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逢瀬学園高等部・職員室。
生徒にとっては、あまり長居したくない空間だ。
その隅で、榊原郁代は手元の答案から顔を上げた。
季節は初夏。
例年より少し早い梅雨明けを迎え、空も空気も、生徒たちの心も夏へ向かい始めている。
主要教科の担任たちは、期末試験問題の作成や採点準備でてんてこ舞いだ。
だが、クラス担任を持たない音楽科教諭である郁代には、まだいくばくかの余裕があった。
隙のないスーツにタイトスカート。
ノンフレームの眼鏡ときつめの美貌。その“近寄りがたさ”も手伝って、去年までは生徒から距離を置かれていたが――
最近は、表情もわずかに柔らかくなり、生徒との距離も少しずつ縮まりつつある。
……服装だけは、相変わらず「キャリアウーマン」のままだが。
左手では、構内禁煙のせいで火を入れられない愛用のオイルライターを、無意識に弄んでいた。
視線の先――職員室の入口に、長身の男子生徒の姿を見つける。
東青見。
平均を大きく上回る長身に、鍛えられた体躯。
昨年夏の「事件」以前の彼は、触れれば切れる抜き身の刃のような、危うい鋭さを纏っていた。
両親を失うきっかけともなったあの出来事を境に、彼は変わった。
鋭さと強い意志は胸の奥へ収められ、
他者を認めた上で、自分の信念に向かって歩くようになった。
――鞘を得た名刀。
そんな言葉がふと浮かぶ、静かな成熟。
自分の信念や誇り、理想や夢を持ち続け、
残酷で醜悪で、無慈悲な現実に立ち向かい続ける生き方。
それがどれほど過酷で、どれほど耐え難いものなのか。
夢破れて、現実から目を背けたことのある郁代には、痛いほどよく分かる。
だからこそ――
少年が自分の「あり方」として掴み取ったその生き方の力強さに、胸が震えた。
ああ、自分が憧れた「美しいもの」とは、本来こういうものだったのだと。
心を震わせる音楽。
血を流しながら、それでも進もうとする生命の輝き。
それらはきっと、同じ場所から生まれているのだと、少年の背中に教えられた。
その東青見はと言えば、いつものように――
担任の篠原結をはじめ、各教科の教師の机を順に回り、自分の理解の届かないところに教えを乞いに来ているところだった。
今では珍しくなった光景だ。
進学希望者のほとんどが予備校に通うこのご時世。
両親を亡くし、後見人に生活を支えられている東青見にとっては、塾代を節約するためでもあるのだろう。
だが郁代は、こういう「昔ながら」のやり方を、悪くないと思っていた。
教師と生徒のあいだに横たわる、どうしても埋まらない谷間が、
一瞬だけでも埋まるように思えるから。
相互理解という、絶対に届かない地平線が、
すこしだけ近づいたように感じられるから。
◆質問魔・東青見
「それで、東くんはどこが分からないんですか? 試験問題は教えられませんよ」
童女のような笑みを浮かべながら、結先生が釘を刺す。
「そんなこと聞きませんよ」
青見は苦笑してそう返すと、古文の教科書を開いた。
「ここの解釈なんですけど……」
「ああ、ここですね――。でも、ここは今回の試験範囲に入っていませんよ?」
「その手前までは大丈夫です。試験のことを気にして、この辺りを放っておくと、分からないままになりそうで」
そう言って、今度は数学の担当・北見の机へと移動する。
「あ、北見先生。この数式なんですけど――」
「……ここか? しかし、ここも試験範囲には入ってないぞ」
「今回の範囲は、昨日までで理解できました」
同じやり取り。
だが北見は、そこでふと、ため息混じりに別の名前を漏らした。
「伊東も、お前くらいやる気があればな」
「一回で理解できるから、退屈なんでしょう」
青見は、特に非難する様子もなく続ける。
「オレがこうやってやっと分かるところも、あいつにかかれば教科書一回読めば終わりですから。
この前も勉強会やりましたけど、要点まとめて教えるのは上手いですよ」
そこで一度言葉を切り、苦笑まじりに付け加えた。
「ただ、オレや彩女みたいに試行錯誤して理解することがないから、こっちが呑み込めないのが、ほんとに分からないみたいですけど」
半ば苦情、半ば尊敬。
それから、ふと思い出したように言葉を続ける。
「そういう意味だと、玲子ちゃんとは話が合うと思うんですけどね。あんまり仲良くないみたいなんですよ」
北見は、話に出た名前から、心当たりをたぐる。
「一年の三森玲子くんか? 確か、春から大学の教授になった三森博士の娘さんだったな。……どのくらいの学力があるか、知ってるか?」
「えーと」
青見は少し考えてから、さらりと言った。
「惣一と違って好奇心旺盛というか、知識欲がものすごいんで。学校レベルなら、多分、大学くらいまで終わってると思います。
オレも彩女も、分からないところはよく教えてもらってますし」
二年生が一年生に教わる――。
北見の顔に浮かんだ「え?」という表情を読み取ったのだろう、青見は続ける。
「人間、何もしないと無駄に年だけ取りますから。
オレの知ってる範囲だと、天文学、人類学、哲学、地球科学、物理、考古学、比較民俗学……その辺はもう、だいぶやってましたよ」
「努力する天才、か」
北見は、思わず感嘆の息を漏らす。
教師である自分たちより、既に知識量だけなら勝っている分野もあるかもしれない――そんな危惧と、才気へのわずかな嫉妬すら覚えた。
「それと比べると、伊東は……勿体ないな」
ぽつりとこぼれた本音に、青見は肩をすくめる。
「目標が出来れば変わると思いますけどね。
でも、『素朴である人は、素朴であるが故に素朴でいられるのだ』って言葉もありますし」
擁護しているようでいて、惣一のあり方を、そのまま認めている響きがあった。
「……誰の言葉だ?」
つい気になって問うと、青見はさっぱりした笑顔で答える。
「灰色の放浪者ガンダルフ。偉大な魔法使いの言葉ですよ」
「指輪物語か」
北見は、内心の苦笑を抑えられなかった。
――なるほど、自分と比べて才能がありながら努力しない伊東に、嫉妬しているのだろうな。
青見の言葉を聞きながら、ようやく自分の中の感情を認める。
自分の努力一年分を、伊東なら一週間で追いつくだろう――
そう言いながら、妬みもなく笑い飛ばせるこの少年が眩しくてたまらないのに。
「それは、オレもありますよ」
青見は、あっさりと認める。
「でも、アイツにはなれないですから。
だったら、自分に出来ることを頑張るしかないでしょう」
そこで、ほんの少しだけ、表情が引き締まる。
「才能も能力も関係なしに、それでも諦めたくないものが、オレにはあるんです」
両親を失った無念と悲しみ。
どうしようもない無力感と、それでも立ち上がってきた足跡が、その笑顔の奥に確かに宿っていた。
――こんな生徒を前にして、まだ意地を張るのか。
そう思った瞬間、北見はふっと肩の力が抜けるのを感じた。
◆化学の罠
「東なら、出来るだろう」
自分らしくないと思いながらも、北見はふと、担当外の問題を出してみたくなった。
「さて、数学とは違うが、これはどうだ。
この中で“可燃性”の物質はどれだ?」
紙に、三つの元素名を書き並べる。
――『水素・ヘリウム・窒素』
「ヘリウムです」
「……水素だ」
一拍の迷いもなく、自信満々で答えた青見に、北見は天井を仰いだ。
これさえなければ、本当に「完璧」なのだが――。
「え? 気球に入ってるのってヘリウムですよね? 気球って爆発するじゃないですか。
原発でも使いますよね?」
青見は本気で不思議そうに問い返す。
あまりにも見事な誤答に、近くの席でそのやり取りを聞いていた結先生も、思わず口を挟んだ。
「ヒンデンブルグ号に充填されていたのは“水素”ですよ?
また三森さんに聞いた話と、ごっちゃになっているんですね」
数日前、カフェテリアで彼らが何か話していたのを思い出しながら、結先生は呆れ半分、苦笑半分で言う。
そして――始まった。
「いいですか、東くん」
結先生の「解説モード」が。
「確かに、前世紀初頭までは気球に水素が多用されていました。けれど、ヒンデンブルグ号の事故以後、その危険性が見直されて……
生成技術の向上もあって、不燃性で安定しているヘリウムに切り替わっていったんです」
古文の教員とは思えないほど、滑らかに続く理科の説明。
「それから、原発では、まだヘリウムを本格的に使うところまでは行っていません。現在も研究段階です。
もちろん、ヘリウムだって、特殊な条件下――たとえば核融合反応のような環境では“爆発”に近い現象を起こしますが、それは“燃焼”とは状態が違いますからね?」
化学担当ではないはずの教師の口から、「核融合」だの「特殊環境」だのという単語が飛び出し、
青見は真剣な顔で、うんうんと頷きながら聞いている。
(これさえなければ、学年TOPなんだがな……)
北見は内心でため息をつきつつ、
??おそらく次に彼の頭には「ヘリウムは燃えないが、爆発はする」という妙な記憶だけが残るのだろうと悟る。
結先生は結先生で、古文に関しては驚くほど簡潔かつ的確な解説をするくせに、
その他の分野になると、途端に「寄り道の多い長話」になるのも、いつものことだった。
◆そして試験結果
数日後。
学期末試験の結果が掲示される。
化学以外は、ほぼ完璧。
平均点をがっつり押し下げた化学だけが、ぽっかりと穴のように成績表に空いていた。
――それでも、東青見の名前は、しっかりと学年TOP5の中にある。
だが、惜しくも「1位」の席だけは、またしても手の届かない場所のままだった。