蒼い悪魔の英雄譚   作:魚の目108

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二週間に一回投稿とか言った直後にこれですよ。


決着

 

「やるな……」

 

 その呟きに、エーデルワイスは思わず目を見開き、目の前の男の顔へ視線を向けた。

 本来であれば事切れているであろう状態の人間から発せられるはずもない、あまりにも静かで、穏やかな声。

 まるでただ些細な感想を零しただけのような、温度すら感じない声音だった。

 

「何故……」

 

 エーデルワイスは未だ目の前の状況が飲み込めずにいた。

 今まで様々な伐刀者(ブレイザー)を見てきた彼女の記憶の中には、こういった致命傷であろうとも立ち上がる者はいた。

 例えば、自然干渉系能力の一つである水使い。

 その中でも超一流の水使いは心臓を破壊されたとしても、脳さえ無事なのであれば自らの身体を水に変換し、再構築することで傷をなかったことにすることが可能だ。

 または、いかなる傷だろうと瞬時に回復するKOK第四位に位置するフランスの魔導騎士、《不屈》の概念の能力を持つアイリス・アスカリッドなど。

 

 伐刀者(ブレイザー)というのは往々にしてその超常の力で致命傷すら修復することが出来る。

 しかし目の前の男、バージルに関して言えばそういった傷を癒すような能力を持ち合わせているようには見えない。

 ましてや、傷は癒えるどころか、未だ胸を貫く《テスタメント》の傷口からは絶え間なく血が流れ続けている。

 いかに世界最強と呼ばれるエーデルワイスといえど、治癒能力を持たぬ以上、同じ状況に置かれれば待っているのは死だけだ。

 それなのに、何故この男は平然としていられるのか。

 

 であれば、この男は――

 

「人間では……ない?」

 

 思わず零れたその言葉は、妙にすとんと胸の底へ落ちた。

 心臓が機能していないにもかかわらず、あれほど平然としていられる人間など、この世に存在するはずがないのだから。

 

「その問いに答えてやってもいいが、後ろの二人には知られたくはないのでな。場所を変えさせてもらおう。この技に貴様が耐えられればの話だが」

 

 そう告げると同時に、バージルは胸に突き刺さった《テスタメント》を意にも介さぬまま、右手に握られた魔力の大剣を大きく引き絞った。

 突きを放つための構え。

 その動作に伴い、胸を貫いていた剣を通じて、エーデルワイスの身体までもがぐいと前方へ引き寄せられる。

 

「……!」

 

 まずい。

 彼の構えを見ただけで分かる。

 あらん限りの力を、たった一点へと収束させているのだと。

 さらに、突き刺さった剣先を通じて流れ込んでくる彼の魔力もまた、脈打つように膨れ上がっていく。

 これから放たれる一撃が、常識の埒外にあるものだと、本能が警鐘を鳴らしていた。

 

 すぐに剣を引き抜き、回避しなければ――

 

 そう判断したエーデルワイスは、バージルの胸に突き刺さった剣を咄嗟に引き抜こうとする。

 しかし――

 

(抜けない……!)

 

 刀身は、胸の強靭な筋肉に絡み取られたかのように締め付けられ、びくともしない。

 ならばとエーデルワイスは即座に右手を離し、後退に移ろうとする。

 だが、その時には既にバージルは技の発動に必要な溜めを終えていた。

 

There is No Escape(逃がさん)!」

 

 咆哮と共に、バージルは右手の魔力の大剣を前へ突き出す。

 直後、その場で身体を強引に捻り、全身を軸にして凄まじい速度で回転を始めた。

 回転に巻き込まれた空気が悲鳴のような唸りを上げ、足元の地面が抉れて火花と破片を散らした。

 突き出された大剣は回転の中心で唸りを上げ、まるで貫通力だけを極限まで高めた巨大なドリルのようだった。

 エーデルワイスは残った左手の《テスタメント》の腹を咄嗟に盾として構え、その猛進を真正面から受け止めた。

 

(くッ! 力を逸らせない……!)

 

 突進の勢いを受けた瞬間、彼女の足は地面から浮き上がっていた。

 踏ん張るための足場を失ったことで、受けた力を地へ逃がすことができない。

 それどころか、防御に徹する以外の余裕もなく、力を返すことも出来ない。

 エーデルワイスは成す術もなくこの攻撃を耐え続ける他なかった。

 凄まじい勢いのまま地面すら削り取りながら、二人は暁学園の校舎入口へ一直線に突き進み――

 

「――――ッ!」

 

 次の瞬間、入口を粉砕しながら校舎内へと突入した。

 扉も、並べられていた備品も、進路上にあるもの全てが巻き添えとなって吹き飛び、荒々しい破壊音が校舎内に響き渡る。

 さらに、入口付近では壁の崩落によって生じた瓦礫が雪崩れ込み、入り口は閉ざされてしまった。

 そのままバージルは吹き抜けとなっている校舎内の中央へと突き進むと、ようやく回転を止め、勢いを付けながら二刀を袈裟懸けに振り下ろす。

 

「ハァッ!」

「くっ!」

 

 片割れの《テスタメント》で何とか二刀を受け流しながら後退するエーデルワイス。

 あれほど苛烈な突進を受けてもなお、全てを受けきった彼女に対し、まるで感心するかのようにバージルは鼻を鳴らす。

 

「ふん、これにも耐えるとはな。俺から言わせてもらえば、貴様も人間かどうか怪しいものだ」

 

 そう言いながら、バージルは右手に握っていた魔力の剣を霧散させ、胸に突き刺さった《テスタメント》を無造作に引き抜いた。

 その瞬間、傷口から大量の血が噴水のように噴き上がる。だが、それもほんの一瞬のこと。

 次の瞬間には出血はぴたりと収まり、目を凝らせば、貫かれていたはずの皮膚と肉が瞬く間に塞がっていくのが見て取れた。

 

 明らかに魔術の類による治癒ではない。

 それはもっと根源的な、肉体そのものの理が常人とは異なっているがゆえに起こる現象だった。

 先ほどバージルが口にした『貴様も』という言葉が、ここにきて確信へと変わる。

 理屈こそ分からない。

 だが少なくとも、目の前の男が“人間”という枠組みから大きく外れた存在であることだけは、疑いようもなかった。

 

 バージルは手にした《テスタメント》を、まるで不要な荷物でも返すかのように無造作にエーデルワイスへ放る。

 エーデルワイスは警戒の視線を一瞬たりとも逸らさぬままそれを受け取り、再び元の二刀流の構えへと戻った。

 

「その言い方は、自分が人間ではないと言っているようなものですが……貴方は何者なのですか?」

「語るよりも、直接見た方が早いだろう」

 

 直後、バージルの総身から蒼い魔力が突風となって吹き荒れる。

 それは単なる放出ではない。暴風そのものとなって周囲へ吹き荒れ、エーデルワイスの身体を正面から打ち据える。

 思わず腕で顔を庇いたくなるほどの圧。しかし彼女は、それすら忘れて目の前の男から目を離せなかった。

 放たれている魔力量が、あまりにも桁外れだったからだ。

 

(何という魔力量……! これはもはや《紅蓮の皇女》ですら……!)

 

 通常の伐刀者(ブレイザー)の三十倍と言われるステラ・ヴァーミリオンの魔力量。

 だが、バージルが今放っているこれは、そんな比較すら馬鹿らしく思えるほどに膨大だった。

 三十倍などという尺度で測れる領域ではない。

 空間そのものが軋み、立っているだけで膝を折らされそうになるほどの濃密な魔力が、物理的な圧となって周囲を蹂躙している。

 

 その魔力の嵐の中心に立つバージルを見つめていた時――今度は、さらに目を疑う光景が起こった。

 

「これは……」

 

 紺色のスーツに身を包んだその姿は、いつの間にか全身が銀色の光沢を纏い、蒼い魔力光が所々から輝いている蒼い悪魔へと姿が変化していく。

 エーデルワイスは、まるで人の理から外れた魂が、そのまま肉体を侵食していくかのようなこの現象に心当たりがあった。

 

「《覚醒超過》……」

 

 目の前の悪魔――バージルは、その言葉がまるで聞き覚えのないものであるかのように、わずかに首を傾げた。

 

「……? 何だそれは」

 

 声音にはわずかなノイズが混じっていた。

 だが、その暴威じみた風貌とは裏腹に、口調そのものは妙なほど冷静だった。

 その落差に一瞬だけ意外さを覚えつつも、エーデルワイスは問いに答える。

 

「……知らないのですか? 伐刀者(ブレイザー)が運命を踏破し、《魔人(デスペラード)》へ至った時、その人ならざる魂は肉体にまで影響を及ぼします。力を使いすぎれば、やがて肉体までも異形へと変質してしまうのです」

 

 《魔人(デスペラード)》。

 伐刀者(ブレイザー)個人の持つ可能性の限界を極めつくし、それでもなお高みへと昇ろうとするほどの自己(エゴ)を持つ者のみが至れる存在。

 この領域に至った者は不変とされている総魔力量の上限すらも取り払われ、訓練次第では魔力量を伸ばす事すら可能だと言われている。

 

 そして、その先にあるのが《覚醒超過》と呼ばれる現象だ。

 今エーデルワイスが語ったように、《魔人(デスペラード)》とは人外の領域へと至った魂であり、その力を使いすぎれば肉体にも影響を及ぼす。

 詳しい発生条件は元々数の少ない《魔人(デスペラード)》から発生するもののため、未だに未解明ではあるが、世界各地に言い伝えられている鬼や悪魔と言った怪物の伝承は《覚醒超過》に至った伐刀者(ブレイザー)のなれの果てではないかと言われている。

 

(《覚醒超過》にまで至ったとされる伐刀者(ブレイザー)は、昔の日本にいたとされる《大炎》くらいのもの。私自身も実物は初めてお目に掛かる)

 

 だがバージルはエーデルワイスの説明を聞いても要領を得ないのか、首を傾げたままだ。

 《覚醒超過》に至った者は、その絶大な力と引き換えに人間性を喪うとも言われているが、今の彼を見る限り、全くもってそうは見えない。

 むしろ、深く考え込むような素振りを見せてさえいた。

 

「……ふむ、《魔人(デスペラード)》というものもよく分からんが、少なくとも《覚醒超過》と呼ばれるものではない。俺はそもそも伐刀者(ブレイザー)ではないのだからな」

「……え?」

 

 バージルのその言葉にエーデルワイスは思わず呆けてしまう。

 だが、それも当然だろう。

 今の今まで様々な魔術を行使しておいて自分が伐刀者(ブレイザー)ではないなどと言い張っているのだから。

 

「何を言って……」

「この際だから言っておこう。俺はこの世界の者ではない。貴様達とは異なる世界からやってきた悪魔と人間から生まれた半人半魔だ」

 

 異世界。

 半人半魔。

 

 そんな言葉を聞かされて、平然としていられる者の方が少ないだろう。

 大半の人間なら、正気を疑って耳を疑うに違いない。

 それは世界最強という立場上、一癖も二癖もある数多の伐刀者(ブレイザー)達を見てきたエーデルワイスですらも同様だった。

 

「それを信じろとでも……?」

「信じるかどうかは貴様の勝手だ。だが、この姿になるまで俺を追い詰めた貴様には、知る資格くらいはある。……俺からの褒美のようなものだ」

 

 疑いの言葉を投げかけても、あくまで真実だと言い張るバージル。

 しかし、今まで刃を交え、その剣と在り方に触れてきたからこそ、エーデルワイスには分かった。

 少なくとも、この男は今、嘘を吐いていない。

 無論、それは彼が正気であるという前提があってこその話ではあったが。

 

「……一つだけ、いいですか」

「何だ?」

「仮に本当に貴方が悪魔の血を引いていたとして、貴方の目的は一体何なのですか? 人間に危害を加えるようなことはないのですか?」

 

 その問いには、彼女の根底にある善性が滲んでいた。

 かつて起こったバルト危機と呼ばれる《連盟》と《同盟》による戦争。

 自らの故郷であるエストニアを勝手に戦場の舞台とし、それを良しとしなかった彼女は単身で両軍を斬って捨てた。

 それ以降《比翼》は世間からは世界最強の犯罪者と呼ばれるようになってしまったが、彼女はそう呼ばれることになった後も法に囚われない自身の正義によって動き、数多の人間を救ってきた。

 

 そんな彼女から見て、正直に言ってしまえば今の彼の姿は人間を害する存在にしか見えない。

 だからこそ、バージルがこの世界に悪を為す者であるかを確認せずにはいられなかったのだ。

 悪魔とは伝承や御伽噺では、そのほとんどが人間を害する存在として描かれている。

 もし、そんな話に描かれていた悪魔と同じように彼が罪もない人間に対して悪意を持っているのならば、全身全霊を以てこの場を生き抜き、対策を講じなければならない。

 下手をすれば、《連盟》と《同盟》が力を合わせたとしても対抗は難しいかもしれない。

 エーデルワイスは、そこまで考えていた。

 

 彼女は、虚言など決して許さぬとでも言うような真剣な眼差しで、蒼く輝く彼の瞳を見据える。

 その意図が伝わったのかどうかは、人のものとは到底思えぬ異形の貌からは読み取れなかった。

 だが、バージルは短く、端的にその問いに答えた。

 

「俺の目的は元の世界への帰還。今ここで教師をしているのも、そのための手段に過ぎん。人間を害するつもりもないが、敵対するなら話は別だ。今回の貴様らのようにな」

「……そうですか」

 

 それを聞いたエーデルワイスは、強張っていた肩の力をわずかに抜いた。

 もちろん、彼が嘘をついている可能性も皆無ではない。

 だが、その可能性は低いだろうと彼女は判断していた。

 

 今の彼は、この世界のいかなる人間も太刀打ちできぬほどの圧倒的な力を有している。

 つまり、いつでもこちらを殺せると認識している相手に対し、わざわざ虚言を弄する必要などないはずなのだから。

 

「質問はそれだけか?」

「えぇ、思い返してみれば貴方はクロガネを助けにやってきたのですから、この問いは愚問でしたね。それに彼のあの目は貴方をよく慕っているように見えましたし」

「……む」

 

 本人は否定するだろうが、一輝から尊敬の眼差しを向けられていると知って、少しだけバツが悪そうに俯く異形の姿はともすれば、若干だが滑稽にも見える。

 そんなバージルを見て思わずエーデルワイスの口からクスッと小さな笑いが零れた。

 

「……貴様、何を笑っている」

「いえ、すみません。こんな人間らしい悪魔がいるとは思わなかったものでして」

「チッ……」

 

 バージルは舌打ちを漏らしながらも何か言い返そうとしていたようだが、口を閉ざしてそっぽを向く。

 その僅かな仕草だけで少なくともこの男は、悪意で力を振るうような怪物ではないと確信した。

 一輝に止めを刺そうとした自分を止めるために剣を抜き、彼に慕われるだけの理由をその内に持っている。

 それが分かっただけで、彼女の胸中にあった最後の警戒心も、ようやく薄れていった。

 

「それにしても、この世界で私以上の強者がいないと思っていたら、まさか異なる世界にいたとは、まさに盲点でしたね」

「ふん、随分あっさりと自分より上だと認めたな。それとも、この姿を見て諦めたか? もしそうならこのまま背を向けて逃げればいい。見逃してやろう。逃げ回る女を斬る趣味はないのでな」

「私がそんな殊勝に言うことを聞く女に見えますか? それに言ったではないですか。貴方に勝ちたいと」

 

 エーデルワイスの声音に揺らぎはなかった。

 目の前に立つのは、もはや人の範疇を明らかに逸脱した異形。

 その全身から放たれる威圧も、蒼く脈打つ魔力の奔流も、彼女の本能が“敵う相手ではない”と告げている。

 それでもなお、その瞳から闘志が消えることはない。

 

 むしろ、異形の姿を晒した今だからこそ確信していた。

 この男は、ようやく辿り着いた“届かぬ高み”そのものなのだと。

 

「貴方が何者であろうと、もう関係ありません。悪魔だろうと、異世界の住人だろうと、そんなことはどうでもいい。今の私にとって重要なのは、貴方が――私の剣ですら届かぬ高みにいるという事です」

 

 その言葉に、バージルはわずかに口元を歪めた。

 嘲笑ではない。

 値踏みするような、そしてどこか愉しむような笑みだった。

 

「いいだろう。ならば来い。貴様の渇望ごと、この俺が叩き潰してやる」

「ええ、今度こそ――その傲慢ごと、斬り伏せてみせます」

 

 そう口にした瞬間、エーデルワイスの総身から白銀の魔力光が猛るように噴き上がり、彼女の周囲を覆い始める。

 それはバージルが放つ魔力からすれば儚いものではあったが、それでも明らかに先ほどとは比べ物にならない程の魔力が滾っていた。

 バージルはエーデルワイスの魔力上限が上がったかのような現象を、どこかで見たとでも言うように反応する。

 

「《一刀修羅》……。なるほど、貴様ほど身体運用に精通した者であれば奴と同様のことが出来るのは道理か」

「彼の場合は《身体能力強化》に対してそれを行っていましたが、私が底上げするのは――私自身の能力、そのものです」

 

 エーデルワイスの能力は《契約》。

 バージルを一瞬だけ拘束したのも、その能力によるものだ。

 しかし、今ブーストした力で従える強制力はもはや人だけに留まらず、この世の理すら捻じ伏せ、世界そのものへ命令を下すに等しい絶対的な支配力へと昇華されていた。

 

 直後――

 彼女の後ろに身の丈三十メートルにも及ぶ巨大な戦乙女の幻影が浮かび上がる。

 それは彼女が《魔人(デスペラード)》として辿り着き得る運命、その因果が可視化された姿。

 かつて《連盟》と《同盟》の両軍を相手取り、たった一人で勝利を掴み取った、エーデルワイスにとって正真正銘の切り札である。

 その名は――

 

「《理を断つ綺羅星の剣(ソードオブコスモス)》」

 

 戦乙女の幻影は、その両の手に持つ巨大な双剣を眼下のバージルへ向けてゆっくりと振りかぶる。

 もはや自らが剣を振るう意味もなく、彼女が対象を斬ると思うだけでそれは世界を切り裂く因果の剣となる。

 エーデルワイスにとって最大最強の伐刀絶技(ノウブルアーツ)

 それを見たバージルは、異形の口元を歪めて笑いを零す。

 

伐刀者(ブレイザー)とは何とも面白い存在だ。ただの人間でありながら、世界の理すらも従えるか。だが――」

 

 バージルは魔力が噴き出す左の前腕へ右手を添え、静かに腰を落とした。

 周囲の空気ごと張り詰めさせる、絶対の一刀を放つ者の構えだった。

 

This is the End(これで終わりだ)

 

 先ほどまで無造作に放たれていた膨大な魔力が、暁学園の校舎を全て覆うように指向性を持って空間を支配する。

 この空間内にいる者は全て切り裂かれる運命にあるのだと決定付けられるような、そんな運命への強制力が働いているようでもあった。

 

(あぁ……恐ろしい。こんな感情は初めてです)

 

 エーデルワイスの心の中で生じた一抹の不安。

 

 勝てないかもしれない――

 

 剣を取ってからというもの、そんな予感を抱かされたことは今まで一度もなかった。

 剣を取れば勝つ。斬れば届く。

 それが当たり前だった彼女にとって、眼前の男は初めて“届かぬかもしれない”と本能に思わせる存在だった。

 

 だが、それでも。

 

 胸の奥に灯った熱は消えない。

 むしろ、その不安を薪にするかのように、なおさら激しく燃え上がっていく。

 

 勝ちたい。

 勝てないかもしれないからこそ、なおさら。

 届かないかもしれないからこそ、この刃を届かせてみたい。

 

 恐怖は、確かにあった。

 けれどその恐怖すら、今の彼女には甘美だった。

 それは逃げたいという感情ではない。

 この高みを前にしてなお退かず、むしろ踏み込みたいと願う者だけが抱ける、剣士としての歓喜だった。

 

 ならば、怯える必要などない。

 勝てぬかもしれぬ相手ならば、なおのこと斬り伏せる価値がある。

 この震えも、この熱も、この渇望も――すべてを剣へ乗せればいい。

 

 エーデルワイスは静かに息を吸う。

 

 互いに必ず『斬る』という結果へと結びつける、最強の矛と矛の激突。

 

 先に動いたのはエーデルワイスだった。

 彼女は剣の切っ先を指揮者のようにバージルへ突きつける。

 それと同時に、背後に顕現していた戦乙女の幻影が振りかぶった巨大な双剣を、そのまま彼に向けて振り下ろした。

 

 無論、それは実態を持たぬ、ただの幻影だ。

 ゆえにこの攻撃の動作はイメージに過ぎない。

 しかし、これは彼女が「バージルを斬る」と世界へ強制する契約そのもの。

 いかに相手が回避しようと、その斬撃は必ず届く。

 それはもはや攻撃ではなく、“そうなる”と定められた結果だった。

 

 それに対しバージルは――

 

「フッ――!」

 

 短く息を吐いた、その刹那。

 彼の姿が掻き消えた。

 

(速い……!)

 

 エーデルワイスの目を以ってしても、動き出した一瞬しか捉えられなかった。

 そう認識した時には、すでに無数の残像が周囲を駆け巡っていた。

 蒼い軌跡が縦横無尽に空間を裂き、学園の校舎ごと世界を切り刻む。

 

 そして――

 

「――――――」

 

 時が、止まった。

 

 そうとしか形容しようのない不可解な現象が起こったのだ。

 バージルがいた地点へ向けて振り下ろされていたはずの戦乙女の双剣が、まるで時間ごと縫い止められたかのように空中で静止している。

 

 しかも止まったのはそれだけではなく

 

(私自身も――)

 

 エーデルワイスは剣を突き出したまま、その場に縫い付けられていた。

 指先ひとつ動かせない。

 身体に力を込めるという感覚すら、そこにはなかった。

 

 そう思ったのも束の間。

 バージルは元居た位置に戻っており、膝立ちになりながら後ろを向いていた。

 そして、腕と一体となっている鞘へ刀を納めた瞬間、悪魔の姿から人間の姿へと戻ると同時に静かに呟く。

 

Rest in Peace(安らかに眠れ)

 

 校舎内に縦横無尽に張り巡らされていた斬撃の軌跡が弾けるような音を立てると、空間そのものがまるでガラスのように砕け散る。

 それと同時に、凍りついていた時が音を立てて解き放たれ、背後にそびえていた戦乙女の幻影もまた例外ではなかった。

 その巨躯には無数の断裂が刻まれており、遅れて全身が幾つもの塊にずれ、何の抵抗もなくバラバラに切断されていく。

 断たれた幻影の断面は淡い光を漏らしながら崩れ、やがて砕けた星屑のように空中へ散って消えていった。

 

 無論、無事に済まなかったのは幻影だけでなく――

 

「カハッ―――」

 

 エーデルワイスの胴体に走った切創が十字に弾け、鮮血が遅れて宙へ舞う。

 切り裂かれた衝撃に、彼女の身体はぐらりと揺らいだ。

 

(敗北というのは、こんなにも悔しいものなのですね……)

 

 今まで生きてきた中で初めて経験する、敗北の苦み。

 だが薄れ行く意識の中で、エーデルワイスの表情はなおも熱を失うことはなかった。

 何故なら、ようやく見つけたのだ。

 全身全霊を賭してなお届かぬ高みと、そこへ必死に手を伸ばすと誓った自分自身を。

 それ以上に、斬られた痛みすら愛おしいと思ってしまう程に、この一戦は彼女の心に深く刻み込まれた。

 

「次こそは……」

 

 もし次があるのなら。

 そう願わずにはいられない。

 

「私が勝ちます……」

 

 崩れ落ちる視界の中、それでもエーデルワイスの瞳だけは、最後までバージルの後ろ姿を捉え続けていた。

 

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