自分はとんでもない思い違いをしていたのかもしれない。
その疑念は、一晩経っても涼乃の頭の中から消えることはなく、どんどんと膨らんでは大きくなっていた。
昨晩は、神社が魚の異形に襲撃され、巨大なチョウチンアンコウタイプの異形まで出現して青年会館が消滅した騒動になったが、その直前に起きた出来事の方が深く濃く涼乃の記憶に刻まれている。
バーサーカーは……ファントムは、『狂化』及び『精神汚染』のスキルの影響で涼乃をクリスティーヌ・ダーエと誤認している。涼乃はそう考えていた。
『狂化』だけではなく、『精神汚染』により彼は常に錯乱した発狂状態にあり、他者との意思疎通が困難になっている状況だ。人々がイメージする物語の中の怪人の残虐性と不気味さが昇華されて実際に反映・出力されてしまった結果なのだろうか。世界中のミュージカルファンを始めとした観客たちの中では、オペラ座の怪人はクリスティーヌへの実らぬ恋へ身を焦がして狂って凶行に手を染めた怪人であるが故に、常人とは話が通じないぐちゃぐちゃな状態で現界しているのだ。
酷い話である。
だが、昨夜のファントムはたった一言、涼乃のことを「マスター」と呼んだ。
平時の、歌うような、惑うような言葉ではなく、はっきりと意志のある言葉を涼乃に告げた。それも、「クリスティーヌ」というフィルターではなく、涼乃本人をしかと見た……確かにあの夜は、涼乃はファントムから何も隔てない言葉をもらったのだ。
涼乃も、ファントムは常に発狂状態にあると思っていた。『狂化』と『精神汚染』による影響はゼロではないが、
「彼は、私のことをクリスティーヌ、お父さんのことはクリスティーヌの父だと思い込んでいる。オペラ座の怪人は、愛するクリスティーヌを傷つけはしない……誘拐はしたけれど、それは彼女への恋慕が暴走した結果で、直接的な危害を加えたことはない。逆説的に言えば、オペラ座の怪人はクリスティーヌを傷つけることは
もしかして……。
バーサーカー:ファントム・オブ・ジ・オペラがマスターである涼乃をクリスティーヌ・ダーエと誤認しているのは、涼乃に危害を加えないためではないだろうか?
恋に狂った怪人が狂気に呑まれれば、恋敵を始めとした邪魔者を排除するために殺人に手を染める、冷酷な怪物となってしまう。それは、マスターも例外ではなく、一瞬でも“邪魔者”認定されてのならば、マスターであってもシャンデリアを落とされ、首を括られ、地底湖で溺死させられる可能性がある……本来ならば、サーヴァントとはそれだけ危険な存在なのだ。
マスター殺しをしないため、涼乃に手をかけないため、ファントムは狂気に呑まれて彼女をクリスティーヌと呼ぶ。愛しい歌姫の前でなら、紳士的な音楽の天使にも残酷な殺人鬼にもなれる。マスターに甲斐甲斐しく献身的に尽くしつつ、敵対する者を屠るサーヴァントとして鈎爪を奮えるから、自身の在り方をそう決めたのかもしれない。
どうしてそこまでして、涼乃のことをクリスティーヌと呼んでくれるのか?
きっとそれが、彼の真心だからだ。
『オペラ座の怪人』では、怪人はクリスティーヌの真心によって救われた。望んだ愛ではなかったけれど、クリスティーヌは恋に応えてはくれなかったけれど、誰にも愛されることがなかった醜い仮面の怪人は誰かに抱き締められた瞬間に確かに真心からの愛を受け取ったのだ。
ファントムがクリスティーヌから受け取った真心を、涼乃にも与えてくれた……そう思いたい。
涼乃は、そう感じたかった。
「きみが恋に狂えないのなら、私が代わりに狂おう。きみが怒りに身を委ねられないのなら、私がきみの分まで憤怒に身を堕とそう。私は
涼乃の代わりに狂ってくれると、怒ってくれると言ってくれたファントムの真心は、どこか擽ったくて温かいものだった。
魚の異形の襲撃により、柳洞神社の社務所が倒壊した。表向きは地震によって崩れたと柳蔵が説明したら、消滅した旧青年会館よりもこちらの方が深潮内での深刻な事件となっている。幸いにも、本殿も鳥居も、柳蔵家の住所スペースも敷地内にある祠も無事だったので、しばらくはお守りやお札の販売を休止ぐらいでなんとか落ち着きそうだ。社務所の瓦礫を撤去しに来てくれた業者さん(階段があって重機等が使用できないため、手動で撤去してくれた)にお茶を出してお見送りをして、涼乃はやっと一息吐いた。
否、一息吐いている暇などなかった。
業者と入れ違いでやってきた杏華とランサーに、大切な相談があるからだ。
「……バーサーカーが神社から離れても、私の魔力だけに依存しないで戦える方法ってありませんか?」
「ん? 昨夜みたいなことに備えて、ですか?」
「それもあるけど……」
涼乃の両手は杏華の手の中にあった。「ネイルしましょうか?」という杏華の申し出をありがたく受け入れ、爪の形を整えてもらっているのだ。
「何の術式もないただのネイルです」の一言については、ちょっと突っ込ませてはもらったけど。
バーサーカーは現界のための魔力のほとんどを神社の霊脈から湧く魔力に依存している。神社から離れて涼乃の魔力だけで行動にするには、近場を歩くだけでギリギリだ。昨夜のように、令呪を一時的なブーストとして機能させるぐらいしか現状の手札はない。
神社以外の場所で行動するには、しかもサーヴァントとしての機能を奮って戦うとなると、涼乃の魔力はあっという間に枯れて果ててしまうことになる。冬木聖杯戦争の歴代のバーサーカーのマスターたちと同じく、魔力切れで自滅する道しか見えないのだ。
なので、杏華に相談した。理由を伏せて誤魔化すこともできたが、本当のことを伝えないのは居心地が悪いので、涼乃は小さく呟くように杏華へ理由を告げた。
「バーサーカーの願いを叶えたいなーって、思い始めて」
「涼乃さん、聖杯戦争に意欲が出て来たんですか? 自分じゃなくて、サーヴァントの願いのためにって、心護くんみたいですね」
「……バーサーカーの願いのためには、詩ノ宮くんと戦わなければならなくて」
「え?」
「
涼乃の発言に、杏華は思わず聞き返し、部屋の縁側で2人の会話に聞き耳を立てていたランサーは振り向いた。
涼乃が叶えたいバーサーカーの願いは、聖杯を求めるほどの奇跡ではない。狂気に苛まれ、汚染された精神のフィルターによって見た景色にかつての舞台がフラッシュバックした。昨夜のアサシンの歌劇は、邪魔者がスポットライトを浴びる舞台と重なってしまったのだ。
涼乃がそのことに気づいたのは今朝のことだ。昨晩の精神的な疲れもありいつもより少し遅く起きてしまったが、ファントムは既に手水舎の前にいた。今朝もまた、水盤に摘んだ花を浮かべているのかと思ったが、今朝は様子が異なっていた。ファントムが摘んだ花は足元に散乱していた。乱暴に引き千切られ、ズタズタに切り裂かれた花は散らされていたのである。
何事かと涼乃が駆け寄ると、どろりとした濁った視線が眼鏡のレンズ越しに見えた。
顔を隠すための伊達眼鏡をかけていてもはっきりと分かる。焦点が定まらず、瞳孔が開いた光のない目が、憎悪と愛しさを孕んで涼乃を見下ろしていたのだから。
「喝采はない、喝采はない……クリスティーヌの立たぬ舞台に、喝采など必要ない。きみの舞台の邪魔をするもの、きみが立つべき舞台に立ち、喝采を浴びるあの女――カルロッタ……! 聞こえない、聞こえない! きみの歌以外は聞こえない! 歌わせない、カルロッタには決して歌わせない! 喝采はきみのもの、舞台に立つべき歌姫はきみだ……クリスティーヌ! 愛しいきみ、愛しいきみ」
「カルロッタをどうするの?」
「きみのためにシャンデリアを落とそう。きみのためにカルロッタを辱めよう……ああ、許せとは言わぬ。決して許されぬ……我が魂と声は永遠に囚われる……クリスティーヌ、クリスティーヌ……」
「エリック、貴方はなにをしたいの……貴方の願いは?」
「愛しいきみと共に。カルロッタを排し、舞台をきみのものに……!」
はっきり分かった。ファントムは、アサシン――アリアを、カルロッタと誤認している。
カルロッタとは、『オペラ座の怪人』に登場人物だ。彼女はオペラ座のプリマ・ドンナであり、実力はあるが傲岸不遜な態度でクリスティーヌへ辛く当たる、怪人にとっての邪魔者である。カルロッタがいる限り、クリスティーヌはプリマ・ドンナにはなれないと感じた怪人は、舞台で歌うカルロッタの声をヒキガエルの如き濁声にして辱め、二度と舞台に上がれないほどのトラウマを植えつけた。
作品媒体によっては、ただ辱めるだけでは飽き足らず落下したシャンデリアに圧し潰されて死亡する怪人の被害者は、今のファントムの中ではアリアの姿をしている。クリスティーヌがいて、カルロッタがいるならば、怪人の行動は決まっている……怪人は、クリスティーヌのためにカルロッタを舞台から排するのだ。
それはまるで、物語に定められた
しかい、呪いによってもたらされても、カルロッタを排したいというのはファントムにとっての本心であり、怪人の
「エリック。エリック……貴方は私の代わりに狂ってくれる、怒ってくれる。私がやりたかったことを、指輪を壊してくれた。だったら、今度は私が願いを叶えたい」
涼乃が覗き込んだファントムの顔は狂気に苛まれている。
執念ともとれる憎悪に塗れる視線を受けながらも、涼乃の声は穏やかに澄んでいた。ファントムが彼女をクリスティーヌと決めた、美しい声だった。
「貴方からもらった真心に応えたい。思い上がりも甚だしい、身勝手な考えだけど……私がクリスティーヌなら、貴方に真心を示したい」
涼乃の右手に残る二画の令呪が、彼女とファントムを繋ぐ契約のカタチだとしたら、これを活かす方法しか真心を示すことはできない……涼乃には、これしかできなかった。
昨夜、サーヴァントである彼が自分のことを「マスター」と呼んでくれたから、涼乃はマスターとしてファントムの願いを叶えるのだ。
願望もなく、信念もなく、覚悟もなく参加することになってしまった聖杯戦争。この召喚と契約が運命であるのならば、彼が怪人の物語の呪いにかかるのならば……涼乃は物語の呪いに従って、
『……この呪いにかかるのは、悪くないかな』
指輪の呪いから解き放ってくれたのだから、これぐらいの呪いにかかるのも悪くはない。
涼乃が理由を全て話し終わると、杏華は彼女の十枚の爪の全てにポリッシュマニキュアを塗り終わっていた。杏華が選んだのは光沢の少ない落ち着いたネイビーブルーだ。これが乾いたら、白でフレンチネイルを入れると涼乃の指先を華奢な手でパタパタと扇ぐ。
忙しなく動く杏華の指先も白いフレンチネイルだ。明るいローズピンクと白の華やかなネイルを見せながら、「お揃いです」と、子供のように微笑んでいた。
「心護くん……対アサシンとの戦闘のために、魔力供給の手段が欲しいってことですね」
「監督側の、本来ならば彼を保護しなきゃいけない立場なのに。こちらの都合に巻き込んでしまうんだから、恨み言の一つも覚悟しなきゃ。それも、二回目」
一回目は、作りすぎた夕飯をなんとかするために巻き込んでしまった。つい先日のことである。
「あの坊主は、女からの誘いに恨み言を吐くタマではないだろう」
「確かに。心護くんは気にしなさそう。でも、アリアさんと一緒に反撃してくるでしょうね。昨夜みたいに、歌姫が姿を変えて」
「舞台を譲れと喧嘩を売って、そう簡単に下りるような彼らではないはず。それに、彼女はバーサーカーが知る歌姫ではないから……彼女には、狂乱に呑まれてもその身を挺して抱きしめてくれるマスターがいるから、物語の通りにならないはず。だから、使えるものは全て使って挑まなければならない」
杏華がトップコートを塗る前に手に取ったのは、銀のラメのマニキュアだった。それを涼乃の両手の薬指にだけ乗せれば、ネイビーブルーと白のシックな指先に控えめの煌めきが宿り、電灯が反射してキラキラと光っている。
涼乃の目には、昨晩にバーサーカーに破壊してもらった指輪よりも、この銀のラメの方がずっと綺麗に見えた。
「なら、大切なのは場所選びですね。バーサーカーは神社の霊脈から魔力を得ている状態なので、神社を離れると、涼乃さんの魔力にのみ依存することになります。なので、神社を経由した霊脈がある場所で戦えばいいかと。そこから魔力を供給して、涼乃さんの負担を最小限に抑えられれば」
以前に杏華が心護に説明した通り、柳洞神社は深潮市に巡る霊脈の多くが交わるジャンクションとなっている霊地である。バーサーカーが神社に紐づけられ、その地に縛られているのなら、霊地から伸びる枝を利用すればいい。
「神社から連なる霊脈なら接続が途切れないけれど、今のようにほとんどの魔力をカバーできる可能性は低いです。いくらか涼乃さんの負担も増えます」
「なら、踏ん張らなきゃならないわね」
そう言って、杏華が施したネイルを眺めた涼乃は、ちょっと困ったように笑ったのだった。
柳洞神社を経由して深潮市内に伸びる霊脈がある場所で、なおかつサーヴァント同士の戦闘に適している場所。夜間に人目はなく、周囲に民家もなく、それでいて広い場所がいい。
杏華のスマートフォンに表示される深潮市の地図を辿れば、条件に合致した場所が見つかった。
「もしもし、詩ノ宮くん? 今夜、空いていますか。もし、予定がなければ……やりましょう、聖杯戦争を」
舞台は、鷹鉾自動車学校跡地。
『オペラ座の怪人』は『金田一少年の事件簿』から入った世代です。
歴代ファントムでは3人目が好き(ネタバレ防止)