JUDGEMENt DAY~天使と悪魔の二重奏~ 作:タコのスパイ
全身を覆う数トンもの煉瓦と鋼材――その程度の重みなど天使には致命傷とならない。ただ身動きを封じるには十分だった。
久しくしていなかった埃っぽい作業に少しばかり苛立ちつつ、四肢と翼を駆使して瓦礫を掻き分けること数分、ようやくマリヤの身体は自由を取り戻す事が出来た。
だが、粉塵と瓦礫の向こうに見えた景色は、マリヤに息を付く余裕を与えてくれなかった。
「……これは、何……?」
先の
空が、黒い。
まるで特大のインク壺をひっくり返したかの如き暗黒の闇だけがオリバーポートを包んでいる。そこには太陽の欠片は疎か、雲の輪郭すらも存在していなかった。
――僅か数分の間に一体何が起きた? これもロゼの仕業なのか? だとしたら一体……。
しかし、空ばかり気にしている暇は無かった。地上の大通りでは更に恐ろしい光景が繰り広げられているのだから。人工島全体を揺らした先の大地震でビルの多くは
倒れた作業員を寄って集って斬り刻む
拳銃で抵抗する警察官を真っ二つに引き裂く
捕らえた女の頭を齧り取る
戦闘天使のマリヤですら、これほどまでに大規模で凄惨な現場は見た事が無い。眼下の地獄絵図に思わず息を呑む。
――これは「殺戮」じゃない。
単なる「殺戮」と呼ぶにはあまりにも一方的過ぎる。この光景をもっと正確に表現するならば――「宴」だ。生贄たる人間の血肉を好きなだけ貪り、上がる悲鳴を音楽として好きなだけ堪能する悪魔の狂宴、
「やめて……子供だけは助けて!」
その悲鳴でマリヤは我に返った。悲鳴の主は赤子を抱えながらへたり込む若い母親だ。既に何体もの
魔界の雑兵・
見過ごせない。思索を一旦打ち切り、構えたゴールドルナに集中させた霊力を雷の矢に練り上げて撃ち出す。今まさに母子に飛び掛からんとしていた3体の
雷鳴と仲間の断末魔を聞き、悪魔たちが人間を喰らうのを止める。彼らはそこでようやくマリヤの存在に気付いたらしく、次々に時計塔を見上げた。
獰猛な欲望をぎらつかせた瞳に映るのは、漆黒の闇空を背に純白の軍服とベレー帽に身を包み、白銀の羽翼を広げ、青空色の長髪を風に靡かせる戦闘天使の姿。
「天使だ! おいお前ら、あそこに天使が居るぞ!」
「何処から紛れ込んだか知らねぇが好都合だ。天使の心臓を喰らえば今よりもっと強くなれるからなぁ!」
「頭は俺によこせ!」
「じゃあ肝は私ね……」
マリヤを見上げながら、悪魔たちは口々に好き放題を喚き散らす。たった今仲間を殺された事に対する怒りや恐れは一切感じられない。
(まったく、これだから悪魔は!)
声には出さず心中で吐き捨て、再びゴールドルナを引き絞る。通りに群がる悪魔の注意が全て自分に向いているため、恐らく先ほどの母子は逃げられるだろう――無論、その後助かるかどうかは彼女らの運次第となってしまうが。
とにかく、今は目の前の出来る事をするだけだ。そう切り替えて、自分に矛先を変えて襲い掛かって来る悪魔たち目掛けて雷撃を放つ。咆哮と雷鳴が轟き、火花と血飛沫が闇空に舞い散る。
天使は悪魔たちに、そして悪魔たちは天使に気を取られ、誰も気付く者は居なかった。
――罅割れた道路の窪みに溜まった人間の血の池。その真紅の水面が不自然に波打ち、泡立った事に。
――血の匂いがする。
人間の恐怖と無念、渇望、未練、そして死がふんだんに溶け込んだ大量の血。その芳しい穢れは、闇に生きる悪魔を引きつける甘い誘惑であり、それと同時に魔界と人間界の境界線を薄めて
今頃、
(今ので
時計塔からホテルへの屋上へと足場を移し、飛び掛かって来た
逆立った鱗で全身を覆う
獲物を逃した
眼前に迫った骨の刃をゴールドルナで受け止めた瞬間、ガリガリと耳障りな音が響くと共に火花が飛び散る。ロゼの刺突とは比較にならない、このままではゴールドルナを弾かれる――素早く判断し、広げた翼から雷撃を放射する。それは
すぐさま空中で体勢を立て直し、
その直後、鼻先と翼を掠めた火球に眉を顰めた。地上からマリヤを狙って来た
「……誘蛾灯にでもなった気分だわ」
思わず吐き捨てる。今度は声に出ていたが、気にする余裕は無い。
ここに集まって来ている悪魔は殆どが下級悪魔、雑兵ばかりだ。しかし数が多い。無論、霊力にも体力にもまだまだ十分余裕はあるが、こうも立て続けに掛かって来られては流石に気が滅入って来る。
そうして一瞬集中を切らしてしまったのが不味かったのだろう。いつの間にか自身より頭上に飛び上がっていた
「落ちろ天使!」
怒号が鼓膜を震わせると同時に背中に衝撃。両の拳で殴られたのだと理解したのは、眼下の車に叩きつけられてからだった。
車がクッションになった(その代わり車は鉄板の如く薄く潰れてしまったが……どのみち誰も気にはしないだろう)ためダメージとはならなかったが、それでもすぐには動けなかった。
四肢に力を入れて起き上がろうとしたマリヤの横っ腹を蹄の足が蹴り付け、路面に転がされる。嘔気を抑えるのが精いっぱいで、ゴールドルナを手放してしまった。愛用の黄金の雷弓は滑るように持ち主の手元を離れ、砕けた砂利の上に横たわる。
しまった――焦って愛弓に手を伸ばそうとしたマリヤの眼前に身の丈3mほどの巨躯が舞い降り、立ち塞がる。山羊のような双角の頭部に、体毛で覆われた人間のような胴体と蝙蝠のような翼を持つ悪魔、
さらにその周囲を落雷から逃れた
「随分と暴れてくれたもんだな、ええ? ……まあ、その分『取り分』が増えるから、ありがてぇと言っちゃありがてぇがな」
言いながらべろりと舌なめずり。赤黒い舌の隙間から見える歯は人間界の山羊のような草を磨り潰す臼歯ではなく、肉を食い千切る牙だった。
大人しく喰われてたまるか――そう思いながらも、素手で何処まで抵抗できるか分からない。
――いや、この手足と翼をもがれたとしても最悪歯だけでも戦ってみせる。歯を食い縛り
「ああ、楽しみだ。天使を喰える機会なんざ、昨今滅多にあるもんじゃねぇからな……心臓、血、肝、脳味噌、喰らえばどれだけ強くなれるか!」
今まさにマリヤ目掛けて爪を振り上げんとした
出所はこれまで誰も気に留めていなかった血の海。窪んだ道路の底から赤い柱――人間の血で出来た赤い柱が、天を衝くかのように立ち上っている。重力に引かれて降り注いできた血の雨と、その飛沫によって出来た血の霧が歓楽街に立ち込める。先程までの殺戮の狂宴とはまた異なる地獄絵図の景色。
悪魔たちが呆然と血の柱を見つめる中、マリヤだけはその赤い霧の中に
(これも
見ているうちに血の雨はやがて収まり、やがて足音の主の姿が見えて来た。
血溜まりの上に立っていたのは、精悍な灰色の顔をした一人の悪魔。闇に溶け込みそうな漆黒のダッフルコートに身を包み、紅い頭髪の両脇から曲がった角を生やしたその姿は、襟元の銀色のファーも相まって羊を彷彿とさせた。血の匂いを纏った獰猛な羊である。
だが、何よりも目を引くのは肘から先だ。地面に付くほど巨大な両腕は黒光りする鋼で形作られており、さらにその五指の先端からは長大な鉤爪が伸びている。鉤爪の一本一本はまるで研ぎたてのグルカナイフのように鋭く、刃が放つ鈍い輝きは見ようによっては妖艶だった。
彼の風貌は、
「……何だよ、御同類か。脅かしやがって……」
「随分遅かったじゃねぇか。もうこの辺の人間はあらかた喰っちまったぜ」
悪魔たちが口々に漏らす。溜息混じりのその声には安堵や苛立ちが籠っていた。
だが溜息を漏らしたのはマリヤも同じだった。薄々予想はしていたが、悪魔――敵だったか。やはりこの世に都合の良い「救いの手」など存在しないのだと改めて感じる。
そんな思い思いの反応を示す天使と悪魔を他所に、当の鉤爪の悪魔はぐるりと視線を辺りに巡らせる。崩れた建物、血に塗れた路面、喰い散らかされた人間の死体、そして自分に視線を集中させる数十体の
鉤爪の悪魔の赤い目が僅かに細められる。
「あ、お前も天使を喰いに来たのか? でも残念だったな。こいつは俺たちが先に唾を点け――」
軽口を叩いていたその
いきなりの事に誰も反応できないまま、別の
「て、てめぇ!」
「いきなり出て来て何のつもりだ!?」
「かかれ!」
「ぶっ殺せ!」
我に返った4体の
だが
よく見ると、それらの鎖は4本とも虚空から伸びており、誰の手も手繰っていないにも
鉤爪の悪魔の魔法だろうか――目を見張るマリヤの目の前で、鉤爪の悪魔はゆっくりと右手を握り込んだ。その仕草に応えるように鎖が蛇の如く獲物の身体に巻き着き、締め上げる。金属と骨が軋む不気味な音が響いた次の瞬間、圧力に負けた
ゴールドルナを拾うのも忘れてその光景に見入っていたマリヤは、背筋に冷たいものが走るのを感じ、息を呑む。
悪魔同士で殺し合いが起きる事は珍しくない。縄張り争い、獲物の奪い合い、力比べ、そしてもっと単純に共食い――理由は様々だが、今目の前で行われたそれは何れにも当て嵌まらない。鉤爪の悪魔は、この場に群がる
「……俺が来るまでの間、随分とまあ盛り上がってたらしいな。胸糞が悪い」
初めて口を開いた鉤爪の悪魔は、不快感も露わに吐き捨てる。
先程までマリヤを追い詰めていた
「遅れた詫びに、俺もこのバカげた宴を飾り付けてやるよ。……お前らの血と肉でな!」