逆行したヒカルと佐為が藤崎あかりを魔改造するお話 作:そとみち
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(……半目差、か。負けました)
『ありがとうございました』
ヒカルが先に頭を下げ、応じて佐為も頭を下げた。
囲碁を打つ者にとって最低限の礼儀は、当然にして守られた。
半目差。
コミも入れての結果で、佐為も五目半というこの時代のルールを覚えているからこそ、何の穢れもないはっきりとした勝敗だった。
投了はしなかった。最後の一手までキッチリと、十秒という枠の中で限界までお互いに考え、絞り切ったことで、碁盤の上には白と黒の宇宙が埋め尽くされていた。
(うわ、めっちゃ悔しい。今すぐ検討してぇ……けどさ、佐為)
『はい』
(オレ、強くなっただろ?)
『はい! とっても!!』
ヒカルは、この結果に納得していた。
焦がれるほどに打ちたかった己の碁の魂の師。
藤原佐為に、果たして本因坊になれた己が通じるのか……試したかった。
試して、そして佐為はまだ己よりも高みにいることが分かり、100%の悔しさと100%の満足を味わうという貴重な体験をしていた。
そうさ。強くなくっちゃ佐為じゃない。
存在証明は果たされた。佐為の棋風をしかと味わい、あの日別れた時の佐為であることも間違いない事をヒカルは確信した。
佐為もまた、この勝負に心からの満足を経ていた。
かつて自分が隣にいた時の彼から、さらなる成長を、経験を感じさせる深みのある碁を味わえたのだ。
これほど冥利に尽きることがあろうか。
質は違えど、塔矢行洋との対局と比較しても一切の遜色がない、味わい深い勝負だった。
あの別れからヒカルがこれほどまでに強くなっていたことの感動で、気を抜いたら再び成仏してしまいそうなほどの感動。
無論、成仏などはしない。あの時の、砂時計が流れ始めるような感覚は一切ない。
共に歩めるのだ、再び。
今度は導く立場ではなく、肩を並べて歩める打ち手として。
その幸せをさらに噛み締め、一筋の涙が佐為の頬に流れた。
無言の間。
一分ほども続いたそれだが、しかし、その沈黙を破ったのは唯一それを見守っていた彼女だった。
「……終わった、の?」
「ん……あ、ああ! 終わったぜ、あかり。これで俺
「すごい……すごく、キレイだった。本当に、キレイで……」
「だろ? 面白いんだぜ、囲碁って」
「うん。……面白そう、だったよ。ヒカルも」
「ん? まぁな」
あかりが、十秒に一つ置かれる石が一分経っても置かれないのを見て、宇宙の広がりが終わったことを察して声をかけ、ヒカルもそれに応じた。
ヒカルが久しぶりに、本当に久しぶりに佐為と打つ碁だったため、自分の手番からは完全に碁に集中してしまい、あかりの存在を忘れるほどだった。
退屈してたかも……とヒカルの脳裏に不安が頭をもたげるが、その心配は無用だった。
あかりの目を見れば、暗いこの蔵の中でも分かるくらいにきらきらと瞳が輝いていたからだ。
ルールもまだ覚えてないのにここまで感動してくれれば、ヒカルも佐為も嬉しいものがある。
同じタイミングで、二人はふっと笑った。
しかし続くあかりの次の言葉に、一気に二人の肝は冷えた。
「ところでヒカル……そこに誰かいるの?」
「っ!? あ、え……な、何のことだ? なんか見えてんのか!?」
「ううん、何も見えないけど……でも、ヒカルは今、囲碁をしてたんだよね?」
「あ、ああ。そりゃあ……」
「囲碁って二人でやるものなんでしょ。それくらいはわかるもん。それに、ヒカルがなんだか……うまく言えないけど、なんか、誰かと楽しそうにしてたなって、気がするの」
「おおぉ……その、だなぁ……?」
『……幼いなりに、いえ、幼いからこそ鋭いですね、あかりちゃん』
(ヤベぇよ、集中しすぎたな……どーしよ、佐為)
『どうしましょう……』
あかりが、佐為の存在に気付いたのだ。
これは二人の、特にヒカルの明らかな失着だった。
囲碁を見せる、宇宙を見せてやる、といえば聞こえはいいが、はっきり言えば今この場ですぐに佐為と打ちたいというヒカルの我儘を、あかりに納得させるための適当な理由付けだったからだ。
家に帰ってからでも──いやそれだと今は碁盤がないから無理だな──まぁどこか碁会所にでも行って打てば──いや碁会所だと塔矢が急に飛び込んできそうなトラウマあるな──いや、とにかくこの場で打たないって言う選択肢はあったな、とヒカルは思う。
あかりには、特に今日は色々と申し訳ない事をしてしまっており、頭が上がらない立場だ。
今更だけど、小学二年生の頃の俺が急に大人の精神になっちまって、言動が変わった所への不安もあっただろう。
その上こんな蔵まで連れてこられて、心配までしてくれた七歳の幼馴染に、精神年齢は離れていても、申し訳ない気持ちはどんどん膨らんでいく。
これがガキの頃の自分だったら『うるせーよバカ!』とでも言い放っただろうが、それだけはできない。メンタル緒方イズムにはなりたくない。
だから、ここで適当に誤魔化してもいいんだけど……と、ヒカルがそこまで考えたところで。
『……ヒカル。あかりちゃんには、私の事を話してしまいませんか?』
(え? だってお前……いや、信じてくれないだろ絶対。見えない幽霊がいるなんてさ)
『信じてくれない、ってヒカルが言うという事は、信じてもらえるなら教えたい、という事ですよね?』
(なっ、違……くも、ねぇかもだけどよ……)
佐為から、意外な提案が果たされた。
自分以外の誰かに、佐為の存在を伝えるという行為。
これは前の世界ではしなかったことだ。
ヒカルが佐為という存在に懐疑的な状態で出会って、その時に既に小学六年生になっていたことから、他人に知られるタイミングを失った。
あの年齢でそんなことを言い出しても頭がおかしい奴と思われるし。
しかしそのくせ、碁についてはアキラしかり色んな所に見せて触れて回ってたのだから本当にガキの頃の自分は救いようがなかった、とヒカルは軽く過去を振り返る。
『……私は、私が前の世界でヒカルの前から消えた後も、ヒカルを見ていたのです』
(ッ!?)
佐為が続けて零した言葉に、ヒカルは驚愕した。
『私がしっかりと別れの言葉を告げられず、傷心した貴方を見ていたのです、ヒカル。胸が張り裂かれるような思いでした……本当に、碁に続く新たなる悔いが心に生まれるほどに、私は己の言動を恨みました。私がもっとしっかりとヒカルに伝えていれば……』
(違う!! あの時は俺が悪かったんだ、佐為!! 俺がっ、俺がもっとお前の事をちゃんと見てやっていれば……!! プロになって調子に乗ってたガキの俺が悪くてっ……!!)
『いいえ、ヒカル。私がここで話したいのはそこではありません。それはまたこれからゆっくり話し合いましょう。私が話したかったのは……もしもヒカルのほかに私の事を知る者がいれば、あの時もヒカルはあそこまで苦しまなくて済んだのではないか、という事です』
(…………それ、は)
佐為の言葉に、ヒカルは言葉を詰まらせた。
あの時の苦しみは本当に辛かった。もしその辛さを分かち合える人があの場にいたならば、どれほど自分が救われたか。考えるまでもなかったからだ。
『思えばかつての時に、本当にヒカルは私の事を想ってくれました。そして私はヒカルに迷惑ばかりかけてしまいました。今生でどのようにしてゆくのかはこれからしっかり話し合うとして……ヒカル。私は貴方に、私という存在を抱え込みすぎてほしくないのです。同じように、私もまた、ヒカルという存在だけに頼りっぱなしになる事を恐れているのです』
(……佐為……)
『あかりちゃんは優しい子です。きっとヒカルの言う事を信じてくれる……私も、あかりちゃんと話してみたいです。もしもヒカルが悩んでいるのならば、私はヒカルの背を押します』
(……そっか。そうだな……うん。俺も、誰かにお前の事を知ってもらいたい。碁もだけど……もしあかりが俺たちの事を知ってくれて、受け入れてくれたら……それ、すごくうれしいよな。あかりもお前の指導碁受けられるし、強くなるかもしれないもんな)
『はい!』
続けてヒカルと佐為が語り合う中で、思い起こされたのはかつての別れ。
ヒカルが絶望の渦中にいたことを佐為も知っていた。
その時に彼を救ったのはヒカルの碁の中にいる佐為と、その機会を与えた伊角ではあったが……もしも佐為の事を気兼ねなく話せるような友がヒカルにいれば、また結果は違ったのではないだろうか。
そんな想いを、夢のようなこの世界で願う事を……ヒカルは、佐為と共に肯定した。
あかりに重荷を背負わせることになるかもしれない。
それでも、俺達の囲碁を見て、何も知らないまっさらな状態で見て、キレイだって言ってくれたこのあかりなら、俺達の事を受け入れてくれるんじゃないかって。
そんな風に思えたから、ヒカルは一歩、心で踏み出した。