昼間のマルシェの賑わいも、夜が更けてしまえば静寂の裡に飲み込まれてしまう。今夜は曇り空のためか、いつもよりも夜が濃く重く感じられた。
すっかり日課になってしまった盛り塩の交換を終えた心護は、神棚を前にして柏手を打つ。「今夜はこれ以上、物騒なことが起こりませんように」と戯れに願ってみても、聖杯戦争の真っ只中では無理な話だった。
「シンゴ……魔力を感じる」
「どこかが戦っているってことか」
「多分。少しずつ、サーヴァントの能力の使い方が分かってきたけれど、あちらの方角で二つの魔力が動き回っていることしか分からないの。ごめんなさい」
「アリアが謝ることはないって。あっちの方角は、岳野の……寺の近くか?」
アリアが指し示した方角は南西部。岳野地区の、先日禿山になった峠とは逆方向の地点だ。心護の記憶が確かならば、敷地の広い寺があるはず。
どこかの陣営が戦っているのだろうか。心護の自宅からは距離のある場所なので、首を突っ込まずに静観を決めようと思ったが、ここで無視できない要素を思い出してしまった。
「あ、確かあの寺って保育園がある……」
「保育園? 子供たちがいるところね」
「……破壊されたら困るよな」
心護の記憶通り、寺の敷地内には保育園がある。
園児の数は少ないが、岳野地区唯一の保育園として周辺地域で暮らす子供たちのほとんどが利用している場所だ。今の時間帯に子供たちはいないが、保育園が聖杯戦争の余波を受けるのはとても目覚めが悪い……心護がちょっと悩みかけていると、アリアが心護のシャツの裾をくいっと引っ張って、小さく頷いた。
「シンゴが行きたいなら、わたしも行くわ。心配なんでしょう。保育園が」
「いいのか」
「ええ。いざとなったら、この間のように逃げましょう」
この間の、岳野の森林での逃亡……アリアに横抱きにされて撤退した記憶を思い出すと、再び心護の背景が宇宙になりそうだったが、我に返って地球に戻って来る。
アリアの言葉に甘えて、心護はヘルメットを手に取った。地元住民としてちょっかいをかけに行ってやろう。
一方、魔力の発生源である岳野地区では、杏華がなんかズルいなぁーと感じていた。
サーヴァントは、英霊をクラスという型枠に嵌め込んで使い魔として運用することができる
ただ、例外はある。武具自体に逸話のない、ただの
ランサーの肩の上でそう思っていた杏華は、現在進行形でライダーに襲われていた。
「薙刀に弓矢に馬に鮫にと、手数が多すぎやしませんか?」
「口を閉じていろ。舌を噛むぞ」
「はい!」
杏華はランサーの霊衣をギュっと握り直してしっかりとしがみつく。
ライダーの攻撃の手数が多いことには愚痴るが、急襲されたことへの抗議はなかった。万能の願望器を巡る殺し合いにて、暗闇に紛れた奇襲を汚い手段と断じるのはナンセンスだからだ。むしろ、ランサーにとって願ったり叶ったりの状況である。狙っていたライダーが、あちらから来てくれたのだから。
しかし、相手が馬に騎乗しての弓矢による遠距離攻撃なのはスタートダッシュが悪かった。地面を抉る威力の矢でマスターを狙ってしまえ死合うどころではない。杏華を、彼女自身を守る結界を張れる場に放り込まなければと判断したランサーは、杏華を俵担ぎにしてその場からの逃亡を図った。
山間の霊脈の様子を見に来ていたところを急襲されたため、周辺に民家はなく、放棄された田畑やとっくに廃業したガソリンスタンド跡地などを走り抜ける。杏華が振り落とされないようにしっかりと抱え、かつての線路を抜けて旧岳野村と旧深潮町の境界まで逃亡した。閉鎖されたかつての無人駅が、ライダーの攻撃によって完全に瓦礫の山と化す。
霊脈の流れと深潮の地図から、こちらに広い敷地があるとの杏華のナビゲートで逃亡した場所は、『みしお青年会館』と書かれた石造りの看板が掲げられた施設だ。
かつては宿泊研修や青少年の交流の場に使用されていた施設であるが、老朽化と需要の消失によって21世紀に入る直前に閉鎖され、今では半ば市の倉庫になってしまっている場所だ。テニスコートは雑草に覆われ、バレーボールのグラウンドにはいつ不法投棄されたか分からないサビだらけの軽トラックが放置されている。
この『みしお青年会館』跡地に滑り込んだランサーは、乱暴ではないが丁寧でもない扱いで杏華を下ろし、杏華は護符を投げつけてライダーの攻撃に対して防御結界を張った……やはり、一拍程度の猶予しか防御できなかった。
「この周辺の霊脈は未整備なので、昨夜みたいなことはできません」
「承知した!」
杏華が身の安全を確保できるようになったところで、巨大な黒毛の馬に騎乗したライダーが現着した。
ここなら気を遣わずに思い切り死合えると言わんばかりに、ランサーは六合大槍を現界させた。ランサーの身の丈以上もの長さの大槍を目にしたライダーは、武具を弓矢から薙刀へと持ち替えた。
「さて、死合おうか。サムライのライダーよ!」
アリアが感じ取った魔力は、ランサーとライダーの衝突によるものだった。
心護が危惧したとおり、戦場となった旧青年会館は保育園のある寺とはそう距離が遠くない地点にある。森林の合間を貫く夜の県道を走って魔力の発生源近くまでやって来た心護とアリアは、バイクに乗ったまま遠目で旧青年会館を眺めていた。
「やっぱり、どこかが戦っているな」
「どこかしら? そこまで大きな魔力ではないようだけど……あ」
ナニか、来る……!
バイクの後ろに乗るアリアの腕が、心護の腹部から離れた。サーヴァントの魔力とは違う、じっとりと湿ったような奇妙な気配をアリアは感じ取る。
アリアの視線が、月の見えない曇り空へ向いた。心護も同じく視線を向ければ、暗闇を縫うように空に浮かぶ異形を目撃した……フワフワと風で運ばれるバルーンのようにも見えたが、身体は完全な球体ではなく、丸い身体に凸凹した皮膚に小さなヒレが生えている。頭から垂れ下がったナニかは、遠目から見れば力なく垂れ下がっている人間の死体のようにも見えた。
奇妙な気配の先にいたのは、全身を爛れた鱗に覆われたチョウチンアンコウの形をした化け物だったのだ。
「化け物……?」
「キョウカさんの言っていた、“変なの”かしら」
「巨大イカじゃなくて、チョウチンアンコウっぽいけど……あっちに向かっている」
速度はそう遅くはない。気球が上昇しながら滑空するように、魚の異形が向かっている方角は魔力の発生源だ。
サーヴァント同士の戦いに乱入するのか。何かに惹かれて、魚の姿をしているのに空を泳ぎ陸地に上がろうとしているのだろうか。
「アレが寺や保育園に突っ込んだらまずいよな」
「わたしが何とかする。メデアになるわ……
憎悪の黒炎が渦巻いた。
アリアのその身には『
攻撃されれば激高してこちらに意識を向けるのかと心護は身構えたが、黒炎の矢に貫かれてその身が焼け焦げても、魚の異形は一目散に旧青年会館へと滑空していく。
アレの目的は分からないが、一度構ってしまった以上、自分たちで始末しなければと心護はヘルメットを被り直した。
「ああ、何たること! 復讐は果たされなければならない!」
復讐の黒炎は、意志を持つ生き物の如く蠢きメデアを連れて舞い上がる。今の彼女には、攻撃対象である魚の異形が、恨めしい元夫のジャゾーネにでも見えているのかもしれない。
一方、旧青年会館は半壊していた。
六合大槍と薙刀がぶつかり合う度に、その衝撃によって建物の窓ガラスが木っ端微塵に散った。
騎馬が嘶き地面を蹴り、ライダーは荒れ果てたグラウンドを縦横無尽に駆け回る。ライダーの膂力でランサーが吹っ飛ばされ、建物の壁を足場に着地すれば木造の壁は見る影もなく割れて穴が開いた。
ランサーが建物の壁を踏み抜いて騎馬とライダーの隙間を縫って槍を突き出して、騎馬ごとライダーを吹っ飛ばした。グラウンドの隅にある木造の倉庫が倒壊した。
杏華は余波に巻き込まれぬようにと逃げ隠れして、時には護符で防御を取っていた。『色貌の魔眼』で周囲を散策するが、ライダーのマスターと思わしき気配は察知できなかった。
「ライダーのマスター……離れた場所にいるのか。それとも、ライダーの機動力に追いつけなくてこっちに向かってきているのかなぁ。サーヴァントとマスターはそこまで離れられないはずだから安全圏にいる訳ではないと思うけど……っ!?」
『色貌の魔眼』が見覚えのある色を察知した。それも、つい最近見たばかり……視界に激しく叩き込まれるような重苦しく攻撃的な黒は、あの夜のアサシンの色だ。
「まさか、心護くん? 進んで乱入するの……え、何で?」
攻撃的な黒の感情を持つ『復讐の魔女』は、黒炎に塗れたナニかと共に落ちて来た。神話の魔女は竜の引く戦車で夜の果てへ消えたが、この場に現れた魔女は火達磨になった魚の異形と共にランサーとライダーの間に落ちて来たのだ。
結果的に乱入するような形になってしまったのである。
「また出た!」
「またか」
「……」
「憎悪の炎に焼かれなさい……焼かれて、くれないのね」
メデアの姿をしたアリアが黒炎と共に着地した。
魚の異形が保育園に落ちないよう対処しようとしたが、誘導は諦めていっそのことと戦闘の渦中に叩き落したのである。
炎の魔術にこんがりと丸焼きにされた魚の異形は、頭部の位置から生えている巨大な触手を振り回しながら、火達磨になってもんどりうって断末魔にも聞こえなくない音を立てた。悲鳴というよりは、風船から空気が抜ける音に近い。
杏華とランサーが昨夜遭遇した、分かりやすい魚のフォルムをした異形とはまた違う、巨大なチョウチンアンコウのような姿……形だけはチョウチンアンコウだが、頭から生えている触手は光っていないし、力なく垂れ下がる人間のような形をした疑似餌だった。
アリアの黒炎で焼かれて退治の必要はないかと思ったが、何だか嫌な音がしてきた。風船から空気が抜けるような音から、風船が破裂するような音に変化した。それも、パチンパチンと、何回も何回も破裂している。
憎悪の黒炎で焼かれる魚の異形の皮膚が破裂する。ボコボコと隆起した皮膚がいくつも弾けて、体内から全く同じ姿の、でも随分と小ぶりな異形が這い出て来たのだ。
「分裂した?!」
「いや……相手がチョウチンアンコウなら、あれは多分産卵っス。チョウチンアンコウのつがいって、雄は雌の身体に吸収されて一体化しているから、雌は受精卵を産めるんですよ」
「さすが現役の漁師。詳しい」
心護が追いついて到着した。バイクを降りた彼の姿を目にしたアリアは、薄紫色のヴェールを翻しながら心護に寄り添った。
アレがチョウチンアンコウと同じ生態をしているのなら、生命の危機を察して次世代の子孫を残したのかもしれない……体内にあった卵が一斉に孵化して、母体とまったく同じ姿をした魚の異形がうじゃうじゃと湧き出てしてしまったのだ。
「あれって杏華さんが言ってた巨大イカの仲間っスか?」
「多分……よく似ているし。どうしましょう?」
「銛突きはごめんだぞ」
「一、二匹ぐらいは何とかしてくださいよ」
杏華がランサーの肩を掴んでガクガク揺らす。ガクガク揺らされているランサーは、昨夜に続いて今夜も戦闘を邪魔されて面白くなさそうな表情をしていた。
そして心護は、自分たちが状況を悪化させてしまったのではないかと内心冷や汗をかいていた。
というか……そもそも論として、アレはどこから湧いて出て来たのか?
あんなのが自然に湧いて出て来るなんて考えられないし、まさかサーヴァントが使役でもしているのだろうか。
ここで真っ先に思いつくのが、巨大な鮫を従えていたライダーだ。鮫を出せるなら、チョウチンアンコウも出せるのではないかとライダーを探せば、かろうじて残った旧青年会館の屋根に鎧武者が立っていた。チョウチンアンコウの群れから逃げたようにも、それらを見渡せる場所に移動したようにも、どちらにも見えた。
「心護くん、あいつらを再び焼けますか? ちなみに、突いたりして出血すると青い血が噴き出します」
「え、怖。焼くしかないっスよね。取り逃したら大変なことになりそうですし……この先の寺に、保育園があるんスよ」
「シンゴ、魔力を頂戴」
黒炎の上昇気流にアリアが被る薄紫色のヴェールがふわりと舞う。
今の彼女は、魔女の如く炎の魔術を操り、その身はメデアから湧き出る憎悪と悲愴を肩代わりしていた。皮肉にも、『
荒れ果てたグラウンドを這い回る異形の子供たちが、黒炎の弾に焼き貫かれる。しかし、一体どれぐらいの量の卵を孕んでいたのか、母体は炎上しながらも絶えず子供を生み出し続けていた。
黒炎が充満するのを、ライダーは屋根の上から静観していた。マスターからの指示がないからか、それとも単純にあの異形には関わり合いたくないからなのか。だが、二階建ての屋根に立つ鎧は恰好の的だった。
憎悪の炎とは異なる二色目の炎が闇を切り裂く光景は、先週の漁協の再演だ。ミサイルの如く噴射する蒼炎の矢が狙ったのはライダー、それに気づいたライダーは小手で矢を受け止めて薙刀を構えた。
同時に、心護と杏華の背後で弱々しい光が点滅する。何事かと2人で揃って振り向くと、不法投棄されていたはずの錆だらけの軽トラックのヘッドライドが点灯しているではないか。
フロントガラスは汚れて前が見えず、タイヤは空気が抜けきって役には立たず、それでも排気パイプから黒煙と異臭を吐き出して割れた音のエンジンを轟かせた。スクラップ同然だった軽トラックがエンジンを噴かせて動き出したのだ。
狙いは心護たちではない。矢の連撃を切り伏せるライダーが屋根から降りて地上に着地したその時、軽トラックが放り投げられたかのようにライダーに突っ込んでいった。あれは、ライダーを狙った攻撃だ。ライダーに被弾した軽トラックは、微かにガソリンが残っていたのか、薙刀によって真っ二つにされた瞬間に大爆発を起こしたのである。
今度は一体何が起きたのかと、爆風に煽られた心護は軽トラックが不法投棄されていた場所へと視線をやれば、そこにはナニかがいた。
体長は30cmほど。身体は白いので夜でもはっきりとその姿が浮かび上がり、ゆるい顔立ちは爆発炎上にはあまりにも不釣り合いだった。
そこにいたのは、しおどんのぬいぐるみだったのだ。
「……何で?!」
怪奇!聖杯戦争に出没するおじさん(みたいな顔)!