それぞれの成長期
/*/ 成長期、限界突破 /*/
六月の朝。
まだ梅雨入り前の、じっとりする一歩手前の湿気。
逢瀬学園一年……ではなく、もう二年の教室に、ざわざわとした波が立った。
「え、誰あれ」「転校生?」「いや、顔は青見くんだよな……?」
みんなの視線の先で、「転校生扱い」されている本人は、
いつもの時間どおりに教室へ入ってきた青見だった。
ただひとつ、去年と決定的に違うのは――
「……お前、でかくなりすぎだろ」
惣一郎が、思わず立ち上がる。
見上げる角度が、去年より明らかに増していた。
この一年で、身長は一七四センチから一八六センチへ。
数字で聞くと実感が湧かないが、こうして並ぶと一目瞭然だ。
さらに、安生道場でしごかれ続けた結果、
胸板も肩回りもぐっと厚くなり、制服の上からでも分かるくらいだった。
そのせいで――
「なんか、新品の制服って感じだね」
後ろからひょこっと顔を出した愛香が、上着の襟をつまんで言う。
「それ、作り直し?」
「ああ。さすがに去年のは、ボタン止まらなくなってな」
青見は苦笑しながら、自分の胸元を軽く叩く。
「冬の終わりぐらいから一気にきたんだよ。
肩もきついし、袖もつんつるてんだしで、道場で動くと破れそうでさ」
「うわ、成長期こわ……」
愛香が感心とも引き気味ともつかない声を出す。
「キノコとかさ、生命の危機を感じると急成長するって言うけど」
惣一郎が、机に肘をつきながらにやっと笑った。
「人間もなんかな?
夏にあんなことあったから、“生き残んなきゃ”って急成長モード入ったとか」
「キノコと一緒にするな」
「でも事実伸びてんじゃん」
好き放題言いながらも、どこか冗談だけではないニュアンスが混じる。
「夏にあんなこと」の意味を知っているのは、この教室ではほんの数人だけだ。
「ていうかさ」
愛香が、じーっと青見を見上げる。
「惣くんは食べてるのに、ちっとも伸びないねぇ」
「おい」
惣一郎が即座に抗議する。
「いやいや、オレだって一応伸びてんの。ちまちま派なの。ドーンじゃなくてジワジワ系なの」
「うんうん、グラフにしたら分かるやつね」
「そうそう。平均値を支える重要な――」
「でも、わたしよりは大きいから良いけどな」
さらっと落とされて、惣一郎が「そこ基準かよ!」と机に突っ伏す。
「はいはい、男子同士で勝手にやってれば?」
そのとき、彩女がようやく教室に入ってきた。
鞄を肩から下ろしながら、なんとなく教室の空気の違いに首をかしげる。
「なに、そのざわつき」
「お、主役きた」
惣一郎がニヤニヤしながら手招きする。
「彩女、ちょっとそこ立ってみ」
「は? なにその雑な振り」
言われるままに、青見の隣に並ぶ。
周囲から「おお……」と素直な感嘆が漏れた。
去年までは、少し彩女の方が目線が高いくらいだった。
今ははっきりと差がついている。
体育館で見慣れたはずの二人の立ち姿が、
制服という“物差し”を通すと、よりその差がはっきりする。
「……反則ね、これは」
彩女がぽつりと呟いた。
「何が」
「いや、なんでもない」
ついこのあいだまで「となりの家の幼なじみ」サイズだったものが、
ほんの一年で、ひょいっと“頼れる側”の背丈を越えていったことが、
言葉にしづらい感情を連れてくる。
「制服作り直しって、結構かかったでしょ、お金」
彩女が話題を逸らすように問うと、青見は肩をすくめた。
「まあ、そこそこ。
でも、理事長が『成長期だから仕方ないね』って、補助出してくれたから、なんとかなった」
「伊集院さんマジ有能……」
惣一郎が、心の底からのトーンで呟く。
「オレの飯代も管理してくれてるしな。
“よく食べ、よく鍛えなさい”って。……その結果がこれだ」
「理事長プロデュース成長期」
愛香のその一言に、周りから笑いが起きる。
「ま、でもさ」
惣一郎が、改めて青見を見上げて口を尖らせた。
「急に伸びられると、ちょっと置いてかれた感あるよな。
前は並んで歩いてて目線そんな変わんなかったのにさ」
「置いてかれたっていうか、勝手にキノコ理論当てはめたのお前だろ」
「うっせ。オレの成長もこれからなんだよ。きっと。たぶん。……願望」
「願望かよ」
笑い声が教室いっぱいに広がる。
その真ん中で、新しい制服の肩を、彩女がこっそり指でつついた。
「……似合ってるじゃない、ちゃんと」
小声でそう呟いたのを、
聞こえたのか聞こえなかったのか――
青見は、いつもどおりの不器用な笑い方で、
「そうか?」とだけ返した。
/*/成長期が憎いだけ
その日の放課後。
帰りのホームルームも終わり、教室のざわめきが少し落ち着いたころ。
彩女は、自分の席に座ったまま、なんとなく前の方を見つめていた。
前の方の列で、青見が男子たちに囲まれている。
新しい制服をいじられたり、身長の話をまた蒸し返されたりしているのが、遠目にも分かった。
(……よかったわね、ほんとに)
胸の奥で、ふう、と小さく息を吐く。
自分の身長は、今年に入ってとうとう一七三センチに乗った。
測定用の身長計の数字を見た瞬間は、正直「マジか」と思った。
去年までは、
――このままいくと、本当にあんた追い越しちゃうんじゃないの
そうハラハラしていたのだ。
体育館の扉のところで並んだとき、
靴を脱いだマットの上で向かい合ったとき、
ふとした瞬間に「目線、同じくらいだな」と気づいてしまうたび、
心のどこかで、なんとも言えないそわそわを抱えていた。
(でも、ここまで差がつけば……さすがに、もう追い越す心配はないわよね)
今は、見上げるようにしないと目が合わない。
隣に立てば、ちゃんと"こっちが小さい側"になれる。
(…………つま先立ちしたら、キスも出来る、くらい?)
そこまで考えた瞬間、
彩女の思考は、自分で自分の首を絞めるように止まった。
「……は?」
思わず、声にならない声が漏れる。
(なに考えてんのよ、わたし)
がたっと椅子の上で背筋を伸ばし、両手でぶんぶんと頭を振る。
(誰が誰に、なによ、"つま先立ちでキス"って!
そんなイベント、どこにも発注してないんだけど!?)
頬がじんわり熱くなる。
慌てて窓の外を見て誤魔化すが、頭の中ではさっき浮かんでしまった図が勝手に再生されてしまう。
夕方の昇降口、背伸びする自分、見下ろしてくるやつの顔――
「だから、なにを具体的に想像してんのよ、バカ!」
小声で自分にツッコミを入れて、机に突っ伏した。
近くの席の子が「え、どうしたの彩女?」と怪訝な顔をする。
「なんでもない! 成長期が憎いだけ!」
むちゃくちゃな言い訳をしてから、
彩女はもう一度だけ、そっと青見の背中を見やる。
去年よりずっと大きくなった、その背中。
(……ま、いいわ。
これだけ差があれば、安心、安心)
――"追いつけない"ことに、ほっとしている自分に気づいて。
その意味を、今はまだ、ちゃんと考えないまま。
彩女はわざと、勉強用のノートを大げさに開いて、
頭の中に残った甘いイメージを、ページの音で振り払おうとするのだった。