逆行したヒカルと佐為が藤崎あかりを魔改造するお話 作:そとみち
塔矢行洋は、震えそうになる手を隠すために、着物の広い袖口に腕を収納する形で腕を組もうとして、今日はスーツを着用しているためにそれが出来ない事に思い至り、代わりに強く腕を組む形で武者震いを止めた。
緒方は、幾筋も流れる冷や汗を拭う事すら忘れて、あかりと倉田が創りあげた終局の盤面を睨んでいた。
────なんだ
倉田の手からも、あかりの手からも、二人の想像を超えるほどの絶好の手がいくつも放たれていた。
神の一手がこの盤面に宿っているのかとすら感じられた。
今の二人に、自分が挑んだとして……勝てたか?
これほどの極限の攻めに、自分たちは応じられたのか?
同じ深みに、達することが出来ていたのか?
ここまで見事に応じて見せた倉田にも脱帽せざるを得ないが。
それ以上に、この苛烈な鬩ぎ合いを凌ぎ切った藤崎あかりに、恐怖にも近い感情を覚えてしまった。
「……ふぅーーー!! 十キロは痩せたなっ! いいダイエットになっちまったよ。ワルいね藤崎、汗かきまくっちゃったぜ。女の子へのエチケットに気を配れなかったわ」
「うふふっ、そんな事気にする余裕こっちにもなかったですよ! 倉田さん、すごくキレイな手ばっかりで……応じるこっちも負けまいと必死でした。ホントに余裕なかったです」
「ホントかぁ? 途中でオマエ楽しくなってなかったか?」
「あ、それは……えっと、えへ♪」
「余裕綽綽じゃんか! クソー、悔しいっ! 悔しいけど何故かさっぱりともしてるんだよなぁ! なるほどね、これが院生が強くなった理由ってヤツか。今日味わえてよかったよ、これ知らないで今年からプロになる奴と戦ってたら油断してる所だった。下のヤツら全部コワイじゃん、もー。院生たちの名前覚えとこ……よし、んじゃお疲れ」
「えっ、えっ……あ、倉田さん! よければ検討しませんかっ?」
「んー? ……いや、こんなにギャラリーがいたらなぁ」
「え? ……わぁっ!?」
勝負の結果を受け止めて、しかし引きずらなかった倉田は、今年からの院生全員要注意だと察し、名前と顔を覚えておくことにした。
そのまま席を立とうとする倉田に、あかりは検討をお願いして呼び止める。
それにきょとんとした顔をして、周りを見渡す倉田。
そんな倉田の様子を見て、あかりも周りを見ると、塔矢名人にアキラに緒方プロに、院生たちに記者たちに、一回戦敗退のプロたちと、もうこの場にいる全員が集まってるのかと言わんばかりの人の壁が周囲に出来上がっていた。
全員が、この対局に衝撃を覚えていた。
この盤面がたとえ目の前で起きていたとしても、若手の倉田四段と院生の少女が打った対局だと信じることが難しいほどだった。
棋譜として残し、攻めの教科書として永久に語り継がれてもおかしくないほどの、極限に近い石の美しい並びが目を惹きつけてやまなかった。
「まぁいいや検討するか」
「え」
「え、って何だよ、誘ってきたクセに。オレにとっても気持ちよく打てた対局だったんだ。よく考えりゃギャラリー気にして検討しないなんてもったいないし、ちゃんとやろうぜ」
「あ、は、はい! それじゃあ早速……まず、前半の私のここの手なんですが……」
しかし倉田はいつまでもマイペースだった。
ギャラリーがいても関係ないな、フツーに検討した方がオレのためになるな……と明快な発想の転換で、どっしりと椅子に腰を据えて、対局の検討を始めることにした。
あかりが示したのは、一番最初に誘い込んできた一手だ。
思えばこれに応じた瞬間から、全力の攻めが始まったのだ。
「ああ、完全にオレを誘ってたヤツね。意図は読んだよ、罠かなとも思ったけど……十五手くらい先まで読んでもオレが優勢っぽかったから、あえて乗った。ちなみにどこまで見えてた?」
「はい、実を言うと倉田さんのこの……二十三手目のここの一手。ここにこれが来なければ、じんわりと盤面を押し返せると思って打ちました。倉田さんがここと、ここと、ここと……ここと、ここと……あとここと、ここ。この7か所のどこに攻めてきても、返せる手筋を考えていたので」
「フーン、まぁオレもその辺全部何となく察して絶対崩してやる! って別のトコ打ったんだけどさ。二十三手先までは見えてたか……参考までにさっき挙げた7か所に打たれた時の応手の一手目、口でいいから教えてくれる?」
「はい。2の七、1の十六、4の十四────」
お互いについ先ほどまで海の底に至りそうなほどの潜水競争を果たしていたせいで、囲碁脳回路が十分にほぐれており、検討でも凄まじいヨミの深さを見せて、同レベルで語り合えていた。
院生たちは幾筋もの別の可能性が生まれる、検討というよりは脳内で複数の碁盤を広げてそれぞれで再戦しているような非常識な検討に、ついていけなかった。若手プロ達も同様だ。
塔矢アキラも5つ目の碁盤を脳裏で埋めて、新たな応手を想像する所まではついていけたが、二人の深みにまで達しない。
塔矢行洋と緒方精次のみが、何とか二人の検討の意味を十全に受け止められていた。
そんな検討が十分ほど続いて。
「……うん、やっぱスゴいわ藤崎。オレが気付けてない手がいっぱい出て来てる。キミみたいなコといつでも打てるなんて院生が羨ましいよ。ウカウカしてられないなこりゃ。プロ試験頑張れな、オレに勝ってプロ試験落ちるなんてしたら怒るよオレは」
「はいっ、今年必ずプロになります! 心配しないでください!」
「素直だな、可愛げないぜ。まぁカケラも心配してないんだけど……楽しかったわ。次はプロの対局でな」
「有難うございました!」
一息ついて、改めて倉田とあかりが碁盤の石を片付けて、肩にスーツを担いで倉田が席を立って離れていった。
その背に頭を下げて礼をするあかり。
「…………はぁ」
そして頭を上げてから、さてこの囲まれた状況どうしよう、と途方に暮れる。
今すぐにでも話を聞きたいと言わんばかりに様々な人がこちらを見ているのだ。
助けてヒカルー、と脳内で救いを求めてしまうあかり。
しかし、当然にしてそんな彼女を一人にしておかないのが彼女の彼氏であった。
「よっ、おめでとあかり!」
「あっ、ヒカル!」
周りの記者たちが、プロ達が声をかける前に、人波をかき分けるようにやってきたヒカルが勝利を祝福してくれる。
あかりは自分の王子様が助けに来てくれたことで、本日最高の笑顔をこの瞬間に更新した。
※ ※ ※
二回戦で勝ち上がった主要なる院生たちは、やはり院内順位が高いメンバーに集中していた。
伊角、和谷、奈瀬、ヒカルは勝ち上がり。
本田が順位的にはその下に続くが、生憎伊角との勝負になり、三目半差で敗北した。
それぞれの院生たちの対局もじっくりと打ち合った濃密な盤面を作り上げていたが、限界まで時間を使っていた倉田とあかりが最後に対局を終了しており、ここに来て二回戦の試合の全てが終わったことになる。
そうなれば、ここから始まるのは記者たちからの取材。
院生たち全員に聞きたいことが山ほどあるのだ。
そして、そこで大きな混乱を生んでほしくない、というのがプロ側と院生側の共通見解であった。
余りにも記者の好奇心が強い質問に、院生が気を悪くしてはいけないし。
院生が勝利の勢いでプロへの敬意が足りない発言などしようものなら、それもまた問題になる。
故に、ここで塔矢行洋と篠田師範はさらなる一手を放つことにした。
「……院生たちは人数が多い。記者の皆さまも一人ひとりに聞きたいこともあると思いますが、今日は合同の取材という形で、全員で一堂に会して答える形にしませんか。どうですかな、篠田先生、天野さん」
「こちらもそうしていただいた方が有難いです。まだ小さな子も多い、上手く答えられない子もいますし……よく相談しながら答えても問題はないでしょう」
「ん……そうですね、そちらのほうがいいでしょう。記事にするにも、集合写真があった方が映えますからな」
塔矢名人の鶴の一声で、合同取材という形をとった。
これにより、院生の中でも突出したヒカルとあかりの二名に取材が集中しすぎることもないし、若さから零れかねない迂闊な発言も集団で答えることで危険性を減らせる。
天野も塔矢行洋と篠田の提案の意図を読み取り、早急に取材の舞台を整え始めた。
「……助かるな。ここでそれぞれ取材なんてなったら、あかりが記者を集めすぎて参っちまう所だったぜ」
「なんで自慢げなんだよ進藤。否定は全くできねぇけどさ」
「あかりちゃんのさっきの倉田プロとの対局ヤバかったもんね。見惚れちゃったわ私も」
「ありがと、明日美さん! 流石倉田プロだったよー、どんなに攻めても応じてくれるの! 楽しくなっちゃった!」
「たまにナチュラルボーンキラーになるよな、藤崎は」
「対局する時に進藤とは別枠の恐怖があるんだよな。無邪気にガッツリ引きずり込んでくるというか」
「ちょっとぉ!? 人聞きが悪いよ伊角さん! 本田さんもぉ!」
篠田師範の指示の通りに、対局部屋の一か所に集まり始めた院生たちも、今日という日を乗り越えた達成感と共に、安堵が広がり始める。
一回戦の革命。二回戦でのあかりの倉田プロの撃墜。
少年少女たちが受け止めるには余りにも大きすぎる成功体験が、彼らの脳を浸らせていた。
普段、仲間内で打つだけでは感じられない、プロとの力の差。
プロの棋力に及んでいるはずだという自負。
それを、形に示すことが出来たのだ。
プロ相手に勝利を果たした院生上位のメンバーは勿論、今日の勝利は下位メンバーにも希望を齎した。
自分たちが日々必死に研鑽する内容が、間違っていなかったのだ。
正しく強くなれていることを理解できたのだ。
それにより、さらに院生たちは真剣に囲碁に向き合うであろう。
院内の研究に更なる熱が追加され、より一層の進化を果たせるだろう、と篠田は感じていた。
「……では、本日若獅子戦の二回戦まで終わり、勝ち抜いた院生8人のメンバー、および参加した全員、院生の皆さまへのインタビューを始めます」
若き棋士たちの誇らしい顔つきを、幾多ものフラッシュが照らした。