差し伸べられる手   作:案山子

1 / 4
明沙編

        一

 

 午前七時三十五分より少し前、志藤明沙(あかさ)はいつも通り目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。カーテンの隙間から見た空はうっすらと白みがかっており、差し込む光は心地よく明沙の頬を照らしている。明沙は上半身だけベッドから起こして大きく深呼吸をする。寝ぼけて働かない頭に大量の酸素が行き渡り、徐々に覚醒していくあの感覚が好きだった。明沙はカーテンを開けて太陽光を浴びた。今日の天気は曇りなようだった。

 耳を澄ませると下の階から微かだが油の跳ねる音が聞こえる。あと五分もしたら朝食の時間だ。明沙は大きく背伸びをしたのち、ドアノブに手をかけて部屋から出ていった。それが明沙の毎朝のルーティーンだった。

 階段を降りて明沙は洗面所に向かった。ある程度意識は目覚めてきているがまだ完全ではない。蛇口をひねり思い切り水を自分の顔に被せた。冷たい。けれど、ようやく眠気が収まってきたようだ。鏡を見ながら手櫛である程度髪を整える。幸い、寝ぐせはなさそうだ。

 湿ったタオルを手に取って明沙は顔を軽く拭いたのち、リビングに足を運んだ。食欲をそそる匂いとともに母が声をかけてきた。

「あら、おはよう。もう少ししたら出来上がるから座って待っててね」

「わかったよ。母さん」

 明沙は周りを見てみるも、父の姿は見当たらない。洗面所にあったコンタクトケースが逆さにされて乾かされていることを鑑みるに、今日も明沙が起きる前に出勤をしていたのだろう。

「はい、できたわよ」

「ありがと。いただきます」

 明沙はコーヒーを片手に目玉焼きとベーコンが乗せられたトーストを口に入れる。目玉焼きとベーコンは塩と胡椒で味付けされており、トーストの甘さと塩気が調和して口全体で風味を感じることができる。トーストを飲み込むと、片手に持っていたコーヒーを口の中に含ませていく。コーヒーの苦みと酸味が先ほどの調和を壊していく。そして、その一連の流れを繰り返して朝食を食べ終わると、食器を片付けて学校に行く準備をする。明沙はいつも学校が始まる十五分前には着くように家を出ている。明沙は自分の部屋からバッグを手に取って、またリビングに戻る。

「持ってくものは机の上に置いてあるからね」

「わかった。それじゃ、行ってくる」

 机の上にあった荷物を明沙はバッグに入れたのち、一言挨拶をして学校へと向かった。

 

 明沙は登校する時間が好きだった。明沙は周りの景色を見ながら足を運んでいく。ふと目に入ったのは明沙の家から五軒離れた家だった。ポストを見てみると何枚か封筒が入っているが、ポストからはみ出した部分だけ他よりも色が濃くなっている。おそらく一昨日の雨で濡れてしまったのだろう。さらに視線を少しだけ上へと動かして二階の窓をちらりと見る。カーテンはいまだに閉じ切ったままだった。それにガレージにあるはずの車もなさそうだ。明沙はこの家の夫妻は旅行に行っているのだろうと推理した。封筒が長時間放置されているのも、カーテンが閉じたままであることにも納得がいく。

 明沙はその家から目を離して、さらに景色を楽しもうとする。そして、通学でいつも使う橋を渡った後、前から人が歩いてくるのがわかった。その手にはリードが握られており、二匹の犬を散歩させている。明沙の二軒離れた家に住んでいる婦人だった。明沙は少し微笑んで小さく会釈をした。

「おはようございます」明沙のあいさつに婦人も笑顔で挨拶をする。

「明沙くん、おはよう。今日も学校頑張ってね」

 明沙はこの時間帯にこの婦人と会うことは今までなかった。今は夏だ。日が昇る時間はかなり早い。つまりアスファルトが熱くなりやすいわけだ。いつもならば犬が熱がらないようにもっと早い時間帯に散歩をするはずだ。おそらく寝坊をしてしまったのだろう。それに化粧もしていない。寝不足であると一目でわかる隈と少しではあるが目元が赤く腫れているのがわかる。彼女の性格的に少しでも人目に付く場所へ行くのならば身なりを絶対に整えようとするはずだ。さらに彼女の手を見てみると、手のひらに赤っぽい跡があるのを発見した。爪の長い手で拳を強く握ったときに付くもので間違いなさそうだった。つまり、彼女は昨日の夜、おそらく夫と激しい喧嘩をしたのだろう。彼女は今まで明沙が知る人物像に類するのなら一度した失敗を引きずってしまう神経質な人だった。あまり昨日は眠れなかったのだろうが、犬の散歩を欠かすことはできなかった。しかし、化粧をするだけの気力は彼女にはなかった。明沙はそう結論付けた。

「はい。いってきます」

 明沙は一言挨拶をして学校へ向かった。

 

 明沙は中学一年生の少年であった。明沙は小学生のころから観察することと頭を動かすことが好きだった。推理した事実が当たっているかどうかはさほど重要ではない。頭を回すという行為自体が明沙を面白がらせるには十分なのだ。

 明沙は風景を楽しんだのち、彼の通っている中学校に辿り着いた。校庭では部活の朝練があるであろう数人の生徒がグラウンドの備品の片づけを行っている。他にもまばらに生徒が学校の中に入っていこうとするが、やはり人数として多くはなさそうだ。

 校内に入り靴箱を開けて上靴を床に落として履いていく。一昨日の雨から今日まで晴れることはなかったため、すのこが少し湿っている。明沙は上靴が自分の足にフィットしたのを確認し、自分の教室へと向かっていった。廊下内にはあまり人の気配は見当たらず、心地の良い静寂が広がっている。

 明沙の教室は本館の二階の端っこに位置している。自身の教室まで明沙はたどり着くと、立て付けの悪い扉を開いて中に入りすぐに閉めてしまう。この時期は非常に湿度も高ければ温度も高い。教室の中ではすでに冷房が付いているので、その冷気を廊下に流すわけにはいかないというのがこの教室内の生徒の総意だった。

 明沙は自分の机に行って勢いよく座る。この時期はかなり暑く、登校するだけで気力を奪われることが多かった。制服をはためかせて制服と体の間に風を送る。

 ふと後ろから声がかかってきた。

「おはようー。今日も早いね」

「おはよう。早いのはそっちだろ」

 声につられて明沙は後ろを向いてつぶやく。後ろにはにんまりと笑顔を浮かべた女子が立っていた。明沙の友人である藤崎玲奈だ。彼女は明沙の小学校のころからの幼馴染であった。別に家が近かったわけでも親が特別仲良かったわけでもないのだが、二人を仲立ちしてくれた友人がいたので次第に仲良くなっていった。

 明沙たちが通っていた小学校にいたほとんどの生徒は現在明沙たちが通っている中学校に通っている。中学が始まってある程度の時間がたっていたとはいえ、二人は同じクラスだったためよく話す関係であった。

「玲奈はまた朝から勉強か?」

「もちろん!もうそろそろで期末試験があるからね」

「とはいってもまだ二週間前だぞ。早すぎないか?」

「あんたは逆に遅すぎるんだって。中間試験の時も三日前でようやく提出物始めてたし」

 明沙たちは軽く会話をして時間をつぶしていく。次第に教室内も生徒が増えていってにぎやかになっていくが、明沙はふと誰も座っていない席に目を向けた。玲奈も明沙の様子に気が付いたのか少しのため息をついて話し始めた。

「今日は奏斗来るのかな?」

「先週の木曜日から休んでるからな。風邪だったらそろそろ治ってそうなものだけど」

「でも、あいつ突然休み始めたでしょ?私たちに何の連絡もなしに」

「仮に風邪だとしても、わざわざ風邪ぐらいで連絡しないだろ」

「そうかなー?」

 明沙たちの話に出てきた人物である三岳奏斗は明沙と玲奈の友人だ。彼こそが明沙と玲奈の仲を取り持ってくれた存在であり明沙たちとも非常に仲が良かった。そんな奏斗は最近学校では見られなかった。明沙たちはその理由を全く知らずただの風邪であると二人は思っていた。だが、二人とてそこまでの興味があるわけでもなく、奏斗に関する話題はそこで終わり元の雑談と会話が変わっていった。

 さらに何分か経つと予鈴のチャイムが鳴ったので二人は話すのをやめてそれぞれ自分の席に戻る。予鈴が鳴ってから授業が始まる前の十分間では本を読まなければならないという決まりが明沙の中学校にはあった。明沙は昔から本を読むのが好きであったためこの決まりには満足している。

 明沙は読書中にふと教室の全体を見まわしてみる。明沙の席は教室の後ろ側にあるおかげで少し視線を上に向けるだけで教室の全体像がわかるのだ。すでに生徒はほとんど揃っていて読書に集中しているようだったが、一つだけ誰も座っていない席がある。奏斗の席だった。明沙はしばらくその席を見て再度本の方へと目を向けた。

 

 明沙にとって中学校の授業はそこまで面白いものではなかった。小学校のころとは違って成績という前提から授業が進められていくのが明沙にとっては非常につまらないのだ。

 今日の授業がすべて終わった後、明沙は荷物をバッグに入れて帰る準備を進めていた。土日を挟んでの学校であったため、普段よりも少し疲れやすいような気を明沙は感じていた。無心で教科書をバッグに詰めていた最中、後ろからドンと肩を押された。明沙は驚いて後ろを振り向いてみると、後ろにいたのはにやりと笑っている少女だった。もちろん玲奈だ。

「なんだよ、俺はもう帰るぞ。今日はもう疲れたんだ」

「今日はそんな疲れるような授業なかったでしょ。そんなことよりも、奏斗の家行くよ」

「はあ?」

 明沙は玲奈の提案に間の抜けた返事をする。どうして急に奏斗の話が出てくるのかが理解できなかった。玲奈はそんな様子の明沙を心底呆れたように半目になって見つめてくる。

「なんであんたはそんなに頭良いのにこういう時はわかってくれないのかね?」

「俺は会話の時に頭使いたくないんだよ」

「推理力抜群なんだからちょっとは考えてしゃべってよ」玲奈はため息をついてさっきの提案について話し始める。

「奏斗、今日も結局来なかったでしょ?学校からのプリントもたまってるしお見舞いに行こうよ」

「……まあ、確かに」

 明沙とて何日も休んでいる奏斗のことを気に掛けていないわけではなかった。先週の木曜日から休みで今週が始まってもまだ来ていない。日数で言えばもう五日も休んでしまっているわけだ。ただの風邪ならもうそろそろ完治しているころだし、ずる休みにしては長すぎる。それに、明沙は奏斗がずる休みをするような性格ではないことは知っていた。

「明沙も奏斗のこと心配でしょ?今日の明沙は話し方が変だったし」

「……心配してないと言えばウソだけど、何もお見舞いに行かなくても」

「だって、奏斗連絡もよこさないでしょ?結構ひどい状態かもしれないんだよ?」

「そうだな……仕方ないし行ってやるか」

「そうこなくっちゃね!」

 まんまと玲奈の口車に乗せられた感は否めなかったが、明沙は断る理由も思いつかなかったので渋々行くことにした。

 玲奈は昔から話すのが好きだった。同級生ともかなり話していたし、先生のような大人ともよく話していたのを明沙は知っていた。だからこそ、彼女は話すのが上手かった。明沙が半ば強制的に玲奈の言葉に従うような状況になることが非常に多かった。今回も例外でない。

「それじゃ、さっさと行くか」

「うん。途中で何か買っていこ」

 明沙と玲奈は教室から出て行く。その後ろ姿は、明沙は猫背で少しだけ俯いて傍から見ても疲れを抱えているのに対して、玲奈は背筋がしっかりと伸ばされており微塵も疲れを感じさせなかった。

 

 明沙たちはある程度お見舞いに必要そうなものを店で買ってから奏斗の家へと向かっていった。明沙の両手には先ほど買ったものが入れられたビニール袋を握らされている。対して、玲奈は完全に手ぶらだった。

「ちょっとぐらい持ってくれよ」

「じゃんけんで決めたことに文句言わないでよ」

 玲奈は心理戦も強い。というよりも会話の時に相手の考えや心理を見透かすことが得意なのだ。無理やりにでも会話が始まってしまえばあとは玲奈の思う壺。話しているときの様子から明沙の次の行動を見破られてしまうのだ。もちろん、じゃんけんなのだから運の要素がほとんどを占めるのは言わずもがなであるが、それでも玲奈は明沙との勝負で七割勝てるだけの心理要素はあるのだ。明沙も相手の微妙な動きを観察することは得意であるのだが、それは傾向的な分析によるもので心理戦に関してはからっきしだった。

「ていうか明沙はほんと心理戦弱いよね」

「お前が強すぎるだけだ。わかってるんだったら手加減してくれよ」

「いやだよ。重いもの持ちたくないし」

 明沙たちは他愛もない会話を繰り広げながら歩いていくとようやく奏斗の家に近づいてきたようだった。明沙が奏斗の家に行くのはかなり久しぶりのことだ。そもそも明沙と奏斗の家が近いとは言えない距離だったので、わざわざ行くことがなかったのだ。玲奈はどうなのだろうと明沙は考えたが、彼女はフットワークが軽いし、普段から行き慣れているのかもしれない。

 明沙たちは奏斗の家に着いた。そのころになると明沙は膝に手を置いて全身で疲れを表現している。背中には教科書や普段の荷物が入ったバッグ、そして両手にはさっき買った手土産、学校が終わった時点でそもそも疲れ切っていた明沙にとってそれらの重りを抱えながら奏斗の家まで行くのはマラソン並みにきつかった。

 軽いグロッキーを起こしながら明沙は玲奈に文句を言う。

「おまえは人がこんなにつらそうなのに、手の一つすら貸さなかったな」

「仕方ないじゃん、じゃんけんで負けたんだから。公平に、ね」

 明沙は玲奈が負けたとて「女の子にじゃんけんで勝ったとて、ずっと重いもの持たせるの?」と詰められるだろうけれど、それを指摘する元気すらなかった。

 とりあえず明沙はいったん地面に両手の荷物を置いて家のチャイムを押した。

「ごめんください。志藤明沙です」

 明沙はチャイムに向かって声をかけるが、返事は返ってこなかった。明沙たちがしばらく待っていると家の中の方からこちらに向かってくる足音が聞こえてきた。その足音は重量感があり、少なくとも奏斗の物ではなさそうだった。その足音は扉の前で鳴らなくなり、奏斗の家の扉が開かれた。そこから出てきたのは奏斗ではなく、大人の男だった。

「……はい。久しぶりだね。どうしたのかな?明沙君」

 奏斗の家から出てきたのは奏斗の父だった。明沙も何回かあったことはあったが、かなり昔の話だったので一瞬だけ見知らぬ人物が出てきたと勘違いしそうになった。

 明沙は一瞬だけ言葉に詰まってしまったが、奏斗の父だとわかるとすぐに立て直して話をしようとする。

「俺たち、奏斗に会いに来たんです。お見舞いをしに」

「……ああ、なるほど。わざわざありがとうね、明沙君」

「今、奏斗に会えますか?」

 明沙がそう言うと奏斗の父は少しだけ考えて言葉を発し始めた。ほんの少しだけ動揺しているように明沙は見えた。

「ごめんね、二人とも。奏斗は今会えそうな状況でもなくってね。また奏斗が治ってからで良いかな?」

「……そんなに奏斗はつらそうなんですか?」

「ああ、意識ももうろうとしていてね。ずっと寝たきりなんだよ」

「そうなんですか……お大事にって伝えておいてください」

 明沙は色々と思うところがあるものの、現在の様子が全く分からない奏斗のことを心配する。奏斗に会えないのは少しだけ残念に思うが、奏斗の父がそこまで言うのだから仕方がない。明沙はそう考えてそろそろ踵を返そうかと考える。明沙がそう考えていると不意に玲奈が前に乗り出して奏斗の父と話し始めた。

「やっぱり奏斗、感染しちゃってたんですね。先週なんてのどが痛いとか咳が出るとか言ってたんで、もしかして今流行りだしてる感染症じゃないのーって話をしてたんですよ!」

「……あ、ああ。そうなんだ。奏斗も罹っちゃったらしくてね。二人は罹らないようにくれぐれも気を付けてね」

「……わかりました!気を付けます」

「あとこれ、お見舞いの手土産です。奏斗に渡しておいてもらえますか?」

「こんなことまで……本当にありがとうね、二人とも。奏斗も喜ぶと思うよ」

「それはよかったです。それじゃあ、俺たちはもう帰りますね」

「私からも早く体調治せよって言ってたって伝えておいてください。それじゃあ、さようなら!」

「うん、奏斗に伝えておくね。さようなら、二人とも」

 一通り会話をし終わると、事前に買ってあったものも奏斗の父に渡し、もうすることはなかったので明沙と玲奈はそれぞれの家へ帰ろうとした。奏斗の父も笑顔で挨拶をしたのち、そそくさと家の中に入っていった。

 

 明沙と玲奈は奏斗の家を背に向けて帰っていくが、その顔つきは真剣なものに変わった。

「……どう思う?玲奈」

「多分、明沙と考えてることは一緒だよ?」

 玲奈はそうつぶやくと明沙の方を見てにやりと笑った。明沙も玲奈と同じような表情をしている。どうやら二人とも同じ結論にたどり着いたようだと明沙は思った。

 明沙は自分が思ったことをこれから言い連ねるために呼吸を整えて言葉を自分の頭から取り出していった。その際に頭がクリアになるように目を瞑っていた。

「奏斗の父さんが家の扉を開けたとき、玄関がちらっと見えた。その時は一瞬過ぎてわかりづらかったけど奏斗がいつも履いている靴がなかったように見えた。靴箱の中に入れてるだけかとも思ったが、前に奏斗の家に行ったときは玄関に置きっぱなしだったし、さっきだって奏斗の父さんのであるだろう黒色の革靴も玄関に置いたままだった」

 明沙はまた呼吸を整えて、玲奈の方向を見る。

「奏斗の父さんが家に入る時も見たよ。間違いなかった」

 明沙の見たことを聞いた玲奈は明沙の肩を何回か強く叩いた。

「明沙はやっぱりこうでなくっちゃね。そのずば抜けた観察眼が羨ましいよ」

「玲奈だって何かに気づいてたんだろ?そっちが感じたのは何だったんだ?」

 明沙がそう言うと玲奈は不敵な笑みを浮かべながら説明をしていった。

「大したことないよー。奏斗のお父さんが最初っから何かを隠してるみたいな様子だったから、ちょっと揺さぶりをかけてみただけ」

「その揺さぶりってのは?」

「私もともと奏斗が何で今日休んでたのかを先生に聞いてみてたんだよね。先生曰くぜんそくがひどくって休んだらしい」

「……なるほど、そういうことか」

「そういうこと。私は奏斗が感染症で休んでるんですよねってカマをかけたわけ」

 玲奈は明沙の方を見ながらウインクをした。

「人が嘘つくときって相手に疑問を持たせたくないわけ。だから私は奏斗が感染症で休んでるってことを真実だと思っている演技をしてみたの。嘘つく人にとってわざわざ相手が勘違いしてくれてるのにそこを深堀したくはないはず。餌を撒いてみた結果、見事に奏斗のお父さんは引っかかってくれた。それが私のした揺さぶりだね」

 明沙は玲奈のことを呆れた目で見た。

「玲奈はやっぱ怖いな。道理であの時の話し方はちょっとばかし強引だったのか」

「そうそう。あのぐらい念を押せば嘘ついてる人にとってはなかなか否定しづらいからねー」

 玲奈は首の後ろに両手を組みながら上機嫌に話していた。さっきのカマかけが上手く決まって嬉しそうだった。

 明沙と玲奈はお互いが気付いたことを話し終わったので、再び真剣な表情をして話をつづけた。

「さて、ここからは明沙の出番だよ?」

「どういうことだよ?」

「ほんっと会話中だけ鈍くなるのいい加減にしてよね」

 玲奈は少しだけ不機嫌になり唇を尖らせていた。

「私たちはあくまで奏斗のお父さんが奏斗のことで何か嘘をついてるって見破っただけ。その嘘がどういう意味を持つのかはまだわかってない」

 明沙は無言で頷いた。

「私は嘘を見破るのは得意だけど、なんで奏斗のお父さんがそんな嘘をついたのかを推理することはできないの。……つまり、ここから先は明沙しか頼れないってこと」

 玲奈は明沙の方へと指をさした。その表情はこの先は役に立てないという無念と奏斗の父が嘘をついた理由を知りたいという好奇心が入り混じっていた。

「それで、あんたの推理能力を頼ってるってわけ」

「……玲奈は俺のことを買いかぶりすぎてるよ」

 明沙はため息をついて肩をガクッと落とす。明沙にとって嘘偽りない言葉だった。

「俺はただ推理するのが得意ってだけだ。そこで出た結論が当たってるかどうかなんて、正直俺からしたら大したことはないんだよ」

「……つまり?」

「俺の推理が今まで当たっていた保証なんてない。今の俺が推理してもそれは見当違いの可能性の方が高いんだぞ」

 明沙は別に推理したことが本当に当たっているかを気にしていたことなんて今まで一度もなかった。明沙にとって推理とは面白い頭の体操でしかなく、その推理の正確さについてはほとんど自信がなかったのだ。

 明沙が話し終わり少し俯いていたのを玲奈は慰めようと大きな声で反論をした。

「そんなことないよ!明沙の推理はいつも正確だった。……それに、今は明沙の推理を聞きたいだけ。それが真実かどうかは関係ない」

 玲奈はぴしゃりと言い切った。

「聞かせてよ。それが当たってるかはともかくとして、明沙の考える奏斗のお父さんが嘘をついた理由を」

 玲奈は真剣な表情で明沙のことをまっすぐと見つめる。最終的に明沙は根負けし、ぽつりぽつりとその推理を話し始めた。

「……まず、最初に本当に奏斗が何かしらの病気で苦しんでいて生死をさまよっているような状態だと考えた。入院中であれば奏斗の靴が玄関になかったのもわかるしな」

「うん。そのパターンは……ありえそうなの?」

「ないだろうな。もしも本当にそうだったら教師陣には連絡はしている可能性が高い。玲奈から見て先生たちが何かを隠している様子はなかったんだろ?」

「……確かにそうね。先生が奏斗のことについて触れた時も怪しい点はなかった」

「それに、わざわざ入院していることを隠す必要性もそんなにないしな。体調不良で入院してるっていえば済む話だ。いろいろと不自然だ」

 明沙は淡々と自分の考えを述べた。

「それで、次に考えたのは……奏斗は本当に家の中にいるが俺たちに会おうとしていない、もしくは奏斗の父さんが俺たちに会わせたくない場合だ」

「その場合は……どうなの?」

「これもあまり考えられないだろう。奏斗の靴がないことに説明がつかないし、先週だって奏斗がいたときには様子は普通だった」

「そうだね。それは私も保証するよ」

「じゃあ、奏斗の父さんが合わせたくないってことになる。……考えたくもない話だが、例えば奏斗のお父さんが奏斗のことを虐待していてそれを隠すために俺たちに噓を吐いた」

 玲奈は目を見開いて驚き、少し怖がっていた。明沙は慌てて話を続ける。

「その場合もあり得ない。奏斗のお父さんはそんなことをするような人でもないし、それにもしもそうなら不自然な点が多すぎる」

 明沙はいつもより語気が強くなっていた。玲奈はじっと明沙を見ている。

「奏斗の部屋のカーテンが開けっ放しだった。虐待しているところを通行人に見られでもしたら大問題になるのに家の外観からは中の様子を隠したいという意図は一切なかった。……つまり、この場合も前提が間違ってるんだ」

 明沙が結論まで早口で説明するとようやく玲奈は落ち着いてきた。明沙は自分の考えを聞かせてほしいとは言われたものの軽はずみな言葉は言うものじゃないと反省した。

 明沙は深呼吸をして、自分の推理を終わらそうとする。

「奏斗は少なくとも病気じゃないし家の中にもいない。……正直、ここから考えられる可能性は多すぎる。だけどこれだけは言えるだろうな」

 明沙は両手を強く握りしめてつぶやいた。

「奏斗は今、行方不明だ」

 

 明沙がそうつぶやいたのち、玲奈の目には大きな動揺が現れていた。奏斗の現在は明沙たちが思っていたよりも深刻なものなのかもしれないと明沙は考えていた。

「もちろん、俺たちからすると行方が分からないってだけで、奏斗の父さんはどこに奏斗がいるのかわかってるのかもしれない。……でも、俺達にはそれを隠そうとしていた。それに教師陣に対しても嘘を言っているようだった。……これっておかしくないか?」

「……そうだよね。大したことない理由だったら嘘つく意味なんてないわけだし」

 明沙と玲奈は歩きながら話していると、とうとう十字路についてしまっていた。明沙と玲奈の帰る道はそれぞれ違っているのだから、ここで別れなければならなかった。

「とりあえず、今日のところはもう帰ろう。もう遅くなってきたわけだしな」

「それもそうだね。……明沙は明日からどうするの?」

 明沙はゆっくりと目を瞑って考える。答え自体は前から決まっていたが、覚悟を決めるためには少しの考える時間が明沙には必要だった。

「もちろん、奏斗を探すよ。必ず……見つけ出してみせるよ」

 まっすぐと明沙は玲奈を見た。その瞳には強い決意が宿っていた。

 今までの明沙は推理をしたとしてもその後のことはどうでもいい、真相が当たっているかなど関係のないことだった。しかし、明沙の友人が危機に瀕しているかもしれないといったこの状況ではそんなことを言ってられなかった。奏斗に何が起こっているのかを暴く。明沙は両手を強く握りしめて宣言した。

「約束するよ。奏斗に何が起こったのか、暴いて見せる」

 今度は明沙のほうが不敵に笑う番だった。そんな明沙を見て玲奈も笑った。

「頼りにしてるよ。明沙」

 

 明沙と玲奈はその後、それぞれの家に帰った。明沙はまだ話したいことがいくつかあったものの、それよりも状況の整理をしたいとも思っていた。まさか奏斗が学校に何日も来ていないのにここまで大きな理由があるとは思っていなかったのだ。不意に思い浮かんでいた明沙の推理は今のところ否定する材料は見つからなかった。

 明沙は自分の家の前までつくと、どっと今までの疲れが押し寄せてくる感覚がした。頭はほんの少し痛いし、両肩も悲鳴を上げている。そもそも学校が終わった時点でかなり疲れていたのだから、こうなることは確定だった。奏斗の家について奏斗の父と話し終わった後からは、興奮してアドレナリンが出ていたせいで疲れを全く感じていなかったが、自分の家を前にすると緊張が和らいでいったので、さっきまで詰め込んでいた疲労感が押し寄せてくる感覚が明沙を襲った。

「今日は早いとこ休むか」

 明日までの課題が残っているが、さすがにやる気力は明沙にはなかった。無論、玲奈であれば余裕で課題を終わらせているのだろうとも明沙は予想する。

「ただいま」

 明沙がそう言うと、奥の方の台所の方から小さく「おかえりー」と母から言葉が放たれた。明沙はバッグを一度床において洗面台に直行する。玲奈が言っていた感染症はでっちあげてはいたものの、実際最近は感染症が流行っている。明沙は母や先生から感染対策を徹底するように言われていた。

 明沙は手をタオルで拭き終わると床に置いていたバッグを肩に掲げて、階段を上がって明沙自身の部屋へと向かっていった。その足取りは非常に重く、明らかに疲れていることがわかる。

 明沙は自分の部屋に入ると、持っていたバッグを放り投げてベッドの上へと身を投げ出した。そばにあったスマホを取り出して時間を確認してみると現在の時刻は十九時だった。明沙が思っていたよりも時間を使いすぎたようだった。

 明沙はスマホの画面を下向きにするようにベッドの上において仰向けになる。このまま寝ても良いと明沙は思っていたが、それを明沙の頭は邪魔してきた。明沙の頭の中はさっきの奏斗のことでいっぱいだった。しかし、結論が出ないまま思考の渦に飲まれてしまっているのを明沙は自覚した。そもそも明沙が持っている情報というのは非常に少ないのだ。断定できる事実がほとんどない以上、さっきの出来事を整理しようとしてもわからない部分が多すぎて途端に思考が崩れてしまう。しかし、それでも明沙は考え続けた。

 明沙が今確実にわかっていることとしては、奏斗の父が嘘をついているということ、そして奏斗が現在家にも病院にもいない行方不明だということだ。もちろん、奏斗の父が嘘をついている理由はまだ断定できないし、奏斗の居場所を奏斗の父は知っているのかもしれない。明沙からしたら本当にわからないことだらけであった。

 しかし、奏斗の父が嘘をついた理由については明沙は深堀できそうだった。普通ならわざわざ噓を吐いて奏斗を行方不明だと悟られずに病気であると誤認させる必要性はなかった。例えば、奏斗が家出をしたとすると、奏斗の父は少なくとも明沙たちに奏斗はどこにいるかと質問をするはずだ。つまり、嘘をつく理由なんてないだろうと明沙は考える。それに、明沙から見ても奏斗が家出をするような性格ではないのは明らかであった。

「……だとすると、奏斗の父さんが嘘をついた理由はいったいなんなんだ?」

 明沙は目を強く瞑ったのち、ベッドから思い切り立ち上がった。

 その後に明沙は大きく深呼吸をする。先ほどまでに感じていた疲れが徐々に消えていく。頭の中が澄み渡っていき頭の中に掛かっていた靄が次第に晴れていく。明沙が毎朝行うルーティーンであった。大量の酸素が頭の中に取り込まれていき、今まで以上に頭が回っていくのを明沙は感じていた。

 歯車が噛み合う感覚がした。

「……奏斗の父は……脅迫されていた?」

 今までの結論で奏斗の父がわざわざ嘘をつく理由は思いつかなかった。自発的に、という条件付きで。しかし、それがもしも脅迫されたことによるものであったとしたら。

 明沙は奏斗の父が家から出てきたときのことを思い返す。あの時、あまり明沙は気にしていなかったが、奏斗の父は最初から何かしら動揺をしているようだった。その動揺は奏斗の父が嘘をついているときにかなり感じていたが、奏斗の父は他にも何か隠し事をしていたのだ。明沙はそう考え、思考を進めていく。

「もしも本当に脅迫されていたのだとすれば、その脅迫されている対象と言えば……」

 明沙は一人の人物を思い浮かべた。明沙の友人でもあり、現在行方不明である奏斗。点と点が線でつながっていく感覚が明沙を襲った。

「奏斗は誘拐されている」

 

 そこまで考えると下から「ご飯だから降りてきなさい」と母から声がかかってきた。明沙からしたらちょうど良いタイミングだった。明沙はバッグの中から水筒や弁当箱を取り出して急いで下に降りた。ちょっとでも遅れたらまた母から小言をもらってしまうだろうと明沙は考えていた。

 下に降りるとすでに夕ご飯は準備されていた。明沙は炊飯器からご飯をよそって席に着く。表面上は冷静を装っているが、頭の中ではさっきの推理について絶え間なく働いていた。夕ご飯を食べている間もそうであり、母からの言葉も上の空だった。

 明沙は夕ご飯を食べ終わるとすぐに風呂場に直行した。夕ご飯中では明沙はいろいろと考えていたが、さすがにもう頭も働かないようだった。無理やり深呼吸で頭の回転を速めただけで疲れに関してはいまだに残ったままだったのだ。早めに風呂に入らないと眠ってしまいそうだった。

 明沙はゆっくりと湯船につかった。その際に思考は一切回っておらず、明沙は完全な脱力状態だった。いつもは絶え間なくしている推理も今ばかりは手放していた。

「……とりあえず、玲奈には明日伝えないとな」

 スマホから連絡するという手もあったが、もうすでに明沙に気力は残っていない。明日伝えても遅くはないだろうと明沙は考えていた。心の底ではスマホで推理したことを打つのが面倒くさいと思っていた。

 明沙は風呂から上がって寝間着に着替える。ドライヤーで髪を乾かして歯を磨いた。明沙は階段を上って自分の部屋に入り、ベッドの上に飛び込んだ。いつもよりも眠るのにはだいぶ早かったが、明沙の眠気は限界に達していたのですぐに意識が朦朧としていく。「まだ宿題終わらせてないでしょ!」と文句を言ってくる玲奈の声が聞こえてきた気がしたが、明沙は無視し眠りについた。

 

        二

 

 午前七時三十五分より少し前、明沙はいつも通り目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。明沙は上半身だけベッドから起こして大きく深呼吸をする。寝ぼけて働かない頭に大量の酸素が行き渡り、だんだんと明沙の頭が覚醒していく。

 明沙は昨日のことを思い出していた。奏斗が誘拐されたのかもしれない。そう考えるだけで恐ろしさで頭の働きが鈍くなってしまう感覚がした。

「……今日はやることが多そうだな」

 独り言をぽつりと漏らして毎朝のルーティーンへと移った。

 

 いつも通り明沙は身支度をすませ、朝ご飯を食べて登校した。明沙はいつも通り風景を楽しもうとするが奏斗のことがちらついてあまり集中できなかった。奏斗についていろいろと考えても良かったが、教室に入ればおそらく玲奈は既にいるだろうからその時でいいだろうと明沙は思っていた。

 結果として、今日の登校は明沙にとってあまり楽しめるようなものにはならなかった。

 思考がまとまらないまま明沙は学校についた。校庭では昨日と同じく数人の生徒が朝練終わりなのかグラウンドの備品の片付けをしていた。それ以外には周りにあまり生徒はいなかった。

 明沙は少しだけ急ぎ足になって教室に向かう。玲奈と話す内容は少なくとも他人にあまり聞かれたくはない話だ。まだあまり人がいない時間帯に話すべきことは話しておきたかった。

 明沙が教室について扉を開けるとすでに玲奈は教室の中にいたようだった。それに、明沙が教室の扉を開けたときには玲奈はこちらの方を向いて仁王立ちしていたところを見るに、そこそこの時間待たせてしまったようだった。玲奈は開口一番こう言った。

「遅い。普通いつもより早めに来るでしょ?昨日あんなことがあったのに」

「悪いと思って登校の後半は早歩きしたって」

 明沙は玲奈の怒りに軽口で返した。玲奈も別に本気で怒っているわけではないのでため息をついた後、玲奈は本題を話し始めようとする。

「それで、明沙なりの結論は出たの?昨日のことについて」

 玲奈は教室にはほとんど生徒はいないとはいえ、内容をぼかしながらいつもより声量を抑えて質問をしてきた。

「……ああ、一応な。前も言ったけど当たってるかどうかは別だぞ」

「それはわかってる。……それじゃあ、聞かせてくれる?」

 玲奈は真剣な顔で明沙の顔に近づいた。声量を落とせと暗に言われているのだろうと明沙は考えた。

「……奏斗の父さんが嘘をついてる理由についてずっと考えてた。だけど、そんなことをする意味はいくら考えてもわからなかった。奏斗の父さんは自発的に嘘をつく理由なんてないんだ」

 玲奈は無言でうなずいた。

「だとしたら……奏斗の父さんは嘘をつかなければいけない状況に陥ってたんだ。脅迫されていたことで」

 明沙がそう言った数秒後、玲奈の目は大きく見開かれて口元を両手で覆っていた。その目の焦点は微妙に合っておらず、口元を抑えている両手も微かにではあるけれど震えている。玲奈は細い声で言葉を発した。

「それって……つまり……!」

「……ああ、玲奈の思っている通りだと思う」

 明沙は苦しげな表情で自分の推理を終わらせる。

「おそらく、その脅迫されていた材料ってのが奏斗なんだ。奏斗が誘拐されて奏斗の父さんは口止めをされた。そう考えると辻褄は合う」

「そんな……それって間違いないの⁉」

 玲奈は明沙の方へと詰め寄って肩をつかんだ。その表情は恐怖に染まっている。

「絶対ではない。だけど、俺はこれ以外の可能性を思いつかない。……正直、盲点だったよ。こんなに事が大きいことに奏斗が巻き込まれているなんて」

 二人の表情は暗かった。だけれども、今の二人にはどうしようもなかった。

 とうとう教室に生徒が続々と増え始めた。これ以上二人の会話を続けることはできなかった。明沙と玲奈は仕方なく会話を終わらせるが、二人の心には陰りが残ったままだった。

 

 結局、今日も奏斗が学校に来ることはなかった。

 その後の明沙の心境は穏やかなものでなかった。それは玲奈も同様らしく後姿を見ても動揺が現れていた。

 明沙は授業中にもかかわらず奏斗のことだけを考えていた。明沙は教卓からかなり離れたところの席に座っているし成績も優秀だったので先生に目を付けられることもなかった。だから、授業中に全く別のことを考えることはよくあることだった。

 もしも本当に奏斗が誘拐されたのだとしたら、やはりそれは先週の木曜日からだろう。それからもう今日を含めると六日間も経っている。奏斗の命が危機に瀕していたとしてもおかしくない状況だった。

「……いや、でも待てよ」

 明沙は周りの人には聞こえないほどの大きさで無意識につぶやいてしまう。

 六日間。いくらなんでも誘拐にしては長すぎる気がする。別に明沙は誘拐が一般的にはどれくらいの期間掛かるものなのかを知っているわけではないが、ただの身代金目的ならもう事が済んでいてもおかしくはないほどの期間が経っていると明沙はふと頭の中によぎった。

 奏斗の件で警察が動いているかどうかは正直なところ明沙からすると判断がつかない。しかし、もしも奏斗の父が警察に連絡をしたとしたら明沙のもとに警察が聞き込みに来るのが自然な流れだ。明沙は先週の木曜日から警察からの聞き込みなんてされていない。それは玲奈も同じはずだった。だとしたら、奏斗の父は警察には連絡していないことが想像つく。

 しかし、仮に身代金目的の誘拐に巻き込まれたとして、奏斗の父がいまだに警察に通報していなかったとしたら、すでにお金を払っているはずなのだ。奏斗の父はかなり昔、政治家のもとで働いていたこともある。お金に困っている様子は明沙から見てみると微塵もなかった。それに、奏斗の父は既に妻を亡くしていたはずだった。何よりも大切にしているたった一人の息子を守るためならどんな大金でも払うはずだろう。

 明沙は一つの結論に至った。奏斗が誘拐されたのは身代金目的の誘拐じゃないのかもしれない。

「……じゃあ、なんのために」

 しかし、それを導くのにはあまりにも情報が足りなかった。どれだけ考えてもそれを肯定できる材料もなければ否定できる材料もない。これ以上、誘拐の目的を推理することは今の時点では不可能だった。

 

 あれからすべての授業を誘拐の目的について考えるのに費やしても結論は結局出なかった。昼休みには昨日するべきだったのに完全に放棄していた宿題もしなければならなかったため、玲奈とまともに話す機会が来たのもすべての授業が終わり終礼がされた後のことだった。

 終礼が終わると玲奈は即座に明沙の机へと直行して、明沙の腕をがっちりとつかんで誰もいない廊下へと連れられた。玲奈は周りにだれもいないことを確認すると明沙の顔をまっすぐと見た。玲奈を少しだけ和ませようと軽く微笑んで話を始めた。

「あんた授業中ずっと奏斗のこと考えてたでしょ。バレバレだったよ」

「なんで玲奈の方が前の席なのにそんなことがわかるんだよ」

 明沙も玲奈の軽口に対して少しだけ微笑みながら返事をした。緊張感が少し緩んだところで二人は本題に入る。

「それで授業中の成果はどう?奏斗の誘拐について何か深堀することはできたの?」

「正直言うとあんまりだな。情報が少なすぎるからどれだけ考えても推測の域を出ない」

「それでも明沙なりに可能性が高い結論は出たんでしょ?教えて」

「ほんとに大したことじゃない。誘拐の目的が身代金じゃなさそうっていうことだけだ」

 明沙がそう言うと玲奈は顎に指を当てて考える。

「……確かに、そうね。身代金目的なら何かしらの対応はもうされてるはずだしね」

「だけど、結局それも正しいかわからん。誘拐の期間の相場なんて俺たちが知るわけないしな」

 玲奈は少しだけ考えたのち、教室の方へと歩いて行った。

「さあ、早く奏斗の家行くよ」

「おい、大丈夫なのか?もし本当に誘拐だとして俺たちにバレてる状況って奏斗の父さんにとってまずくないか?」

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。やれることはやっておくわよ!」

 明沙の言葉はすぐに取り消され、玲奈は依然として止まる気配はなさそうだった。こうなった玲奈を止める手段は明沙の経験則から存在しないとわかっている。明沙は色々と不安が心中にはあったものの、大人しく玲奈についていくことに決めた。

 教室にバッグを取りに戻ったころにはもう生徒はほとんどいなかった。教室内は部活の練習の掛け声や吹奏楽部の楽器の鳴る音が入り混じり、それぞれの生徒がおのおの放課後という時間帯を生み出しているようだった。明沙と玲奈もその放課後を作り出す一員であったが、その心持ちはほかの生徒とは一線を画していた。

 二人が奏斗の家へ行く間は奏斗の話題もあったが、それよりも雑談の方が多かった。いつまでも暗い雰囲気のままではいけないと二人は考えていたし、さっきと同様不安をできるだけ感じたくないという思いも同じくあった。

 二人の会話がなくなってきたころ、明沙と玲奈は奏斗の家へとたどり着いた。

「……とうとうついちゃったね」

「ああ。本当にどうなることやら」

 少なからず情報は集まるだろう。それは間違いなかった。しかし、明沙たちが誘拐の件を知っていると奏斗の父に知られてしまえば、奏斗が不利な状況に陥ってしまう可能性もあるのだ。大きく進展する可能性もあれば、その逆も然りだった。けれども、何もしないという選択肢は二人の中にはなかった。

「それじゃあ、チャイム鳴らすぞ」

「うん。よろしく。……さて、どう出るのかな?」

 明沙は奏斗の家のチャイムを押して挨拶をする。

「ごめんください。志藤明沙です」

 明沙と玲奈は奏斗の父が来るのを待った。その待ち時間は二人にとってはとても長く感じてしまう。いや、本当に長かった。もうすでに二分も時間が過ぎていた。

「……いない?」

「もう一度チャイムを鳴らそう」

 明沙はもう一度チャイムを鳴らして挨拶をする。しかしながら、家の中から人が出てくることはなかった。

「まさか……本当にいないの?」

「まずいな。奏斗の父さんがいなかったら何も事が進まないぞ」

 明沙は家の窓を見てみるが、明かりがついている様子はない。人の気配は一切なかった。

「さて、どうする?玲奈。もう待つか帰るかしかなさそうだぞ」

「まだやれることはあるでしょ?庭ぐらいは入れそうだし調べるよ」

「正気か?庭でも不法侵入だぞ」

 明沙は玲奈のことを信じられない目で見るが、その様子は本気だった。

「早く調べるよ。奏斗のお父さんが帰ってこないうちに」

「……わかったよ。怪しいとこがあったらすぐに教えてくれ」

 玲奈はすでに奏斗の家の敷地内に入って庭を隈なく探している。明沙もそれに続いて庭を調べていく。正直、明沙は奏斗の家の庭に何か重要なヒントが隠されているなんて思っていなかった。しかし、やらないよりも良い結果は訪れるだろう。そうポジティブに明沙は考えて庭を調査する。だけれども、やはり庭から何かが見つかることはなかった。

「やっぱ何もなさそうだな」

「んー、明沙の観察眼でも無理なら仕方ないか」

 明沙と玲奈は奏斗の家の扉の前に集合するが、どちらも良い収穫はなさそうだった。当たり前ではあるが、庭なんて使う機会が限定されている場所で最近起こった誘拐についての手がかりなんて見つかるはずもなかった。

「はあ、奏斗のお父さんがいてくれれば話は進んだのにな」

「いっそのこと、夜まで待ってみるか?」

「それいいね。……はあ、せめて家の鍵空いてないかな?ちょっと疲れちゃった」

 玲奈は「椅子に座りたいー」と言って駄々をこねながら、何とはなしにドアノブに手をかけた。もちろん、玲奈は本当に奏斗の家の鍵がかかっていないなんて思っていなかった。ちょっとした冗談としてドアノブを開けるような動作を明沙に見せつけるだけのつもりだったのだ。

 キィという音が鳴った。玲奈はバランスを崩して転げそうになってしまう。決して動かないと思って体重を任そうとしたものがあろうことか動いたのだ。

 玲奈が尻餅をついた時には奏斗の家の扉は開かれていた。

「……うそ」

 玲奈は呆気に取られて固まっている。明沙だってそうだった。まるで予想もしていないことが起こって二人の頭は混乱していた。

 

 玲奈がいまだに固まっている中、早くに復帰した明沙が言葉を発した。

「鍵が……かかってない?中には誰もいないはずじゃ」

 明沙の言葉を聞いたことで玲奈の頭も徐々に再起動し始めた。

「いったー……まさか開いてるなんて思ってもみなかったわ」

 玲奈はスカートを叩いて汚れを落とそうとする。明沙から見ても玲奈の倒れ方はかなり痛そうに見えた。不意に扉が開いてしまったため良くない体勢で転んでしまうのは無理のない話だった。

「玲奈、大丈夫か?」

「うん、平気。……それにしても、渡りに船だね。もう諦めかけてたのに」

 玲奈はそう言って立ち上がった。玲奈は奏斗の家の扉をもう一度開いた。

「明沙、行くよ。奏斗のお父さんに聞く以上に進展があるかもしれない」

「本気か?庭までならまだしも家の中なんて本当に不法侵入だぞ」

「そんなことを言っといて明沙も気になるんでしょ?奏斗の家の中」

 明沙は無言で玲奈の目をにらんだ。しかし、玲奈は不敵な笑みを浮かべたままだ。

「私は行くよ。何があっても」

 玲奈の目には迷いは一切なく、固い決意が滲んでいた。明沙は玲奈の目を見る。どうやら引く気は一切なさそうだと明沙は理解した。

 明沙はため息を吐いて話し始める。どうしてここまで事件解決に執着するのかがわかった気がした。

「まだ、引きずってるのか?」

 玲奈は黙ったまま明沙の目を見続けていた。しかし、玲奈の拳にはさっきよりも強く握りしめられていた。

 その時はまだ明沙と玲奈は知りあっていなかったので、明沙は奏斗に聞いただけではあったが何となくは知っていた。玲奈は昔、ある事件の犯行を目撃したことがあったのだ。

 明沙の記憶が正しければ奏斗は四年前だと言っていた。玲奈はこの近所で起こった暴力事件を目撃したことがあったのだ。現在、明沙たちは中学一年生なので四年前ならば小学三年だ。玲奈は一生懸命何が起こったかを伝えようとしたものの、警察は玲奈の証言をあまり重要視することはしなかった。結局、その暴力事件はうやむやになってしまい、玲奈の証言は多くの大人から見放されてしまったという過去があったのだ。

 明沙が奏斗から聞いた話だと、そのころの玲奈はひどく落ち込んでいたらしく現在の玲奈からは想像もできないほど暗かったそうだった。奏斗に比べて明沙が玲奈と知り合ったのは最近であるため、最近の玲奈からはそのころの様子が全く見られなかったように明沙は思っていたが、今の玲奈を見るにまだ完全に過去を克服できたわけではないらしいと明沙は感じていた。

 玲奈は明沙の目から視線をそらして俯いて言葉を紡いでいった。

「……もう、頼りない自分から私は成長したいの」

 ──だから、私は目の前にある手掛かりを見逃したくない。明沙は玲奈がそう言いたいのだと理解した。

 明沙は何を言っていいのかわからず、黙ったままだった。そんな明沙の姿を玲奈は見て微笑みながら再度言葉をつづけた。

「……それに、昨日の約束忘れちゃったの?」

「……約束」

 明沙は昨日、自分が話したことを思い出す。玲奈も同様に目を柔らかく瞑って思い出していた。

「『奏斗に何が起こったのか、暴いて見せる』って言ってくれたじゃん?……もたもたしてたら私が先に暴いちゃうよ?」

 玲奈は明沙の方を向いて笑った。明沙はその約束を思い出すとともに大きく深呼吸をした。明沙の決意は固まった。

「……調べるか。早いとこ終わらせような」

「そうこなくっちゃね!」

 明沙と玲奈は奏斗の家の中に入って扉を閉める。いまだに奏斗の父は帰ってこなかった。

 

 二人が中に入るとどこの電気も切られているのがわかった。人の気配がありそうな気配はない。

「とりあえず電気をつけよう。このままじゃよく見えない」

 明沙は近くのスイッチを入れると、玄関の光がついて家の中の状況がよくわかった。光をつけても家の中の様子は変わることがなく、本当に家の中に人がいないことを示してくれる。

 「それじゃあ、さっさと調べて帰るぞ」

 「はいはい。私あっち側調べておくね」

 玲奈はそう言ってリビングの方を調べ始めた。明沙はまず玄関と靴箱を調べてみる。玄関には奏斗の靴も奏斗の父の靴もない。しかも靴箱の中にもなさそうだった。これで奏斗が確実に行方不明であることはわかった。

 他には玄関にめぼしい手掛かりは明沙が探した範囲内ではなさそうだった。明沙は玄関から二階に上がって奏斗の部屋へと行く。大きな手掛かりがあるとすれば奏斗の部屋は外せなかった。

 ゆっくりと明沙は奏斗の部屋の扉を開けていく。窓から指す夕日がまぶしかった。当たり前ではあるけれども奏斗はいなかった。

 明沙は奏斗の机の上を調べてみる。整理整頓がしっかりとされていた。

「……特に怪しそうなものはなさそうだな」

 明沙がパッと見たところ奏斗が誘拐されたことについて深く関係しているようなものはなかった。そもそもの話として奏斗が誘拐されたのだから、誘拐に関する重要な情報を奏斗自身は残せないと考える方が自然だ。

 明沙はそう考えて奏斗の部屋から出た。いつ奏斗の父が帰ってくるかわからない中、余計な時間を使ってしまう調査は避けた方が良いだろうと明沙は考えていた。明沙は奏斗の部屋から出ると隣にあった扉へと視線をやった。おそらく奏斗の父の書斎だった。

 明沙は深呼吸をして、書斎につながる扉へと手をかけた。手掛かりがあるとすればここにある可能性が最も高かった。

 ゆっくりと明沙は書斎の扉を開いていく。書斎は夕日が差し込んでおり、赤々と部屋を照らしていた。

「さてと、探していくかな」

 書斎の中はたくさんの本やら書類やらでいっぱいであり、すべてを調査するのは不可能であると明沙は考えていた。時間的にも猶予はそこまであるわけではない。明沙は急いで書斎の奥にある机の上から調査を行っていった。

 机の上にはまずパソコンが置かれているが起動してみてもパスワードが要求される。当たり前ではあるがパソコン上に何か手掛かりが残っていたとしても明沙が見る手段は一切なさそうだった。仕切り直して机の上を調べる。本の中にメモか何かが残されているかもしれないと期待してパラパラと捲っていくがそのようなものもなさそうだった。いくつかの本でその操作をやってみたものの大して意味はなかったようだった。

 明沙は本棚の方に視線を合わせた。本棚の中には机の上に置いてある本や資料よりも何十倍もの量が入っている。本の中に何かがあったとしても調べ尽くすのは不可能に近かった。

 明沙は半ば諦め気味に机の上に置いてある資料をどけていくと、ふと気になるものがあった。それは細かく破かれた紙片の一つだった。

 明沙はそれをじっと見てみたのち、机の上に置いてあった本や資料をさらにどかしてみる。他には目立って紙片が置いてあるなんてことはなかったが、よく目を凝らしてみるとミクロのサイズで紙屑があるのに気づく。

「……なんだ?これ」

 明沙は不思議に思って、また紙片に目をやる。紙片の周りはすべて破られた後がある。明沙が見たところ、この紙片は偶然破れたものでなく、人為的に破られたもののように思えた。もし偶然破れてしまったのだとしたら、紙片の縁のどこかにはその紙もともとの直線的な縁が残るはずだ。つまり、誰かが破ろうという意思を持って破ったことになる。しかも、念入りに細かく破られたものだ。

 明沙はしばらく考えて、机のそばにあったゴミ箱を調べ始める。大きな手掛かりの前触れの予感を明沙は感じていた。

 ゴミ箱の表面上には特にめぼしいものはなかったが、奥まで漁ってみると何枚もの細かく破られた紙片があった。明沙はそれをすべて床の上に出してみる。明沙は自身の胸がだんだんと高まってくるのを感じた。

 明沙は一通り紙片を広げてみてみると、明らかに何かが書かれた痕跡が見つかる。明沙は紙片を並び替えてみることにした。

 明沙が並び変えてみると断片的にだが、どんな文字が書かれているかが自ずとわかってくる。

『誘』や『九』、それに『司』。まだ意味を持つ文章は完成できていないが、確実に奏斗の誘拐に関係しているのだと明沙は悟っていた。

「──明沙、そっちはどんな感じ?」

 玲奈が扉を開けて呼びかける声が後ろから聞こえた。

「……ベストタイミングだ。見てみてくれ」

 明沙は立ち上がって上から文章を俯瞰してみてみる。紙片の破れ方からしてこの並びしかなさそうだった。それに、しっかりと文章が組み立てられている。

 この文章は、間違いなく、奏斗の誘拐に関わってくるだろう。

 玲奈は明沙に近づいて床に並べてある紙片を見ると、目を見開いて驚いた。

『九条礼司の誘拐事件』

 もう日の入りに近い太陽は今までよりもさらにこの部屋を赤く照らしていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。