差し伸べられる手   作:案山子

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神谷編

        三

 

 警視庁刑事部捜査一課に所属する神谷直人は警視庁の駐車場に到着した時、すでに何人かの捜査官と思える人たちが慌ただしく活動しているのが分かった。

 神谷が担当する事件は現在、マスコミにも未だ公表されていない。まだ神谷自身もあまり聞かされてはいないが、同僚に聞いてみたところ、どうやらかなり重要な事件らしい。

 神谷が警視庁の中に入ると独特な緊張感が身を襲った。その緊張感がより一層神谷の活力を沸かせていくような感覚を神谷は感じていた。神谷は警視庁の中を歩いていく。目的の会議室は入り口からかなり遠い場所に位置していたので、施設内に入ったとしてもそこそこの距離を歩く必要がある。その間に神谷は自分が担当する事件のことについて考えていた。

 ある政治家の息子の誘拐事件。神谷は同僚からはそう聞いたはずだった。神谷は今まで誘拐事件を扱うことは何回かはあったものの、政治家の息子というかなりセンシティブな人物が被害にあった事件は担当したことはなかった。同僚から聞いた話だと、政治家の息子が誘拐されたという情報は原則公表する予定はないらしい。当たり前のことだった。

 おそらく政治家の息子の誘拐犯は警察に通報することを禁じていたのだろうし、その要求を呑まずに政治家の関係者らは通報したのだから警察としてはかなり慎重な対応が必要とされる。マスコミに公表することなんて論外だ。だからこそ、警視庁内に特別捜査本部が設置されることとなった。特別捜査本部とは社会に大きな影響を与え、情報管理が重要な事件を扱うときに設置される捜査本部のことだ。今回のような秘匿性の高く、さらに社会的に重要度も高い事件では特別捜査本部が設置されることが多いのが通例だった。

 つまり、より一層今回の事件は慎重に、そして迅速に解決しなくてはならない。神谷はそう考えて拳を強く握りしめた。

 神谷がしばらく歩いていると、目的の会議室についた。神谷がその会議室の扉を開けるとすでに何人かの捜査官が会話していたり席に座って資料を読んでいたりしていた。神谷は会議室の空いている席を見つけて座る。目の前には今回の事件に関するいくつかの資料がすでに置かれていた。

 神谷は目の前に資料があることを確認すると、手を目元に優しく置いて背もたれに背中を預ける。最近の疲れがたまっているようで目の奥が少しだけ痛むように神谷は感じた。神谷は首を回して筋肉をほぐすと、横から声がかかってきた。

「お疲れ様です。先輩」

「ああ、お疲れ様」

 神谷の目の前にいる捜査官は神谷の後輩である新藤智樹(ともき)だ。新人時代から神谷とともにいることが多く、今回も同じ事件の担当になったようだった。

「先輩も今回の事件の担当になったんですね」

「そうみたいだな。とは言ってもついさっきここに来たわけだからどんな事件なのかほとんど知らないんだ」

 神谷は先日、他の事件を担当していたばかりだった。だからほかの人よりも今回の事件についてあまり聞かされていないし、目の前にある資料で初めて事件の全貌がわかるというわけだった。

 神谷は軽く新藤と雑談をしていたところ、会議室に班長が入ってきた。今回の事件の会議が始まる合図だった。

 神谷や新藤だけでなく、他の捜査官もそれぞれ席についていく。班長のそばにいた捜査官がメモを取り出して資料を読み始めた。神谷も同じく資料を開いて捜査官の話を聞きながら目を通していく。

 

 今回の事件の被害者、つまり誘拐されたと思われる人物の名前は『九条礼司』だ。年齢は二十二歳で現在大学に通っている。いまだに捜索中で現在手掛かりらしい手掛かりは見つかっておらず、誘拐犯と思われる人物もまだ特定できていない。また、誘拐犯の要求内容は現在不明であり、通報した人物によると今後その内容を話すという旨を伝えられたようだ。

 しかし、警察内では政治的な要求をしてくる可能性が高いと判断しているようだ。その理由としては被害者の家族にある。被害者の親は衆議院議員である九条誠司であり、今日の政治界において重要なポジションに位置している人物であった。わざわざ有名な政治家の息子を誘拐するのだから、ただの身代金目的というよりも政治的な理由が関わってくる可能性が高いということだった。もしも身代金目的の誘拐だとしたら、すでに要求内容を言っているはずだった。

 しかし、その要求内容は確定したわけではないので、まだ公安部は非公式に情報収集を行っているようだったが、率先して捜査する事態には発展していないようだ。つまり、まだ捜査権限は捜査一課にある。

 他にも、何かしらの怨恨が理由の誘拐であると考えている捜査官もいるようだった。九条誠司は現在闘病中で意識不明の状態だ。政治的な要求をするには時期として不適切ではないのかという意見からくるものであったが、どれも推測の域を出ないものだ。したがって、神谷達に任される任務は誘拐犯の目的を探るために、九条誠司付近の人物へと聞き込みを行い、誘拐の目的の手がかりを洗い出すことだろうと神谷は考えていた。

 防犯カメラやスマホの位置情報などで誘拐犯や被害者の位置を特定することも試みているらしいが、今のところ芳しい情報は見つからないようだ。

 通報をした人物は霧崎美鈴(みれい)という名前の九条誠司の秘書であった。彼女の証言では昼過ぎごろ非通知の電話が事務所にかかり、電話対応の人物がその内容を聞くと被害者を誘拐したという旨の話だったため、急いで秘書に取次ぎをしたらしい。秘書が誘拐に関する内容を聞いて電話が終わった後、すぐに警察に通報して現在に至るというわけだった。

 神谷は資料から目を離して前を向く。前で話をしていた捜査官も手にしていた資料やメモから目を離して班長の方へと視線を送っていた。

「それでは班長、お願いします」

 班長は立ち上がって話を始める。腹の底から響く重低音が会議室の中を支配しているようだった。

「……話されていた通り、被害者の家族関係から誘拐犯の要求は政治的なものである可能性も確かにある。しかし、手掛かりが少ない現在、その先入観を捨てて客観的な視点で捜査を進める必要が我らにはあるはずだ!」

 班長は一呼吸おいて最後に締める。

「それでは、捜査の割り当てを行う。心して取り掛かるように」

 そこから、捜査官の名前が呼び出されて何をするべきなのかを言われる。どうやら神谷は九条誠司の事務所へ行って聞き込み調査をすることとなったようだった。新藤も同じ担当だった。

 自分の担当を確認した捜査官の多くはすでに自分の役割を全うするためにおのおの資料を読み漁ったり、すでに会議室から出て現場に向かう捜査官もいた。神谷も一呼吸おいて新藤に話す。

「今回の事件はなかなか厄介そうだな」

「みたいですね。手掛かりも少ないとなると長期戦も覚悟しないとですね」

 新藤はげんなりとした様子で肩を落とした。

「とりあえず九条誠司の事務所に早く向かうか。もたもたしてると夜になるぞ」

「はい!」

 新藤は元気よく挨拶をして資料をまとめる。神谷も九条誠司の事務所の場所を検索して車でどう向かうかを考える。

 

 神谷達が九条誠司の事務所に着いた時にはすでに夕日がさしており、もう日の入りが近かった。これではあまり時間をかけるわけにはいかないと神谷は考えていた。

 神谷は事務所の近くにいた警備員に話しかける。最初は立ち入るのを断られてしまったが、警察手帳を見せれば事情が分かったのかすぐに事務所内に入れてくれた。メディアに公表していないので、警察が九条誠司の事務所に入ったのだと悟られるわけにはいかなかった。したがって、神谷達は現在私服で捜査をしている。一般人から見れば見分けるのは困難だろう。

 事務所の中に入ると九条誠司の関係者と思われる人たちが慌ただしく仕事をしているのがわかる。その様子は警視庁の駐車場で見た捜査官たちと重なり、不憫に思うのと同時に少しだけ面白く神谷は感じた。

 神谷達は事務所の奥の方へと移動すると、他の人らに指示を出している中心的な人物を見つけた。その表情は凛としており、この仕事量に対して疲れた様子は見られない。まさに敏腕秘書のようだと神谷は考えていた。

 その特徴的な長髪は捜査本部でもしっかりと見たのを覚えている。彼女こそが霧崎美鈴であり、今回の事件を通報した人物であった。

 神谷達は霧崎の元へ近づいていくと、霧崎も神谷達に気が付いてこちらの方を向いた。神谷と新藤は二人とも警察手帳を霧崎に見せる。彼女はすぐに理解したのか周りにいた人たちを持ち場に戻らせて神谷達に挨拶をした。

「警察の方ですね。ご対応させていただきます。どうぞこちらへ」

「ありがとうございます」

 神谷は代表して礼を言う。霧崎は席から立ち上がって移動していく。彼女が進む先には応接室が見えるので、どうやらそこで詳しい話をしてくれるようだった。

 神谷達はいったん安堵する。時間帯が遅いこともあって、もしかしたら門前払いをされることも考えていたからだ。霧崎に対しての聞き込みは神谷達が初めてではないはずだ。それに見るからに仕事の対応で忙しそうだったので、あまり時間を割いてくれないかもしれないと神谷は考えていたのだ。

 神谷達が応接室に入り席へと座ると、すぐに扉が開いてお茶が二人に出された。

「ありがとうございます!」新藤が真っ先に感謝を伝えた。

「わざわざありがとうございます」

 神谷は新藤に続いて感謝を述べた。

「……改めまして、九条誠司の秘書を務めさせていただいております霧崎美鈴と申します」

 霧崎の自己紹介を二人は軽く会釈を返して神谷は口を開いた。

「捜査一課の神谷と申します。こちらは新藤です。忙しい中、捜査にご協力いただき感謝します」

 外を見てみるともう日の入りだった。

「いえ、警察の方々に助力できるならいくらでも時間を割きますよ」

 霧崎は笑顔で答えた。

「本当にありがとうございます。……早速ですが、九条礼司さんが誘拐された旨の電話がかかってきたときの状況を詳しく教えていただきたいです」

 神谷がそう言うと霧崎はさっきの指示をしていた時のような凛とした表情になっていた。

「まず、電話がかかってきたのは午後四時ぐらいだったと思います。電話対応をする者がその電話を取ったところ、内容が重大だったためすぐに私が対応することになりました。その電話の内容としてはまず、九条礼司を誘拐したことを最初に伝えられました。ボイスチェンジャーで声を変えていたので男性か女性かもわかりませんでした」

 秘書は一呼吸おいて話を続ける。

「誘拐の目的についても聞いてみたんですが……誘拐犯は全く話してくれませんでした。その後すぐに通話を切られてしまいました」

「その後の霧崎さんはどうしたんですか?」

「すぐに部下に事情を話しました。誘拐犯からは警察に伝えるなとは言われていましたが、私たちだけではどうすることもできないと判断して警察に通報することとなりました」

「記録では午後四時十二分に通報がありましたね」

 神谷は情報を補足しながら情報を整理していく。横では新藤がメモを取っている。

「以上がこの事務所に警察が来るまでの流れです」

 神谷は腕を組んで考える。今のところ資料に書かれていない情報はなさそうだった。だが、ここまでは神谷の想定内だった。新情報が出ることなんて別に期待していたわけではなく、とりあえず整理をしなければならなかった。

 神谷は続いて霧崎に対して話を続けた。

「それでは、九条誠司さんや九条礼司さんについていくつか質問をしてもよろしいでしょうか?」

「……はい。なんでしょうか?」

 ここからが本題だろう。誘拐の目的がはっきりしない今、それに関する事柄の調査をするべきだ。

 もしもこの誘拐事件が政治的な圧力をかけるものなのであれば、現在の九条誠司の状態や政治界においてどのような立ち位置なのかが重要になってくるはずだった。

「それでは最初に、九条礼司さんはどのような人物だったかを教えてもらえますか?」

 神谷がそう言った後、霧崎がほんの少しだけ表情を変えたのに神谷は気が付いた。

「……あまり品行方正といった方ではなかったですね。先生との仲もあまり良くなかったと聞いております」

「品行方正でない、というのは具体的にはどういった面で?」

「そうですね。……女遊びが激しかったり、金遣いが荒かったりなど……。そのことで何回か先生と言い合いになったと聞いたことがあります」

 霧崎の話を聞いてみると、あまり優れた人物ではないのは確かそうだった。女性関係や借金などで恨みを買っていてもおかしくはないだろうと神谷は考えた。

「わかりました。次に九条誠司さんについてなのですが、現在の九条さんの容態はどうなのでしょうか?」

「……先生が現在意識不明の状態であることは刑事さんも知っていると思います。医師によれば回復の兆しは見受けられるようですが、意識が完全に戻るにはあと何か月かかかるみたいです」

 神谷から見て、九条誠司について話すときの霧崎の様子はとても暗かった。政治家としての九条誠司がとても慕われていたことがわかる。

 九条誠司はあまり政治について詳しくない神谷でもよく知っているほど有名な政治家だった。世間からしても非常に好印象といった感じで、意識不明になる前には新しい政策を掲げていたのを覚えている。

「九条さんが意識不明になった原因はやはり病気なのですか?」

「はい。それは間違いありません。医師からもそれは保証済みで、誰かの故意によって引き起こされたわけではないそうです」

「いつから入院していましたか?」

「ちょうど二週間前だったはずです」

 神谷の質問に霧崎は過不足なく答えてくれた。九条の容態が人為的なものでないかと神谷が疑っているのに霧崎は気づいたようだった。

 神谷は質問を続けた。

「意識不明であるということは、もちろん今回の事件を九条さんは知らないわけですか?」

「そういうことになりますね。それに、もしも意識が回復したとしても、そんなショッキングなこと今伝えるなんてことはしないでしょう」

 確かにそうだと神谷は思った。九条誠司の立場からすればようやく回復してきた身体に劇薬を与えるようなものだ。とてつもない不安とストレスを与えることになるだろう。

 神谷は再度腕を組んで考え始める。霧崎の話を聞いたところ九条誠司の現在の病気が関係しているという線は濃厚であると神谷は結論付けた。九条誠司が入院し始めた時期と今回の誘拐とで間隔が非常に近いというのは偶然には出来すぎていると神谷は考えたからだ。それに、九条誠司が入院したという情報はマスコミにもすでに拡散されているから、その事実が関係する可能性は十分にあった。

「……だとすれば、九条さん本人に何かしらの要求をするという目的ではなさそうですね。では現在、対外的な対応や内部業務は主に霧崎さんに権限が?」

「そういうことになりますね。先生が入院される前に任されたものですから」

 そう言っている霧崎の表情は非常に恍惚としており嬉しそうだった。

「ですが、もちろん重大な政治的な判断を下すことは私にはできません」

「それは現在のような緊急事態でもですか?」

「それは……」

 霧崎はしばらく考えたのち、言葉を発した。

「何とも言えませんね。誘拐犯が要求する内容に依存するとしか……」

 まあそれもそうかと神谷は思う。それと同時に神谷は誘拐犯の要求の仮説を立てていく。

 神谷が思いついたものとしては、政治的な圧力をかけるためというものだった。九条誠司が現在闘病中で重要な判断は霧崎に任されている今、九条誠司の政策をよく思っていない者や他の政治家らが圧力をかけるために誘拐した。一つの仮説として神谷は考えておく。

「それでは九条さんに対して何か恨みを持っていたりする人などは──」

「いません」

 神谷の言葉を霧崎は途中で遮った。神谷と新藤はそのあまりにも突然の態度にぎょっとする。今までの霧崎の態度は非常に知的でかつ温厚なものだった。しかし、今の霧崎の様子ではその面影を一切神谷は感じられなかった。

 霧崎は先ほどの言葉に続いて捲し立てるように話をする。

「先生に対して恨みを持っていた人物なんてただの一人でさえいないです。先生の政策は完璧で世間からの評価も圧倒的に良いものです。それに普段の先生も市民の人たちとの交流を欠かさず行っていますし、市民の方々も先生のことを非常に慕っているのは私の目から見ても明白でした。そんな先生に恨みを持つ……そのような者がいるはずなどありません」

 霧崎は一通り話し終わったら、お茶を一杯飲んで神谷達の方を見てきた。

「わかりましたか?先生に対しての怨恨が理由の誘拐であるということは考えられないです」

 霧崎はそう締めて少しだけ微笑んだ。神谷達はその霧崎の様子に圧倒され、何も言葉が出てこなかった。神谷は自身の質問が迂闊なものであったと反省し、他の話題に持っていこうと図った。

 静寂に耐え兼ねた神谷は急いで他の質問を考え出した。

「……そ、それでは霧崎さんが最後に被害者と会ったのはいつかを聞いてもよろしいですか?」

 若干、神谷は霧崎に臆されて弱気になってしまった。神谷は隣にいる新藤を見てみると、ようやく正気を取り戻してメモを慌てて書こうとしていた。

「……私が最後にあの人を見たのはもう何週間も前になります」

「それは、かなり長い間ですね」

「ええ、そもそも礼司様は大学生で一人暮らしをしていますから。私が直接会う機会としてはほとんどないのです」

「なるほど……」

 現在の捜査が難航している理由の一つとして、九条礼司が一人暮らしをしているため目撃証言が少ないといったことが挙げられる。現在、九条礼司の友人関係について現在他の捜査官が調べている最中だった。

 神谷はお茶を飲んでまた考えていく。正直、重要な情報は今のところ見当たらないように神谷は思えた。しかし、印象に残ったのはやはり先ほどの霧崎の突然の態度のことだった。九条誠司に恨みを持つ人物がトリガーだったと考えるよりも、彼に対して悪くとらえられるような質問をしたことが霧崎のあの態度を引き出していたのだと神谷は考えていた。今回の事件について何か関係があるのかもしれないと神谷は一瞬だけ考えてみたが、それはあり得ないことだろうと結論付ける。それだけ九条誠司を慕っている彼女が、その息子である九条礼司の誘拐を企てることはあまりにも突飛すぎる。それに、彼女は誘拐の電話が来た時もこの事務所で働いていたはずだった。それはほかの従業員に聞けばすぐわかるはずだった。アリバイとしても完璧なものだろう。

 これ以上、霧崎から有益な情報は得られないだろうと判断した神谷はもう聞き込みを終わらせようとする。新藤も神谷の様子を察したのかメモを片付けていた。

「ご協力ありがとうございました。それではこの事務所内の他の方々にも聞き込みを行ってもよろしいでしょうか?」

「ええ、もちろんです。迅速に解決できるよう祈っております」

 霧崎は端正な笑顔を神谷達に向けて頭を下げる。神谷と新藤はそれに続いて感謝を述べたあと応接室から退出した。

 その後の神谷達は事務所内にいる何人かに簡単な聞き込みを行うが、やはり特に新しい情報としてめぼしいものはなく、事務所から渋々帰ることとなった。

 新藤はつまらなさそうに神谷につぶやく。

「やっぱりと言うべきか、こっちの捜査に進展はなさそうっすね」

「だな。まあ、事前に捜査官が簡単な聞き込みをしていたわけだから仕方ないな」

 神谷と新藤は事務所から戻って車の中でしばらく話をしていた。その話は捜査の話と雑談が入り混じっており、先ほどまでの緊張感は二人にはなかった。

 新藤はふと思いついたことを神谷に話した。

「そういえば、霧崎さん怖かったですね。まさかあんなに温厚そうな人がああなるなんて……」

 新藤は苦い顔をしながら霧崎のあの態度のことを思い出していた。神谷も新藤に続いて霧崎のことを頭に浮かべていく。思い出しているのは、もちろん九条誠司に対して恨みを持っているかを聞いた後の霧崎の姿だった。

「……ああ、確かにな。初対面では知的な印象が強かったが、案外見かけによらないものだな」

「ですね。でも、あの様子は九条誠司のことを慕ってるってよりも愛してないとできないレベルでしたよ。それも狂信的なほどに」

「だが九条誠司はもう父親だぞ。しかも愛妻家と聞く」

「あー、略奪愛ってことですか?倒錯的だなあ」

 そういうことじゃないだろと神谷は内心思いながら新藤の話に適度に相槌を打つ。だけれども、新藤の『狂信的な』という単語は霧崎の印象にぴたりと当てはまりそうだと神谷は考えていた。

「まあ、次彼女と会うときには気をつけておかないとな」

「そうですね。最悪、捜査に協力しなくなるなんてことも起こりそうですし」

「そこまでか?」

 神谷は笑って新藤の言葉に返答した。

 すると、ふと神谷の携帯が鳴り響いた。神谷は現在運転中であるため新藤に電話を取らせた。

「新藤です。……はい。……分かりました。先輩にも伝えておきます」

 新藤はそう言って電話を切った。新たな手掛かりかと神谷は期待して新藤に質問をする。

「どうした?新しい情報か?」

「そんなに期待通りって感じでもなさそうです。近くに九条誠司のもとでもともと働いていた人物がいるから聞き込みに行けと」

 新藤は目的地をナビに入れながら話していく。

「なるほどな。……それで、その人の名前はなんて?」

「ええと、三岳宗一郎ですね」

 神谷はその名前を記憶しながら、カーナビの方向へとハンドルを切っていった。

 

 神谷達が三岳家に到着したころには辺りは暗くなっており、神谷は早く聞き込みを終えねばと考えていた。

 神谷はチャイムを押して警察手帳を取り出す。

「夜分遅くに失礼します。警察の者ですが少々よろしいでしょうか?」

 そう伝えるとすぐに玄関の方からこちらへ向かってくる足音が聞こえてきた。

 家の扉がゆっくりと開けられる。

「……警察の方?どういったご用件でしょうか?」

 家から出てきたのは四十代ほどの男性であった。神谷はこの人物が三岳宗一郎だろうと思い、早速本題へと入っていく。

「失礼ですが、三岳さんでよろしいでしょうか?」

「はい。そうですけど……」

 三岳は怪訝な顔をしながら二人の顔を交互に見ながら答えた。この様子だと九条礼司の誘拐について知っていることはなさそうだなと神谷は考え、肩の力を抜きつつ何か新しい情報はないかと目を鋭くさせながら質問をしていった。

「九条誠司さんという方はご存じですよね?」

 神谷は三岳の表情が少しだけ強張ったのを見逃さなかった。だが、それは単純に以前働いていた先の政治家の名前が警察に呼ばれたことの驚きによるものだと考えるべきかもしれなかった。

「……ええ。もちろん。昔、私が勤めていた事務所の政治家です」

「実は九条誠司さんの周りでちょっとした事件が起きてしまったのでこうして聞き込み調査を行っているんです」

 神谷はできるだけ三岳に警戒心を与えないように極力笑顔を意識しながら話していく。三岳の表情も緊張したものからだんだんと落ち着いていくのがわかった。

「なるほど。……どういった事件かを聞くのは……」

「申し訳ありませんが、情報の公開は禁じられていて詳しいことはお話しできません」

「そうですか……」

 九条礼司の誘拐についてはもちろん知らせることはなかった。神谷は質問を続ける。

「それでは、失礼ですが本日の昼頃はどのようにお過ごしされましたか?」

「昼はうちの書斎でリモートワークをしていました。……ミーティングもあったので同僚に聞いても同じ答えが返ってくると思います」

「なるほど……ちなみにですが現在はどのようなご職業に?」

「今は広告業に勤めています」

 とりあえず今日のアリバイとしてはしっかりありそうだと神谷は考えていた。まだ確定はしていないが三岳も言っている通り、同僚に確認すれば簡単に真実かどうかがわかるはずだ。神谷は別の角度からの質問へと変えてみる。

「それでは、九条礼司さんについていくつかお伺いしても?」

 神谷がそう言った瞬間、三岳は見るからに動揺し、その目が大きく泳いでいることがわかった。何か思い当たる節があるのだろうかと神谷は疑いながら三岳のことを見つめる。

「……三岳さん?」

「……失礼しました。礼司君についてですね」

 神谷が一声かけると咳ばらいをして仕切り直しをしようと言わんばかりに早口で質問の回答をしようとする。

「おそらく他の人と同じ答えになると思いますが、あまり品行の優れた人ではありませんでした。友人関係のトラブルも多く、良くない人付き合いをしているという噂も聞いたことがあります」

 三岳が話したことは霧崎の話とほとんど一致していた。恨まれる理由がある人物であるということを踏まえると誘拐の理由が身代金や政治的なものではなく、九条礼司への恨みであると考えることも必要かもしれない。

「それでは礼司さんと最後に会ったのはいつでしょうか?」

「まあ、転職した身ですからね。もう何年も会っていませんよ」

 神谷が見たところ嘘はついていなさそうだった。

 やはり九条礼司の友人関係を整理する必要がありそうだと神谷は考える。しかし、その担当はほかの捜査官に任されているため、新たな情報が来るまでは地道に聞き込みをするしかなさそうだった。

 神谷はある程度聞き込みができたので終わらそうとする。神谷が聞き込みを終わらそうと声をかけようとした瞬間、家の奥から声がかかってきた。

「──父さん?まだ話し終わらなさそうー?」

 奥から聞こえてきたのは女性にしては低いが男性にしては高い少年と青年を隔てている途中の幼げな声だった。三岳の子供だろうかと神谷は思った。

 三岳は家の方にと顔を向けて大きな声で返事をする。

「もう終わるよー!……すみません、そろそろ夕食なのでこの辺りで……」

「はい。本日はご協力ありがとうございました。……お子さんですか?」

 ちょうどよいタイミングで声をかけてきたこともあって神谷はすぐに聞き込みを終わらせようとするが、最後に少しだけ質問をした。捜査に関係はない、ただの世間話のような質問だった。

「そうですね。夕食を作り終えたのにまだ話をしてたから、しびれを切らしてみたいですね」

 神谷の目の前の男は優しく笑って頭を掻いた。

「へえ、家事の手伝いをするなんて偉いですね」

「はは、今は奏斗と二人で過ごしてるんで交代で作ることにしてるんですよ」

 神谷から見て三岳の様子は非常に上機嫌で照れ臭そうにしていた。新藤もその姿を見て朗らかな笑みを浮かべているのが神谷はちらりと見えた。

「奏斗君って言うんですね」

「はい。今年で十三ですよ。早いものですよね」

 三岳はひとしきり話したのち、神谷達に目を合わせた。

「それでは私はもう家に戻りますね」

「はい。今日はご協力ありがとうございました」

「ありがとうございました!」

 神谷と新藤は挨拶をして聞き込みを終わらせた。

 

 神谷と新藤は聞き込みが終わって、また車の中で話をしていた。

「それにしても今日は収穫なしっすね。まあ、なんとなく予想してましたけど」

「そうだな。やっぱり、監視カメラとかで被害者の動向を探るのが一番いいんだろうが……そっちの方は難航しているそうだぞ」

 神谷の言葉を聞くと新藤はガクっと肩を落とした。詳しいことは明日の捜査会議で詳しく話されるはずだが、緊急の連絡がない以上、おそらく捜査の進展は期待しないほうが良いだろうと神谷は直感していた。

「そういえば三岳さん、被害者のことについて質問した時、動揺してましたよね?あれってどういうことなんですかね?」

 新藤がふと言った疑問は三岳の聞き込みの際に一番神谷が気になっていたことでもあった。神谷は新藤の疑問について深堀をしていく。

「ああ、確かに九条誠司について話題に出した時よりも反応してたのは気になった。三岳が九条誠司のとこで働いてた時に何か警察沙汰になったことでもあったのかもな」

 神谷がそう予想を立てると、新藤は驚いて聞き返した。

「じゃあ、被害者は昔何か事件に巻き込まれた、もしくは起こしたってことですか⁉」

「まだそうと決まったわけじゃない。ただの想像を言っただけだ」

 だけれども、九条礼司が今回の事件の重要な要素であるかもしれないということは頭に入れておくべきだろうと車の運転をしながら神谷は思った。

 今日の捜査はこれで終わった。

 

        四

 

 九条礼司の誘拐事件の捜査が始まって二日目の水曜日。神谷は特殊捜査本部のある警視庁へとまた足を運んでいた。誘拐事件が起きて一日たったことから重要な情報が集まっているころだろうと神谷は思うが、いまだに誘拐犯の目的やどこに九条礼司が監禁されているのかなどはわかっていない。今日の捜査会議でどこまで事件の捜査が進んでいるかでこの事件の解決のしやすさがわかるといっても過言ではなかった。

 神谷は昨日と同様に警視庁の中を歩いていくと目的地に到着した。扉を開けるとすでに何人かの捜査官が資料を読み漁ったり雑談をしていたりしている。昨日とほとんど同じだった。

 神谷は席に座ってしばらくしていると、横から声がかかる。新藤の声だった。

「おはようございます。先輩」

「おはよう。……ずいぶん元気がなさそうだな」

 神谷から見て新藤の様子はあまり覇気を感じず、目にはいつもの力を感じなかった。目元には隈はなさそうだから寝られなかったというわけではなさそうだと神谷は考えていた。

「ええと、同僚から聞いてみたんですけど、どうやらこの事件かなり厄介なことになってるらしいです」

「……どういうことだ?」

 新藤からの要領の得ない答えに対して神谷は疑問をつぶやく。新藤は言いにくそうに話し始めた。

「被害者の動向を捜査している班の捜査官が言うにはいくつかの監視カメラが破壊されたりしていたみたいなんです」

「……破壊?」

 神谷は新藤の言葉を聞き返したところで班長が会議室に入ってきた。もう捜査会議が始まる時間になったそうだった。神谷と新藤は話すのをやめて資料を読みながら会議の内容を聞いていった。

 

 新藤が言っていた話はやはり正しかったようだった。今回の事件の解決は難しいものとなるだろうと神谷は感じていた。捜査会議では昨日よりも情報として提示されたものは多かったが、どれも核心的なものはなかったようだった。

 まず、九条礼司の行方を探る班が提示してきた情報はやはり少なかった。新藤の言っていた通り、九条礼司の自宅付近にある監視カメラのいくつかが破壊されていたらしいのだ。破壊されたのは聞き込みの結果、ごく最近であると判明したため、誘拐犯が破壊したものとして間違いないだろうと捜査官たちは考えていた。

 監視カメラが破壊される前の映像も捜査官たちは調べてみたらしいが、九条礼司が映っていたりなどはしておらず、特に重要な情報はなかったようだった。

 監視カメラ以外でももちろん九条礼司の行方を探ってみたらしいが、携帯から居場所を探るのはもちろん駄目で目撃証言もなかった。現時点では、九条礼司がどこにいるかを特定するのは不可能に近いと言わざるを得なかった。

 唯一、大きな手掛かりになりえるだろう情報はある。九条誠司の事務所のもとにかかってきた電話の発信元の場所がわかったようだった。

 通信業者を通じて逆探知を行ったところ、ここから遠く離れた山の中の公衆電話から掛けられたものであると判明した。

 しかしながら、公衆電話であるからこれ以上誘拐犯がどこにいるかの情報を探るのは難しい。それに、誘拐犯がどこで電話をしてきたかがわかっただけでは特定は難しい。誘拐犯はそれを予測して、また別の方角へと逃げた可能性だってある。この情報だけで誘拐犯の位置を特定することは期待しないほうが良いだろうと神谷は考えていた。

 九条礼司の行方を探る班が手に入れた情報としてはこれでほとんど終わりだった。捜査会議はまだ続く。

 他の班が捜査したのは九条礼司の友人関係や人物像などだった。こちらはかなり収穫があったそうだった。

 九条礼司の友人の何人かに聞き込みを行ったところ、三日前の正午を最後に会ったという人物がいたのだ。その人物が言うには何も不自然な点はなく、普通に会話をしていたようだった。したがって、九条礼司が誘拐されたのは最低でも三日前の正午から後であると考えることができる。それ以降に九条礼司と会ったという人物は今のところ見当たらず、引き続き捜査を行うようだった。

 そして、九条礼司の人物像について捜査をしてみたところ、霧崎や三岳が言っていた通り、いろいろと問題がある人物であったようだ。女遊びが激しく、休日はギャンブルに入り浸っている。金遣いも荒く、借金もしているようだった。友人の話からしても恨まれるような人物であるのは間違いなかった。こちらも引き続き捜査を続けるそうだった。

 捜査会議で話された新しい情報はこのくらいだった。他にもこれからどのように捜査をしていくのかを整理したのち、早々に捜査会議は終わった。

 

 神谷と新藤は捜査会議が終わった後、駐車場に停めてあった車に乗って移動しようとする。目的地は九条誠司の自宅だった。

 神谷は霧崎と話し終えた後、他の従業員とも聞き込みを行っていたが、その後に九条誠司の家に立ち入ることを要求していたのだ。霧崎は九条誠司の秘書であったため、彼の家に行くことも当然あるだろうと見込んでの願いだった。本来ならば、九条誠司本人に許可を得るべきなのだろうけれども意識不明なため仕方がなかった。霧崎は少し考えたのち神谷達が九条誠司の家に行くことを許可してくれた。もう少しで約束の時間だった。

 車で数十分運転すると、神谷達は目的地に着いていた。九条誠司の家の前には彼の秘書である霧崎が立っていてこちらをじっと見ていた。

 神谷達が車から出ると霧崎は口を開いた。

「おはようございます。お勤めご苦労様です」

「おはようございます。わざわざここへ来てくださったのですか?」

 神谷は内心驚いていた。昨日の霧崎の話では九条誠司の家には既に使用人が常駐しているため、霧崎自身が来ることになるとは思っていなかったからだ。

 霧崎は神谷の疑問に微笑んで答えた。

「いえ、私の家もこの近くにあるので、こちらに来ただけです。しばらくしたら事務所の方へと向かわせてもらいます」

 霧崎はそう言った。霧崎の家もこの近くにあるとは神谷は思っていなかった。この近くは昨日聞き込みに行った三岳の家とも比較的近かったため、その近くに住んでいるということなのだろうかと神谷は考える。

「わざわざありがとうございます」

「いえいえ。それではご案内させていただきます」

 霧崎はそう言って家の中に入っていく。神谷は家というよりも屋敷と呼んだ方がいいだろうと考えた。庭も広く建物自体とても大きい。著名な政治家の影響力と資本力に神谷は驚愕した。

 神谷達は屋敷の中に入ると何人かの使用人が神谷達を迎えているのにまず視線が吸収された。その次に目に映ったのは大広間の中央にそびえ立つ大きな螺旋階段だった。まるで美術館の中にいるような感覚を神谷は感じ、しばらく呆然としてしまった。隣を見てみると新藤も神谷と同じ状況らしかった。

 神谷は正気に戻ると霧崎の進む方向へと足早に向かっていく。新藤も遅れて霧崎と神谷の後をついていく。

 しばらく進むと応接間の扉を開けられた。神谷と新藤がその中に入ると霧崎は扉を閉めて席に着く。

「おかけになってください」

 神谷と新藤は言葉通りに席に座る。すぐに扉が開かれ使用人が紅茶を出してくれた。

「ありがとうございます。……すごいですね。この屋敷は」

 新藤も遅れて感謝を述べる。

「ええ。先生は著名な政治家ですからね。私としてもこのような場所で働かせてもらい喜ばしい限りです」

 霧崎は昨日と同じ顔をしていた。九条誠司のことを語る霧崎の顔は非常に嬉しそうであり、新藤の言葉を借りるのであれば、それと同時にほんの少しだけ狂気じみていた。

 しかし、すぐにいつもの様子へと戻り、神谷達に質問をしてきた。

「……どうですか?礼司様の誘拐事件の捜査は進んでいるのでしょうか?」

 霧崎の言葉に神谷は言いづらそうに発言をする。

「……すみません。まだ九条礼司さんの居場所も誘拐犯も突き止められていない状態です」

「そうなのですか……。それでは本日は何を捜査するつもりなのでしょうか?」

「今日は九条礼司さんについて詳しく調べてみます。過去に何か別の事件に関与していないかどうかなど」

 神谷がそう言うと、霧崎の表情が固まった。その目は大きく開かれている。神谷がどうしたのかを聞こうとする瞬間、霧崎は立ち直り口早に話し始めた。

「……分かりました。それではこの誘拐は礼司様の過去が関係しているということなのでしょうか?」

「それはまだわかりません。関係があるかどうかを今日捜査していくということになります」

 神谷がそう言うと霧崎は何やら少しだけ考えこんだ。しかし、すぐに神谷達に目を合わせる。

「……そうなのですか。わかりました。それでは私はもう事務所へ行かせてもらいますね」

 霧崎はそう言って立ち上がった。神谷はその霧崎の様子に少しばかりの動揺があるように感じていた。神谷は不思議に思うもこれ以上霧崎と話す必要もないと判断したため、霧崎の言葉の返事をする。

「わかりました。捜査が終わったら使用人の方に伝えておきます」

「はい。聞きたいことがあれば使用人の方にお願いします。……それでは私はこれで」

 霧崎はそう言うと扉を開いて足早にこの場から立ち去ってしまった。神谷と新藤は同時に紅茶を飲む。

「……それにしてもすごいっすね。こんな大豪邸に住んでるなんて」

 新藤は呆然としながらそうつぶやいた。神谷も同様の気持ちだった。

「そうだな……。こんなに広かったら捜査するのも思ったより時間がかかりそうだな」

 これだけ広ければ手分けして捜査する必要がありそうだなと神谷は考え、早く捜査をしてしまおうと紅茶を飲みほした。

「早くするぞ。もたもたしてたら本当に日が暮れそうだ」

「わかりました!」

 新藤はそう言い、二人は応接間から出る。神谷は新藤に手分けして捜査することを伝えると新藤は西側を、神谷は東側を捜査することに決めた。

 

 神谷が調べたのは昔の九条礼司が使っていた部屋や九条誠司の書斎などだったが、誘拐に関する情報はなかった。九条礼司の部屋は現在彼が大学生だということもあって昔に整理された跡があったのだ。そういうわけで九条礼司の過去について詳しく知ることはなかなかできなかった。

 どうしたものかと神谷は思うが、目の前に使用人が通りかかる。霧崎は聞きたいことがあれば使用人にと言っていったことを神谷は思い出した。それと同時に、九条誠司の秘書である霧崎よりも、この屋敷の使用人の方が九条礼司について知っている可能性は高いだろうと神谷は考えた。神谷は目の前を通り過ぎていく使用人に話しかける。

「すみません。今お時間よろしいですか?」

「はい。何か御用でしょうか?」

「九条礼司さんについていくつか質問させてもらってもよろしいですか?」

「はい。承りました」

 幸い使用人は快く受け入れてくれたようだった。神谷は質問をしていく。

「さっき九条さんの部屋を調べていたんですが、昔のものがかなり整理されてましたね。当時のものってまだあるんでしょうか?」

「はい。たいていのものは倉庫にあると存じ上げています。ご案内しましょうか?」

「ぜひお願いします」

 神谷がそう言うと使用人は歩き始めた。神谷は歩いている間、気になったことを使用人に聞いてみようと考える。霧崎相手にはなかなか聞けなさそうな話題だった。

「……そういえば、霧崎さんがあそこまで九条誠司さんのことを慕っている理由は何かあるんですか?」

 この質問は神谷がずっと気になっていたものだった。それは新藤も同様だろうと神谷は考える。

 使用人は少しだけ考えたのち神谷に教えてくれた。

「私も詳しいことを存じているわけではないですが、理由としては霧崎さんのことを『救ってくれた』からだと伺っております」

「……救ってくれた?」

 神谷は思ってもみなかった答えに少しだけ呆然としてしまって同じ言葉を聞き返した。使用人は続けて話をする。

「私もまだここで働いていない時から霧崎さんは既にここで働いていました。しかし、ここで働く人たちにとっては有名な話です。霧崎さんは昔、両親が残した借金で苦しんでいた時期があるんです。額の詳細については私は何も存じませんが、当時の霧崎さんからすればものすごい大金だったと思います。霧崎さんはその借金を返すこともできず途方にくれていました。そんなとき、霧崎さんは九条様と会ったらしいのです」

 使用人は一呼吸おいて話を進める。

「九条様はもともと霧崎さんの両親とお知り合いだったので霧崎さんの状況をよく理解していました。九条様は身寄りのない霧崎さんの借金を肩代わりなさったそうなのです。また他にも、九条様のそばで働いても良いと言ってくれたみたいです。霧崎さんはそれ以来とんでもない速さで仕事を習得していったそうです。それから、霧崎さんは実力で秘書の地位まで上り詰めることになりました。そして、そこから今に至るといった感じです」

「そんな過去があったのですね……」

 使用人の話を聞いた神谷は少なからず驚いていた。確かにそこまで親身に対応してくれたのだとしたら霧崎のあの狂信的な態度も頷ける。

「やっぱり使用人の中でも霧崎さんのあの九条誠司さんへの態度ってのは周知の事実なのですか?」

「……難しい質問ですね」

 使用人の反応は神谷が想像していたものとは異なり、どこか言いにくそうな印象を神谷は受けた。

「結論から申し上げますと、霧崎さんの態度を知らない者はいないです。……ですが、昔からここで働いていた私のような者たちと最近からここで働き始めた者たちでは霧崎さんに対する印象はだいぶ変わってくると思います」

「それはどういう……」

 使用人は歩くのをやめた。そして、神谷の方向へと顔を向けてくる。その表情はとても話しづらそうで暗いものだった。

「四年前から霧崎さんは変わってしまいました。それまでは誰に対しても笑顔でとても穏やかな人でした。もちろん、その当時から九条様へはほかの者たちと一線を画すほど慕っていました。……しかし、四年前から霧崎さんの態度が変わっていってしまいました。いつもどこか何かを恐れているようで、私たちへの態度も冷たいものへと変わっていきました。そして、九条様のことしか信じられなくなったように私からは見えました」

「そんなことがあったのですか……」

 神谷は最初に会った時の霧崎の様子を思い出した。あの時の霧崎は表面上では笑顔を浮かべていたものの、それは外向きであるものだということは神谷自身も感じていた。

「だからこそ、最近ここで働き始めた者たちは霧崎さんのことを怖がっている節があります。昔の霧崎さんを知っているものからすれば悲しいことなのですが、もう霧崎さんは変わってしまったのです。唯一変わっていないことは九条様への信仰心のような強い愛情だけです」

 使用人の話は終わって、使用人は再度歩き始めた。霧崎の過去に九条礼司が深く関わっていることは予想で来ていたものの、昔の霧崎の態度が変わってしまったという情報は少なからず神谷を驚かせた。それと同時に、この情報はかなり重要であると直感していた。

 使用人の言っていた四年前からの霧崎の態度。重要であることは間違いなかった。神谷がそう考えているうちに神谷達は倉庫に到着していた。しかし、今の神谷が一番気になることは四年前に霧崎の身に何が起こったかだけだった。

 神谷は再度使用人に話しかけた。

「先ほど霧崎さんの態度が変わってしまったのが四年前と言っていましたが、その当時に何があったのか知っていますか?」

「何があったか、ですか。……心当たりがあるとすれば、礼司様が巻き込まれた事件がちょうどその辺りの時期だったと存じております」

「巻き込まれた事件……ですか」

 神谷はその事件について心当たりがなかった。しかも、九条礼司が関わっているとすれば、今回の誘拐事件に関連している可能性は十分にあった。神谷は心して使用人の話に耳を傾けた。

「四年前、礼司様がある暴行事件の容疑者になったことがあります。結局、その暴行事件に礼司様は関わっておらず、犯人は分からずじまいになってしまったのですが……それ以来、霧崎さんの態度がだんだんと変わっていったように」

「その事件についてもう少し詳しく聞かせてもらえますか?」

 神谷は使用人が言った『九条礼司が容疑者になった』という点が非常に気になった。神谷の勘がここを深堀すれば事件の根っこの部分がわかると告げているような気がした。

「ええと、四年前の……確かちょうど今ぐらいの時期の夜にこの近くの町で暴力事件が起こったんです。被害にあったのはその町の男子高校生で礼司様のクラスメートでした。その子の証言では礼司様が暴行をしてきたという話でしたが、実のところ礼司様にはアリバイがあったんです。警察は夜だということと被害者が後頭部を強く打ち付けて意識を少しの間失っていたこともあって、その子が見間違いをしてしまったのだろうと考えて礼司様を容疑者から外しました。その後も警察は誰が暴力をその子にふるったのかを調べましたが、先ほど言った通り犯人はわからないままでその事件は処理されてしまいました」

 神谷は使用人の言葉を集中して聞いていく。神谷の頭にはすでにいくつかの疑問が沸き起こっていた。

「礼司さんのアリバイというのは?」

「ええと、そんなに私も詳しくは知らないのですが……確か、霧崎さんが証言していたはずです」

 神谷は思いもよらなかった人物に驚いてしまう。

「霧崎さんが?」

「はい。当日の夜の暴行が起こった時間帯に霧崎さんは礼司様と会っていたらしいのです。他にも誰かがそれを証言していたので信頼性があると警察が判断したらしいと聞いています」

「他にも……いるのですか?」

「そう聞いています。ですがすみません。誰が証言したかは私は存じていなくて……」

「ああ、大丈夫ですよ」

 神谷はそう言ってさらに質問をしていく。

「他にも暴行が起こった時に目撃者はいたのですか?」

「ええ。いたはずです。……ですが、その目撃者というのがその町の女子小学生だったんです。その子が話した内容はお世辞にも証言と呼べるようなものではなくて、結局証言として処理されることはありませんでした」

「そうだったんですか……」

 神谷はその内容を聞いて少しだけ落胆する。目撃者の話をもう少し聞きたかったが、小学生ならばその証言に信頼性が薄くなってしまうのは仕方がなかった。

 神谷はある程度、その事件について整理ができたので質問を終わらせて倉庫の中を探ろうとする。

「質問に付き合ってくれてありがとうございます。それでは倉庫の方を調べてみることにしますね」

 使用人は頭を下げて再び元の業務に戻っていってしまった。

 神谷は倉庫の中を漁っていった。倉庫の中には九条礼司のものだけでなく、家の備品やらが大量に置かれていたため探すのは困難を極めていた。

 それから何時間か経った。神谷が倉庫内を操作するのにかなり疲れてきたぐらいのころ、倉庫の扉が勢いよく開かれた音がした。

 神谷は驚いて扉の方を見てみる。そこには新藤の姿が見えた。

「大変です。先輩!」

「どうしたんだ?」

 新藤が声を荒げてスマホの画面を見せてくる。

「九条礼司の友人関係を調べてる班から緊急で連絡です。九条礼司が暴力団とつながっていたことがわかりました!」

「なんだって⁉」

 神谷は新藤が放った言葉に驚愕した。暴力団。今まで疑問だった要素が次々とつながっていく感覚が神谷を襲った。

「それじゃあ、今回の誘拐は?」

「はい!その暴力団が引き起こしたもので間違いないだろうと上層部は睨んでいるようです!」

 

 神谷達はすぐに九条誠司の家から警視庁へと向かっていった。捜査本部から招集があったのだ。おそらく捜査の再編成が行われるものだと神谷は推測した。

 車の中の神谷と新藤は引き締まった心持ちで話をしていた。

「九条礼司を誘拐したと予想される暴力団はどんな組織なんだ?」

「まだ詳しいことはわかっていませんが、過去にも警察沙汰になったことがあるようです。その時もそうなのですが、その暴力団は隠蔽や工作が得意で警察内でも取り締まりが困難な組織だと言われています」

「なるほどな。……聞き込みで言われていた九条礼司がしていた借金は……」

「おそらくその暴力団を通じてのものなのでしょう」

 神谷と新藤の話が一度終わり、車の中は静寂が訪れていた。

 しかし、神谷の頭にはどうも理解しづらいことがあった。

「……しかし、どうも納得できない。霧崎が関わっていたわけではないのか……」

「霧崎さん……ですか?」

 新藤はなぜ霧崎が話題に出たのかが分からず神谷に聞き返した。神谷は使用人に言われた話を新藤に話した。

 一通り神谷が話し終わると、新藤は顎に指を当てて考え込んだ。

「んー、確かに何か重要そうな情報な気もしますけど……今回の事件に関係があるんでしょうか?」

「それはわからない。……そもそも暴力団が九条礼司を誘拐する目的がわからない」

「それは……まだ言っていないだけで目的自体はしっかりあるんじゃあないですか?」

「それならさっさと要求を言ってしまえばいいだろう。なんでこうも長引かせる必要があるんだ?」

「……確かに、その理由はわかりませんね」

 新藤は神谷の言葉に疑問を感じているようだった。それが何か関係があるのかとでも言っているように神谷は感じた。

「捜査をかく乱するため……とかですかね。実際、九条礼司の行方もそうですけど誘拐犯の目的に捜査は焦点を当てられましたし……実際、現在までほとんど捜査の進展はありませんでしたよ」

 神谷は新藤の予測を聞いてしばらく考え込んだ。もちろん新藤の言っていることも間違っていなかった。監視カメラの破壊などを鑑みても誘拐犯は九条礼司の行方やその正体が暴かれるのを嫌っていることがわかる。だとすれば、捜査をかく乱したいという目的も可能性としてはあるはずだった。

 しかし、神谷はどうしても納得できなかった。

「確かにその理由は筋が通っている。大きな矛盾点はないように思える……だが、そこまでメリットがあるとは思えない。捜査が長引くことで何か別のメリット……得をする人物がいるのかもしれない」

「……先輩が言うには、その人物こそが霧崎さんってことですか?」

 新藤がかなり踏み込んだ質問を神谷にした。神谷は新藤の質問に答えなかった。まだ神谷の予想の段階でしかなく、断定できる要素なんて一つたりともないからだ。

「そんな先入観……持って大丈夫なんですか?」

 新藤の言葉は一般的には至極全うのように思えるものであった。しかし、神谷はそうは考えない。神谷は警察になったころから持っているある考えがあったからだ。

「いいか新藤。何も先入観を持つことが悪いってわけじゃないんだ。大切なのは先入観を持たないってことじゃない。自分が先入観を持っていることを自覚することなんだ」

「自覚すること……ですか」

「ああ。もちろん、それに振り回されてはいけない。俺だって霧崎が犯人であると決めつけているわけではないからな。だが、霧崎が何か事件に関与しているかもしれないという自分の感覚は大事にしないといけない。それが真実でも真実でなくとも事件解決に至るまでの大きなエネルギーになってくれるはずだ」

 新藤は神谷の話を聞き入っているが、すべてを理解しきれている様子ではなさそうだと神谷は感じた。新藤は神谷の言葉を咀嚼したのち、話し始めた。

「……なるほど。そんな風に考えたことはありませんでした。でも、自分にはちょっと難しい気もしますね」

 新藤は笑ってそう言った。神谷も少しだけ微笑んで再度事件についての話を始めた。

 

        五

 

 緊急招集で警視庁へと向かった神谷達はすぐに捜査会議に参加したところ、神谷の予想通り捜査の編成が行われることとなった。組織犯罪対策に重きを置かれたため、神谷達は今まで通り捜査をすることが困難になってしまったのだ。捜査四課の捜査官がより多くの人員として導入されたのだった。

 しかし、捜査の方針を方向転換したのに対して、成果としては芳しくない状態であった。暴力団への対応は一日、二日で終了できるものではない。九条礼司の捜索もされてはいるものの、いまだに見つかっていないし手掛かりも少ない。この事件の最初の捜査会議で多くの捜査官が予想した通り、この誘拐事件の解決は長い時間を要するものとなったのだ。

 九条礼司と暴力団とのつながりが分かってから、もう『一週間』が経ってしまった。

 いまだに捜査は続いており、誘拐犯からの要求の電話も来ていない。九条礼司の行方を探るのは困難を極めていた。だが、その間神谷達が何もしていなかったわけではない。時間的猶予はなかったものの、二人は独自に捜査をしていたのだ。

 現在、神谷達はある人物の元へと車を走らせている。三岳宗一郎だ。

「それにしても、なかなか信じられないものですね。三岳さんが事件に関係しているなんて……」

 新藤は顎に指を当てて考え込んでいた。

 神谷達はこの一週間、捜査の手を止めていたわけではなかった。対暴力団の編成が行われてから普通の聞き込み調査の量が減ったことで神谷達が捜査をするまでかなりの時間を要することになった。しかし、その間も霧崎が事件に関係しているだろうという神谷の感覚に従って地道ではあるが捜査をしていた。

 その捜査の結果あることが分かったのだ。

「もっとも、関係があるのは四年前の事件の方だがな」

「まさか九条礼司さんが犯人かと疑われた事件のアリバイ証言をしていた人物の中に三岳さんがいるなんて思ってもなかったです」

 三岳は九条礼司が容疑者として扱われた事件の証人だったのだ。霧崎と同様、九条礼司のアリバイを強固にするような証言をしていたらしかった。

「……今回の誘拐事件と関係あるんですかね?」

「わからない。……だが、事件が始まってからもう一週間以上も経っている。手掛かりがありそうなところを虱潰しに探るしかないのが、今の現実だ」

「まあ、なりふり構っている場合じゃないですよね」

 運転しながら神谷は新藤と会話をしていく。その会話内容は傍から聞いていたら諦めているといった印象を受けるかもしれない。しかし、二人の心は諦めてなどいなかった。三岳が手掛かりを持っているだろうという感覚を二人は持っていたからだ。その感覚は二人の捜査に確実にパワーをくれていた。

「……先輩は四年前の事件がどう今の誘拐事件に関わっていると思っているんですか?」

 新藤の疑問に神谷は答えた。

「……本当に、四年前の事件では九条礼司が犯人ではなかったのか……新藤はどう思う?」

「どうって言われても……九条礼司にはアリバイが……」

「そのアリバイを証言したのは霧崎と三岳だ。……もしも、そのアリバイが故意に作り出されたものだとしたら?」

 新藤は驚愕して神谷に聞き返した。

「じゃあ!四年前の事件の犯人は──」

「もう到着したぞ。その話は三岳に直接聞こうじゃないか」

 運転席から降りて神谷は三岳家へと向かっていった。三岳が勤める会社に聞いてみたところ、今日はリモートワークの予定だったので会社ではなく家にいるらしかった。新藤も神谷に置いて行かれないように急いで車から降りてついていく。真相が近づいて行っている感覚が二人にはあった。

 

 神谷達は三岳家に着いたのちチャイムを鳴らして、しばらくの間待っていた。奥の方からゆっくりと玄関の方へと近づいてくる音が聞こえていた。

「……はい。どうしましたか?」

 家から出てきたのはもちろん三岳だった。しかし、その様子は以前に会った時よりも明らかに動揺と恐怖があふれ出しているように神谷は感じていた。神谷は話を切り出してみる。

「再度いくつか質問をしたいことがあるのですが、今よろしいでしょうか?」

「……わかりました」

 神谷の提案に三岳はしばらく沈黙した後、その神谷の提案を渋々受け入れた。新藤はメモを用意しているようだった。早速、神谷は質問をし始めた。

「四年前、九条礼司さんが容疑者になった事件があると思います。三岳さんはその事件の証人をしていたようですが……間違いありませんか?」

「……はい。そうです」

「どうやらその証言のおかげで九条礼司さんは容疑者から外されたようなのですが……他にも三岳さんと同じ証言をした人物がいますよね」

 三岳は黙ったままだった。しかし、よく見てみるとその両手が少し震えている。

「その証人は霧崎さんです。二人も同じ証言をしていたことから警察は信頼性が強い証言として扱い、九条礼司さんは無事に疑いを晴らすことができた……そうですよね?」

「……はい」

「その後、三岳さんは九条誠司の元から離れて、今の会社へと勤めることになったそうですが……ちょうどこのころ、使用人たちから聞いた話では霧崎さんの様子が変わっていったらしいのです。それ以前は温厚で誰にでも笑顔を欠かさない人だったらしいのですが、冷淡で外向きか九条誠司の前でしか笑顔を見せなくなったようです。……私たちはその理由として四年前の事件が関係していると睨んでいるのですが、何か知っていることはないでしょうか?」

「それは……」

 三岳の両手はさらに震えており、少し過呼吸気味だった。目の焦点も神谷達に合っておらず、その目の中には恐怖や緊張、不安といった負の感情が入り混じっているようだと神谷は感じていた。

 尋常じゃない三岳の様子に神谷は疑問に思う。

「大丈夫ですか?体調が悪いのであれば、また後日に──」

「すみません。……言えません」

 神谷と新藤は目の前の今にも倒れそうな男が発した言葉に驚愕する。言えない、ということはどうしても言いたくない事情があるか、誰かに口止めされているかのどちらかであると考えるのが普通だ。

 三岳が放った言葉について神谷は詳しく聞こうとする。

「言えないというのは、どういう……」

 話を続けようとするが、途中で神谷は止めてしまう。三岳が神谷の方へと一歩踏み出して近づいてきた。

 なんだろうと神谷は疑問に思った瞬間、三岳から小声で何かを伝えられた。

「……すみません。どうしても詳しく話せない事情があるんです。……もし、詳しいことを知りたいなら、この子の元へ行ってみてください。私はもう家に戻ります」

 三岳は早口で神谷に伝えた後、そそくさと家の中へと戻っていった。神谷達は何も言うことができず、三岳家の前に立ち尽くすことしかできなかった。

 しかし、最後に三岳のスマホに入力されていた人物の名前だけは神谷の記憶にしっかりと刻まれていた。

「先輩、最後何を見せられたんですか?」

「新藤、とりあえずこの場所から離れるぞ。どうやら三岳は警察と話をすることを恐れているようだ」

 神谷は車を止めている駐車場の元へと早歩きで向かう。その頭の中にはスマホで見せられた『志藤明沙』という名前が反芻されていた。

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