/*/ プールサイドのため息 /*/
夏前、六月の午後。
体育の時間、プール開き一発目の水泳の授業。
澄んだ水面の向こうから、女子の黄色い声が飛んだ。
「ちょっと見て、青見くんやばくない!?」「え、なにあの体」「あれほんとに高校生?」
視線の先――スタート台のあたりで、軽くストレッチをしているのは青見だった。
割れた腹筋。
シャツの下ではあまり目立たなかったが、こうして水着姿になると一目瞭然だ。
安生道場で鍛えられた胸板は厚く、肩から腕にかけては、"重機がのったような肩回り"という表現がしっくりくる。
「腕、太……」「背中広っ」「なんか、スポーツ雑誌のグラビアみたいなんだけど……」
プールサイドで準備運動してるだけでこれなのだ。
そりゃあ女子の視線も集中する。
その女子たちの「きゃーきゃー」に、ひとりだけ、露骨に眉をひそめている少女がいた。
(……なに盛り上がってんのよ、あいつら)
安達彩女。
スクール水着に体操部御用達のパーカーを羽織り、髪をひとつに結んでいる。
すらっと伸びた手足、無駄のない筋肉。鍛えたモデル体型と言っていい。
ただし――
(そんなに見せもんじゃないんだからね、あいつは)
ムスッとプールの縁に腰を下ろしながら、心の中で毒づく。
「あー、これ絶対、女子みんな写真撮りたいと思ってるでしょ……」
「やめろ惣一郎、そういうこと言うと先生に怒られるぞ」
向こうでは、惣一郎がにやつきながら何か言って、青見が苦笑している。
(ったく……)
きゃーきゃー言われて照れてる青見を見ていると、
胸の奥で、じわじわと正体のよく分からない熱が湧いてきた。
(あいつは、わたしの、なんだから)
心の中でだけ、強気に言い切る。
けれど、そんなことを口に出せるわけもなくて、
パーカーの裾をぎゅっと握りしめるしかない。
その少し離れたところでは、男子たちが別の意味でざわついていた。
「松坂、反則だろあれ……」「なんかバランス良すぎない?」「あれが俗に言う"ちゃんとしたスタイル"ってやつか……」
水面の上、笑顔で友達としゃべっているのは松坂愛香。
程よい身長に、目を引くバランスの良さ。
豊かな胸と、きゅっと締まった腰。
派手すぎないのに、どうしても目がいってしまう。
惣一郎はといえば、その様子を見てニヤニヤしながら心の中でだけ勝ち誇っていた。
(ふふん、日頃の食事管理と筋トレメニューの成果だな。オレのプロデュース力、完璧)
――口に出した瞬間に、愛香に沈められるのは分かり切っているので、絶対に言わないが。
「松坂さん、スタイルいいよね」「ああいうのがモテるんだろうなー」
男子の声が彩女の耳にも届く。
チラッとそちらを見ると、今度は自分のことをちらちら見ている視線とも目が合った。
「あのさ、安達も相当じゃない?」「まあ、そうなんだけど……」「なんか、怖い」「分かる」
(怖いってなによ)
彩女は内心でため息をついた。
身長、一七三センチ。
すらりと伸びた手足、体操で鍛えた引き締まった筋肉。
本人としては「悪くない」と思っているが――
(……まあ、大概の男子より背、高いしね)
となりに並んだとき、自分が見下ろす形になる相手が多すぎて、
告白されたことがないわけじゃないが、どうしても距離ができてしまう。
でも。
プールの中でアップを始めた青見の視線が、ふとこちらに向いた。
女子たちの視線を一身に集めていながら、その目が捉えるのは――
「……なに、こっち見てんのよ」
彩女はつい、そっぽを向いた。
けれど、その頬は少しだけ緩んでいる。
周りの女子たちはああ言っている。
男子たちは好き勝手言っている。
だけど、青見が見ているのは――
(……わたしだけで、いいんだから)
心の中でだけ、そっとそんなことを思う。
もちろん、そんな台詞を口に出せるほど器用じゃない。
きゃーきゃー言っている女子たちに混ざることもできない。
代わりに彩女は、プールに足をそっと浸しながら、
水面越しにこちらを見てくる青見に、わざとらしくそっぽを向き、パーカーのフードを深くかぶった。
「……しっかり泳ぎなさいよ、人気者」
その小さな呟きは、水音に紛れて誰の耳にも届かない。
けれど、その直後にスタート台に上がった青見が、
ほんの一瞬だけ、彩女の方へ視線を送ってから前を向いたのを――
彩女は、ちゃんと見ていた。
/*/触って良い?
笛の音が鳴って、自由形の計測が終わった。
ターンを決めてゴールした青見は、水から顔を上げて大きくひとつ息を吐く。
縁に手をかけて、ぐっと腕力だけで身体を持ち上げると――
「きゃー! 今の見た!?」「腕力おかしいでしょ」「タイムも速っ」
さっきまでスタンド側で見ていた女子たちが、わらわらとプールサイドに押し寄せてきた。
「青見くん、すごーい!」「ねえねえ、何部だったらああなるの? 剣道? 道場?」
「いや、あの……普通に、道場で……」
タオルを肩にかけながら、青見は半歩下がる。
だが、女子の輪はそれを許さない。
「ねぇねぇ、ちょっと腹筋か胸筋に触っても良い?」
その一言で、輪の温度が一段階上がった。
「え、触りたい」「分かる」「ちょっとだけ、ね? ね?」
「あ、えっと――」
さすがの青見も、目に見えてタジタジになる。
逃げ場を探すように視線を泳がせて――その先で、殺気を帯びた視線と目が合った。
(ちょっと、触る!? それはダメでしょ!)
プールサイドの端で足を拭いていた彩女が、バンッと立ち上がる。
濡れた足音もそのままに、つかつかつか、と迷いのない歩幅で青見の元へ。
「あ、彩女」
名前を呼んだ瞬間――
青見は、ゾクリと背中に寒気を覚えた。反射的に姿勢が伸びる。
(うわ、これ、完全に怒ってるやつ……)
女子たちも、近づいてくる彩女の気配に気づいて道を開ける。
その真ん中を、彩女は迷いなく突き抜けた。
バサッ。
まず、青見の上半身に、自分のパーカーを乱暴に押しつける。
そのまま、胸元をつかんでぐいっと引き寄せるようにして――
「これ、わたしのだから」
きっぱりと、よく通る声で言い切った。
(触るな)
その一言に、言外の意味がべったりと張り付いているのを感じて、
その場の全員が、一瞬、時間を止められたみたいに固まった。
最初に弾けたのは、やっぱり女子たちの声だった。
「きゃー!! やっぱり!」「聞いた!? 今の聞いた!?」「『わたしの』って言った!」「え、なにそれ尊いんだけど!」
「二人つきあってたのね!?」「いつから!?」「やだー秘密にしてたの?」「青見くんに抱きしめられたらどんな感じ?」
「ちょ、ちょっと待って!? つきあってるとかじゃ――」
青見が慌てて否定しかける。
が、その腕をつかんでいる彩女の指先に、ぎゅっと力がこもった。
「……“とか”じゃないでしょ」
小声。
けれど、すぐそばにいる青見には、はっきりと届く声量で。
彼女自身、言った瞬間にハッとしたように目を見開き、耳まで真っ赤になった。
「い、今のナシ! 忘れて! と、とにかく勝手に触ろうとしない!」
彩女は真っ赤な顔のまま、女子たちに向き直る。
「こいつ、身体冷えやすいんだから! 風邪ひいたら困るし! タイム落ちたらもっと困るし! だから、ダメ!」
理由を必死にひねり出しながらまくし立てるが、
女子たちの目は完全に「そっち」モードだ。
「風邪より嫉妬の方が重症そう」「分かる」「“困る”の理由がガチ彼女」「ねえ、いつから? 中学? それとも道場?」
「だ、だから違うって言ってるだろ!」
青見は、耐えかねたように声を張り上げる。
だが、そのまま言葉を続けることができなかった。
視界の端で、彩女が――
自分のパーカーを握ったまま、不安そうにこちらを見上げていたからだ。
(……“違う”って、言われたら、きっと、嫌なんだろうな)
胸の奥が、ちくりと痛む。
さっきまで他人事のように笑っていた女子たちの声が、妙に遠のいた。
青見は、ぐっと息を飲むと、わざとらしいほど大きく肩をすくめた。
「……まあ、その。勝手に触られんのは、ちょっと困るからさ」
そう言って、彩女の方をちらりと見る。
「彩女も、怒るし」
その一言で、再び女子の輪が爆発する。
「ほらー!!」「今の聞いた!? “彩女も怒るし”だって!」「完全に彼女扱いじゃん」「はい優勝!」
「ち、違っ……違……なくも、ないけど……っ!」
彩女は自分で何を言っているのか分からなくなりながら、
顔を両手で覆いたくなる衝動を、根性でこらえた。
(あーもう! なんでこうなるのよ!!)
でも、パーカー越しに感じる青見の体温と、
さっきの「彩女も怒るし」という一言が、胸の中で何度も何度もリピートされる。
(……ま、いっか)
女子たちのきゃーきゃーという声を聞きながら、
彩女は少しだけ視線を落とし、パーカーの裾をぎゅっとつまんだ。
(“わたしの”って言ったの、取り消さないからね)
心の中でだけ、そっと、そう付け足して。
/*/プールサイドのため息・男子
女子側が「きゃー!」だの「尊い!」だの騒ぎまくっている、その少し離れた場所。
男子たちは男子たちで、妙にしんとした空気の中、ぽつぽつと会話をしていた。
「……なあ」
「なんだよ」
ビート板を抱えたまま、ひとりがぼそっと口を開く。
「あれさ」
顎で、さっきまでの「女子大騒ぎゾーン」を指す。
「あれ、触って良いかって俺らが女子に聞いたら、セクハラだよな」
「……そうだな」
隣のやつが、即答した。
少し溜めてから、肩を落とすようにため息をつく。
「むしろ、聞いた時点でアウトだな」
「だよなぁ……」
しみじみとした相づちが、数人分続く。
「でもさー……」
もう一人が、ビート板の角で水面をちょいちょい突きながら、天を仰ぐ。
「聞きてぇなぁ……触りてえぇなぁ……」
「馬鹿、お前声デカい」
「しっ!」
慌てて周りを見回す数人。
幸い、女子たちは今も「青見×彩女」の話題で盛り上がっていて、こっちまでは聞こえていないらしい。
「……でもさ」
惣一郎が、腕を組んでうんうんと真面目ぶった顔になる。
「この状況で、“平等の観点から俺たちにも触らせてください”って主張したらどうなるんだろうな」
「即刻しばかれるな」
「主に女子に」
「あと先生にも『そういうこと言わない!』って怒られるな」
「だよなー」
分かりきった結論に、全員でうなだれる。
惣一郎は鼻を鳴らして、冗談めかして肩をすくめた。
「ま、俺には愛香がいるからな。ちゃんと毎日プロデュース結果を確認してるし」
「リア充は黙ってろ」
「沈めるぞ」
「プールの塩素よりお前の発言の方が目にしみるわ」
ぺし、とビート板で惣一郎の背中が叩かれ、男子の輪にだけささやかな笑いが広がる。
その向こうでは、まだ女子たちの歓声とため息が渦を巻いていて――
「……世の中、不公平だよな」
「なにがだよ」
「“触っていい?”の一言が、向き先変わるだけで“きゃー!”と“警察呼ぶよ?”に分かれるの、理不尽じゃない?」
「それはまあ、顔と関係性の問題だな」
「身も蓋もねえ!」
男子たちは男子たちで、自分たちなりの「ため息」をプールサイドに落としていた。