JUDGEMENt DAY~天使と悪魔の二重奏~   作:タコのスパイ

3 / 6
あけましておめでとうございます。こちらが書初めとなります。


第三節「死の舞踏会」

「何なんだこいつ!?」

「下級悪魔の筈なのに――」

 

 ほんの数秒の間に、狩る側と狩られる側は完全に逆転していた。

 鉤爪の悪魔が腕を振るうたびに小悪魔(インプ)の首が次々に飛び、死角から不意打ちを仕掛けようとした者たちさえも、まるで背中にも目が付いているかの如く操られる鎖によって死体へと変わって行く。

 血と臓物が辺りに撒き散らされ、大通りに新たな死の匂いを加える。周囲一帯は既に鼻が痛くなるほどの臭気で満たされており、その発生源が人間の死体なのか悪魔の死体なのかすら最早判別が付かない。

 

 

 悪魔たちの戦いを観察しつつ、マリヤは片膝を付くと共にゴールドルナを手繰り寄せる(無論、自分に注意が向かないよう慎重にである)。

 鉤爪の悪魔の乱入によって、状況は確かに変わった――悪魔が人間を一方的に食い殺す立食会(ビュッフェ)から、一人の悪魔が他の悪魔に死を齎す舞踏会(ボール)へと。だがそれだけだ。状況が良くなったと断じる事は依然出来ない。

 思考を巡らせているうちに、目の前で一体の蜥蜴悪魔(バジリスク)が腹から真っ二つにされた。なめし皮よりも強靱な表皮と鎖帷子(くさりかたびら)よりも頑丈な鱗を腕力だけで引き裂いたとなると、驚くべき膂力である。

 しかし当の彼は正面の敵に集中しており、自分の背後で複数の小悪魔(インプ)が掌から火球を生み出し、今まさに投げつけようとしている事に気付いていない。考えるよりも先に身体が動いた。咄嗟にゴールドルナを構え、雷矢を放つ。

 自身の背中を狙っていた小悪魔(インプ)を貫いた雷光によって、鉤爪の悪魔はようやくマリヤの存在に気付いたらしい。命を刈り取る手を止めてこちらに振り返り、「何故こんな所に天使が居るのか」と言わんばかりの胡乱げな視線を投げ掛けて来た。

 彼がマリヤに向かって何かを言おうとした瞬間、一体の小悪魔(インプ)が叫んだ。

 

「お、俺はもう嫌だ!」

 

 怯えた小悪魔(インプ)がマリヤ達の前から飛び退り、呻く。左腕が黒く炭化しているところを見るに、どうやら先のマリヤの雷撃から生き延びた個体らしい。

 

「天使の相手をさせられる上に、こんな訳の分からねぇ悪魔まで出て来るなんて、そんなの聞いてねぇよ。俺達は人間を好きなだけ甚振り殺して食って良いって、たったそれだけの美味しい話だった筈じゃねぇか。それがこんな――」

「逃げようとしてんじゃねぇ、この腰抜けが!」

 

 先程までマリヤの近くに立っていた筈の山羊悪魔(バフォメット)が突然動き、泣き言を漏らした小悪魔(インプ)を罵声と共に殴り飛ばす。小柄な小悪魔(インプ)は中級悪魔の膂力に容易く負け、吹き飛ばされながら道路上に転がる。殴られた頭は陥没しており、どう見ても再び起き上がれる状態ではない。

 リーダー格の凶行にどよめく小悪魔(インプ)たちに対し、山羊悪魔(バフォメット)は唾を飛ばしながら恫喝する。

 

夜宴(サバト)に混ざりたいって言ったのは誰だ? てめぇらだろうが。てめぇの言葉はてめぇで責任持ちやがれ。さあ、こいつらを殺すか俺に殺されるか、どっちかに決めろ!」

 

 マリヤも眉を顰める言い草。不快感を覚えたのは鉤爪の悪魔も同様だったらしく、呆れと嘲りを同時に込めた溜息を吐く。

 

「大した仲間想いぶりだな。それもあいつ(・・・)に教わったか?」

(あいつ?)

「何言ってやがんだ。魔界じゃあ手前(てめぇ)以外は皆食い物か道具ってのが常識だろうが。使えねぇ道具は潰すんだよ!」

「……なら、これからお前が潰されても文句は無いんだな?」

 

 ジャキンと鉄の爪が擦れる音が響く。怒りの籠った鉤爪の悪魔の声音は低く、冷たかった。

 

「バカが! 何処の馬とも知れねぇ低級悪魔とくたばり損ないの天使に俺を潰せるか!」

 

 山羊悪魔(バフォメット)が蹄を踏み鳴らし、アスファルトを震わせる。その背後で小悪魔(インプ)たちがざわめき、逡巡の末にマリヤと鉤爪の悪魔を包囲する形に散った。視界に映る限りではもう10体を切っている――だが、追い詰められれば何をして来るか分からないのが悪魔だ。

 鉤爪の悪魔の行動の意図も言葉の意味も判然としないが、とにかく今は目の前の敵に集中するしかない。立ち上がり、ゴールドルナを構え直す。一方の鉤爪の悪魔はマリヤをちらりと見たが、何も言わずに山羊悪魔(バフォメット)に目線を戻した。

 

「天使が俺がやる! お前ら――」

「まだ俺が喋ってただろ」

 

 小悪魔(インプ)たちに指示を飛ばそうと山羊悪魔(バフォメット)が一瞬視線を逸らした刹那、その横っ面に鉤爪の悪魔の飛び蹴りが入る。ブーツの靴底に鉄板か何かを仕込んでいたのだろうか――頬骨と牙がひしゃげる音がすると共に、二人の悪魔の姿がブティックのテナント内へ吸い込まれるように消える。ウィンドウのガラス片に混じり、もう買う者も着る者も居ない衣服が道路に散乱する。

 店内から争い合う轟音と山羊悪魔(バフォメット)の罵声が聞こえて来るのを横目に、小悪魔(インプ)の群れを見据える。リーダー不在で総崩れとなった彼らを掃討するのは難しくなかった。

 

 

 だが、それだけでは終わらなかった。

 

「何よこれ、どんな状況?」

 

 甲高く間延びした声に振り返る。

 マリヤの背後に立っていたのは一体の山羊悪魔(バフォメット)。ただし先ほどまで小悪魔(インプ)の群れを率いていた山羊悪魔(バフォメット)が黒い剛毛に覆われた筋肉質の体格をしていたのに対し、今マリヤの目の前に居る個体は白い毛皮としなやかな体躯の持ち主である。恐らくは女の山羊悪魔(バフォメット)

 

「さっきデカい車――えっと、バスって言ったっけ? とにかくそれに乗って逃げようとした人間が10人ばかり居たから殺して来たんだけどさ、あたしの男は何処行ったわけ?」

 

 白い山羊悪魔(バフォメット)は辺りをキョロキョロと見まわし、最後にマリヤを見下ろす。

 

「ねぇ天使ちゃん、あんた何か知ってる?」

 

 軽い調子で人間を殺したと語る悪魔に、頭の奥がチリチリと焼けるような感覚を覚えつつマリヤは答える。

 

「あなたの男なら別の悪魔と戦っているわ。――多分、もう会えないんじゃないかしら」

「――は? 何それ?」

 

 マリヤの返答は白山羊悪魔(バフォメット)の癇に障ったらしい。甲高かった声が露骨に低くなる。

 

「だったら、あんたさっさと喰って加勢して来るわ」

 

 言うが早いが、脚を高々を振り上げてマリヤの脳天目掛けて振り下ろして来る。側転で躱したマリヤがつい数瞬前まで立っていた路面に、蹄が深々とめり込んでいるのが見えた。

 魔界でも中堅に属する山羊悪魔(バフォメット)は、高い身体能力と魔力を両立させた種族であり、戦闘天使として経験を積んで来たマリヤから見ても厄介な相手だ。

 ゴールドルナの弓柄(ゆづか)を握る手に力を込め直す。弓全体を迸った雷光を稲妻に変え、白山羊悪魔(バフォメット)の頭目掛けて射出する。だが相手は中級悪魔、そう簡単に当てられるものではなかった。首を反らす形で雷矢を避け、反撃として棘だらけの氷を纏った拳を見舞って来る。冷気が頬を掠め、痛みと共に一瞬マリヤの視界が白く染まる。

 マリヤは反射的に飛び退って距離を離すが、白山羊悪魔(バフォメット)の側もそれを読んでいたようだった。蹄がアスファルトを抉るほどの勢いで踏み込み、地を蹴った勢いのまま角を向けてこちらに突進して来る。人間を車ごと串刺しにする鋭利さと頑丈さを兼ね備えたそれをゴールドルナの刃で弾き、雷撃を帯びた拳をがら空きになった頬に叩きつける。肉が焦げ、頬骨が折れる鈍い感触が拳に伝わる。

 短い悲鳴を上げて仰け反った白山羊悪魔(バフォメット)が、怒りに染まった赤い目でマリヤを睨む。

 

「えぇい、鬱陶しい!」

 

 痛みと苛立ちで白山羊悪魔(バフォメット)の動きがだんだん単調になって来る。それこそマリヤが狙っていた隙だ。連戦でだんだん疲労も蓄積してきている今、ここで決着を着けなければ自分も危うい。

 ――それに、この甲高い声もこれ以上聞いていたくない。

 そう決めて翼を羽搏かせ、今度はこちらから一気に距離を詰める。白山羊悪魔(バフォメット)もそれに反応して口から冷気を吹き付けて来るも、その冷気を浴びるよりも先に懐に飛び込むほうが早かった。至近距離から稲妻を浴びせられ、白山羊悪魔(バフォメット)が濁った絶叫を上げながら痙攣し――そして、上半身ごと横薙ぎに振るわれたゴールドルナの一閃により、大口を開けたままの白山羊悪魔(バフォメット)の首が宙を舞った。

 節々から黒煙を上げ、首を失った長身が仰向けに倒れるのを後目に、マリヤは思わず鉤爪の悪魔と黒山羊悪魔(バフォメット)が突っ込んだブティックに目をやる。鉤爪の悪魔を心配したわけではない――が、それでも気にはなった。

 直後、咆哮と紛うような悲鳴が響いた。

 

 

 

 

 

 マリヤが見ていない間に既に勝敗は決していたようだ。

 破壊された店内を覗き込むと、床一面は既に真っ黒な血の海と化していた。ハンガーラックやマネキンがひっくり返るフロアの中に、白山羊悪魔(バフォメット)の「男」である黒山羊悪魔(バフォメット)は居た――無事とは到底言えない姿で。筋肉質の四肢は乱雑に捥がれて床に投げ捨てられ、唯一残った首だけが天井付近から伸びた鎖で吊るされている。その様はまるで絞首台に掛けられた死刑囚のようだった。

 藻掻く事すら出来ない黒山羊悪魔(バフォメット)の顎を、鉤爪の悪魔が乱暴に掴む。

 

「まだ死ぬな」

 

 冷たい声での囁き。マリヤも声を掛けることなく注視する。

 

「死ぬ前に聞いておく事があるからな。この夜宴(サバト)を仕組んだ奴は何処に居る? お前ら如き魔界のクズにここまで大がかりな事が出来る筈が無い」

「ふざけんな、てめぇ……誰が言うか……」

 

 鉤爪の悪魔の詰問に対し、黒山羊悪魔(バフォメット)が憎々し気に唸った。

 人間ならば四肢を荒々しく切断されれば失血死あるいはショック死は免れないが、悪魔の強靱な肉体はその程度では命尽きない。……今の状態でそれが「恩恵」と呼べるかは別だが。

 

「てめぇら……誰に手ぇ出したのか分かってんのか。俺たちのバックにはな、とんでもねぇのが居るんだぞ。それが夜宴(サバト)を邪魔されたとなりゃあ、てめぇらなんざあっという間に――」

 

 黒山羊悪魔(バフォメット)の怨嗟は水音と悲鳴で遮られた。無造作に叩き込まれた鉄の爪が右目を抉ったからだ。血溜まりと化した右眼窩から、血と共に砕けた眼球が零れ落ちる。

 

「俺に聞かれた事だけ答えろ。それとも、目玉を抉られた程度じゃ物足りないか? 次は耳か鼻を削ぎ落してやろうか」

 

 息を呑んだのは黒山羊悪魔(バフォメット)とマリヤのどちらだったか。

 少なくとも、鉤爪を振り上げる姿を見て黒山羊悪魔(バフォメット)はそれが「脅し」では無い事を理解したらしかった。もつれる舌を必死で動かし、言葉を吐き出す。

 

「ま、待て……止めろ、話す、話すから。……俺は、あの方が何処に居るかなんて知らない。俺もさっきの小悪魔(インプ)どもと同じで、人間を殺して喰うのが役目だって言われただけだ」

「腸を引きずり出せば思い出すか?」

「嘘じゃない、本当だ……俺みたいな下っ端は顔すら見た事ねぇんだ」

「……そうか」

 

 息も絶え絶えの回答が噓とは思えない。鉤爪の悪魔は暫く黙ってから口を開いた。

 

「じゃあ別の奴にでも聞くとするか」

 

 言いながら、再び爪を振り上げる。

 

「ま、待ってくれ……こ、殺さないでくれ。頼む、さっきは行き違っちまったけど、俺たちは同じ悪魔じゃねぇか。だからここは同族のよしみで――」

「――同じ悪魔、か」

 

 その言葉を反芻する鉤爪の悪魔の声が、より低く、より鋭くなった。まるで一番言われたくない言葉を聞いた――というように。

 

「なら……悪魔相手に命乞いなんざしても無駄だと、悪魔のお前が一番よく分かってるよな」

 

 それが死刑宣告だった。

 引き絞られた鎖が黒山羊悪魔(バフォメット)の頸肉と頸骨とを限界まで締め上げ、そして完全に断ち切る。首も四肢も失った胴体が自身の血の海の中に横たわった。

 

 

 

 

 

 残虐な尋問を鑑賞するのを止め、マリヤは再び大通りに足を踏み出した。どうやら自分と鉤爪の悪魔がそれぞれ倒した2体の山羊悪魔(バフォメット)が最後だったようで、少なくともこの近辺に悪魔の気配は感じられなかった。

 ――ふと、大型トレーラーの影になっている場所に目が留まった。悪魔たちと戦っている最中には意識すら向かなかったそこに、二人の人間が倒れている。その人間たちにマリヤは見覚えがあった。先程、小悪魔(インプ)から救った母子だ。……だが、二人とも既に息は無かった。

 うつ伏せで倒れている若い母親のほうは、背中側から肋骨と肺が見えるほど深い裂傷が走っている。恐らくは即死だろう。そして抱えられていた赤子は、母親から少し離れた路面に転がっている。全身を強くアスファルトに打ち付けたのか、その小さな口から泣き声が上がる事はもう無かった。

 一度は助けられた筈の命が奪われた事実に、マリヤは固く拳を握り締めた。

 ――不意にガラス片を踏み砕く音がすぐ横から聞こえた。目をやると、いつの間にか鉤爪の悪魔がすぐ近くまでやって来ていた。思わず身を固くするマリヤには一切目も暮れず、彼は赤子の元に屈み込んだ。

 まさか喰らうつもりなのか。その考えが頭を(よぎ)った瞬間、ホルスターに収めていたゴールドルナを抜きかけた。

 

「……待ちなさい。それ以上その二人を傷付けるのは……」

 

 だが、鉤爪の悪魔の行動はマリヤの予想とは全く違った。彼は小さな亡骸を出来るだけ爪で傷付けないようそっと抱え上げ、母親の腕の中に横たえた。

 

「……もう離すなよ」

 

 呟きにも等しい一言は優しく、そして寂しげだった。先程まで荒々しく、そして冷酷に同胞達を切り刻んでいた姿とは似ても似つかない。

 悪魔が人間の死を悼むという異様な光景に、思わずマリヤは呆然と見守る。

 暫しの沈黙の後、彼はゆっくりと立ち上がってマリヤのほうに向いた。

 

「それで、天使がこんな所で何をやっている?」

 

 冷たい目だった。恐らく市場を牛肉を品定めする料理人のほうがまだ暖かい目をしているだろう、とマリヤは思った。

 ただすぐに斬りかかって来ないのもまた事実であり、マリヤはそれに応じた。

 

「戦闘天使が地上に居る理由なんて一つでしょう? 悪魔を倒しに来たのよ」

「……なるほどな」

 

 頷きながら僅かに口元が吊り上がる。その笑みの意味は、嘲りだった。

 

「つまり天界は、自分達の不始末の後処理のためにお前一人を駆り出したってわけだ」

 

 ……悪魔とはいえ、初対面の相手にそんな事を言われる謂れは無い。苛立ちを覚えつつマリヤは言い返す。

 

「誰かに命令されたわけじゃないわ。それに……確かにこの騒ぎを起こした夢魔(サキュバス)は一度取り逃がしてしまったけれど、これから私が責任を持って始末を付けに行くつもりよ」

「……夢魔(サキュバス)?」

 

 鸚鵡(オウム)返しにする鉤爪の悪魔の顔から嘲笑が消え、代わりに怪訝そうな表情が浮かぶ。

 ――自分は何かおかしな事を言っただろうか? 何か重要なところが噛み合っていないような気もするが……。

 少しの間、奇妙な沈黙が歓楽街を包む。先に沈黙を破ったのは鉤爪の悪魔のほうだった。

 

「……何の話をしてるんだか知らんが、まあいい。俺はこれからこの乱痴気騒ぎを起こしたクズの首を獲りに行く。せいぜい邪魔はしてくれるなよ、天使」

「待って」

 

 黒いダッフルコートの背に思わず声を掛ける。

 

「敵が同じだって言うんなら、一緒に行きましょう」

 

 ――自分は一体何を言っているのか。何故か自然に出た言葉に自分自身でも理解が追い付かなかった。

 自問自答をする前に、ぐるりと振り返った鉤爪の悪魔と目が合う。灰色の顔に浮かんでいるのは驚きと不信感。

 

「命拾いした代わりに頭のネジでも抜けたか? それとも元から頭がおかしいのか、どっちだ」

「頭がおかしくても何でも、こんな事冗談では言わないわ」

「冗談じゃないなら尚更(たち)が悪いな。俺の何を見て力を合わせられると思った? それに仮に俺が頷いたとして、どさくさに紛れてお前の頭と羽をもぎ取りに行くとは考えないのか」

「そんな事をして何になるの? 私だって、殺されるとなったら流石に黙ってないわ。それに今ここで私たちが戦って喜ぶのは――あなたの言う『この乱痴気騒ぎを起こしたクズ』だけよ」

 

 電気石(トルマリン)の瞳と柘榴石(ガーネット)の瞳が絡み合う。

 凍りつくほど冷たい視線に胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えながらも、マリヤは視線を逸らさなかった――逸らしてはいけないと思った。

 

「……最初に言っておく」

 

 痛いほどの沈黙の後、彼が口を開く。

 

「裏切ったり邪魔になったりしたら、殺す」

 

 処刑の予告にも似たその言葉は、そのまま了承の意を示していた。眼前に突き出された鉤爪の先端を見つめつつ、マリヤは思う。

 下手人の夢魔(サキュバス)――ロゼを仕留められるチャンスは2度もあった。最初は20年前、そして30分前。自分はそのチャンスを2度とも無駄にしてしまった。「たかが夢魔(サキュバス)」という油断が一切無かった……とは言えない。その認識の甘さがこの惨劇に繋がったのならば、外ならぬ自分が事態の収拾に努めなければならない。

 そう、例えどんな手を使ってでも。

 

「……ところで」

 

 内心で静かに覚悟を決め、再び声を掛ける。まだ何かあるのかと言いたげな表情を鉤爪の悪魔は浮かべる。

 

「今のうちに名前を聞いておきたいのだけど」

「教える必要は無い」

「どうして? とりあえずでも共同戦線を張るんだから、お互いにどう呼ぶか知っておいたほうが良いでしょうに」

「どうせ呼び合う前に終わる」

「だとしても知らなきゃ不便じゃない。それとも、まさかずっと『悪魔』と呼べと? ここにあなた以外の悪魔がどれだけ居ると思ってるの?」

 

 再び間が空く。鉤爪の悪魔は小さく息を吐き、納得したのか、あるいは諦めたのか静かに答える。

 

「……ガレット」

「そう、ガレットーー覚えたわ。私はマリヤよ」

「分かった、天使」

「……ちょっと。教えたでしょ」

「俺が呼ぶとは言ってない。それに、さっきのお前の言葉を借りるなら、ここに天使はお前しか居ないんだ。別に困らないだろ」

 

 マリヤは小さく息を吐く。――こいつ、せっかく名前を教えたというのに。

 

 

 信頼とは程遠い。背中を預け合える関係とも到底言えない。だがそれでも――無明の闇空の下、天使と悪魔は同じ敵を目指して共に歩み出したのだった。




第一楽章はここまで。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。