逆行したヒカルと佐為が藤崎あかりを魔改造するお話 作:そとみち
若獅子戦決勝を終えて、その夕方。
部屋に備え付けのテレビでは、N〇Kのチャンネルでヒカルとあかりの対局の様子が簡単に流れて、優勝者インタビューを受けるヒカルのシーンも流れていた。
プロを倒した天才少年というナレーションで紹介されたその映像は、囲碁を知らない人からすれば記憶にも残らなさそうな、実に簡素な1シーンのみであった。
だが、ある意味ではこの内容は囲碁界にとっては救いがあったというべきだろう。
本当はヒカル一人がプロに勝ったのではなく、彼が入会している院生全体がプロ顔負けの魑魅魍魎の集う、新たな革命の始まりとなっていることを、世間に知られていないのだから。
それを大々的に世間に知られてしまえば、現在のプロへの非難、プロ試験の制度への意見なども出てくるかもしれない。
SNSなどというものは存在しない時代だ。y〇utubeさえ生まれていない古いネットの時代。
テレビのニュースでワンカットが流れた程度のそれでは、世間への影響は極めて小さいと言えた。
「…………」
「……ッ……」
そして、そんなニュースが流れる和風の一室の中で、厳しい表情を浮かべるプロ棋士が二人。
塔矢行洋と、緒方精次だ。
眉根を寄せて睨みつけるほどに見据える先は、ニュース映像が流れていたテレビの先……ではなく、二人が向かい合って座る間に置かれている碁盤の、その上に並べられた、とある対局の盤面であった。
「……何という囲碁を打ったのだ、あの二人は……」
「初手天元から始まり……そこから先の、全ての一手に籠められた意味が深すぎます。最後、白の進藤が打ち付けたこの一手……ここから先、藤崎の黒が攻め込める手はいくつも考えられるというのに、最善手を深く考えれば考えるほど、進藤のこの一手がどうしようもなく最良の一手であるという結論に結ばれる。検討してるだけでも真剣な対局に匹敵するエネルギーを消費するぞ、こんな……ゴルディアスの結び目のような……」
二人が見ていたのは、ヒカルとあかりが創造した宇宙、決勝戦の棋譜を並べたものであった。
塔矢行洋が棋院にお願いして、週刊碁に掲載予定であった決勝戦の棋譜を、最速で提供してもらっており、FAXで届いたそれを緒方と共に検討することを約束していたのだ。
果たして電話機から送られてきた紙を塔矢行洋が受け取った瞬間に、脳裏は宇宙へと飛んだ。
余りにも難解な棋譜だったからだ。
先程、緒方がそう表現した通り、この決勝戦の棋譜は余りにも検討の余地に溢れていた。
あかりが初手天元を打ってからの、ヒカルの一手、それに応じるあかりの一手、それぞれの意味を一つずつ考えるだけでも、どこまでも深く検討できてしまう。
検討するだけでも、お互いのヨミの深さ、狙い、それによる地の有利不利が、あり得ないほどに深い所まで探れてしまう。
真剣に囲碁を打つ者がこの棋譜を検討したならば、それだけで実力の向上に間違いなく繋がる様な。
天元を中心に各辺をくるくると回るように行われていた地の勝負をそれぞれ切り取り、そこから対局を引き継いでも面白い。
棋力が高ければ高いほど、ヒカルの一手、あかりの一手が最善手であることに気付き、それによりまた検討をした者の棋力を引き上げる様な。
最後のヒカルの一手の意味を真に理解できる深みまで読み込めれば、神の一手すら己の手に宿せるような。
そんな、囲碁の教科書にして指南書、無限の検討とその先の予想対局まで出来てしまう、将来何十年、何百年にわたって語り継ぐべき棋譜がここに生まれてしまった。
「……緒方くん。今日はどこまで時間を作れるかね」
「明日には指導碁の約束がありましたが、旧知の相手ですのでキャンセルできます。すぐにキャンセルの連絡を入れます。オレも出来る限り最速でこの棋譜を検討し尽くしたい。アキラくんも呼びますか」
「ああ、すぐに呼ぼう。明日は研究会だが、それまでに我々で果たせる限りの検討を果たし、それを元にさらに深く検討したい。進藤くんと藤崎さんの二人も呼びたいくらいだが……日曜日だから二人は院生研修だな。ままならないものだ」
「あの二人は、プロ試験が終わるまでは名人の研究会には来ないと言っていましたよ。送迎したときの車内で聞きました」
「なんと? それは……何故かね」
「アキラくんが自分たちに追いつくために頑張ってるのに、茶々を入れるのは違う気がする……と進藤のほうが言っていましたね。ネット碁での対局なら受け付けるとのことで、実は私は先日に一度、二人とネット碁で対局させてもらっています」
「ずいぶんな話だ。緒方くん、私にそれを隠していたな」
「アキラくんもオレに隠していたことがあるので親に責任を求めようと思いまして」
「師匠への裏切りだな。罰として緒方くんは私にネット碁を教えたまえ。一柳さんも打てるのならば私が打てない道理はないはずだ」
「そろそろかと思っていましたよ。では、この棋譜の検討とあわせて、ネット碁の打ち方についても名人に指導しないとですね。しかし名人、ネット碁ならアキラくんも打てるでしょう。彼に聞けばよいのでは?」
「息子に教えを乞うという難しさが親にはあるのだよ」
「くく、成程……では明日の予定のキャンセルを入れてきますので、一旦失礼を」
そして、そんな至高の
ヒカルとあかりの高みにたどり着くために日々の全てを囲碁に捧げているアキラも共に、どれほどまで一つ一つの手を深く読み込めるか。
隠し切れぬ頬の緩みを零しながら、うきうきとした気分で検討に臨む三人であった。
※ ※ ※
「お姉ちゃん、これ……ここからどうするの?」
「んー。ここはねー、たぶん右上のボタンを押すのだ。困ったらだいたい右上のボタン押せば何とかなるよー」
「適当だなぁ……あ、でも登録? ってボタン出て来た。これかな?」
「それそれ。おー、説明書にもそう書いてあったわー。知らなかった」
「お姉ちゃん?」
ここは藤崎家。
先日行われた若獅子戦の準優勝の賞金で携帯電話を購入したあかりが、姉であるゆかりに教わって携帯電話の初期設定をしていた。
簡単な通話操作を覚えて、今は知り合いの連絡先を電話帳に登録している所だ。
指先一本で直感的に操作できるスマートフォンとは違い、この当時の携帯電話は全ての機能をしっかりと使うのは中々に難易度の高い機器だった。
知人友人恋人の電話番号とメールアドレスを黙々と登録するあかりだが、ここでひとつ問題に気付いた。
「……電話帳、ヒカルの名前がすぐに出てこないなぁ」
「あっはっは!」
五十音順に並ぶ電話帳の機能。
院生の友人や学校の友人たちも登録している都合上、進藤ヒカルの名前がさ行に存在して、すぐに引っ張れないことにあかりは不満を覚えた。
ヒカルと御揃いで購入した携帯電話だが、ヒカルの方は『あかり』と登録すれば一番上に表示されるというのに、自分の方は下にある。なんかちょっと許せなかった。
しかしそんな妹の可愛い悩みに、笑い飛ばして解決策を提示するのは姉のゆかりだ。
「名前をそのまま入れなけりゃいいんだよ。高校で友達に教えてもらってねー。名前のてっぺんにハートマークの記号入れてみな? 赤色のやつ」
「えっ? ……えっと、記号ってどうやって入れるの?」
「貸してみ。ここを押すと記号モードになって……で、これな。これ入れるとソートで一番上に並ぶんだよ。友達の彼氏持ちがやってたわー」
「わっ、ホントだ! ありがとーお姉ちゃん! ……じゃあお姉ちゃんは筒井さんの頭文字にハートつけてるの?」
「えっ? やだもぅマセたねこの妹は。筒井くんはからかってて楽しい後輩の一人だってー。そういうのじゃナイナイ。向こうは意識すらしてないでしょ」
「そうかなぁ。部活でも結構お姉ちゃんの話題出てくるよ?」
「えっマジ? ……どんな話してんの? 私の」
「ほら図星ー」
「いや違うから。中学時代の私の噂がどれだけあかりの耳に入っているかって不安で……」
「葉瀬中で何してたのお姉ちゃん」
相変らずの仲の良さで、お互いに携帯電話を弄りながらおしゃべり以上コイバナ未満のお互いの生活について話す二人。
無事あかりの携帯の電話帳のトップにヒカルの名前が登録出来たところで、最後にあかりが忘れぬように姉に声をかけた。
「そう言えばお姉ちゃん、前にも言ったけど」
「んー?」
「囲碁部の大会。再来週の土曜日に、海王中が会場だから忘れないでね? お姉ちゃんの分の弁当も作っておくから」
「おー。覚えてる覚えてるー。筒井くんと加賀なら楽勝っしょー多分。もう一人入った三谷くんってのも強いんだって?」
「うん、お姉ちゃんが本気出せばいい勝負できるくらいかな」
「急に不安になって来たな……」
「お姉ちゃんそろそろ腕前自覚しよ?」
若獅子戦が終わった六月。
同じ月に、中学校部活対抗の囲碁大会が開かれる。