ジャッジメント・デイ~天使と悪魔の二重奏~ 作:タコのスパイ
「――ああ、良かった。皆さん無事だったんですね」
氷の割れる音に全員の視線が集まる。他の人間達より遅れてバスから降りて来た女――港湾へ向かうようにとマリヤとダグラスに進言した声の主は、厚手のコートを纏い、顔を隠す様にフードを目深に被っていた。
ガレットに注視していたダグラスが女の方に顔を向ける。
「ああ、あんたか。……すまんな。残念ながら見ての通りだ」
「いえ……元はと言えば私が浅慮だったんです。深く考えもせずに皆さんをもっと危険な場所に案内してしまって」
「さっきも言っただろ、あのまま逃げ回っても埒が明かなかったと。……まあ、怪我だけで済んだのは不幸中の幸いってやつだが」
「そうよ。今は誰かの責任とか擦り付け合ってる場合じゃないわ」
「そう言ってもらえると救われます」
――やはりおかしい。人間達と労い合う女の姿を直に見て、胸の奥に燻っていた違和感が益々膨らんだ。
フードの下の形の良い唇から発せられる低めのハスキーボイスそのものは聞き覚えが無いのだが、その声色と言葉の奥底に滲む揶揄の響き――自分はそれを知っている。
加えて、赤黒く汚れたコートから漂う人間の血の匂いは一体何だ? 素直に考えるならば、女自身が負傷して流した血か、あるいは悪魔に殺された人間の血を浴びたか……そのいずれとも合致しないように感じた。少なくとも前者にしては女は元気過ぎる。
ふと、ガレットの方をちらりと見やる。ずっと人間達に向けていた無関心な態度から打って変わって、彼は鋭く冷たい眼差しで女を睨んでいる。一挙一動を見逃すまいとするその目は、間違っても「ただの人間」を見つめる目ではなかった。
「――あなたを詰めるつもりじゃないけれど、足が失くなってしまったのは何とかしないとね。……逃げ場所の当てはあるの?」
マリヤの呼びかけに女は振り返った。じわじわと近づく死の気配に緊張しながらも気丈に振る舞っている――ように見える姿。マリヤと目が合った瞳の奥に、一瞬怯えのような光が走ったのをマリヤは見逃さなかった。
「港に船が泊まってる筈です。例の結界のせいで出航出来ないとしても、せめて離岸して街から少しでも離れておかないと」
「一理あるわ。だけど、この近辺を凍らせた悪魔――さっきまで私達を追って来ていた
「でも、だからってここから徒歩で移動するのも危ないと思うんです。ただでさえお年寄りに子供に妊婦さん……
口を滑らせたように出て来た人間を見下す物言い。そして何より、辺りに漂う冷気と共に鼻を突いた、腐った林檎か桃を思わせる甘ったるい匂い。
その匂いを鼻が捉え、匂いの正体を脳が理解した瞬間、マリヤは正面に手を伸ばしてコートの襟を鷲掴みにしていた。女が身を捩らせると同時に純白のグローブがコートの
マリヤの突然の暴挙に人間達が反応するよりも先に女が飛び退ってマリヤから距離を取る。が、逃がさないとばかりに地面から飛び出した鉤付き鎖が女を貫かんとする。女が大きく跳躍した事で鉤は目標を失ったものの、バスの鋼板を貫くほどの切れ味と勢いにたかだかキルティング生地が耐えられる筈も無く、女の纏うコートを一瞬で襤褸切れに変えてしまった。
次の瞬間、ズタズタになったコートの下から蝙蝠のような翼が伸び、布切れを吹き飛ばした。
「やっぱり――ロゼ!」
「……あーあ。やっぱり慣れない御芝居なんてするもんじゃないねぇ」
人間達の悲鳴が上がる。女――
気怠げに伸びをしたロゼの装いは今朝から変わっていた。薄紫色の胸周りを覆うのは黒いチューブトップ、下半身には大きくスリットの空いたレザーのロングスカート。身動きを邪魔しない格好(露出は多いが寒くはないのだろう。気温の変化の影響をあまり受けないのは悪魔も同じである)だ。平時ならば人間の視線と意識を集めるに足る妖麗な容姿だが、今の状況でロゼに見惚れる者など一人も居なかった。
「人間っぽく見えるよう二重に幻術を掛けて、声帯を広げて声も変えて、あと人間の血を被って
「私が今までどれだけの
もっとも、オリバーポートに居る悪魔が彼女一人だけだった今朝ならいざ知らず、街のあちこちを悪魔が跋扈している現状では気配を判別するのは困難であり、また変装を見破れた決め手は他ならぬロゼ自身の失言であったのだが。
「あー……なるほどね。酒と
「それより、生き残った人達の中に紛れ込んで何をしていたの? 他の悪魔に彼らを食べさせるつもりだったのかしら」
「実際最初はそのつもりだったんだけどさ、あんたらがしゃしゃり出て来るもんだから予定変更したのよ。……さっきあんたが言った『この辺を凍らせた悪魔』――アズーリャに紹介してやろうってね」
「私から訊いたとはいえ、随分素直に答えるのね」
「もう隠したって意味無いからねぇ。……アズーリャは天使が大嫌いなんだよ。一匹でも多くの天使を凍らせて砕くのが
「――なら、あなたの次にそのアズーリャを倒す事としましょうか」
どのみちガレット以外の悪魔は全て倒すつもりなのだ。その悪魔から憎まれていると聞かされたところで怖くも何ともない。
ゴールドルナをホルスターから抜き、大弓として展開する。
「今度は逃がさないわ」
「へぇ、人間のためにそんなに必死になってるんだ。天使様は本当にお優しいねぇ」
一方のロゼも身構えつつも、顔に浮かべた嘲笑を引っ込めないまま応じる。ゴールドルナが帯び始めている電流など大した事ではないというように――あるいは今すぐに射られる事は無いと確信しているかのように、壁際に身を寄せる人間達の元へ歩み寄る。自分の姿に慄く彼らを見下ろしながらニヤリと笑みを浮かべ、再びマリヤのほうに顔を向けた。
「でもその優しい天使様は、ここに居る人間ごとあたしを殺すなんて出来ないでしょ? ……それとも、今朝の失敗を繰り返さない為に景気良くやっちゃう?」
「……いいえ、今は止めておくわ」
「ほら――」
「だって、あなた一人のために人間を12人も犠牲にするだなんて、どう考えても割に合わないもの」
「……言ってくれるじゃないの」
――ロゼは確かに危険な悪魔だが、助けられる筈の人間を犠牲にしてまで屠る程ではない。
無論、
ロゼ自身もその意味に気付き、嘲笑を引きつらせながら眉を吊り上げる。
しかし、先ほどから口を挟まなかったガレットがマリヤとロゼの間に割って入った。彼は抜き身の刃物のような視線をロゼに向けたまま、鉤爪の金属音を響かせる。その短い音色には純然たる殺意が込められていた。
「遺言はそれぐらいで良いか。こいつならともかく、俺にそんな『盾』が通じると思うなよ」
「――ああ、そういえばさっきからあんたも気になってたんだよ。一体どんな風にトチ狂えば、悪魔の癖に天使と
思えば、ここに至るまでガレットと遭遇した悪魔は全一体残らず死んでいる。ゆえに彼の存在は悪魔達に知られていなかったのだろう。
「もしかして雷天使……あんた、こいつを誑かしたのかい? だとしたら傑作だねぇ。清楚そうな顔してる癖に、やるじゃないの天使様」
如何にも
「随分冗談が好きらしいな」
先に応えたのは意外にもガレットだった。彼は鼻を鳴らしつつ、軽蔑の眼差しをロゼに送る。
「お前こそアークの足を舐めたからここに居るんだろうに」
「……何だって?」
その決定的な一言に対するロゼの反応は明確だった。浮かべていた嘲笑は一瞬にして消し飛び、顔からは一切の感情が消え失せた。
「頭が悪すぎて意味が通じなかったのか。――ならもっと分かりやすく言ってやる」
ガレットが目を細め、再び口を開く。
「アークに媚びるしか能が無い分際で偉そうに囀るな、この売女が」
「――あたし、が……あたしがアークの、あの下衆野郎の……何だって!? ふざけんな……ふざけんな、ふざけんな!!」
目を零れんばかりに見開き、声を張り上げるロゼの怒号が周囲に木霊する。しかしガレットは一切動ず、むしろ彼女以上の冷たい怒りを叩き返した。
「ふざけてるのは貴様らだろうが。お前らはあの堕天使の関心を買おうとゴマを擦り、奴の威を借りて好き勝手しているクズだ。――そんな連中と同じに見られてるのかと思うと、虫唾が走るぜ」
淡々としていた声が少しずつ上擦り、抑えきれないほどの憤怒と憎悪が入り混じり始める。ここまで数時間共闘して来た中で、ガレットのこんな声は初めて聞いた。その剣幕に息を呑んだのはロゼだろうか。周りの人間達だろうか。それとも――マリヤ自身だろうか。
否、今はそれは重要ではない。二人は聞き捨てならない名前を口にした――「アーク」と。
「アーク自身は当然だが、奴に諂う魔界の恥晒し共も俺が皆殺しにしてやる」
アーク――神の手で命を吹き込まれた最初の熾天使。天界で最も偉大で勇壮な天使の一人。そして――今や名を口にする事さえ憚られる天界最悪の汚点。