逆行したヒカルと佐為が藤崎あかりを魔改造するお話 作:そとみち
午前中に行われる三位決定戦は、伊角の勝利で幕を閉じた。
中国帰りの経験に、和谷やヒカルと言ったライバルたちとの死闘を経て、伊角の碁は少しずつ至高の領域、神の一手に近づいていた。
ハイレベルな一戦に取材陣の注目も集まるが、伊角が残したコメントは実に簡素なものだった。
『まだまだ、これからです。オレたちの目指すモノはもっと高く、深い所にありますから』
若獅子戦の三位という胸を張っていい結果を残し、それでも一切の慢心なく、囲碁の高みを目指すという伊角のコメントに、記者の天野は感嘆と畏怖を同時に覚えた。
既にプロの九段クラスの実力に手をかけていながらも、それでもまだまだだと感じるそのストイックなまでの精神性。
伊角という個人の質の高さに目を見張るとともに、彼が目指すその高みと深み、それが誰なのかも理解したからだ。
進藤ヒカルと藤崎あかり。
この二人が戦う午後の決勝戦で、伊角が述べた言葉の意味が示されるのだろう。
※ ※ ※
間も無く決勝戦の対局開始の時間となる。
決勝戦が行われる一室に向かい、廊下を歩くヒカルとあかりの姿があった。
「今日の弁当もすっげー美味かったぜ、あかり。いつもサンキュな」
「えへへ、おそまつさま♡」
二人の話す内容は、しかし実に気の抜けた、日常会話の一端というものだった。
いや、むしろ一歩踏み超えてカップルの会話であった。
決勝戦に挑む、という理由の緊張は二人の間には見られなかった。
ある意味では当然と言えるだろう。
何故なら彼ら二人は、下手をすれば生まれてから今日までの日数を数えるよりも多い対局数を交わしている仲なのだから。
七歳で囲碁を覚えて約五年。その間に交わした対局の数は指導碁を含めれば五千回を軽く超えるだろう。
お互いの囲碁の事は誰よりも理解している。
指導碁も、予想碁も、目隠し碁も、一色碁も、真剣の勝負も、誰よりも交わしてきた二人。
だが。
真剣の互先の勝負で、未だにあかりがヒカルに勝てたことはない。
「──時間ですので、対局を始めます」
対局室に入り、対局開始間近になって、碁盤を前にお互いに座って構えた瞬間に、二人の表情は真剣なものに変わった。
秒読み係と記録係の職員と共に対局室に入っていた天野は、その空気の変化を敏感に感じ取った。
恐ろしいまでの
(……この圧、タイトル戦の最終戦のものとヒケを取らない! どれほどの経験が、強さがこの二人にあるというのだ……!!)
対局をする立場ではないのに、冷や汗が背筋から一筋流れるのを感じた天野。
院生の、中学一年生同士が私服で向かい合うそんな傍目には微笑ましい対局のはずなのに、二人の体から放たれる圧はタイトル保有者のそれと遜色がない。
先程廊下でカップルのような会話を果たしていた二人と同一人物とは思えない。
囲碁という、盤面に広げる宇宙に対しての、迸るまでの集中。
二人で対局をするという勝負に対しての、果てしなき真剣。
そんなものが感じ取れてしまいそうなほどの空気の重さに、まるで碁盤の上の空間が歪んでいるのではないかと天野が思ってしまうほどに、ヒカルとあかりの二人はこの勝負に真剣であった。
仲の良い二人だから、という理由の気の緩み、緩手は間違いなく放たれないだろう。
お互いのヨミの最も深い所で語り合うだろう一局が、とうとう始まる。
「互先ですので、ニギってください。………藤崎あかりさんが先番。コミは五目半、持ち時間は二時間。使いきってからは一手一分、秒読みになります」
記録係が決勝戦のルールを口に出して確認し、秒読み係の女性職員が対局時計に手を掲げる。
「では、お願いします」
「お願いします」
「お願いします」
決勝戦が幕を開けた。
※ ※ ※
初手、あかりの黒石から。
しかし始まりの一手目は、二人が……いや、三人がそこから宇宙の創造を始める事を得意とする、右上スミ小目からは始まらなかった。
「────っ」
「……」
小気味よくパチッと音を立ててあかりの綺麗な指先が盤面に打ち付けた黒石の位置は────
ヒカルが初めて見る、あかりの妙手から始まった。
(マジか……あかりの奴、ここで初手天元で来たか。なるほどな…………)
『初手天元ですか……確かに、まったく打たれない手ではないですが、通常は四スミに打つのが定石。スミで地を作らないことを目的とした、考えようによってはどの一手よりも広く盤面を見据えた一手……』
当然にして、真剣な対局の最中はヒカルと佐為は脳内での会話を果たしていない。
先の思考はそれぞれが独立して、お互いに伝えずに考えている。
現在あかりと対局しているのはヒカル。だからこそ、ヒカルはヒカルの中で思考を完結させており、佐為も盤面に対しての意見をヒカルに伝えることはない。
そんな前提として、しかし二人ともあかりの初手には驚きを覚えざるを得なかった。
(懐かしいぜ……絶対に難しい碁になる。これを得意としてた
ヒカルは高速で思考を廻し、この初手天元にどのように応じるかを考える。
面白い所への打ち込みなのは間違いない。
そして、同時に極めて難しい一手であることも。
通常の碁の流れとはヨミに使う思考回路が全く違う。
より広く盤面を見渡せた者が上を行く。
「……」
「……」
ヒカルは、応じ手をスミへと打った。
ヒカルから見て右上の地から固めに入る。
初手天元への対抗策はいくつかあるが、究極的に考えれば答えはシンプルだ。
初手に打たれた天元の黒石を、相手に働かせなければ勝ち。
逆に、天元の黒石が働いてしまえば白石側、ヒカルの負け。
故に、非常に明快に実力差が現れる。
より深く読めたものが、より高みから盤面を睨めたものが勝利する。
「……」
「……っ」
あかりもヒカルの手に応じ、地を広げていく。
序盤の応酬が果たされる。
お互いに神の一手に極めて近づいている、そんな思考から放たれる一手が次々と盤面に並んでいく。
この時点で記者の天野の理解を超えた盤面が作られており、記録係が棋譜に記す内容は何度も碁盤と記入内容をチェックして間違いがないかを確認するほどであった。
だが、ヒカルはこの盤面、一つの傾向を感じていた。
(……際どい部分をあかりがどんどん動かしていってるな。深く読めば、ごく僅かに今オレが広げてる地に拘ったら不利になる様な……そのせいで、最初は右辺の上を広げに行ったのに、そのまま右下、次は左下……盤面を回るように鬩ぎ合いを起こしてきて、それに対処させてくる。この全方位を巡る様な対処をオレが一つでもミスったら負けってわけか)
勝負所が、盤面を広く駆け回っているような囲碁。
あかりの次の手を読むことも忘れずに実施しているが、しかしなんとも、振り回されるような碁を
こちらの棋力をあかりが理解しているからこそ、30手先まで読んだときに最も損にならない、ヒカルの利が失われない一手を読み込んだときに、地を固める箇所を次々と移動させられるのだ。
振り回されていると感じたが、しかしこれに逆らって切り込むにしても相当のリスクがある。
少なくとも現時点の、若獅子戦というトーナメント戦で倉田プロや奈瀬と戦い、棋力を増しているあかりを相手に安易な攻め込みが有効打になるとは考えにくい。
流れを掴んでいるのは先行のあかりであり、その流れをヒカルは捌き切らなければならない。
捌きを一つでもミスれば終わる。
そのレベルまであかりは自分に迫っている。
『……あかりちゃんのやろうとしていることは分かる。ヒカルが最も得意とする攻め込む形にはさせずに、しかしヒカルの守りを貫く一手を打つわけでもなく……お互いの読みを限界まで引きずり出させるような、究極の一手をお互いに打ち続けることでしか渡り切れない細い綱をずっと持ち続ける様な囲碁。なんと煌びやかで空恐ろしい事を考えたものでしょう』
佐為は、あかりの打つ手に戦慄を覚えていた。
今の佐為があかりと同じことをヒカルに対してやったとして、ヒカルを凌ぎ切れるかどうかは、良くて二割。八割はどこかで失着する。
ヒカルから勝利をもぎ取ろうとするならば、より攻撃的で苛烈なる攻めを果たした方がお互いに打ちやすく、お互いのヨミも冴えるからだ。
しかしあかりは、新定石まで含めたお互いの慣れた一手を全て破棄した。
初手天元という奇手から、まっしろな盤面で、常にお互いに思考を強要した。
『確かにヒカル相手でこれをやりきれば、お互いに囲碁への深みがより増すことでしょう。あかりちゃんの棋風である、囲碁の成長につながる……ヒカルが
そして佐為は、あかりが進める盤面が、ヒカルの碁の成長を果たす事を察した。
これまで、あかりが囲碁を覚えて、ヒカルが指導碁を続けて、置石を少しずつ減らしていく中で……実を言えば、あかりの異端たる棋風の恩恵を、ヒカルと佐為は十全に受け取れていなかった。
実力差があり過ぎて、あかりに勝ってしまう事で、あかりの碁による対局相手の棋力の向上が殆ど生まれてなかったのだ。
あかりが誘うように導く一手の先を、ヒカルも佐為も、既に己が手に宿していた。
置石というハンデがあればこそヒカルと佐為の敗北は存在し、置石が無ければあかりのヨミを二人が下回る事はない。
どれほどあかりが伸びていても、プロを一蹴するほどまで成長しても、それでもヒカルたちはその上にいた。
あかりの求める宇宙の広がりに、ヒカル達はこれまで自分の実力だけで完全に応じきっていた。
だが、今日、ついにここで。
ヒカルがあかりの碁を、正しい意味で受け止める時が来た。
「────っ」
「……」
お互いに持ち時間をかなり消費した時点で、ヒカルが長考に入る。
地の攻防は、右辺の上部から始まり、時計回りをするように天元を中心として一周、その後に反時計回りになるように逆回転し、盤面全ての位置の攻防が互角に終わっていた。
盤面全体、どこを切り取っても地の形勢が互角。
故に、未だ天元に置かれた黒石もはっきりと働いたとは言えない状況。
全方位に連絡できるような気配はあるが、連絡を試みて切断された瞬間にどこにも繋がらなくなるような。
揺蕩っていた。
水平な碁盤の盤面上で、お互いの差は完全に揺蕩っていた。
あかりは、次にヒカルが打って来るであろう手を、ヒカルの棋風、棋力、癖などから、ほぼ完全に読めていた。
どこに打たれても、中盤を超えて終盤に至り、ヨセの時点で天元の石を活用して地を連絡させ、半目差で凌ぎ切る、とこの後の流れを考えていた。
これまでの誰との対局でも成し得なかった、盤面全てを活用しての宇宙の創造。
あまりにも美しすぎるその盤面が、あかり自身の読みも、棋力も成長させてくれるようだった。
そして、ヒカルは。
「……!!」
「……っ!?」
あかりの全ての読みから外れた、
神の一手。
打たれた瞬間にそれは人の手による一手となり、記録に残ればその棋譜を見た棋士全員がその手の有効性を理解する。故に、打たれた瞬間に神の一手ではなくなる。
そんな考え方もあれば、それを打てるのはその時に対局に臨んでいた者だけであり、まったく同じ盤面になる対局などというものが存在しない以上、神の一手はそれを打った者にしかやはり成し得ないものだという考え方もあるだろう。
だが、総じて言えることが一つ。
決着が敗北に結ぶようでは、神の一手とは表現されない。
「…………、あっ────」
「……」
思わず、あかりの口から声が漏れてしまった。
ヒカルの打った一手の意味を、その先の局面を追いかけて追いかけて、とうとう理解に至ってしまったからだ。
想像できなかった、新たなる宇宙の創造。
あかりの読みの限界値を、あかりに引き上げられる形で進化したヨミをもったヒカルが、神の一手でこの勝負の勝敗を決定した。
そして、一歩遅れてあかりも理解した。
それは同時に、あかりもまた神の一手に至る権利を有していると表現できるであろう。
しかし。
勝敗は、あかりの中ではっきりと決定した。
(……残念、だなぁ)
あかりは心の奥で、ヒカルの神の一手に心残りを覚えた。
綺麗な……本当に綺麗な盤面だった。
このまま終局まで打ち進められれば、自分がかつて蔵の中で見たヒカルと佐為の一局に勝るとも劣らない宇宙が広げられたと思ったのに。
神様って、残酷だ。
「……負けました」
「……ありがとうございました」
「ありがとうございました」
全ての持ち時間を使い切っても、あかりがその先の活路を見い出すことは難しかった。
ヒカルとあかりと、佐為以外の誰が見ても、ここから幾筋もの勝負手を考えられるような中盤戦の盤面であったが、しかしあかりはどこまで打ってもヒカルが上を行くことを如実に感じ取ってしまっていた。
お互いの実力をお互いが一番理解しているからこそ、投了の判断も早かった。
勝利の可能性がない対局を最後まで打ち続けるのは、囲碁に対しての、対局相手に対しての失礼に当たる。
そこを、恐らく誰よりも意識して、誰よりも重いものだと捉えているあかりだからこそ、己の敗北を察したことで、晩節を汚すことを良しとしなかった。
若獅子戦決勝戦。
優勝────進藤ヒカル。