逆行したヒカルと佐為が藤崎あかりを魔改造するお話 作:そとみち
若獅子戦二日目、午後の対局。
準決勝に当たる四回戦が行われる。
ここまで勝ち上がってきた選手は賞金が確定するが、最早賞金などは勝ち上がった院生たちの頭からは抜け出ていた。
挑むは極み。
自分たち院生を育て導いてくれた大恩のある友に、成長した自分の碁を見せつける事。
その中でも、注目が集まる二人の対局。
一か月前に院生研修にて見事な対局を果たした二人が、この若獅子戦で再戦する。
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
進藤ヒカル対伊角慎一郎。
この対局に、見学に来た院生たちや、プロ達の注目は注がれていた。
「……」
「……」
当然にして、無言のうちに石が置かれて行く。
黒石を持つ伊角が、進藤という高すぎる壁に立ち向かう。
まるでK2登頂のような、垂直の絶壁を己が身で上り詰める様な極限の緊張感。
伊角が次の一手に思考する時間は、盤面が進めば進むほどに少しずつ長くなっていった。
(誰に言われるまでもなく、進藤が未だ自分よりもはるかな高みにいることは知っている。だが、それでも一年前の自分より……いや、一か月前の自分よりも今の自分の方が優っているという自信はある! 可能性を自分でゼロにするな! 果敢に切り込め!!)
伊角の渾身の一手。
盤面を広く広く見据えたその手は、対局相手のヒカルをして唸らされるほどの好位置に置かれていた。
院生の中でも元より高い棋力を持ち、それがヒカルとあかりという劇薬に触れ、その上で中国遠征により独自の精神鍛錬、囲碁の深みを獲得している。
頂点に存在するヒカルへ、その距離を確実に縮めていた。
(────ッ)
一つの壁を登頂し、登ったすぐ先に見える次の岩壁に腕を伸ばす伊角。
上り続けることを苦とは思わなかった。
ここまでたどり着けなかった過去の自分が、この標高まで挑めている自分に、さらに登れと背を押してくれていた。
弱かった過去の自分を、今の自分を肯定する燃料へと伊角は捉え直した。
無限に背中を押してくれる原動力を、己の弱さに見い出した。
(登れ、更なる高みへ! ここが正念場だ……半目差未満の際どい鬩ぎ合いを進藤相手に果たせている! だがこれで満足するな! オレはさらに高みへ!!)
息を呑んだのは、観客の誰からだっただろうか。
余りにも高すぎるヒカルの碁のレベルに、伊角は確かに食らいついていた。
一か月前に院生研修で打った時は、終局まで迎えての六目半差で伊角の敗北。
中押しによる敗着ではなくとも、大きな実力差がまだ両者の内に存在した。
だが、今の伊角はその時以上にヒカルに肉薄できている。
ヒカルとの敗北の経験が、この大会で得た対局の経験値が、和谷との誇りをかけた激闘が、伊角を更なる高みへと引き上げていた。
(進藤を相手に、オレは勝つ自信がない────なんて二度と考えるものか! 中国棋院で討ち果たした中国の棋士たちの、九星会で期待してくれるみんなの、院生の仲間の想いを抱えて打ってるんだ! ひるむなっ!! 進藤もオレと同じ人間なんだ!! 一ミリも勝機がないわけじゃない!!)
その、完成された精神性。
己の弱気に流されることなく、経験を地盤として、人間関係を糧に、強者への敬意は忘れず、しかし相手を己の内で大きく見過ぎることはなく────わずかなスキを探り続ける。
「……ッ!!」
「っ……」
再び高みへの崖を登り切った伊角が、鋭くヒカルの盤面に切り込む。
もはや伊角は己の持ち時間はほぼ使い切っていた。
ここから先、一手を一分以内で打たなければならない。
その事実を、ヒカルも伊角も認識している。
認識したうえで、ヒカルの脳裏にはかつての事件が────
そんな昔の事を思い返すほどの余裕などなかった。
少しでも緩んだらマジで食い破られそうなほどの勢いなんだ。
負けない。オレにも意地がある。
神の一手を目指す者の意地が。
(……来た!!)
ヒカルの応手が打たれた。
次の伊角の一手に、左右のアテの選択肢が生じる盤形。
ヒカルには伊角から打たれるであろう応手が見えていた。
無論、それに応じきり、地を荒らさせずに今の優勢を維持しきって終局させる。
そんな分水嶺が、今。
「────ッ!?」
伊角の、
ヒカルは混乱する。
ここでようやく、ヒカルはかつての事件を思い出した。
かつての世界で、伊角とプロ試験で対局していた時の、苦々しい記憶。
アテ間違えた伊角が、ハガシの反則を行ってしまい、ヒカルはそれを咎めることで卑怯な勝利を求めてしまった。
伊角もまた、己の指が離れたことがヒカルに気付かれていないか……葛藤した。
お互いの、余りにも己の心の弱さをむき出しにされた葛藤。
その結果、勝敗を超えてお互いの心によくないものを残した。
プロ試験でどの対局が一番心残りかと当時の二人に聞けば、間違いなくこの対局が上がるであろう、そんな苦い記憶。
それと同じような盤面になっていて。
そして、伊角は左からアテた指先を石から離して────
覚悟していた。
否。
これこそが正着打だと伊角は確信して打ち込んだ。
(……ッ!?)
一歩遅れて、ヒカルは伊角の意図に気付く。
この一手、この瞬間に、初めてヒカルはこの二巡目の世界で自分の意図を超えた一手を対局相手に打ち込まれた。
(……そうか! この一手でオレの地への攻めを完全に見切り、己の地を広げる手に切り替えたんだ! なんつー絶妙なタイミング……だったら右からじゃなくて左からアテるのも分かるぜ、左にギリッギリで連絡できそうな伊角さんの地が形成されかけている!! 繋ぐつもりか、ここから!!)
その手は、ヒカルの予想の外。
己の棋風……相手の攻めを受けた上でさらにその上から押し潰すように怒濤の攻勢をかけて、地の連絡をさせずに押し続ける、そんなヒカルの得意な型の呼吸を読み切っていなければ打てない一手だった。
見事に虚をつかれたのだ。
(相当中国でオレの棋譜を分析したみたいだね、伊角さん! すっげぇ……けど、当然わかってるよな! その道、そう簡単に踏破はさせてやらないぜ!!)
確かに、伊角が先程のアテを右に打っていれば、ヒカルは間違いなく勝利していた。
確実な勝利に至る道に、伊角の手すら誘導する盤面を作り……それを伊角が察して、ぶった切り、再び五分の状態まで形勢を押し戻したのだ。
確実な勝利を求めたヒカルの虚を突いた伊角の一手。
ヒカルはその手に尊敬と感動を覚える。
だからこそ。
勝利は絶対に渡さない。
(細かい碁になった……でも、そういう碁は慣れてるんだ! それをオレに教えてくれたのは院生のみんなだった! その時の恩は忘れない! みんなの碁がオレの手に生きているんだっ!)
(際どい……際どい所までは持ち込んだぞ、進藤! オレはオレだ! 和谷たちと共に院生で磨き上げ、九星会でしのぎを削り、進藤と藤崎に引き上げられ、中国で自信をつけた! みんなと打った碁がオレを支えている! その恩を、ここで返す!! オレの勝利で!! 進藤、お前を一人きりにはさせない!!)
もはや持ち時間は関係なかった。
二人の意志が、次なる一手に余計な時間をかけなかった。
終局に向かうお互いの白と黒。
盤面は徐々に埋め尽くされ、僅かな差がお互いの間に揺蕩って。
伊角は、更なる高み、とうとう頂上にかかる岩壁に己の手をかけた。
疲労困憊な肉体を、意志の力でねじ伏せて引き上げる。
転がるように身を無理矢理に投げうち、頂上の地に横たわった。
見上げれば、透き通るような青い空が見えて。
己が至れる最高潮に伊角は到達して。
それでも。
進藤ヒカルは、頂上から見上げる伊角の視界の先、空の上に存在していた。
「……二目半差、か。ありがとうございました」
「ありがとうございました」
コミを入れて二目半差で、進藤ヒカルが勝利した。
※ ※ ※
「…………ふ、ぅぅぅーーーーーっ!! はぁーっ!! ヤバかった……!! 伊角さん、マジで……マジでさ、すんげぇ……オレの囲碁人生で一番しんどかったかも」
「勘弁しろよ。徹底的に対策を練って、オレの出来る最高の囲碁を二段ほど飛ばして頂点まで至れたと個人的には思ってるんだぞ? それで二目半で負けたんじゃ世話がない」
「いやいやマジで……勝ったオレから言うのもアレなんだけどさ、胸張ってほしいよ。途中、オレのヨミを超えて来た一手を打たれて、オレ心底シビレたもん。ここのコレ……よく左からアテたね。100人プロがいたら100人は右からアテてくるぜ、こんなの」
「そこにしか勝機はないと睨んでたからな。虚はつけたようでなによりだ。もっとも左の地の連絡を結局中途半端にさせられたのは、そこからのヨセに至るまでの技術で負けてたって事なんだが」
「そうでもないぜ、ヨセに入った時点からの伊角さんにミスはなかったよ。その前にオレが打ったココ……これでヨセに入る前に盤面を取り戻してる。かなり気づきにくい箇所だけどね、後からじわりと効かせられるタイミングで刺した」
「あー…………ああ、オレがここに打った時に苦しくなったのはその一手が原因か。なるほどな……」
自然と検討に入る二人。
それを見ていた院生たちも、余りにも高いレベルの碁……そう、院生研修でヒカルとあかりが対局したときのような、極みとさえ思わせる終局図に、ただ検討を聞き入るしかなかった。
だが、断言できることがある。
この対局で、伊角も……そして、ヒカルもまた、一段と強さを増したという事だ。
「……ん。藤崎の方も終わったみたいだな」
「らしいね。あかりの勝ちかな」
「奈瀬と比べれば準決勝は打ちやすかっただろうさ。事前予想通り、決勝は進藤と藤崎か」
「だね。伊角さんも三位決定戦、頑張ってね」
「イヤミだぞ」
「やめてよ、そういうつもりじゃないって!」
「ハハ、すまんすまん。分かってる」
緊張がほぐれ、伊角の体から熱が少しずつ落ち着いてきて……伊角の心に満たされた感情は、満足であった。
進藤がまだ自分よりも高みにいる。
そこに悔しさはもちろんある。今日打てた己の最高の碁でも勝てなかった悔しさが。
けれど。
進藤のいる高みは見えた。
(ありがとう、進藤。オレはまだ強くなれる……お前が上にいてくれるから。けど、いつか必ず、お前と同じ所まで行く。待っていてくれ、頂点で)
伊角慎一郎、17歳。
灼熱の刻を超えて、未だ成長の途──。