差し伸べられる手 作:案山子
六
継ぎ接ぎになっていた紙片を並べてできた『九条礼司の誘拐事件』という文字列を見た後、明沙たちはすぐにその紙片をすべてゴミ箱の中に捨てて急ぎ足で玄関へ向かった。玲奈はいきなり明沙が奏斗の家から出ようとしたことに困惑したが、素直にそれを聞いてすでに奏斗の家から出ていた。
玲奈が家から出て少しだけ経った後、明沙は奏斗の家から出た。玲奈はすぐに明沙の元へ行き、疑問をぶつけた。
「なんで急に家から出ろなんて言ってきたわけ?」
急に動いたため少し息が荒くなりながら玲奈は言う。明沙はその理由を説明し始めた。
「いや、な。ちょっと嫌な想像がよぎったから慌てて声に出しちゃったんだよ」
「その嫌な想像って?」
「……あのメモに書かれたことってほぼ確実に、奏斗の誘拐に関わることだろ?じゃあ、なんでビリビリに破る必要があるんだ?」
玲奈は少しだけ考えたのち、何かを思いついたようだった。
「まさか、家に誘拐犯が来たから、とか?」
「ああ。おそらく、家に誘拐犯かその協力者が押し込んできたんだ。だが、メモをそのままの状態にしてたら回収されるのは容易に予想できるはずだ。だから、メモを破ったんじゃないかって考えたんだ」
「それが、なんで奏斗の家に早く出るってことにつながるの?」
「少なくとも誘拐に関わってるやつが誘拐した子の家の中に入ったんだぞ。監視カメラとか盗聴器とか仕掛けてる可能性高そうだろ」
「私たちの行動を見られてたかもしれないってこと⁉」
「最悪の場合な。とにかく危険そうだったからさっさと撤収させてもらったってわけだ」
玲奈の顔は徐々に青ざめていった。それはそうだと明沙は考える。その結論に明沙も至った時、恐怖で鳥肌が立つ感覚に襲われていた。
「とにかく今日はもう帰ろう。奏斗の戸尾さんにも会いたかったけど、もう夜になるし危険すぎる」
「そうね。また明日にでも聞きに行こっか」
そこまで話した後、明沙たちは素早く自宅へと帰っていった。
次の日、明沙はいつも通りの日々を過ごしていた。もちろん、昨日のことで玲奈ともいくらか話してみたけれども、あまり実のある話をすることはできなかった。
しかし、九条礼司という人物についてはどちらも調べてきたようだった。放課後になって、二人は教室のそばの廊下で話し合っていた。
「どうやら九条礼司ってのは衆議院議員の九条誠司の息子らしいな」
「うん。しかもその九条誠司って人、この近くに住んでるよね?すごい豪邸だった気がする」
明沙は玲奈の言葉に深く頷く。いつだったか明沙もその家に行って見たことがあったが屋敷とも思えるほどの大きさがあり、その中には使用人がいた記憶があった。
「でも、やっぱり気になるのは誘拐事件ってとこだよね?」
「そうだな。新聞とかテレビを見た感じ九条礼司が誘拐されてたなんて情報なかったぞ」
「じゃあ、まだ誘拐犯は捕まってなくて警察もメディアに公表してないってこと?」
「多分な。そもそもメモに書かれてただけで本当に誘拐されているのかもわからないしな」
「それもそうね」
最近の新聞やテレビを駆使して二人は調べてみたが、九条礼司が誘拐されているなんて情報は一切見つからなかった。詳しく調べようにも、本当に誘拐されているのだとしたらそんな簡単に情報が手に入るはずがない。手詰まりの状態に近かった。
「それに、奏斗の家にももう行けないな。さすがに危険すぎるだろうし」
「そうなんだよねー。奏斗のお父さんとも会えないのは結構まずいよね」
玲奈は肩を落としてそう言った。玲奈の言う通り、今の明沙たちがどう動いたとしても、上手く事が運んでくれる可能性は極めて低かった。
「警察呼ぼうにも私たちだけの言葉じゃ絶対動いてくれないし、もし動いたとしても奏斗の家に聞きに行くはずだから余計に奏斗の状況が悪くなるだけだし……はあ、何とかして奏斗のお父さんに私たちが気が付いてるってこと伝えられないのかな」
「ああ、それに関しては多分大丈夫だ」
「え、どういうこと?」
玲奈のぼやきに対して明沙が反論した。どういうことだと玲奈が明沙の言った意味を説明することを急かす。
「玲奈が奏斗の家から出た後、簡単にメモを書いたんだよ。俺たちが奏斗の家に入ったってことと奏斗の誘拐について」
「えっ、それって大丈夫なの?誘拐犯に見つかったら危なくない?」
「どっちみち家に入ったことはバレてるだろうし、メモはスリッパの中に丸めて隠しておいた」
「あんた、そういうことは早く言ってよ」
呆れながら明沙の方を玲奈は見てくる。
「で、そのメモを見た奏斗のお父さんが何かしらのアクションをするのを待つってこと?」
「そのつもりだ。ただ、あんまり期待はできないな。見つけてくれるなんて保証はないし、そもそも奏斗の父さんから行動起こしにくいだろうしな」
「やっぱそうだよね」
もう明沙たちから出来ることはほとんどなかった。奏斗が誘拐されてからかなりの時間も経っている。無理と危険を承知で警察に報告することも考えないといけないかもしれないと二人は考えていた。
「とりあえず今日はどうする?」
「んー、警察署に行ってみる?厄介払いされると思うけど」
玲奈の意見に明沙は賛成し、二人は学校から出ようとする。
二人が校門前に辿り着いた時だった。ふと、二人に声がかかってきた。
「ちょっといいかな?志藤明沙君ってもしかして君のこと?」
振り向くとそこには大人の男性が二人立っていた。明沙はその二人の顔を見たことがなかった。少なくとも教師ではなさそうだった。
「はい。そうですけど」
いきなり自分の名前を呼ばれて驚いた明沙は反射的に質問に対して答えてしまうが、その言葉を言った後激しく後悔した。もしかしたら、この二人が奏斗を攫った誘拐犯かもしれないからだ。不思議な話ではない。昨日、奏斗の家に入ったことを見られ、しかもメモのことにも気が付かれていたのならこの状況に辻褄は合うはずだった。
明沙が内心、かなり焦っているのに対して目の前の男性らは胸ポケットから何かを出してきた。それは警察手帳だった。
「警察の者です。今、時間よろしいですか?」
二人が警察手帳を見せたことで明沙の心の中には先ほどとは打って変わって安堵が胸の中にしみわたっていた。少なくとも最悪のケースは免れたらしいと明沙は安心する。
警察からの提案に明沙は受け入れる。隣を見てみると玲奈も同様らしい。
「はい、いいですよ」
「ありがとうございます。早速質問なんですが、三岳宗一郎という人を知っていますか?」
警察からの質問に、明沙と玲奈は少なからず驚愕した。明沙は警察がどのような用で自分たちに聞き込みをしているかを探るため慎重に言葉を選んでいく。
「はい。知っていますよ」
「その方から四年前の暴力事件について霧崎さんに聞けば詳しく聞けると伺っていたのですが……その事件について何か知ってますか?」
「……暴力事件?」
明沙は予想と全く異なる警察からの質問に頭の中が疑問でいっぱいになった。奏斗のことについて聞かれるものだと思っていたが、どうやら全く違うらしかった。
何の意図で警察は明沙に聞き込みを行っているのだろうか。明沙は真っ先に頭の中に浮き出た答えを警察にぶつけてみた。
「……九条礼司の誘拐事件に関係してるんですか?」
「なっ……!」
警察官である二人の反応を見た感じだとビンゴであると明沙は確信した。この場で九条礼司の誘拐事件というワードを出すことは一か八かの賭けであった。どうここから転んでいくのだろうかと明沙はその目を鋭くさせて二人の警察官の次の言葉を静かに待った。
対して、玲奈は何か考えに耽っており、ずっと黙ったままだった。
神谷達が志藤明沙という少年に会い、簡単な聞き込みをしていた突如、明沙から九条礼司の誘拐事件という言葉が飛び出してきた。それはまるで言葉の爆弾のようで、神谷と新藤にこれまで捜査をしていた中で一番の衝撃を味わわせることになった。
新藤は驚きのあまり考えなしに質問をしてしまう。
「ど、どうして、それを君が知ってるんだ⁉」
そう新藤が言った瞬間、神谷は新藤のことを睨んだ。もしもこれがブラフだとしたらまんまと引っかかってしまっている。いくら驚いたとはいえ、注意力が足りないと神谷は思った。
目の前にいる少年は新藤の質問に一切気圧されずに質問の答えを言おうとする。
「奏斗の……三岳家に行ったとき、メモに書いてありました。九条礼司の誘拐事件、と」
奏斗と言えば三岳の息子だったはずだと神谷は思い出した。しかし、神谷は全く話が見えてこなかった。それに今いるところは学校の校門前だ。これ以上、話し続けるには人目が多すぎた。神谷は場所を変えようと明沙に提案をする。
「……話が少し長くなりそうだ。近くのカフェに行って話をしないか?」
神谷からの提案に明沙は無言で頷いた。明沙の後ろにいた女の子も黙って頷いていた。
四人はカフェに辿り着いて中に入り、できるだけ人目に付かなさそうな席を神谷は選んで他の三人を座らせた。それぞれ適当なものを頼んだ後、四人は真剣な表情になっていた。
神谷は最初に自己紹介を始めた。
「私は警視庁捜査一課の神谷です。わざわざ学校帰りに付き合ってくれてありがとうございます」
「同じく警視庁捜査一課の新藤です」
神谷と新藤が自己紹介を終えた後、神谷は早速話を切り出した。もちろん、話題はさっきの明沙からの言葉についてだった。
「まず、どうして明沙君が九条礼司の誘拐事件について知っているのか教えてくれない?」
「なかなか説明が難しいですけど……俺たちは昨日、訳あって奏斗の家に入り込んだんです。その時に書斎のごみ箱の中から細かく破られたメモがあったので、それをつなぎ合わせてみたんです。そのメモに書かれていたのが『九条礼司の誘拐事件』だったんです」
明沙からの説明に神谷はいくつもの疑問が生まれる。そのうちの一つを明沙に聞いてみた。
「奏斗君の家に入った理由は何だったのかな?」
そう神谷が聞いてみると、明沙は答えづらそうに隣に座っている玲奈の方を見た。玲奈は明沙の目を見て軽く頷く。それを見た明沙はゆっくりと理由を語っていった。
「奏斗が……誘拐されたからです」
「なんだって?」
明沙の答えに神谷は聞き返した。奏斗の誘拐。あまりにも物騒な内容に神谷と新藤は身を乗り出してしまう。
それから、明沙は神谷達に事の顛末を説明していった。
明沙が話し終わると、神谷と新藤は腕を組んで深く考えていた。明沙から話されたものは彼らが思っていたものよりもはるかに重大だものだったからだ。
「……本当に、奏斗君が誘拐されたってのは事実なんですかね?」
「確証はないんですけど……そうとしか考えられないんです」
「なるほどな。……明沙君の話には筋が通ってるし、そう考えれば九条礼司の方の事件も説明できることが多い」
そう話し終わると明沙と玲奈はじっと神谷達の方を見ている。その様子から二人は九条礼司の事件を教えてもらうことを望んでいるのだと神谷はすぐに分かった。しかし、九条礼司の誘拐事件は極秘である。一般人に話すことは神谷にとってかなり勇気のいることだった。
そう神谷が考えていたときだった。
「教えてほしいんです。九条礼司さんの事件について。……それと、さっき言ってた四年前の事件のことも……!」
意外にも口を開いていたのは玲奈の方だった。その言葉から感じられる決意はかなりのもので、神谷の方を見る目も鋭く覚悟に染まっているのを感じていた。
しかし、一つだけ神谷には違和感があった。九条礼司の事件について聞きだす時よりも、その後に放たれた四年前の事件についての方がその口調と意志が強かったように感じたのだ。だが、そこまで気にするほどのことでもないと判断した神谷は再び教えるべきかどうかを考えた。
しばらく考えた。新藤も神谷の様子を伺っているのが神谷は視線を向けずとも、新藤の気配を感じ取っていた。さらに時間が経ち、神谷は口を開いた。
「わかった。話そう」
「先輩、良いんですか?事件に関わっているかもしれないとはいえ、一般人……それに子供ですよ?」
「彼らは奏斗君の誘拐について教えてくれた。もしも私たちが明沙君たちに会わなかったら二つの誘拐事件の関連性なんて考えなかっただろう。私たちは教える義務があるんだ」
神谷がそう言うと新藤は納得したようだった。それに、神谷が話す理由はほかにもあったのだ。それは志藤明沙という存在だった。
神谷から見て志藤明沙の観察眼と推理能力は非常に高いものだと分析していた。子供ながらの柔軟な考え方もある。もしかしたら今まで警察が考えもしなかった可能性を掲げてくれるかもしれない。そう神谷は期待して教えていた側面もあった。
「これから話すことは他言無用でお願いしたい。まだマスコミにも公表してないことだからな」
「はい。わかってます」
「……今から八日も前のことだ。警察に九条礼司という人物が誘拐されたと情報が入ってきた」
神谷は明沙と玲奈にかなり詳しく話をした。できるだけ自身が知っている情報すべてを話せるように努力をした。一週間以上の捜査の内容を話し切るのはそこそこの時間を要することだったため、どんどんと太陽が沈んでいった。
そうして一通り話が終わった。明沙と玲奈はその事件を聞いた後、神谷達が奏斗の事件を聞いた後と同じように腕を組んで考えていた。
「そんな事件が起こっていたんですか」
「思ってたよりも規模が大きいな。一週間以上捜索しても見つからないなんて」
「ああ、不甲斐ない限りだ」
神谷は自身のことを自嘲しながら肩を落とした。
「とりあえず、今わかってないことを整理しませんか?二つの誘拐事件と四年前の事件も合わせて三つも事件があるわけですし」
今までメモをするのに集中していた新藤がそう提案してきた。神谷はその提案を受け入れる。実際、ここまで複雑に事件が絡まってくるのは初めてのことだったので神谷も何か漏れがあるのかもしれないと考えていたのだ。
「それじゃあ、それぞれの事件のまだわかってない部分を整理していくか」
「……まず、四年前の事件でまだわかってないことと言えば霧崎さんと奏斗のお父さんがその事件にどうかかわってくるかだね。他にも刑事さんの話だと暴力事件の犯人が本当は九条礼司さんだったかもしれないってことも重要かな」
四年前の事件の疑問点について玲奈が整理をした。四年前だということもあってなかなかその事件について調べることは神谷達はできなかったが、大きな問題点として挙げられるのはこの辺りだろうと神谷自身も考える。
「警察にとっては本題の九条礼司の誘拐事件については、やはり九条礼司を誘拐した理由が最も謎だな。暴力団はいまだにその要求内容を明らかにしていないし、なぜその要求を先延ばしにするのかもわかってない」
「それに、もしも霧崎さんが黒幕だったとしても、その目的もわかりませんよね?もしも暴力団に九条礼司を誘拐するように依頼したことがバレたら九条誠司の立場はかなり絶望的なものになってしまいます。あんなに忠誠心が強い霧崎さんがそんなことするのは不自然です」
神谷と新藤は自身が担当する事件について整理していく。だが、やはりわからないことはこの事件が最も多そうだった。
「最後に、奏斗が誘拐された事件についてだけど……まあ、俺たちは独自で調べてたわけだから、わかってないことが多いだけなんだよな。分かってないこととしたら、誘拐したのが誰かってこととどういう目的かってことだな」
「そういえば、九条礼司の誘拐事件も奏斗君の誘拐事件も目的不明なんですか……その目的さえわかればかなりの進展になるんですけどね」
「たらればを言っても仕方ないぞ、新藤。ここまで情報がそろうだけでも捜査の進展なんだ」
三つの事件の整理が終わると、神谷は勢い良く立ち上がった。明沙と玲奈の方をしっかりと見て神谷は感謝の言葉を述べた。
「奏斗君の誘拐について教えてくれてありがとう。これから私たちは警視庁に行って緊急捜索を行うつもりだ。また、何かわかったらこの番号に連絡をしてくれないか?」
神谷は自身の電話番号をメモに走り書きして明沙に渡す。新藤も神谷と同じく立ち上がって早めに会計を進めていた。
「それじゃあ、責任をもって警視庁に伝えてきます。お二人ともありがとうございました!」
神谷と新藤はそう言ってカフェから出て、すぐに新藤が電話で内容を連絡した。おそらくすぐに捜査会議が開かれ、奏斗の捜索が行われることだろう。
二つの歯車が噛み合い、三つの事件全体が動いていく感覚が神谷にはあった。
七
神谷達がカフェから出た後、明沙と玲奈は少し話をしていた。無論、さっき神谷達が言っていた九条礼司の誘拐事件についてだ。
「それにしても別の誘拐事件につながってたなんて思いもよらなかったな」
「だね。それに……四年前の事件も関係してそうだしね」
「……さっきからそればっかり気にしてるな。その事件がどうしたって言うんだ?」
雑談する音や店員がドリンクを運ぶ音など様々な音がカフェの中で鳴り響いているが、玲奈から言葉を発せられることはなかった。いつもとは全く異なる玲奈の様子に明沙は困惑した。
「本当に様子がおかしいぞ。どうかしたか?」
「……別に、落ち込んでるとかそういうのじゃない。ちょっと考え事してるだけ」
「考え事って、四年前の事件のことか?」
「そう。……私にとってはあんまり良い思い出じゃないからね」
「……もしかして昔、玲奈が証人になった事件ってのは……」
「当たり。さっき刑事さんが言ってた四年前の事件がそれよ」
玲奈の言葉に明沙は納得した。通りで神谷達と会った時から様子がおかしいわけだと明沙は考えた。
「なるほど、そうだったのか。……その時のこと、詳しく聞いてもいいか?」
明沙は恐る恐るそう聞いた。あまり思い出したくない過去であるだろうし、気軽に触れてよい内容でもないはずだ。明沙はそう考えるものの、今起こっている事件の重要な要素でもあるからどうにかして聞き出したいとも思っていた。
「ごめんね。さすがに四年も前のことだしあんまり覚えてないんだ。そもそも、ちょっとしか昔の私も見てなかったわけだし」
ふと玲奈の様子が一変した。玲奈は話した後に何かに気が付いたのか、明沙の方を見るわけでもなく深く何かを考えていた。何を思い出しているのかを明沙は期待しつつ、答えが出るまで静かに待った。
「……そういえば、事件の証言した後に私、絵を描いていた気がする。……上手く伝えられなくて、悔しくて、私が事件を見たときのこと、絵に描いてたはず!」
「事件についての絵が今もあるってことか?」
「そうよ。確か家にあったはず!」
事件について描いた絵のことを思い出した玲奈は先ほどの深く考え込んで黙っていた姿と打って変わってその姿は希望に満ち溢れていた。玲奈は明沙の手を握って席から立たせるように引っ張る。
「その絵から何かわかるかもしれない。明沙、行くよ!」
明沙は何も言わなかったが、その心境は新たな手掛かりの可能性に熱く燃えていた。
明沙たちは玲奈の家へと走っていた。いつもなら疲れるはずだったが、興奮からか二人には全く疲れは見えなかった。玲奈の家に着いた二人は急いで玲奈の部屋へと上がっていく。家の中には他に誰もいなかった。
玲奈は勢いよく自室の扉を開けて昔描いた絵を早速探していた。対して明沙はさすがに人の部屋を漁るわけにもいかなかったのでじっと椅子に座って待っていた。
「んー、どこにやったけな。明沙も探してよね」
「どこにあるかなんて俺がわかるわけないだろ。そもそもその絵を見てないのに」
「それっぽいのあったら報告して。確認するから」
机の引き出しをあらかた探し終わった玲奈は押入れを開けてまた探し始めた。明沙も仕方なく棚を調べ始めた。
明沙たちが探し始めて三十分ほど経った後だった。もう捨ててしまったんじゃないかという悪い予想が明沙の頭の中を支配していたとき、突如として横から大声が聞こえた。
「あった!間違いない。私が事件について描いた絵だ!」
そう叫ぶとすぐにその絵を床の上においた。その紙は少し黄ばんでいて、かなり昔に使われたものであるとすぐに分かった。その紙の上には上手くはないものの、丁寧に描きこんだであろう絵があった。
「これは……どういうことだ?」
明沙はその絵を見てみると真っ先にその絵の違和感に気が付く。玲奈も同様だった。明らかにおかしなところがあったのだ。
その絵に描かれていたのは『壁に倒れ掛かっている人』、『倒れている人に殴りかかろうとしている人』、そして『それを止めようとする髪の長い人』だった。
「三人って……まさか!」
「間違いない。この長髪も神谷さんから聞いた霧崎さんの特徴だ。霧崎さんは四年前の暴力事件が起きたとき現場にいたんだ!」
「だとすると、霧崎さんと奏斗のお父さんの証言はデタラメ。犯人は九条礼司ってことになるね」
「ああ、だとすると奏斗の父さんは霧崎の証言を強めるためのエキストラってところか」
「じゃあ、奏斗のお父さんが刑事さんたちから四年前の事件について話すのを拒否したのって……」
「奏斗の誘拐の裏に霧崎さんが関わってるから下手なことは言えなかった」
「わかってきたわね。じゃあ、奏斗の誘拐をしたのが霧崎さんってこと?」
「その可能性が一番高いだろうな」
今まで未解明だった謎が続々と解けていった。明沙と玲奈はすぐに神谷達に連絡をしようとする。現在、中学校からの帰りであるため明沙はスマホを持っていなかった。明沙は玲奈に頼んでさっきもらったメモに書かれてある電話番号に掛けた。
「もしもし、志藤明沙です。四年前の事件についてわかりました」
『本当か?さすがだな。……私からもちょうどそっちに掛けようとしていたんだ』
「そっちの状況はどんな感じです?」
『朗報だ。奏斗君が見つかったみたいだ』
「本当ですか⁉」
明沙と玲奈はあまりの驚きに目を大きく開いてスマホを凝視する。二人の心臓が倍の速度で打ち付けているような錯覚すらしていた。
『ああ、本当だ。どうやらこの町の近くの廃ビルで監禁されていたらしい。少し衰弱しているようだったが命に別状はないようだ。安心してほしい』
「よ、良かった……」
玲奈は安堵感から足の力が抜けてしまって床にへたり込んでしまった。明沙も玲奈と同じように脱力してしまった。今までの緊迫感が一気に発散していく感覚が明沙の体を駆け回っていた。
「……奏斗の今、どこにいるんですか?」
『明沙君のいる街にある病院にいるよ。病院名を言っておくね』
「ありがとうございます」
明沙は神谷が言った病院の名前をメモすると、神谷からの質問が来た。
『それで、四年前の事件が分かったというのは?』
「やっぱり、九条礼司が犯人だと思います。どうやら玲奈がその事件の目撃者だったようで、その時見た内容を描いた絵があったんです。その絵には人が三人いました。その中の一人は髪の長い人物でした」
『……なるほどな。それが霧崎だということか』
「おそらく」
電話の奥から事件の整理をしようとしている神谷の姿が明沙の目に浮かんだ。一通り、四年前の事件について話した明沙は逆に聞きたいことを神谷に質問していく。
「それで、奏斗を誘拐した犯人はわかってるんですか?」
『確定はしていないが霧崎が最有力候補だ。奏斗君が証言しているからな』
「奏斗が……?」
『まだ詳しい話は聞けていないんだが、誘拐される直前、奏斗君は霧崎に会っていたみたいなんだ』
「霧崎さんはそれについてどう言っているんですか?」
『会ったのは認めているが誘拐については否定している。証言を増やすために今、全速力で新藤を三岳のもとへ行かせている』
「……わかりました。俺たちは奏斗のとこへ行きます」
『ああ、そうしてあげてくれ』
明沙はさっきまでの興奮がようやく落ち着いてくる。すると、さっきまで考えていなかった疑問が湧き出るのを自覚した。
「……そういえば、ずいぶん見つかるの早いですね。何か理由あるんですか?」
『ああ、奏斗君が見つかった廃ビルはもともと九条礼司を捜索する時に一度立ち入られたらしいんだ。だが、その時は何もおかしなところはなかった。九条礼司はもちろん、誘拐の痕跡すらな。だが、今回奏斗君が新たに誘拐されたとわかったことからまたそのビルに立ち入られたんだ』
「なるほど……そうして奏斗が見つけられたと。一度目はいつだったんですか?」
『ええと、ちょっと待ってな』
電話越しにメモをめくる音が聞こえてきた。
『……九条礼司が誘拐されたとわかった初日だな。それ以来突入していない』
「なるほど。……分かりました。ありがとうございます。それじゃあ奏斗のところへ行ってきます」
『ああ、わかった。いや、ちょっと待て。そっちに車を送らせる。危ないからそれに乗って病院へ行ってくれ』
「良いんですか?……それじゃあお言葉に甘えます」
『そうしてくれ。くれぐれも気を付けてな』
神谷がそう言った後、明沙は電話を切った。明沙は安堵感で深く息を吐いた。横で聞いていた玲奈も同じようなことをしていた。
「良かったな。奏斗が見つかって」
「ホントだね。刑事さんには感謝しないと」
明沙と玲奈は穏やかな心持でしばらく会話を続けた。さっきから新しい情報が怒涛ともいえるような速度で判明してきたのだから少しばかりの休憩が二人には必要だった。
「それにしても警察ってすごいね。私たちが奏斗の誘拐を話してからまだ一、二時間ぐらいしか経ってないのに」
「もともと別の誘拐事件を探ってたわけだから、人員とか整理する時間が短縮できたんじゃないか?」
「にしても早いよね。そんなにわかりやすい場所に奏斗は誘拐されてたんだね」
ふと、明沙の頭に小さな違和感が生まれた。矛盾とは言えないような、ほんの小さな違和感だった。
「……なあ、奏斗の方はそんなに早く見つかったのに、九条礼司の行方が全く分からないなんてことあるのか?」
「え、そりゃあ、奏斗が誘拐されたのは九条礼司さんの後だし、なかなかうまく隠せる場所がなかったんじゃないの?」
「だとしても、いくらなんでも手掛かりが少なすぎる気がするんだ。警察だってこの近くに限らず、かなりの数の監視カメラとかで捜索してるはずだろ。さすがに見つからなさすぎるんじゃないか?」
「うーん、そういえばその暴力団って隠蔽とかが得意なんでしょ?だったら監視カメラとかそういうのを潜り抜けるのってそんなに難しくないんじゃない?」
「……何か、引っかかる気がするんだ」
明沙はその小さな違和感から何か手掛かりを考えようとして深く考える。対して、玲奈は明沙の様子を伺っていた。明沙が深く考え込んでいるとき、何かとんでもないことを思いつく予兆であることを玲奈は知っていた。
「神谷さんは誘拐犯がいまだにその要求を明らかにしていないと言っていた。まず、そんなことってありえるのか?普通、誘拐って誘拐された関係者に何かしてほしいからするもんだろ。事実、誘拐犯たちは目的があると言っていたらしいし」
「……明沙は、何が言いたいの?」
「これは推理じゃない。ただの思い付きだ。……俺は誘拐犯たちの真の目的は九条誠司近辺の人に何か要求することじゃなく、九条礼司そのものを隠すことな気がしてならないんだ」
「九条礼司さんを隠す?」
明沙の言葉に玲奈の頭は疑問でいっぱいになっていた。対して、明沙の頭も混乱している。真実にはあと一歩であるという感覚だけはあったのだが、いまだにその答えは出ていなかった。明沙たちには、まだ情報が足りなかった。
家の前でクラクションの鳴らされる音が聞こえてきた。もう着いたのだろう。
「……とりあえず、奏斗のところへ行こう」
「そうだね。早く行こうか」
今考えても明沙の頭に結論を出すことはできなかった。だけれども、もう少しで何かがわかるという感覚だけを残して、明沙と玲奈は家の前にある車へと乗り込んだ。終わりの時は近い。明沙はそう直感した。
八
新藤は大慌てで車を走らせて三岳家へと直行していた。現在、先輩である神谷はおらず、新藤一人だけの捜査となっている。その任務は三岳宗一郎からの聞き込みだった。
神谷は三岳が頑なに四年前の事件を話さないのは、霧崎が口止めしているに違いないと結論付けていた。それは新藤も同じ意見だ。そして、三岳に教えてもらった人物である明沙に聞いたところ、三岳の子供である奏斗が誘拐されているだろうという情報が渡された。神谷と新藤にとってはその情報は喉から手が出るほど必要としていた代物だった。三岳に口止めする材料として、これほど的確なものはないだろうと二人は考えていたからだ。したがって、奏斗が見つかった現在において、三岳が四年前の事件や奏斗が誘拐された時のことを話してくれる可能性は大いにあったのだ。
新藤は興奮からか武者震いが起きているのを自覚した。一週間もの間、停滞し続けていた状況が明沙という少年に会うだけで一気に解決への糸口を手繰り寄せることとなったからだ。興奮しないほうが無理な話だった。
それに、神谷からの電話だと、どうやらまた明沙が四年前の事件を解明してくれたらしかった。その内容とは、やはり神谷が予想していた通り、本当の犯人はやはり九条礼司で霧崎はその協力者だということだった。その証言を強固にするため三岳が利用されたのだろうと神谷は予測していた。四年前の事件が解明された経路は新藤は聞かされてなかったが、新藤は明沙と玲奈に深く感謝をする。あの二人と会うことでここまで捜査が進展するなんて思いもよらなかったからだ。
もしかしたら、九条礼司の誘拐事件も解いてくれるかもしれない。そう思うと、ハンドルを握る新藤の拳が強く握りしめられた。
しばらくして新藤が三岳家に到着すると、急いでチャイムを押した。奏斗が見つかったことに関しては既に三岳に伝えられているはずだった。自宅で待機をしておくようにと伝えてほしいと新藤は言っていたため、この家に三岳がいるのは間違いなかった。
ドタバタと家の奥から人が向かってくる音が聞こえた。
「──刑事さん!奏斗が見つかったって本当ですか⁉」
「はい。もちろんです」
「……良かった。本当に、よかった」
新藤の目の前で三岳が泣き崩れた。新藤はしばらく三岳をそのままにしてあげた。
しばらくして三岳が泣き終わった後、三岳は新藤の目をまっすぐ見た。その瞳には前までの恐怖や不安といった感情は一切感じなかった。
「刑事さん。どうぞ中へ入ってください。すべてをお話しさせていただきます」
「ありがとうございます」
新藤は背筋を伸ばして三岳家へと入る。家の中は少しだけ荒れていた。新藤と三岳はリビングで対面して椅子に座る。忘れずに新藤はメモを手に取っていた。
「……それでは、お話ししていきます。私たちの……私と霧崎さんのすべての始まりの四年前の暴力事件について。そして、奏斗が誘拐された時のことについて、詳しく──」
四年前、三岳は霧崎とともに九条誠司のもとで働いていた。三岳は九条誠司の事務作業を、霧崎も同様だったが使用人の手伝いなどもして回るほど優秀な人物だった。三岳は霧崎の九条誠司の信仰心についてその当時から知っていた。どんな経緯で九条誠司を慕っていたのかを聞いた時には、三岳の心に霧崎に対する深い尊敬と九条誠司の優しさに対する感銘があった。
霧崎は九条礼司とも関わることが多かった。しかし、霧崎はあまり九条礼司のことを好いていなかった。寛大な心と思慮深さを兼ね持つまさに完璧な存在に近い九条誠司と異なり、九条礼司はその横暴な性格と短絡的な行動の数々で霧崎に強いストレスを与えていたのだ。しかし、それでも九条誠司の息子であるから、霧崎はいつも笑顔で九条礼司と関わり続けていたのだ。九条礼司に嫌気が指しつつも、九条誠司に仕えているという満足感で霧崎はいっぱいだったのだ。
そして、選挙の時期が来て九条誠司が最有力候補になった。そんな時だった。ある夏の夜遅くに三岳は霧崎から急に電話がかかってきたのだ。その内容というのが『九条礼司が暴行をしてしまった』というものだった。その内容を聞いた時の三岳の頭は真っ白になるとともに、ある違和感を感じていた。霧崎の口調があまりにも冷静だったのだ。その冷静さには、どす黒い冷酷さが滲んでいたように当時の三岳は感じていた。
霧崎はその報告をした後、すぐに三岳にこう言った。
『暴行がバレてしまったら先生の立場が危うい。何が何でも隠蔽をするわよ』
電話から聞こえてくる霧崎の声は電話越しにもかかわらず三岳を恐怖させるには十分なくらい覚悟が決まった声をしていた。三岳は頷くしかできなかった。
その後はとんとん拍子で話が進んでいった。三岳がすることは一つの嘘をつくだけのことだったからだ。九条礼司がアリバイを持っていたことを示す嘘をつくだけだったのだ。
それ以外のことはすべて霧崎がやってくれていた。九条礼司も霧崎の思惑を伝えられたのか、自身の無実を訴えたのだ。結果として九条礼司が裁かれることはなかった。目撃者である藤崎玲奈の証言も霧崎の圧力が警察に加わっていたのか、証言として却下されてしまったので、真実は闇の中へと葬られてしまったのだ。
そうして、四年前の事件は終わったのだった。
時が経ち、四年もの間で三岳は九条誠司のもとを去った。九条誠司の元を離れるとき、霧崎は最後まで三岳のことを睨んでいたのを三岳は覚えている。言外に『絶対に九条礼司が起こした暴力事件について話すな』と言われているような気がした。
そうして三岳は新しく広告業の会社へと勤め始め、何一つ不自由ない暮らしをしていた。懸念点があるとするならば、三岳の妻が亡くなってしまっていることだった。四年前よりもさらに前から三岳の妻はこの世を去ってしまったので、三岳は一人息子である奏斗と二人暮らしをすることとなったのだ。最初の方こそ、三岳は涙が止まらない日々を送っていたが、九条誠司が気を聞かせて休ませてくれたり、まだ小学校に入ったばかりの奏斗が一生懸命料理を作ってくれたりなどをしてくれたおかげで徐々に三岳の心が癒されていった。その時はまだ、あの悪魔のような事件は起こっていなかったので、霧崎も三岳のことを心配して三岳の家で料理をふるまってくれたこともあったのだ。
そうしたこともあって、現在は二人で楽しく生活をしていた。三岳にとって一人息子である奏斗は宝のような存在だった。
今から一週間以上前のことだった。警察が三岳家にやってきた。もちろん、それは神谷と新藤のことだった。
本当に何も心当たりがなかった三岳はすぐに聞き込みが終わって、何事もなく警察には帰ってもらった。
そこで、ふと良くない好奇心が三岳の心の中には生まれてしまった。九条誠司のもとで何が起こっているんだろうというちょっとした好奇心だった。
三岳はその日の夜、電話にて九条誠司のもとで働いていたころの同僚と晩酌をした。もともとその予定だったのだ。
三岳の同僚はそれはもう疲れており、浴びるように酒を飲んでいた。強いストレスを感じていたようだったと三岳はその時思ったのだ。軽い気持ちで質問をしてみた。
「すごい疲れているそうだけど、何かあったのか?」
『あー、今日はとんでもないことが仕事場で起こってな。それを処理してたんだよ』
「とんでもないことって?」
『すまんな。それは秘密にされてんだよ。だから言えない』
同僚は既に酒に酔っていて頭がほとんど回っていなかった。しかし、一応秘密を守るぐらいの見境はぎりぎりあったのだ。しかし、三岳があることをつぶやいたことでそれはすぐに壊れてしまう。
「……そういえば、今日の夜に家に警察が来たんだよ。それと関係してるのか?」
『あれ?知ってるのか。……じゃあ、話しても大丈夫そうだな』
どちらも酒で酔っていたからこの時は気づかなかったが、同僚は警察から事件について聞いたのだと勘違いをしていたのだ。無論、警察は誘拐事件については一言も言っていない。しかし、大量の酒で酔っている頭にはそこまで考えることができなかったのだ。都合のいいように解釈したことで、同僚は秘密を漏らしてしまうことになった。
『……今日、礼司様が誘拐されたらしいんだ』
三岳はその同僚からの言葉に絶句し、何も返事することができなかった。そこで三岳は酔いが覚めてしまったので、晩酌はお開きとなった。そして、その酔いが覚めた頭の中にふと、ある人物が浮かんできたのだ。霧崎が何か関係しているんじゃないかという荒唐無稽な考えが頭をよぎったのだった。
そして、次の日も働いていたが、その頭の中は霧崎のことでいっぱいだった。なぜ三岳自身がそう思ったかどうかは三岳にも分からなかった。しかし、自身の感覚がそう訴えかけているような気がしていたのは確かだった。
その夜、三岳はどうしても気になったので霧崎に電話をしてみた。要件はもちろん九条礼司の誘拐事件についてだった。しかし、どうしても緊張をしてしまったので最初の十数分はただの雑談をしていた。その後、三岳は緊張を胸に霧崎に九条礼司の誘拐事件について聞いてみた。もしかしたら、何か知っているんじゃないかという内容も込みでだった。霧崎は黙ったままだった。
「……霧崎さん?」
『──知らないわ。そう。もしかして私のこと、疑ってる?」
霧崎からの返事は冷たいものだった。そして、三岳は霧崎からの質問に言い淀んだ。すぐに返すことができなかった。
「い、いや。そういうわけじゃないんだけど」
『……そう。なら、良いわ』
霧崎はそれだけ言うと、もう切っていいかという旨を三岳に伝えてきた。三岳も断る理由が思いつかなかったので、電話はそこで終わりになった。
その電話こそが、奏斗の誘拐につながるなんて三岳は思いもしなかった。
その電話から数時間後、三岳はほんの少しだけ心配していた。奏斗が家へ帰ってこなかったのだ。この日、奏斗は塾へ行っていたが、いつもなら既に帰宅している頃だったのだ。すでに十五分もその時間から遅れていた。
三岳が心配して、もうそろそろ奏斗に電話をかけようかと悩んでいた時だった。ふと、電話が鳴り響いた。奏斗からのものであると安心した。三岳は安堵感を胸に抱えながら電話を手に取った。しかし、耳から聞こえてくる声は全くの別人だった。
『お前の息子を誘拐した』
開口一番に言われたその一言は三岳の頭に入ってこなかった。あまりにも突然で現実味のない言葉に三岳の頭は空っぽになっていた。しかし、ボイスチェンジャーが使われているその声からは、それがいたずらでも何でもないことを示すかのように根本的な恐怖を誘うかのように冷酷なものが漂っていた。
あまりのことに三岳が絶句していると、ふと家の扉が叩かれた。あまりに驚愕したから、慌てて電話を落としてしまう。
三岳はその頭を何とか振り絞って、今外にいるのは間違いなく誘拐犯の仲間であると推測した。あまりにもタイミングが合いすぎるからだ。
絶望的だった。もうこの家には誘拐犯の仲間が入ってくる。おそらく監視カメラや盗聴器も付けられ、警察に通報することなんて不可能だろうと三岳は考える。しかし、なにも手掛かりを残さないわけにはいかなかった。三岳は恐怖で固まった頭を限界まで回して、あることを思いつく。それは奏斗の誘拐を九条礼司の誘拐事件につなげることだった。現在、警察は九条礼司の誘拐事件のことで躍起になっているはずった。その捜査の時に、もしかしたら三岳家を捜索されるかもしれなかった。そして、その時に九条礼司の誘拐事件とつながれば、間違いなく奏斗の誘拐犯は動きにくくなるはずだった。九条礼司捜索という大きな目的が既に展開されているからだ。
それを思いついた三岳は急いでメモに『九条礼司の誘拐事件』と走り書きをして、そのメモを細かく破り捨てた。破った理由は、今から入ってくる誘拐犯の仲間にメモが見つかれば、確実に没収されてしまうからだ。
三岳がメモを破り捨ててごみ箱に入れた瞬間だった。扉の鍵が開けられる音が聞こえてきた。おそらく、ピッキングをしたのだろうと三岳は考える。のそりのそりと家に入った人物たちは三岳に近づいてきた。
それからの記憶は三岳にはなかった。おそらく眠らされていたのだろうと三岳は推測した。
それからというもの、三岳は家の中にいても会社に行っても心休まらない生活を送っていた。どこで監視の目が光っているかわからなかったからだ。おそらく、三岳には誘拐犯の仲間が監視についているだろうし、家の中にいても監視カメラや盗聴器が仕掛けられていることは間違いなかった。
そして、さらに悪いことに、誘拐犯たちは三岳が変な行動をしないように静かな圧力をかけてくるのだ。
その一つとして、『家の鍵が勝手に開けられている』ことが何回かあった。その目的は、もちろん家の中に手掛かりを残さないようにするためだとか監視カメラや盗聴器がしっかり作動しているか確認するために家の中に入ったからというのも挙げられるだろうが、わざわざ鍵を開けたままにする理由はどんなことをしても逃げられない、そしていつでも三岳のことを監視していることを示唆するためなのだろうと三岳は考えていた。
そこまで徹底的に脅された三岳は警察に通報することも誰かに相談することもできなかった。どうしようもすることができなかったのだ。
奏斗が誘拐されてから何日か経ったとき、三岳の心には諦めの感情が湧いていた。しかし、それは打ち破られたのだった。
ある夜、三岳が会社から家に帰ってきて、スリッパをはいた瞬間だった。そのスリッパの中に何か入っているような違和感を感じた。三岳は何だろうと思いつつも、安易に確認できなかったからそのスリッパで直接トイレまで行った。トイレは少なくとも監視カメラのようなものはついていなかった。三岳は声を出さずにスリッパの中にあった何かを取り出す。
そこにあったのは丸まったメモだった。三岳は静かに開けてみる。その時、三岳の目は大きく見開かれ、驚愕という感情が胸中を支配した。
『志藤明沙です。破かれたメモの内容を見ました。そして、奏斗の誘拐も勘づいています』
走り書きされたメモにはそう書かれていた。急いでいたのだろうか、ところどころ見にくい文字もあったがしっかりとそう書かれていたのは分かった。三岳は口元を手で押さえた。そうでもしないと叫んでしまいそうだったからだ。
九条礼司の誘拐だけでなく、奏斗の誘拐までも知っていることが三岳にとって何よりも驚きだった。前に一度だけ明沙にはあったが、それだけで気づかれたということかと三岳は考え、畏怖すら感じていた。
しばらく驚きで固まっていると三岳は正気を取り戻し、そのメモをトイレに流した。それと同時に考えた。どうにかして警察に明沙と会わせないといけなかったからだ。奏斗の誘拐と九条礼司の誘拐とのつながりはこの事件において最も重要だった。しかし、三岳から警察に教えるわけにはいかない。もう一度、警察が家に来ることを望むしか三岳にはできなかったのだ。
三岳は祈った。警察が家に来ることを。そして、その願いは叶えられたのだ。
新藤は三岳から語られる事実に驚愕しながらメモを取っていた。あまりにも壮絶な内容に新藤のメモはほとんど真っ黒になっていた。
そして、同時に明沙という少年の凄さに舌を巻いた。警察が九条礼司を捜索して回っている中、そこまでたどり着いている明沙の並外れた洞察力を深く感じていた。
「それで、誘拐犯は結局霧崎さんなのですか?」
「すみません。確実とは言えないです。さっきも申し上げた通り、誘拐犯はボイスチェンジャーを使っていましたし、そもそも家の中に入ってきたのは大柄の男でした。多分、暴力団の一員なんだと思います」
「暴力団……!」
九条礼司を誘拐したのも暴力団のはずだった。やはり、奏斗の誘拐と九条礼司の誘拐はつながっているのだと改めて新藤は確信する。そして、新藤は四年前の事件について考える。
「……三岳さんたちがした隠蔽は決して許されるものではありません。九条礼司の誘拐事件が解決したら、その罪は償ってもらわないといけない」
「……もちろん。わかっております」
「奏斗君にしっかりと伝えてあげてください。彼はこの事件に巻き込まれた一番の被害者なのですから」
新藤がそう言うと三岳の頬に涙が伝っていった。その拳は強く握られており、新藤はその姿に自身の罪に対する後悔と奏斗が見つかったことに対する喜びが滲んでいたように思えた。