逆行したヒカルと佐為が藤崎あかりを魔改造するお話   作:そとみち

40 / 73
40 伊角さん? うん……あの人放っといても自分で脳を焼くから……

 

 伊角慎一郎は、五里霧中に彷徨していた。

 

(……ダメだ、集中できてない。相手のご老人にも失礼になる……)

 

 ここはヒカルとあかりが拠点にしている碁会所『囲碁さろん』。

 三月を迎え、もう間もなく卒業シーズン、入学シーズンを迎えると言った春の到来を感じる季節に、しかし伊角の心の内は暗い迷いの(もや)で溢れていた。

 常連らしい高齢の男性に対局を持ち掛けられ、この碁会所内での院生ルールのとおり三子を置かせて始めた勝負だが、明らかに自分の旗色が悪い。

 普段ならここまで一方的にやられることはないのだが……伊角の心の迷いが、強い一手を打てなくさせていた。

 

(……気持ちの問題だ、切り替えろ。たとえオレの院生順位が一時的に落ちても、オレの腕まで落ちてるわけじゃないんだ……!)

 

 伊角の悩みの種はそこだった。

 院生順位。院生研修で行われる手合いの勝敗でランク付けされる物だが、伊角は二月まで自分が納得できる最上、三位をキープしていた。

 ヒカルとあかりが入会したことでかつての一位、二位の座は譲ってしまったが、そこは伊角は納得できた。

 二人の強さが明らかにプロ以上のものである事はすぐに察せて、吞み込むことが出来た。

 

 しかし、これまでずっと維持してきた、ある意味での院内トップ……三位の順位が、とうとう陥落したのだ。

 二月末の研修会で和谷と奈瀬に追い抜かれ、五位に順位を落としていた。

 

(確かに和谷は進藤たちが来る前から勢いがあった。奈瀬はこれまでプロの指導や九星会といった研究会に参加できていなかった分、進藤と藤崎の指導碁を受けて一気に棋力を伸ばしたことは分かっている……でも……)

 

 その事が、伊角の心を後ろ向きにしている。

 かつてより、メンタルの弱さは課題であった。先輩のプロや篠田先生に指摘されたこともあるし、自覚もしている。

 しているが────それを超える手段が分からない。

 どうやってこの自分の気持ちと折り合いをつけたらいいのか、答えに至るのに時間をかけ過ぎる。立ち直るのが遅いのだ。

 過去のプロ試験でもそれで勝ち星を零したことが何度もある。悪癖だとは分かっている……それでも考えるのを辞められない……いや、考えてはいけないんだ、何を後ろ向きになっている。そんな暇はないんだ……オレは────

 

「……何か、悩みごとでもあるのかな。お若いの」

「ッ! ……あ、いや……すみません」

 

 伊角がそんな無限の負の螺旋に心を堕としかけた時、対面に座る老人が声をかけて来た。

 その声に我を取り戻し、盤面に視線を落としつつも石の流れが見えていなかった伊角が、顔を上げる。

 体面に座る老人は、どこか優し気な笑みを浮かべながらも、盤面のみを見て、伊角に視線は返していなかった。

 

「……打ち筋で、なんとなくそう感じられての。いつおヌシが()()()()()()()()()、心配でならなかったわい」

「……わかって、しまいますか」

「うむ。若いのに比べりゃ囲碁はヘボだが、人生だけは何倍も積んどるのでな。よかったらワシに零してみんか。なに、壁に話しているとでも思えばいい。他のボウヤたちは遠くで検討に集中しておる、こちらの小声は聞こえやせん」

「…………はい。実は……」

 

 老人の言葉に、伊角が己の心の内を見透かされるほどに雑な囲碁を打ってしまっていることにようやく気付いた。

 申し訳なさを強く覚える伊角。

 三子を置いているとはいえ、これほどしっかりとした筋の碁が打てる人生の大先輩に、対局中に声をかけてもらうほどに集中できていなかった自分を改めて自覚する。

 さらに気を遣われてしまえば、最早観念したとばかりに、伊角も小声で己の悩みを打ち明け始めた。

 

 自分の囲碁に自信が持てないこと。

 メンタルが弱い事を自覚した上で、中々直せないこと。

 そのせいで、院生一位なのにプロ試験を何度も落としてしまっていたこと。

 今年入会した二人は、自分よりも強かったから順位を抜かれるのに納得が出来ているというのに、長いこと上の順位をキープ出来ていた年下の二人に負けて、動揺があること。

 そのことに動揺をしてしまう事さえ、何故だと考えてしまうこと。

 このメンタルの弱さを何とかしたいと思っていること。

 それでも、解決策は出ないこと。

 なぜこう考えてしまうのか、自分でも分からなくなること。

 

 零し始めれば、止まらなくなってしまう。

 誰かに弱音を零す……こんな簡単なことさえ、伊角は自分からすることが出来なかった。

 まるで『山月記』だ。

 臆病な自尊心と尊大な羞恥心の狭間で揺れる李徴のように、自分の囲碁の腕への自負と、はっきり格付けがされることの恐れ、予想外の事態で竦み始める心との板挟みで、強く己の芯を持つことが出来ない。

 このことに、誰かに弱音を零すことでようやく伊角は思い至ることが出来るほどに……伊角は、自分を見失いかけていた。

 

「…………なるほどのぅ」

「……わからないんです。オレ自身の力が足りないのか、それとももっと別の何かなのか……すみません、こんなことを急に……」

「ウム、何となく若いのの悩みはわかったわい。若さだな……若いから悩む。……ここからは、ボケ老人の独り言と思って聞いてくれ」

「はい?」

 

 悩みを零し切り、静かに聞き遂げてくれた老人に、急に迷惑な話をしてしまった事への申し訳なさも生まれて、伊角が謝意を伝えようとしたところで、老人が顔を上げて自分の顔を見てくる。

 伊角はその目に、深い経験の色を見た。

 

「若いの、お主はおそらく……今の環境に、満足しとるんだろうな」

「満足?」

「ウム、満足だ。予想外の事が起きると強く動揺する……という事は、そうでない時は心が安寧を感じとるということだろ? それは人としてまったく恥ずべき話じゃないぞ。ワシだって穏やかに老後を満喫していたところで急に孫がワシより囲碁が強くなったら、おったまげて心臓止まっちまうわい」

「そ、そんなことはないと思いますが……」

 

 老人の言葉に、伊角は耳を傾ける。

 自分の愚痴を聞いてくれた相手の言葉なら、心を傾けられる。

 老人の言っていることも、まったく的外れではない。

 確かに自分は、院生の空気が好きだ。居心地がいい。九星会も同様。

 居心地よい所でストレスなく碁を打てれば、今だって和谷にも奈瀬にも負けない自信はある。

 

「いいじゃないか、若いのは普段から安心できる環境にいる。それはいい……しかし、だからこそ想定外の事で動揺を感じちまう。これをどうしたいか、という事だな」

「は、はい。何かいい案はないかと……」

「だったら簡単な話だ。安心を捨てればええ」

「えっ?」

 

 いつの間にか対局は中断され、老人との話に真剣に向き合う伊角。

 老人の言う、安心を捨てるという言葉の意味が咀嚼できず、オウム返しに聞いてしまう。

 

「安心を捨てる、とは……?」

「フフ、なにも今の環境をまるっと捨てればよいと言ってはおらんよ。新しい事に挑戦をしてみなされ、と言ってるのさ。若いからこそ、何をするにしても恐れてはならん。安心する環境から一歩踏み出して、挑戦をする。これもまた若さの特権だ」

「挑戦……」

 

 伊角は挑戦という単語に、強い心当たりがあった。

 実は九星会で先月話題に上がっていたのだ。

 中国棋院との交流会を兼ねて中国に飛び、親善試合に参加するメンバーを募集していると。

 

 最近の伊角の実力の向上を見て、成澤先生から伊角は誘いを受けていた。

 光栄なことと思う反面……院内で順位を落としたショックが響き、参加に即答の返事が出来なかった。

 親善試合は一週間程度、春休みの時期と聞いているので学校は問題ない。

 しかし、院の研修はどうやっても一回は休むことになる。

 不戦敗扱いになり、順位がさらに下がる事への恐れも伊角の心中にあった。

 

 しかし。

 挑戦する事こそ若さの特権だと、老人は述べた。

 

「今の環境よりも、さらにキビしいモンがよいな。そこに挑戦して突破すれば、それが己の自信となり、動揺もなくなろう。ワシも若い頃は色々な挑戦をしてなぁ……」

「……でもオレ、もし……もし、挑戦して失敗したら、どうすればいいか……」

「コラ! そこだよ、そこ。いいか若いの、まだ若いゆえに理解はしにくいかもしれんがな……失敗することが人生に必要なのさ」

「失敗が、人生に必要?」

「ウム、簡単なことでな。もし挑戦して失敗したら、それもまた糧になる。その先またしんどい事があっても、『あの時の失敗よりはマシだ』という己の心の支えになる。安心できる環境に戻ってくればなおさらってモンだ。挑戦する事にこそ意味があり、その先の成功も失敗も、若いうちは両方とも糧になる。何事も捉え方次第だよ、若いの」

「ッ────!!」

 

 伊角は脳裏に天啓が走るようだった。

 成功も失敗も、両方とも糧になる。それは自分の捉え方次第。

 老人の説明も、言われてみればその通りで……挑戦すらしないで目を伏せて逃げている今の自分が、余りにも勿体ない時間を過ごしているように感じられた。

 

 だって、そうじゃないか。

 目の前に中国トップレベルの棋院との親善試合なんて強くなるエサがぶら下がってるのに、躊躇ってるオレは何なんだ?

 バカなのか? いや、バカだったんだ。

 行けばいいじゃないか。

 行って、進藤と藤崎と、院生のみんなと九星会で鍛えた囲碁を、中国棋院に見せつけてやればいいじゃないか。

 それで全力でやって、もしもオレの力及ばずに負けたなら、敗北を糧として戻ってくればいいじゃないか。

 成長したいのに、成長しようとせずに安定を求めていた自分をようやく見つけることが出来て、目が覚めたような気分を伊角は味わった。

 

 挑戦しよう。

 伊角は春休み中の中国行きを心に決めた。

 きっと強くなって、和谷と奈瀬に……いや、進藤と藤崎にリベンジする。

 ダメでもいいじゃないか。囲碁を辞めるわけじゃないんだから。

 老人のたとえ話の中の『あの時の失敗よりはマシだ』という考え方が、己の心の重さを解放してくれたようだった。

 

「……ふふ、すまんな、若いの。ボケ老人のたわごとに付き合って貰っちまって」

「いえ……すごく心に響きました。オレ、何かが見えました」

「見えたかな。随分顔つきがすっきりしておる」

「はい。色々お話を頂いて、オレの話を聞いてもらって……ありがとうございま──」

「くくっ……若いの、その言葉を言うのは早いの。盤面はまだまだ揺蕩っておる、こんなところで投了かな?」

「え? ……あ、そうか……失礼!」

「はっはっは!」

 

 老人の言葉で思いがけず光を見い出した伊角は、その感謝を伝えるために頭を下げようとしたが、老人が盤面を指さしてその動きを止める。

 自分の手番で待っていることを指し示され、伊角は慌てて次なる一手を打った。

 心の内が整理できて改めて盤面を見れば……空いた所に、いくつも光が放たれているように見えた。

 こんなにも攻める択は広かったのに、先程までは一つも見えていなかった。

 だが、今は見える。

 伊角の心の闇は晴らされた。

 

「……ありがとうございました!」

「ありがとうございました。二目差でワシの勝ちだな。序盤の仕損じが痛かったな、若いの」

「はい。でも、はっきりと光は見えました。次は勝ちます」

「かっかっか、その意気だ。若さってのは眩しくなくっちゃ嘘だからな」

 

 結局序盤の遅れを取り戻せずに敗北となった対局だが、伊角の心は迷いが消えていた。

 対局の内容も、その間に交わした言葉も伊角にとっては値千金の物だった。

 素晴らしい対局を果たしてくれた老人に改めてお礼を言おうとして……伊角は、まだお互いに自己紹介すらしていない事に気が付いた。

 

「あの、オレは伊角って言います。お名前をお伺いしてなくて……お爺さんのお名前は……」

「ワシか? ふふ、ワシはな……」

 

 検討に入る前に、改めて老人の名を訪ねる伊角。

 すると、老人は急ににかっと悪戯少年のような笑みを浮かべた。

 その笑顔に、伊角はどこか見覚えがあった。

 

「……()()と申します。いつもワシの孫と、その友達が大変お世話になっております」

「っ!!」

「……くくく! 驚いただろ!!」

「なっ……く、ふっ……あははは! やられましたよ!」

 

 進藤と名乗った老爺。

 彼が見せる満面の笑顔に、つられて伊角も腹の底からおかしくなって笑った。

 なるほど、進藤が強い理由が分かった。

 こんなに話せるお爺ちゃんがいるんじゃあ、のびのびと成長できるわけだ。

 

「……あの子らは、囲碁を深く語り明かせるような友を求めておる。伊角くんもその一人になってほしいと、ワシは願っとるよ」

「はい。今はまだ遠い(いただき)ですが……きっと、必ず」

 

 迷いが晴れた伊角は、ヒカルの祖父の言葉に力強く頷いた。

 進藤と藤崎の、かけがえのない友になれるように。肩を並べたいと思えるようになった自分の挑戦に、ぶるりと武者震いが生まれていた。

 

 

 

※    ※    ※

 

 

(…………流石だぜ、じーちゃん)

『実は私がすぐ近くにいて、お話全部聞いちゃいました。伊角さん、貴方はまだまだ強くなれる』

 

 離れた位置で、視線は向けずにヒカルは佐為から報告を受けて、安心を覚えた。

 伊角さんの心配はいらないようだ。

 佐為を失い心を乱していた頃のオレを救ってくれた伊角さんが、もしもかつてのように悩んでいればうまく相談に乗ってやりたい……と考えていたが、それは意外にも己が祖父が果たしてしまった。

 塞翁が馬。ヒカルは伊角が若獅子戦で進化した強さを見せてくるだろう未来に想いを馳せ、嬉しくなった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。