夏前、体育の時間。
薄く消毒液の匂いが残る屋内プールに、生徒たちの声が反響していた。
「じゃあ次、女子は二レーンずつ、クロールでタイム取るぞー。
水泳部は後半な。基準になるからな」
体育教師の声に、ざわっと歓声が上がる。
松坂愛香は、髪を後ろでひとつにまとめながら、スタート台の列に並んだ。
スクール水着に包まれた身体は、昔から比べればずいぶん「女の子らしい」ラインを描いている。
それでも、周りの女子と同じように、当たり前の成長として受け取られていた。
(よし、普通に、普通に……)
そう自分に言い聞かせる。
順番が進み、何組かが泳ぎ終わる。
ざぶん、ざぶんと水音、歓声、教師のストップウォッチの音。
「次ー、安達と松坂ー!」
レーンの表示板に、名前が出る。
隣は安達彩女。華奢だがバネのある、いかにも運動神経の良さそうな体つきだ。
「手加減しないからね、愛香」
「うん、わたしも全力でいくよ」
そう言いつつ――愛香の心の中には、「全力」の基準が二つあった。
人間としての全力。
アブホースの落し子としての、本当の全力。
(彩女には勝てないくらいが、ちょうど良いんだけどなぁ)
スタート台に足をかけ、深呼吸をひとつ。
プールの水面には、天井のライトが揺れている。
「位置について――」
教師の声。全身が、条件反射で緊張する。
「よーい……」
静寂。
耳の奥で、自分の心音が響いている。
(だいじょうぶ。いつも通り。普通の、料理部の……)
「――スタート!」
合図と同時に、水しぶき。
愛香の身体は、ほとんど反射のように前へ飛び出した。
水が、驚くほど軽い。
一掻き。
もう一掻き。
水が布を滑るように割れ、身体がするりと前へ進む。
(あれ……? こんな、だったっけ)
水の抵抗が、薄い。
肺が苦しくならない。
筋肉のどこも悲鳴を上げていない。
むしろ――気持ちいい。
水の中で、体の隅々まで血が巡るのがわかる。
惣一郎からもらった栄養と生命力が、細胞のひとつひとつに火を入れるみたいに。
(……やば)
途中で、ほんの一瞬だけ正気に戻る。
(これ、マジで全力でやったら――)
ターン。壁を蹴る。
視界の端で、彩女の姿が一瞬見えた。
いつもなら、ぎりぎりか、少し後ろから追ってくるはずの彼女が――
今日は、はっきりと後方にいる。
(彩女に負けてるから大丈夫、って思ってたのに)
思っていたより、身体が軽い。
腕が、水を掴んだ分だけ正確に推進力に変わる。
心臓は早鐘を打っているが、苦しさはない。
呼吸も乱れない。
――高性能になっている。
(もうちょっと、加減しなきゃ)
そう思ったときには、もうゴールが目の前に迫っていた。
ぱしゃん、とタッチ板に手をつく。
息を吐き、水面から顔を出したところで――体育教師の声が飛んだ。
「おい松坂!? お前、本当に料理部か!?
水泳部の標準タイム、ふつうに超えてるぞ!」
周囲から「マジで?」「やば」「松坂すげー!」と声が上がる。
プールサイドの水泳部員たちも、目を丸くしていた。
「ちょっ……先生、計り間違いじゃ……」
「いや、二回押してねぇよ。こっちの予備のストップウォッチでも同じだ。
安達、お前も十分速いが……松坂、何だそのタイムは」
彩女が笑いながらプールサイドに上がる。
「やっぱりね。最近、走りとかも妙に速いと思ってたんだよ。
ねぇ愛香、なんかやってるでしょ?」
「な、なんかって……何もやってないよ。ただの料理部だよ?」
愛香は、慌てて笑い飛ばす。
それはそれで自然に見える。
完璧超人が、またひとつ「できること」を増やしただけ――周囲にはそうとしか映らない。
プールから上がるとき、ふと自分の身体の重さを確かめる。
筋肉の付き方、呼吸の整い方、心臓の鼓動。
すべてが、人間としての「平均」を、静かに、しかし確実に上回っていた。
(……惣くんのぶん、ちょっと使いすぎてるかも)
濡れた髪から滴る水をタオルで拭きながら、内心で苦笑する。
(彩女に負けてるからバレないと思ってたのに。
このままだと、体育の成績でも変に目立っちゃうな……)
もう少し、加減しなければ。
伊東惣一郎から吸った生命力を、どこまで自分の性能に振り分けるか。
守るためには強さも必要だけれど、強すぎれば人目を引く。
そのバランスを、これからもっと慎重に調整しないといけない。
「松坂ー! 次、背泳ぎもあるぞ、頼むから全力は出すなよー!」
プールサイドから誰かが茶化す。
男子の何人かが、からかい半分に親指を立てている。
「はーい、ほどほどに頑張りまーす」
愛香は手を振り返し、いつもの癒し系スマイルを浮かべた。
その笑顔の奥で――
アブホースの落し子としての計算が、ひそやかに進んでいることなど、
誰も気づいてはいなかった。