『何なんだこいつ!?』
『下級悪魔の筈なのに――』
ほんの数秒の間に、狩る側と狩られる側は完全に逆転していた。
鉤爪の悪魔が腕を振るうたびに小悪魔の首が次々に飛び、死角から不意打ちを仕掛けようとした者たちさえも、まるで背中にも目が付いているかの如く操られる鎖によって死体へと変わって行く。
血と臓物が辺りに撒き散らされ、大通りに新たな死の匂いを加える。周囲一帯は既に鼻が痛くなるほどの臭気で満たされており、その発生源が人間の死体なのか悪魔の死体なのかすら最早判別が付かない。
悪魔たちの戦いを観察しつつ、マリヤは片膝を付くと共にゴールドルナを手繰り寄せる(無論、自分に注意が向かないよう慎重にである)。
鉤爪の悪魔の乱入によって、状況は確かに変わった――悪魔が人間を一方的に食い殺す立食会から、一人の悪魔が他の悪魔に死を齎す舞踏会へと。だがそれだけだ。状況が良くなったと断じる事は依然出来ない。
思考を巡らせているうちに、目の前で一体の蜥蜴悪魔が腹から真っ二つにされた。なめし皮よりも強靱な表皮と鎖帷子よりも頑丈な鱗を腕力だけで引き裂いたとなると、驚くべき膂力である。
しかし当の彼は正面の敵に集中しており、自分の背後で複数の小悪魔が掌から火球を生み出し、今まさに投げつけようとしている事に気付いていない。考えるよりも先に身体が動いた。咄嗟にゴールドルナを構え、雷矢を放つ。
自身の背中を狙っていた小悪魔を貫いた雷光によって、鉤爪の悪魔はようやくマリヤの存在に気付いたらしい。命を刈り取る手を止めてこちらに振り返り、「何故こんな所に天使が居るのか」と言わんばかりの胡乱げな視線を投げ掛けて来た。
彼がマリヤに向かって何かを言おうとした瞬間、一体の小悪魔が叫んだ。
『お、俺はもう嫌だ!』
怯えた小悪魔がマリヤ達の前から飛び退り、呻く。左腕が黒く炭化しているところを見るに、どうやら先のマリヤの雷撃から生き延びた個体らしい。
『天使の相手をさせられる上に、こんな訳の分からねぇ悪魔まで出て来るなんて、そんなの聞いてねぇよ。俺達は人間を好きなだけ甚振り殺して食って良いって、たったそれだけの美味しい話だった筈じゃねぇか。それがこんな――』
『逃げようとしてんじゃねぇ、この腰抜けが!』
先程までマリヤの近くに立っていた筈の山羊悪魔が突然動き、泣き言を漏らした小悪魔を罵声と共に殴り飛ばす。小柄な小悪魔は中級悪魔の膂力に容易く負け、吹き飛ばされながら道路上に転がる。殴られた頭は陥没しており、どう見ても再び起き上がれる状態ではない。
リーダー格の凶行にどよめく小悪魔たちに対し、山羊悪魔は唾を飛ばしながら恫喝する。
『夜宴に混ざりたいって言ったのは誰だ? てめぇらだろうが。てめぇの言葉はてめぇで責任持ちやがれ。さあ、こいつらを殺すか俺に殺されるか、どっちかに決めろ!』
マリヤも眉を顰める言い草。不快感を覚えたのは鉤爪の悪魔も同様だったらしく、呆れと嘲りを同時に込めた溜息を吐く。
「大した仲間想いぶりだな。それもあいつに教わったか?」
(あいつ?)
『何言ってやがんだ。魔界じゃあ手前以外は皆食い物か道具ってのが常識だろうが。使えねぇ道具は潰すんだよ!』
「……なら、これからお前が潰されても文句は無いんだな?」
ジャキンと鉄の爪が擦れる音が響く。怒りの籠った鉤爪の悪魔の声音は低く、冷たかった。
『バカが! 何処の馬とも知れねぇ低級悪魔とくたばり損ないの天使に俺を潰せるか!』
山羊悪魔が蹄を踏み鳴らし、アスファルトを震わせる。その背後で小悪魔たちがざわめき、逡巡の末にマリヤと鉤爪の悪魔を包囲する形に散った。視界に映る限りではもう10体を切っている――だが、追い詰められれば何をして来るか分からないのが悪魔だ。
鉤爪の悪魔の行動の意図も言葉の意味も判然としないが、とにかく今は目の前の敵に集中するしかない。立ち上がり、ゴールドルナを構え直す。一方の鉤爪の悪魔はマリヤをちらりと見たが、何も言わずに山羊悪魔に目線を戻した。
『天使が俺がやる! お前ら――』
「まだ俺が喋ってるだろうが」
小悪魔たちに指示を飛ばそうと山羊悪魔が一瞬視線を逸らした刹那、その横っ面に鉤爪の悪魔の飛び蹴りが入る。ブーツの靴底に鉄板か何かを仕込んでいたのだろうか――頬骨と牙がひしゃげる音がすると共に、二人の悪魔の姿がブティックのテナント内へ吸い込まれるように消える。ウィンドウのガラス片に混じり、もう買う者も着る者も居ない衣服が道路に散乱する。
店内から争い合う轟音と山羊悪魔の罵声が聞こえて来るのを横目に、小悪魔の群れを見据える。リーダー不在で総崩れとなった彼らを掃討するのは難しくなかった。
だが、それだけでは終わらなかった。
『何よこれ、どんな状況?』
甲高く間延びした声に振り返る。
マリヤの背後に立っていたのは一体の山羊悪魔。ただし先ほどまで小悪魔の群れを率いていた山羊悪魔が黒い剛毛に覆われた筋肉質の体格をしていたのに対し、今マリヤの目の前に居る個体は白い毛皮としなやかな体躯の持ち主である。恐らくは女の山羊悪魔。
『さっきデカい車――えっと、バスって言ったっけ? とにかくそれに乗って逃げようとした人間が10人ばかり居たから殺して来たんだけどさ、あたしの男は何処行ったわけ?』
白い山羊悪魔は辺りをキョロキョロと見まわし、最後にマリヤを見下ろす。
『ねぇ天使ちゃん、あんた何か知ってる?』
軽い調子で人間を殺したと語る悪魔に、頭の奥がチリチリと焼けるような感覚を覚えつつマリヤは答える。
「あなたの男なら別の悪魔と戦っているわ。――多分、もう会えないんじゃないかしら」
『は? ――何それ?』
マリヤの返答は白山羊悪魔の癇に障ったらしい。甲高かった声が露骨に低くなる。
『だったら、あんたさっさと喰って加勢して来るわ』
言うが早いが、脚を高々を振り上げてマリヤの脳天目掛けて振り下ろして来る。側転で躱したマリヤがつい数瞬前まで立っていた路面に、蹄が深々とめり込んでいるのが見えた。
魔界でも中堅に属する山羊悪魔は、高い身体能力と魔力を両立させた種族であり、戦闘天使として経験を積んで来たマリヤから見ても厄介な相手だ。
ゴールドルナの弓柄を握る手に力を込め直す。弓全体を迸った雷光を稲妻に変え、白山羊悪魔の頭目掛けて射出する。だが相手は中級悪魔、そう簡単に当てられるものではなかった。首を反らす形で雷矢を避け、反撃として棘だらけの氷を纏った拳を見舞って来る。冷気が頬を掠め、痛みと共に一瞬マリヤの視界が白く染まる。
マリヤは反射的に飛び退って距離を離すが、白山羊悪魔の側もそれを読んでいたようだった。蹄がアスファルトを抉るほどの勢いで踏み込み、地を蹴った勢いのまま角を向けてこちらに突進して来る。人間を車ごと串刺しにする鋭利さと頑丈さを兼ね備えたそれをゴールドルナの刃で弾き、雷撃を帯びた拳をがら空きになった頬に叩きつける。肉が焦げ、頬骨が折れる鈍い感触が拳に伝わる。
短い悲鳴を上げて仰け反った白山羊悪魔が、怒りに染まった赤い目でマリヤを睨む。
『えぇい、鬱陶しい!』
痛みと苛立ちで白山羊悪魔の動きがだんだん単調になって来る。それこそマリヤが狙っていた隙だ。連戦でだんだん疲労も蓄積してきている今、ここで決着を着けなければ自分も危うい。
――それに、この甲高い声もこれ以上聞いていたくない。
そう決めて翼を羽搏かせ、今度はこちらから一気に距離を詰める。白山羊悪魔もそれに反応して口から冷気を吹き付けて来るも、その冷気を浴びるよりも先に懐に飛び込むほうが早かった。至近距離から稲妻を浴びせられ、白山羊悪魔が濁った絶叫を上げながら痙攣し――そして、上半身ごと横薙ぎに振るわれたゴールドルナの一閃により、大口を開けたままの白山羊悪魔の首が宙を舞った。
節々から黒煙を上げ、首を失った長身が仰向けに倒れるのを後目に、マリヤは思わず鉤爪の悪魔と黒山羊悪魔が突っ込んだブティックに目をやる。鉤爪の悪魔を心配したわけではない――が、それでも気にはなった。
直後、咆哮と紛うような悲鳴が響いた。