。
苦しみの数だけ、強くなる。
(ユイリィは独りじゃない)
家族がいる。姉妹がいる。
友達がいる。自分もいる。
だから――。
(ユイリィが孤独でも、不幸でもない証のために)
彼女のために泣いてくれる人がいるという証のために。
喜んでくれる人がいるという証のために。
血を流してでも守ろうとする者がいるという証のために。
青見は、零れ落ちる月明かりを裂くように一歩踏み出し、竹刀を構えた。
左手で柄を握り、刃先を目の高さに。
軸足をずらし、左足を半歩引く。
それは、一分の隙もない、最小限の力で行われた動きだった。
(オレは――戦う!!)
青い鎧の赤い眼が、ふと色を変える。
紅を通りすぎ、紫。やがて深い青へと染まり――
少年の想いに応えるように、騎士は剣を天高く掲げて構えた。
その姿はまさに、御旗を掲げる英雄のようだった。
呼吸する者もしない者も、お互いの「呼吸」を感じ取る。
一足一刀の間合いを測り、限りなく張り詰めた集中の糸を、互いの間に引き結ぶ。
月光さえ凍らせるような緊張が、格技場を満たした。
次の一撃が――すべてだ。
掛け値なしの一撃。
全力、全身全霊を込めた、嘘偽りのないただひとつの斬撃。
彷徨う英雄と、歩き出した少年は、示し合わせたかのようにそう決めていた。
相手も同じだと、信じていた。
だから――二つの剣は、鏡合わせのように同時に振り下ろされた。
踏み込む脚。
腰の捻り。
ためていた力を解き放つ腕の振り。
すべてが、同じリズムで重なる。
本来、有り得ない。
一生を費やした者と、これから費やそうとする者。
その境地が同じであるはずがない。
それでも――剣と竹刀は、同時に、それぞれの身体を打ち据えた。
有り得ないからこそ、人は物語として語り継いできた“瞬間”。
誰もが夢想し、同時に諦める、奇跡の一刹那。
青見の一撃が、青い騎士鎧に初めて「傷」を刻んだ。
青い装甲に、蜘蛛の巣のような黒いヒビが走る。
それは瞬く間に全身へと広がり、そこから青白い光があふれ出した。
次の瞬間、鎧は砕けた。
月明かりの中で、バラバラになりながら、青い光を放つ破片となって散っていく。
同時に、騎士の剣もまた、少年を叩きのめした。
全身を鞭打つような衝撃が、骨を砕き、肉を裂く錯覚を伴って脳髄を焼く。
それでも――少年は、後悔していなかった。
◆青い光
砕け散る鎧の破片は、月光の中で青く輝きながら、粉雪のように崩れ、やがて幻のように消えていく。
残されていた本体もまた、全身から青い光をこぼしながら、粒子へとほどけていった。
「あ……」
ユイリィは頬に涙を伝わせたまま、反射的にその鎧へ手を伸ばした。
けれど、その指先は何ひとつ掴めない。
触れたそばから、鎧は光の粒となって崩れ落ちていく。
青い光が、夜空に浮かぶ星々のように煌めき、漂う。
そこに「ある」のに、ひと掴みすらできない。
血は流れ、肉は灰となり、生者は土に還る。
それでも――すべてが消えるわけではない。
目に見えなくなっても、残るものがある。
姿を変え、名を変えて。
けれど本質は何ひとつ変わらないまま。
――死してなお、娘を守ろうと彷徨い続けた父の魂。
――孤独に震える彼女へ、手を差し伸べてくれた養父。
――新しい家族となってくれた姉妹たち。
そして。
――「死んじゃダメだ」と言ってくれた少年。
夏の夜、全てを失い、それでもそこから這い上がってきた少年。
痛みを知るがゆえに、優しくなれる。
だからこそ、この手を差し伸べることを、当たり前のように選べる少年。
泣いてばかりいた自分と比べて、その生き方はなんて眩しいのだろう。
(きっと――彼のお父様は、安心して眠っておられるのだわ)
ならば、自分がこれからすべきことは……。
(お父様……ありがとうございます)
ユイリィは、まだ止まらない涙をぬぐいもせず、月明かりに溶けていく光へと微笑みかけた。
(私も、強くなります。
お父様のように、大切な人を守りたいと願えるように。
守られるだけじゃなくて。泣いているだけじゃなくて。
――青見さんのように、一緒に守り合えるくらい、強くなります)
だから。
(今まで、守ってくれて――ありがとう)
精一杯の笑顔で。
銀の少女は、父へ別れと感謝を告げた。