魔法少女さやかマギカ 〜ワルプルギスの夜のあとで! 作:革新的甲殻類
見滝原市に、本格的な夏が訪れていた。
ワルプルギスの夜が去ってからというもの、気候までおかしくなったのか、今年の夏は例年になく蒸し暑い。
ライフラインは復旧しつつあるものの、電力供給は未だ不安定で、「節電」が市民の義務となっていた。
巴マミ邸のリビングも、例外ではない。
エアコンの設定温度は28度。優雅な間接照明は消され、窓が開け放たれている。風鈴の音がチリンと鳴るが、生温い風が入ってくるだけで、涼しさには程遠い。
「あー……あつい……」
あたし、美樹さやかは、フローリングの床にペタリとへばりついていた。冷たい床に頬を押し付けることで、わずかな涼を得ようという涙ぐましい努力だ。
「だらしないわよ、さやかちゃん。レディがそんな格好で」
マミさんは、額にうっすらと汗を浮かべながらも、扇子を優雅に仰いでいる。しかし、その紅茶を持つ手が震えているのは、きっと暑さのせいだけではないだろう。この部屋、熱気が籠もってサウナみたいになってるもん。
「だってぇ、暑いんだもん…。杏子なんて見てよ」
あたしが指さした先、ソファの上では、杏子がタンクトップ一枚になり、アイスキャンディーを齧りながら扇風機を独占していた。
「あ゛ー…ワレワレハ…ウチュウジンだ…」
「扇風機に向かって宇宙人ごっこするのはやめなさい」
ほむらは、部屋の隅で黙々と髪の手入れをしている。
「…暑さは集中力を削ぐわね。いっそ、時間停止魔法で空気の分子運動を止めて、局所的な絶対零度を作り出せば…」
「やめて! 部屋ごと凍るから!」
まどかは、そんなあたしたちを見て、苦笑いしながら団扇をパタパタさせてくれている。
「みんな、大丈夫? 麦茶淹れてこようか?」
「まどか…あんたが一番の天使だよ…」
そんな、気怠くも平和な夏の夜のことだった。
カサッ、と。
リビングの隅、観葉植物の影で、乾いた音がした。
「…ん?」
最初に反応したのは、野生の勘が鋭い杏子だった。彼女はアイスを咥えたまま、音のした方をじっと見つめる。
「どうしたの、杏子ちゃん?」
マミさんが不思議そうに尋ねる。
カサカサッ。
再び、音がした。今度は、テレビ台の裏側から。
「…何かがいる」
ほむらの目が、瞬時に戦闘モードに切り替わる。
「魔女の使い魔…? いや、魔力反応はないわ」
あたしたち五人の視線が、一点に集中する。
テレビ台の影から、そろり、と触角のようなものが二本、顔を出した。
そして、続いて現れたのは、黒光りする流線型のボディ。
すばしっこい足。
人類が本能的に恐怖と嫌悪を抱く、あのフォルム。
そう。
夏のリビングの帝王。
コードネーム『G』。
「…………」
一瞬の静寂。
時が止まったかのような静けさの中、そいつは触角をピクリと動かし、あろうことか、マミさんの方へ向かってカサカサと走り出した。
その瞬間。
「きゃああああああああああああああああああっ!!!」
マミさんの、優雅さの欠片もない悲鳴が、夜の見滝原に響き渡った。
「い、い、い、イヤアアアアッ! 来ないで! こっちに来ないでぇっ!!」
パニックに陥ったマミさんは、なんと自分のリボンを暴発させ、近くにあったアンティークの花瓶を粉砕した。
「マミさん落ち着いて! ただの虫だから!」
あたしが叫ぶが、マミさんは椅子の上に飛び乗り、涙目でガタガタ震えている。
「無理無理無理! 私、あれだけは本当にダメなの! 魔女より怖いのよおおおっ!」
「ちっ、しょうがねえな!」
杏子が食べ終わったアイスの棒を投げ捨て、槍を実体化させる。
「あたしが叩き潰してやるよ!」
「やめろ杏子! 家の中で長物を振り回すな!」
あたしの制止も聞かず、杏子は槍を振りかぶった。
「うらあああっ!」
ドゴォッ!
槍の一撃は、『G』がいた場所のフローリングを深々と抉った。しかし、奴はいない。驚異的な反射神経で回避し、今度は壁を登り始めている。
「速い…!」
ほむらが眼鏡を光らせた。
「物理攻撃による排除は、家屋への損害が大きいわね。ならば、ピンポイントで消滅させるしかない」
カチャリ。
ほむらの手には、いつの間にかデザートイーグル(大型自動拳銃)が握られていた。
「待て待て待て! ほむら、あんた室内で何撃とうとしてんの!?」
「動かないで。跳弾が危ないわよ」
「そういう問題じゃない!」
「えいっ!」
まどかが、とりあえず近くにあったクッションを投げつける。
ぽふん。
クッションは壁に当たり、『G』を優しく包み込んで床に落ちた。
「やった!?」
まどかが期待の声を上げる。
しかし。
クッションの下から、奴は無傷で這い出してきた。それどころか、興奮したのか、背中の羽根を広げ、ブブブブ…と不吉な羽音を立て始めた。
「と、飛ぶ気よ!?」
マミさんが白目を剥きかけている。
『G』は、あざ笑うかのように空へと舞い上がった。
その軌道は、一直線に、あたしの顔面へと向かっている。
「うわああああああっ!!」
あたしは咄嗟に剣を抜き、目の前で振るった。
しかし、空を切る音だけが響く。奴は空中で急旋回し、開け放たれた窓から、夜の闇へと飛び去っていった。
「………」
あとに残されたのは、
抉れたフローリング(杏子の仕業)。
割れた花瓶(マミさんの仕業)。
銃を構えたまま固まるほむら。
そして、へたり込むあたしたち。
「…に、逃げられた…」
あたしが力なく呟くと、ベランダの手すりに、いつもの白いアイツが現れた。
「やあ。地球の生物の進化は素晴らしいね。あのサイズで、魔法少女五人を手玉に取るとは。実に効率的な生存戦略だ」
「解説すんな!」
あたしは近くにあったティッシュ箱を投げつけた。
だが、このままでは終われない。
マミさんは「家の中にまだいるかもしれない」という恐怖で、今夜一睡もできないだろう。
それに、魔法少女としてのプライドが許さない。
「…追うわよ」
ほむらが、静かに言った。その瞳は、ワルプルギスの夜に挑む時と同じくらい真剣だった。
「奴を逃がせば、この家に安息はない。徹底的に追跡し、駆除する。それが、今夜のミッションよ」
「おう、やってやろうじゃねえか!」
杏子もやる気満々だ。
こうして、あたしたちは、熱帯夜の街へと、『G』一匹を仕留めるためだけに飛び出すことになった。
それが、まさかあんな怪奇現象に繋がるとも知らずに。
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夜の見滝原市街地。
節電で薄暗くなったビルの屋上を、五つの影が疾走していた。
「目標、2時の方向へ逃走! 速度、時速40キロ!」
「速すぎでしょ、あいつ! 原付かよ!」
先頭を走る暁美ほむらが、暗視ゴーグル(どこから出した)越しに状況を報告し、あたしが全力疾走しながらツッコミを入れる。
あたしたちが追っているのは、魔女でも、使い魔でもない。
たった一匹の、黒光りする『G』だ。
「逃がしません…! 今夜という今夜こそは、あの忌まわしいフォルムをこの世から消滅させてやるわ!」
最後尾を走るマミさんは、もはや正気ではなかった。
彼女は走りながら、リボンから召喚したマスケット銃を、まるでマシンガンのように乱射しているのだ。
ダァン! ダァン! ダァン!
「マ、マミさん! 流れ弾! 危ないって!」
「黙りなさいさやかちゃん! 敵は神出鬼没なのよ! 制圧射撃で動きを封じるの!」
マミさんの放つ魔弾が、屋上の給水タンクや看板を次々と粉砕していく。
『G』は、その弾幕をあざ笑うかのように、ジグザグ走行で回避し、隣のビルの壁面へと飛び移った。
「壁走んな! 気持ち悪い!」
杏子が槍を伸ばし、壁ごと叩き潰そうとするが、奴はカサカサッという独特の動きでそれを回避する。
「くそっ、なんて回避性能だ! ワルプルギスの夜よりタチが悪いぞ!」
「いえ、動きが直線的ではないわ。フェイントを混ぜている…!」
ほむらが冷静に分析しながら、サブマシンガンを取り出す。
「この動き…おそらく、ニュータイプよ」
「虫にその概念持ち込まないで!」
あたしたちは、ビルからビルへと飛び移りながら、必死の追跡を続けた。
はたから見れば、魔法少女たちが夜の街を守るためにパトロールしている勇姿に見えるかもしれない。
だが、現実は害虫駆除だ。しかも、かなり手こずっている。
「まどか! あいつがこっちに来たら、光の矢で照らして! 黒くて見えない!」
「う、うん! 任せて!」
まどかが弓を引き、閃光弾のような矢を放つ。
パッと周囲が明るくなり、奴の姿が浮かび上がった。
奴は、ビルの屋上の端っこ、フェンスの上に止まり、こちらの様子を伺うように触角を揺らしている。
「見つけたわ…!」
マミさんの目が据わった。
「ティロ……」
巨大な大砲を召喚しようとするマミさんを、あたしは慌てて羽交い締めにした。
「ダメですマミさん! 街中でティロ・フィナーレ撃ったら、あたしたちが警察に捕まります!」
「離してさやかちゃん! 恐怖は火力でしか払拭できないのよ!」
「名言っぽく言ってもダメ!」
その隙に、『G』は再び動き出した。
今度は、地上へと向かってダイブしたのだ。
それも、ただ落ちたのではない。
背中の羽根を広げ、ブブブブ…という不快な羽音を立てながら、滑空を始めたのだ。
「と、飛んだあああああっ!!」
「追うわよ!」
あたしたちは屋上から飛び降り、空中で変身後のマントやリボンを広げ、奴の後を追う。
夜風を切って降下する中、奴の向かう先が見えた。
そこは、見滝原市の外れにある、不法投棄されたゴミが山積みになった裏路地。
通称『ゴミ屋敷通り』と呼ばれる、衛生状態の最悪なエリアだった。
「うげぇ…あんなところに逃げ込む気かよ」
杏子が顔をしかめる。
「あそこなら、仲間がいっぱいいるかもしれないわね…」
まどかの純粋すぎる推測が、あたしたちの精神にクリティカルヒットを与える。
「やめてまどか! 想像したくない!」
『G』は、ゴミの山の隙間にある、マンホールの蓋の割れ目へと滑り込もうとしていた。
逃げ込まれたら、おしまいだ。
「逃がすかぁッ!」
あたしは空中で加速した。
剣を抜き放ち、奴の進行方向へと投擲する。
カキンッ!
剣はマンホールの蓋に突き刺さり、奴の退路を塞いだ。
「ナイスよ、さやか!」
着地したあたしたちは、マンホールの蓋の上で立ち往生している『G』を、半円形に取り囲んだ。
前には突き刺さった剣。
後ろには、殺気立った魔法少女五人。
絶体絶命。チェックメイトだ。
「…年貢の納め時ね」
マミさんが、冷酷な笑みを浮かべて銃口を向ける。
「私の平穏な夜を乱した罪、万死に値するわ」
「覚悟しな、黒光り野郎」
杏子が槍を振り上げる。
「…ターゲット、ロックオン」
ほむらの指が引き金にかかる。
あたしたちが一斉に攻撃を仕掛けようとした、その時だった。
『G』が、くるり、とこちらを向いた。
そして、その小さな身体が、ぼうっ、と赤黒い光に包まれた。
「…え?」
次の瞬間。
あたしたちの目の前で、信じられない現象が起きた。
マンホールの蓋の下から、どす黒い泥のようなものが溢れ出し、それが『G』を飲み込んだかと思うと、周囲の空間がぐにゃりと歪み始めたのだ。
ゴミの山が、壁の落書きが、そしてマンホールが、不気味なコラージュのように混ざり合い、極彩色のアートへと変貌していく。
「こ、これって…!」
見慣れた光景。
聞き慣れた不協和音のBGM。
そして、鼻をつく独特の魔力の匂い。
「魔女の結界!?」
あたしが叫ぶと同時に、キュゥべえの声が頭に響いた。
『やれやれ。どうやら君たちが追っていたのは、ただの虫じゃなかったみたいだね』
「どういうこと!?」
『あれは、使い魔だよ。この場所に巣食う魔女が放った、偵察用の使い魔さ』
「つ、使い魔…!?」
あたしたちが驚愕している間に、結界は完全に形成された。
そこは、巨大な台所と、腐った生ゴミの山が無限に続く、悪夢のような空間だった。
そして、その奥から、無数の『G』の羽音が、大合唱のように聞こえてくる。
ブブブブブブブブブ……
マミさんの顔色が、青を通り越して土色に変わった。
「…嘘、でしょう…?」
現れたのは、先ほどの『G』が可愛く見えるほど巨大な、体長2メートルはあるであろう、リアルな『G』型の使い魔の大群。
そして、その中心に鎮座するのは、黒光りする甲冑を纏った、女王のような魔女。
「……ひッ」
マミさんの喉から、短い悲鳴が漏れた。
そして、彼女は白目を剥いて、その場に気絶した。
「マミさァァァァァン!!」
あたしの絶叫が響く。
最悪だ。
よりによって、マミさんの天敵(トラウマ)が具現化したような魔女の巣窟に、あたしたちは自ら飛び込んでしまったのだ。
しかも、主力火力であるマミさんは戦闘不能。
「…これ、詰んでない?」
杏子の乾いた呟きに、誰も反論できなかった。
真夏の夜の悪夢は、ここからが本番だった。
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「ブブブブブ……」
「カサカサカサカサ……」
耳を覆いたくなるような不快な羽音と、硬質な足音が、全方位から迫ってくる。
ここは地獄だ。間違いなく、ワルプルギスの夜よりも性質が悪い、精神的な地獄だ。
「くそっ! 近寄るんじゃねえ!」
杏子が槍を振り回し、飛びかかってきた巨大G(使い魔)を突き刺す。
グシャッ、という嫌な感触と共に、使い魔が弾け飛び、黄色い体液が周囲に飛び散った。
「うげぇ……! 槍についた! なんかネバネバしてる! 最悪だ!」
「杏子! こっちに飛ばさないでよ!」
あたしは気絶したマミさんを引きずりながら、必死で剣を振るった。
斬れば体液が飛ぶ。叩けば潰れる音がする。
物理的なダメージはないけれど、精神力(SAN値)がゴリゴリ削られていくのが分かる。
「ほむら! なんとかしてよ! あんたの重火器なら!」
「無理よ! 爆発させれば、中身が広範囲に飛散するわ。それは『二次災害』よ!」
ほむらが青ざめた顔で叫ぶ。
確かにその通りだ。こいつらを爆破なんてしたら、あたしたちは体液まみれになって、社会的に死ぬ。
「まどか! マミさんを起こして! この状況を打開できるのは、マミさんの広範囲魔法しかないの!」
「う、うん! マミさん! 起きて! 起きてくださいマミさん!」
まどかが必死にマミさんの肩を揺さぶる。
その呼びかけに、マミさんの瞼がピクリと動いた。
「はっ……!」
マミさんが目を覚ました。
あたしは歓喜した。よかった、これで勝てる!
「マミさん! お願いします! 奴らを一掃して……」
しかし。
起き上がったマミさんの瞳は、どこか遠くを見ていた。焦点が合っていない。虚ろな瞳で、彼女はふわりと微笑んだ。
「……あら? ここはどこかしら? 一面に広がるお花畑……チョウチョが飛んでいるわ……」
「現実逃避してるゥゥゥゥッ!?」
マミさんの精神は、あまりの恐怖に耐えきれず、自衛本能によって脳内お花畑へと亡命してしまっていた。
「うふふ、捕まえてごらんなさい……」とか言いながら、見えないチョウチョと戯れ始めている。ダメだ、この人はもう戦力外だ。
その隙にも、包囲網は狭まってくる。
そして、結界の最奥に鎮座していた女王(魔女)が、ギチギチと牙を鳴らしながら、ゆっくりと動き出した。
その大きさは、軽自動車くらいある。
背中の羽根には、油を塗ったようなテラテラとした光沢があり、長い触角がムチのようにしなっている。
『ギチチチチ……』
魔女が触角を振り上げると、周囲の使い魔たちが一斉に興奮し、動きを加速させた。
「くるわ!」
ほむらが叫ぶと同時に、魔女が突進してきた。
その巨体からは想像もできないスピード。黒い弾丸のようなタックルだ。
「危ないっ!」
あたしはマミさんとまどかを庇って前に出る。
剣で受け止めるが、重い!
ガギィン! と金属音が響き、あたしは数メートル吹き飛ばされた。
「ぐっ……! 力も強いなんて、反則でしょ!」
「さやか!」
杏子がカバーに入ろうとするが、数匹の使い魔に足止めされている。
「離せ! こんの、虫ケラどもが!」
魔女は追撃の手を緩めない。
今度は、口からドス黒い霧のようなものを噴射してきた。
「毒ガス!?」
「いいえ、あれは……フェロモンよ!」
ほむらがハンカチで口元を覆いながら警告する。
その霧を浴びた瞬間、周囲の使い魔たちの目が赤く光り、凶暴化した。
動きが倍速になり、統制が取れ始める。
あたしたちは完全に包囲され、逃げ場を失った。
「やばい……マジでやばいかも」
冷や汗が頬を伝う。
魔法少女になって、魔女に食われて死ぬ覚悟はしていた。
でも、巨大なGに集団で襲われて、かじられて死ぬなんて……そんな最期、絶対に嫌だ! 尊厳に関わる!
「……仕方ないわね」
追い詰められた状況で、ほむらが静かに眼鏡の位置を直した。
彼女は盾の中に手を突っ込み、何か巨大なボンベのようなものを取り出した。
そこには『業務用・対害虫最終兵器』という物騒なラベルが貼られている。
「ほむら、それって……」
「昨夜、通販で見つけた海外製の強力殺虫ガスよ。これを使えば、この空間の酸素ごと奴らを殲滅できるわ」
「あたしたちも死ぬんじゃない!?」
「呼吸を止めていれば平気よ。……たぶん」
たぶんって言った!
でも、背に腹は代えられない。
ほむらが安全ピンを抜こうとした、その時だった。
「……許さない」
低い、地を這うような声が聞こえた。
「え?」
あたしたちが振り返ると、そこには、ゆらりと立ち上がる巴マミの姿があった。
さっきまでの虚ろな表情は消えている。
しかし、いつもの優雅な笑顔もない。
あるのは、般若のような形相と、極限まで見開かれた瞳孔。
そして、全身から立ち上る、黄金色の怒りのオーラ。
「私の……私の平穏で優雅なティータイムを邪魔し……あまつさえ、乙女の肌にその不浄な姿を晒した罪……」
マミさんが、ゆっくりと両手を広げる。
その背後に、無限とも思える数のマスケット銃が、扇状に展開された。
その数、百、二百……いや、もっとだ。結界の空を埋め尽くすほどの銃口が、全て魔女と使い魔たちに向けられている。
「マ、マミさん……?」
「……消毒してあげるわ」
マミさんのソウルジェムが、眩いばかりの光を放つ。
それは希望の光ではない。
恐怖と殺意が臨界点を超え、一種の悟りの境地(バーサーカーモード)に達した、破壊の光だ。
「ティロ・フィナーレ……」
マミさんは、優しく、しかし冷酷に微笑んだ。
「―――ジェノサイド・バージョン!!」
引き金が引かれた。
それはもはや、銃撃ではなかった。
黄金の光の奔流。
レーザービームのような弾幕が、結界内の全てを白く染め上げていく。
「きゃあああああ! こっちまで巻き添えよ!」
「伏せろおおおおっ!」
あたしたちは慌てて地面に這いつくばり、頭を抱えた。
頭上を、殺虫剤よりも遥かに強烈な、物理的な浄化の嵐が吹き荒れる。
「死ねぇぇぇぇぇっ! 汚物は消毒よぉぉぉぉっ! アハハハハハハハハッ!」
高笑いと共にトリガーを引き続けるマミさん。
その姿は、誰よりも頼もしく、そして誰よりも魔女に近かった。
あたしは薄れゆく意識の中で思った。
やっぱり、怒らせちゃいけない人を怒らせると、ロクなことにならないんだ、と。
---
バシンッ!!
乾いた音が、深夜のリビングに響き渡った。
あたしの右手には、マミさんの来客用高級スリッパ。
そして、その下には。
「…………」
あたしは、恐る恐るスリッパを持ち上げた。
そこには、ぺちゃんこになった黒い物体が、ピクリとも動かずに張り付いていた。
「……やった」
あたしは、震える声で呟いた。
「……とったどーーーーーーっ!!」
あたしがスリッパを高々と掲げると(汚いけど)、リビングに歓声が上がった……わけではなかった。
「うげぇ……見せんなよさやか、食欲失せるだろ」
杏子が顔をしかめる。
「ターゲットの生命反応消失を確認。……ミッションコンプリートよ」
ほむらが銃を下ろし、冷や汗を拭う。
「よかったぁ……本当によかったぁ……」
まどかがへなへなと座り込む。
そして、マミさんは。
「…………」
彼女は、あたしの手にあるスリッパと、破壊し尽くされた自分のリビングを交互に見つめ、ふっ、と優雅に微笑んだ。
「……もう、寝ましょうか」
「え?」
「明日は明日の風が吹くわ。今の私には、これ以上の現実を受け止めるキャパシティは残っていないの」
マミさんは、幽体離脱しそうなほど透き通った笑顔でそう言い残すと、フラフラと自分の寝室へ戻ろうとし――
ドサッ。
その場に崩れ落ちて、優雅に気絶した。
本日二度目のダウンである。
「マミさんーーーっ!!」
---
その後、あたしたち(主にまどかとあたし)は、マミさんをソファに寝かせ、散乱したガラス片やリボンを片付け、破壊された床にはとりあえず座布団を置いて隠した。
時計の針は、午前3時を回っている。
「……はぁ。とんだ夜だったわね」
片付けを終え、あたしたちはリビングのラグの上に雑魚寝状態で転がっていた。
エアコンは効いているはずなのに、全員、汗と疲労でボロボロだ。
窓辺には、またしてもあの白い悪魔が座っている。
「やれやれ。たかが一匹の昆虫を駆除するために、魔女討伐以上のエネルギーを消費するなんて。君たちのエネルギー収支は、宇宙的に見ても赤字だよ」
キュゥべえが呆れたように尻尾を振る。
「うるさい……」
あたしは、スリッパを投げる気力もなく、寝転がったまま呟いた。
「これは……人間の尊厳を守る戦いだったのよ……」
「そうね。……不思議と、達成感はあるわ」
ほむらが、珍しく同意した。彼女もまた、まどかの安眠を脅かす敵を排除できたことに満足しているらしい。
「ま、いい運動にはなったな。腹減ったから、冷蔵庫のプリン食っていいか?」
「ダメに決まってるでしょ! 明日の朝、マミさんが目覚めた時の慰めにするの!」
杏子の頭をペシッと叩く。
静寂が戻った部屋に、五人の寝息だけが重なる。
マミさんの家はボロボロになったし、あたしたちはヘトヘトだ。
でも、あの黒い悪魔はもういない。
それだけで、今夜は安心して眠れる。
「……ねえ、みんな」
まどかが、眠そうな声で言った。
「明日は、みんなでお部屋の修理、しようね」
「ああ、そうだな」
「ええ、手伝うわ」
「マミさんに請求書渡されないように、頑張らないとね」
あたしたちは小さく笑い合った。
ワルプルギスの夜を倒しても、あたしたちの戦いは終わらない。
空腹、退屈、そして害虫。
日常という名の戦場は、魔女の結界よりも手強いのかもしれない。
でも、まあ。
一人じゃないなら、なんとかなる。
「おやすみ……」
誰かの寝言を合図に、あたしたちの意識は深い眠りへと落ちていった。
夢の中では、どうか平和なティータイムが過ごせますように。
そう祈りながら。