なんちゃってクトゥルフ小説   作:ぶーく・ぶくぶく

98 / 240
全力全開

 

 

 夏前、体育の時間。

 薄く消毒液の匂いが残る屋内プールに、生徒たちの声が反響していた。

 

「じゃあ次、女子は二レーンずつ、クロールでタイム取るぞー。

 水泳部は後半な。基準になるからな」

 

 体育教師の声に、ざわっと歓声が上がる。

 

 松坂愛香は、髪を後ろでひとつにまとめながら、スタート台の列に並んだ。

 スクール水着に包まれた身体は、昔から比べればずいぶん「女の子らしい」ラインを描いている。

 それでも、周りの女子と同じように、当たり前の成長として受け取られていた。

 

(よし、普通に、普通に……)

 

 そう自分に言い聞かせる。

 

 順番が進み、何組かが泳ぎ終わる。

 ざぶん、ざぶんと水音、歓声、教師のストップウォッチの音。

 

「次ー、安達と松坂ー!」

 

 レーンの表示板に、名前が出る。

 隣は安達彩女。華奢だがバネのある、いかにも運動神経の良さそうな体つきだ。

 

「手加減しないからね、愛香」

 

「うん、わたしも全力でいくよ」

 

 そう言いつつ――愛香の心の中には、「全力」の基準が二つあった。

 

 人間としての全力。

 アブホースの落し子としての、本当の全力。

 

(彩女には勝てないくらいが、ちょうど良いんだけどなぁ)

 

 スタート台に足をかけ、深呼吸をひとつ。

 プールの水面には、天井のライトが揺れている。

 

「位置について――」

 

 教師の声。全身が、条件反射で緊張する。

 

「よーい……」

 

 静寂。

 耳の奥で、自分の心音が響いている。

 

(だいじょうぶ。いつも通り。普通の、料理部の……)

 

「――スタート!」

 

 合図と同時に、水しぶき。

 愛香の身体は、ほとんど反射のように前へ飛び出した。

 

 水が、驚くほど軽い。

 

 一掻き。

 もう一掻き。

 水が布を滑るように割れ、身体がするりと前へ進む。

 

(あれ……? こんな、だったっけ)

 

 水の抵抗が、薄い。

 肺が苦しくならない。

 筋肉のどこも悲鳴を上げていない。

 

 むしろ――気持ちいい。

 水の中で、体の隅々まで血が巡るのがわかる。

 惣一郎からもらった栄養と生命力が、細胞のひとつひとつに火を入れるみたいに。

 

(……やば)

 

 途中で、ほんの一瞬だけ正気に戻る。

 

(これ、マジで全力でやったら――)

 

 ターン。壁を蹴る。

 視界の端で、彩女の姿が一瞬見えた。

 いつもなら、ぎりぎりか、少し後ろから追ってくるはずの彼女が――

 今日は、はっきりと後方にいる。

 

(彩女に負けてるから大丈夫、って思ってたのに)

 

 思っていたより、身体が軽い。

 腕が、水を掴んだ分だけ正確に推進力に変わる。

 心臓は早鐘を打っているが、苦しさはない。

 呼吸も乱れない。

 

 ――高性能になっている。

 

(もうちょっと、加減しなきゃ)

 

 そう思ったときには、もうゴールが目の前に迫っていた。

 

 ぱしゃん、とタッチ板に手をつく。

 息を吐き、水面から顔を出したところで――体育教師の声が飛んだ。

 

「おい松坂!? お前、本当に料理部か!?

 水泳部の標準タイム、ふつうに超えてるぞ!」

 

 周囲から「マジで?」「やば」「松坂すげー!」と声が上がる。

 プールサイドの水泳部員たちも、目を丸くしていた。

 

「ちょっ……先生、計り間違いじゃ……」

 

「いや、二回押してねぇよ。こっちの予備のストップウォッチでも同じだ。

 安達、お前も十分速いが……松坂、何だそのタイムは」

 

 彩女が笑いながらプールサイドに上がる。

 

「やっぱりね。最近、走りとかも妙に速いと思ってたんだよ。

 ねぇ愛香、なんかやってるでしょ?」

 

「な、なんかって……何もやってないよ。ただの料理部だよ?」

 

 愛香は、慌てて笑い飛ばす。

 それはそれで自然に見える。

 完璧超人が、またひとつ「できること」を増やしただけ――周囲にはそうとしか映らない。

 

 プールから上がるとき、ふと自分の身体の重さを確かめる。

 筋肉の付き方、呼吸の整い方、心臓の鼓動。

 すべてが、人間としての「平均」を、静かに、しかし確実に上回っていた。

 

(……惣くんのぶん、ちょっと使いすぎてるかも)

 

 濡れた髪から滴る水をタオルで拭きながら、内心で苦笑する。

 

(彩女に負けてるからバレないと思ってたのに。

 このままだと、体育の成績でも変に目立っちゃうな……)

 

 もう少し、加減しなければ。

 

 伊東惣一郎から吸った生命力を、どこまで自分の性能に振り分けるか。

 守るためには強さも必要だけれど、強すぎれば人目を引く。

 そのバランスを、これからもっと慎重に調整しないといけない。

 

「松坂ー! 次、背泳ぎもあるぞ、頼むから全力は出すなよー!」

 

 プールサイドから誰かが茶化す。

 男子の何人かが、からかい半分に親指を立てている。

 

「はーい、ほどほどに頑張りまーす」

 

 愛香は手を振り返し、いつもの癒し系スマイルを浮かべた。

 

 その笑顔の奥で――

 アブホースの落し子としての計算が、ひそやかに進んでいることなど、

 誰も気づいてはいなかった。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。