魔眼とは、簡単に言えば“見る”ことによって超能力を行使することができる異能である。
例えば、ギリシャ神話に登場する蛇の髪を持つ女怪・メドゥーサは、見た者を石に変化させる目を持っているとされている。それは、彼女の視界に入った者を石に変化させる魔術ないし、石の如く硬化させて動けなくする魔術によるもので、メドゥーサの両目は『石化の魔眼』と命名することができるだろう。
“見る”ことは魔術であり、呪いである。
「邪眼」「邪視」とも呼ばれるそれは、様々な世界各地の民間伝承として分布しているのみならず、魔術世界においては実際に存在しているのだ。
見れば恋に落ちる『魅了の魔眼』
見れば未来が分かる『未来視の魔眼』
そして、見れば死ぬ『直死の魔眼』
魔術協会こと西洋魔術の総本山・時計塔では、魔眼の中でも他者への運命干渉が可能なほどの強力で希少性の高いものは「ノウブルカラー」呼ばれている。それらは、時には所有者も制御ができず、魔眼を持って生まれた者たちは自身の目に振り回され、縛られることも少なくない。
そして、魔眼というものは、傍迷惑なことに魔術師ではない一般人でも所有する者が稀に現れるらしい……杏華の左目も、一般人として育っていた彼女の中で人知れず鼓動し始めた。
三渓杏華は、周囲を「色」で表現する子供だった。だって、そう見えていたからだ。
楽しそうに喋っている人は黄色に見えた。
恐い顔をして歩いている人は黒に見えた。
時々、知らない色が見えた人もいた。
左目だけで見える「色」を報告する幼子の姿に、両親を始めとした大人たちは感受性が豊かな子供だと微笑ましく見守っていたが、実際は魔眼の暴走だった。この頃の杏華は左目を全く制御できていなかった。当たり前だ、一般人として生活していたのだから魔眼の「魔」の字も魔術の「魔」の字も知らなったのだ。
成長するに連れて魔眼もどんどん活発になっていく中で、世界が
杏華の左目は視界に入った対象の感情を「色」で出力させる。ただし、「色」は対象の主観によるため、人によっては同じ感情を抱いていても同じ色ではなかったり、逆に同じ色でも同じ感情ではなかったりする。そして、「色」は混ざり合う。
赤・青・黄の三原色が全て混ざり合えば黒になるように、数多の人の感情が世界空間でぶつかり合えば「色」が混ざり合って濁った色になる。その色は、混ざりすぎて気持ちが悪い。通っていた小学校の側溝から見えるドブ泥に似た色をしていた。
杏華が小学2年生の音楽の時間、混ざりすぎて濁った視界が気持ち悪くなり、倒れて嘔吐した。
感情をむき出しにする子供が詰め込まれた教室という狭い空間は、杏華にはドブ泥の中のように見えていたのだ。
本人が自覚することも不可能な魔眼の暴走は、杏華の
気持ち悪いものが見えるから学校に行きたくないと訴えても信じてもらえなかったが、父方の祖母だけは杏華の奇妙な目を信じてくれた。拝み屋をしていた三渓の血を引く杏華は、きっと常人には見えないものが見えるのだと両親を説得してくれたのだ。
とっくの昔に廃業していた三渓家の生業だったが、祖母だけがかつての残り香を覚えていた。悪いモノから身を守れるようにと、護符の作り方も教えてくれた。彼女が三渓家に嫁いできた頃に舅に教えてもらった護符だという。
こうして、小学2年生の杏華はしばしば不登校をしていた。両親が共働きで幼い弟たちがいたこともあり、杏華は1日のほとんどを祖母と過ごしていた。祖母は護符の作り方だけではなく、裁縫やら台北語やら餃子の作り方も教えてくれた。多くのことは祖母から学んだとも言って良い。杏華は立派なおばあちゃんっ子である。
そんな生活を続けて約半年後、杏華は一応3年生に進学した。まだ、若干不登校は続いている。
ハウリングの酷い防災無線が町内に不審者の目撃情報を放送しているのをぼんやりと聞き流しながら、買い物に出た祖母の帰りを待って平日の庭先でぼんやりしていた時のことだった。杏華の世界が一変する出会いがあったのは。
「お嬢ちゃん、三渓って家はここで間違いないか?」
「……不審者だぁ」
黒い上着を着てサングラスをかけた、顔に傷のある背の高い不審者が市内で目撃されていると、ついさっきまで防災無線が途切れ途切れに放送されていた。不審者の目撃情報に合致する人物が、杏華の目の前に現れたのである。
「いや、不審者じゃない」
「じゃあ誰?」
「誰と言われても。そうだな、俺は……っ」
不審者の特徴を網羅していた謎の巨体を前にして、杏華は助けを求めたり怖がったりしなかった。隣家とは離れているから叫んでも聞こえないし、そもそも平日のこの時間帯は人の気配がなく、助けを求めても誰にも届かない。
車で走り去る運転手も気づきはしないだろう。そして、杏華の地元は田舎故に近隣には店舗もない……なので、現状の杏華が目の前の不審者(仮)から助かる方法は、家に逃げ込んで玄関やら窓に鍵をかけて閉じ籠るしかないが、杏華は庭先から立ち上がりもしなかった。
不審者(仮)から敵意や悪意を感じる「色」が見えなかったからだ。
目の前にいる不審者(仮)は、嫌な感じがしない……直観めいた感覚で見たその人は、鉛のような鈍い灰色を一瞬見せたかと思うと、何かに気づいて杏華の顔を覗き込んできた。
「その目、魔眼か」
「マガン?」
これが、杏華が自身の左目の正体を知るきっかけになった出会いであった。
市内で目撃されていた不審者(仮)こと、獅子劫界離と名乗った大きな人は自身を魔術師だと名乗った。死霊に関わる魔術を使う彼は、かつて拝み屋をしていた三渓家を訪ねてこんな田舎まで遥々やって来たというのだ。
「三渓家は、死霊が縛られやすいこの土地の霊脈を整備する役目を負った一族だと聞いている。同時に、悪霊や呪いを祓う技術も一流だと聞いていたが……すっかり廃業しちまったようだな」
「昔は拝み屋をしていたっておばあちゃんが言ってました。でも、戦争と借金のせいで大変な目にあったって」
「無駄足か……と、落胆するところだが、魔眼の保有者を見つけてちまうとは」
獅子劫の話によると、杏華の左目は『魔眼』というものらしい。「色」が顔貌の如く感情を語ることを強制させることから、獅子劫は杏華の魔眼を『色貌の魔眼』と名付けた。
この瞬間、杏華の中で視界が一気に開けた。直接的な表現ではない、比喩的な表現である。
一気にパァっと、先の見えなかった真っ暗闇が晴れ渡ってスッキリしたのだ……常人とは異なる左目は、『魔眼』というものだった。
そうか、これは言葉で説明できるものなのか。誰にも理解されない、自分自身でさえ正体が分からない存在ではなく、きちんと解明されたモノであるのだ。それまるで、病院を何軒梯子しても原因が分からなかった謎の体調不良に、はっきりとした病名がついた瞬間のようなもの。
知らないことは、分からないことは怖いこと……でも、怖いものだと思っていたこの左目に名前がついた瞬間、杏華の中で自分の左目があまり怖くはなくなったのだ。
そうか、怖がらなくていいんだ。
「この左目、消えるの?」
「魔眼を摘出することはまず不可能だ。魔眼を保有する者は魔眼に縛られる。その左目、制御できるようしなければずっと今のままだぞ」
「じゃあ、どうすればいいか教えてくださいよ。不審者のおじさん」
魔眼を保有していたことにより、杏華は一般家庭の出身ながら魔術使いの道を選んだ。魔眼があるから仕方がない道であったとしてもあまり嫌じゃなかったのは、人生初めて出会った魔術に関わる存在が獅子劫だったからという理由も大きい。まあ、魔術師という存在を知れば知るほど、獅子劫が爽やかな異端であることを実感したが。
獅子劫は杏華にとって好ましい「色」をしていた。平素の彼の「色」は、赤に茶色の混ざった赤褐色をしていて安心感を抱く「色」をしている。
大好きな祖母が、平素は鮮やかで華やかな紅色をしていたこともあり、杏華は安心感を抱く赤系統の色を好んでいた。瞼を閉じてもはっきりと思い出せる祖母の色。杏華にとって赤や紅色は安心する色である。それは現在も変わらず、今は明るいオレンジが好ましい色である。
魔術の世界を知った杏華は、左目の魔眼を制御するために魔術使いの道を選んだ。ついでに、かつての三渓家の技術をできる限り集めて霊脈の整備を生業とした。
獅子劫との関係は、師匠と弟子……とまではいかないが、杏華にとっては恩人であり、魔術関連の相談を気兼ねなく話せる存在である。現在は、帰国すれば時々一緒にご飯を食べに行く親戚のおじさんのような関係を続けていた。
そして、聖杯戦争の噂も主に獅子劫から聞いていたのだが……まさか自分が巻き込まれるとは思わず、現在に至る。
***
「……という訳で、私は大学卒業後に魔術使いの進路を選びました。今では、魔眼殺しもあり魔眼とはそれなりの関係を築いています」
「主も難儀な半生を送っていたものよ」
『みしお運動公園』は、陸上コートを中心にテニスコートやゲートボール場を兼用した野球場、サッカーゴールとバスケットゴールが一緒になったコートにちょっと痛んだアスレチック遊具がある公園が広がる市内で最も広い運動施設である。
放課後を過ぎれば、遊びに来た小学生や部活動にやってきた中学生が集まってにわかに賑やかになるが、平日の昼過ぎは実に静かな公園だった。ゲートボール場からゲームに興じる老人たちの声が聞こえるが、遊具で遊ぶ子供たちがいない公園は随分と静かである。
その公園の東屋で、杏華は書文と思い出話をしながら木製テーブルの上にポリッシュマニキュアの瓶を並べていた。
杏華の両手のネイルは、魔力を通せば簡易的な防御結界が張れる魔術礼装である。昨夜の岳野における戦闘において、キャスターの攻撃を防ぐために左手を消費してしまったのでまたストックを作らなければならない。
基本的に使い捨てであるため杏華は主にネイルチップ型を愛用しているが、自前の爪に付与することも可能である。勿論、杏華だけではなく他の者も使用することができる。
手持ちのマニキュアの中から明るすぎない落ち着いた臙脂色を選んだ。派手になりすぎないように、光沢を抑えたマットな質感に仕上がるトップコートを使おう。その前に、やすりで爪を整えるのが先だ。
杏華の小さくて薄い手よりもずっと大きくて厚い手を持ち上げて、短く切り揃えられた書文の爪にやすりを当てた。
「拳法家の方の指って、もっとゴツゴツしていて傷もあるイメージだったんですけど、書文さんの指は綺麗ですね」
「女人の如き指と言われたこともあったな。熱した砂を突いて鍛える輩もいるが、大抵は功夫を鍛えずに皮膚が硬くなっただけで満足して終わる者ばかりだった」
「あんなに槍を振るうのにマメの一つもないなんて」
丁寧に爪を整えて甘皮を処理してからベースコートを塗る。爪が広くて塗りやすい。
この時点から術式を込めることにより、爪に塗ったマニキュアを一時的に魔術礼装にするのだ。
「三渓の防御結界は、護符と三枚使用することで三つの頂点を作り強度を上げています。三角形のトラス構造は強度がありますし、魔術の世界では三位一体の概念は重要視されていますから。これは私が作った簡易版で、手に魔力を流すことによって人差し指、中指、薬指の三点で防御結界を張ることができます。いざという時の防御として使ってください」
ベースコートが乾いたら、書文の爪の一枚一枚に丁寧に臙脂色のマニキュアを塗っていく。自分用だったら、ネイル用のシールを貼ったり別の色のマニキュアで模様を描いたりもするが、こちらは男性向けなので落ち着いた色を一色だけ。しっかり乾いたのを確認したら、トップコートを塗って強度を出す。
これにて書文の両手には防御のための魔術礼装が装備された。だた、昨夜のようにサーヴァントの攻撃は一拍ぐらいしか防げないのでそこまで強力なものではない。対魔力をDからC-に底上げするぐらいだ。簡易的なものだし。
「ないよりはマシかと思いまして」
「十分。その一拍の隙で相手の懐に潜り込み一打入れるだけだ」
「やっぱり物騒だなぁ」
杏華の左目には、落ち着いた橙色が見える。愛用するネイルカラーとはまた違う、赤が強くそれでいて金色のような落ち着きのある色だ。平常時の書文は杏華が安心感を抱く赤系統の「色」である。
産まれた瞬間から共にある魔眼で見た直観に間違いはない。基本的には物騒なクソジジイでも、左目で見た「色」が杏華の好きな「色」だったら安心できる……だから、自身のサーヴァントに命を預ける覚悟はできている。
戦わなければ生き残れないのは酷い話である。
杏華は聖杯にかける望みはない。だけど、仕事に来た先で死ぬのはごめんだ。
なので、精一杯足掻くのである。
使用したマニキュアをしまうついでに、杏華はもう一つの魔術礼装を取り出した。杏華の手のひらに収まるほどの小さな紙製の風車は、霊脈の整備のために使用している礼装だ。
『みしお運動公園』が建つ霊脈の要にこの風車を突き刺せば、吹いてきた風を受けてカラカラと音を立てながらゆっくりと風車が回った。
生き残るには、書文の槍に自身の運命を委ねなければならないのだ。
ぶっちゃけると杏華さんの地元は深潮より田舎である。