深潮市の鷹鉾地区には、かつて大手繊維メーカーの巨大工場があったのは以前に語った通りだ。(※8話参照)
人が集まる場所には、様々なサービスも集中する。石炭採掘のための離島に映画館やデパートがあったように、昭和後期までの鷹鉾町は近隣地域の中で最も賑わっていた地域だった。
その賑わいの象徴の一つに、自動車学校がある。合宿による短期取得コースのため敷地内に宿泊施設も併設し、何台もの教習車が並んでいた巨大な施設では多くの人々が自動車免許を取得したが、平成が二桁になる前に倒産し今では見る影もない廃墟となっていた。
解体されて更地にされることもなく、建物も車庫もそのままで放置され、道路を模したコースはアルファルトの地面を突き破る雑草によってヒビ割れ放題だ。錆びたガードレールに標識に、微かに曇るカーブミラーも、存在を忘れ去られたかのようにポツンと立ち続けている。
確かに、聖杯戦争の場としては適切な場所だと、連絡を受けた心護はちょっとだけ感心した。心護ですら覗きに行ったことのない場所。古い地図上の記号で知るだけの廃屋が、涼乃の指定された殺し合いの場であった。
最初、涼乃から連絡を受けて驚いた。彼女から「今夜、予定は空いているか」と問われたとき、てっきり、また夕飯を作りすぎたのかと思ったが、考えてもいなかった予想外のお誘いを受けたのだ。
『やりましょう、聖杯戦争を』
「……涼乃さんも、願いができたんですか?」
思わず訊ねてしまった。
心護と涼乃の立場は同じ。聖杯に捧げる願いはなく、自身の意志を無視して出現した令呪により傍迷惑な儀式に巻き込まれてしまった、本来ならば戦う意欲さえないマスターだ。故に、涼乃と彼女のサーヴァントは監視役側として他のマスターを諫めたり、謎の異形の出現への対処のためにしか神秘を奮っていない。なので、深潮聖杯戦争は、実質6人のマスターと6騎のサーヴァントによる衝突で開幕したが……まさか、本当に、彼女も聖杯を求めるというのか。
『詩ノ宮くんと同じで、私もサーヴァントの――バーサーカーの願いを叶えたくなりました。彼の願いは、君のアサシンを排すること。狂気に苛まれた彼の願いに流血は避けられない。君に恨み言の一つでも吐き捨てられるかもしれない……でも、はっきり言います。これが、私の願いです。』
聖杯に願うまでもない、流血を伴う手段しかない願いは、酷く不純で崇高さの欠片もない。それでも、涼乃の声は迷いなく澄んでいて美しかった。
彼女は電話越しでもよく通る声でそう、堂々と宣言したのだ。
「別に。涼乃さんのことを恨みはしませんよ。夕飯、ご馳走になったし。それに……これ、“戦争”だし」
願いがあるのは心護も同じ。そして、涼乃の願いは心護と同じ。誰かの願いを叶えたいがために踏ん張らなければならないのは、非常に共感できるものである。
傾いた下弦の月に見送られ、アリアの対応を背中に感じて辿り着いたのは鷹鉾自動車学校跡地。
隆盛の面影はなく、過ぎ去りしかつての残り香さえ消えてしまった廃墟に立つは、白い仮面の狂戦士。
巫女姿の
どこか、アリアにも似ていた。浮世離れした、現実とは皮一枚を隔てた
バーサーカーは何の執着があってアリアを敵視するのか、彼の真名を知らぬ心護にはその理由は分からない。
だが、事前に“戦争”が降ってくると予告されたのだから、それなりの対処はとらなければならない。
涼乃がバーサーカーの願いを叶えたいと願うならば、心護だってアリアの願いを叶えたいと願っているのだから。
聖杯戦争にスターターなどない。意識しないうちに幕は上がる……バーサーカーの鈎爪が振り上げられたその瞬間に、開幕の火蓋は切られたのだ。
「アリア!」
バーサーカーによって抉られたアルファルトの破片が心護の頬に飛んだ。
自動車学校跡地の中心部。かつては何台もの教習車が走行していた疑似的な道路にて、バーサーカーは一目散にアリアを狙って両手の鈎爪を振るってきた。アリアがするりと攻撃を避けると、いつもの2人の戦法どおり……独唱を奏でて己の自我を殺す歌姫のその身に歌劇の登場人物を降ろす。
ただ、アリアの歌声を耳にしたバーサーカーが、一瞬だけ身体を硬直させたかのように見えた。顔の半分以上を覆う白い不気味な仮面で表情ははっきりと分からなかったが、どこか重苦しく、息が詰まるかのような殺気が迸ったのを心護は感じ取った。
「ジャゾーネ! 何故、子から母を離そうとするの。何故、母から子を離そうとするの!? あなたの非道な仕打ちは、最早、私の怒りの炎を燃え盛らせるだけ!」
重苦しく、息が詰まるような殺気はこちらも同じだった。
『
『
「どこへ行く、
「っ!」
心護の身体が硬直した。脚はもつれて草が茂った駐車場の上に倒れ込んだのだ。
「我が顔を見たな。この醜き姿を見たな……我が顔を見てはならない。仮面に隠された真の醜さを見た者は、恐怖を知ることになるだろう」
「う、動かない……?」
バーサーカーの声は低くとも耳によく通る。足元から這い出て来るかのようにゆっくりと、心臓を経由して脳へ侵食してくるかのように痛みを伴って心護の耳に入ってきたその瞬間に、身体が動かなくなったのだ。
知らない名前で呼ばれたはずなのに、何をされた訳でもなく身体は無傷なはずなのに、バーサーカーの声によって縛られたかのように心護の身体は動かない。
これは、バーサーカーの持つスキルの効果だった。『ガルニエからの呼び声』は、人を惹きつける天性の美声。演出次第では聴衆の精神に作用し、暗示をかけることも可能である。「声」というトリガーが聴衆の精神にも肉体にも影響を及ぼすのは、感動で心を殺すアリアの歌声にも似ている……ならば、感動以上に刺激を与えればいい。
黒炎の槍がバーサーカーに叩き込まれると同時に、心護は思い切り舌を噛んだ。激痛と共に覚醒した身体を無理矢理に動かして、黒炎の熱波を背中に受けながらなんとか離脱する。
この時、漠然と心護の頭の中にあったのは、「似ている」という言葉だった。
バーサーカーとアリアの能力は似ている。どちらも、声で、歌で、相手を捕らえるのだ。
だが、能力が似ているだけで火力は段違いだった。アリアが振る細身の短剣が黒炎の槍を降らせるが、バーサーカーのマントを焦げつかせることすらできていない。途切れぬ殺気をアリアに注ぎ……否、アリアを通してラベルを貼り付けている
頭上に陰ができた。空を見上げると、廃墟には不釣り合いな巨大なシャンデリアが出現している。
まるで最初からそこに在ったかのように、今夜の舞台を彩るための照明だと言わんばかりにそこにあったシャンデリアは、背筋が凍るかのような美しい煌めきを伴ってアリアの頭上に落ちて来たのだ。
「岳野でも落ちて来たけど、なんでシャンデリア……?」
粉々に砕けた黄金のシャンデリアは、黒炎の波によって押し流された。薄紫色のヴェールをはためかせたアリアは黒炎に守られてシャンデリアに圧し潰されてはいなかった。
攻撃手段がシャンデリアだというのを不思議に思う心護は、そこまで舞台やミュージカルに精通していないので、バーサーカーの真名にはピンときていない。そもそも、バーサーカーの真名を隠すのはほぼ不可能だ。
普段の言動も、攻撃手段も、そしてその姿も、『オペラ座の怪人』という物語を知る者には隠す意味がない。それは、涼乃も承知の上だった。
隠す意味がないならば、それを十分に使ってやればいい。
「まだ、大丈夫……動ける」
杏華からのアドバイスに従い、バーサーカーが接続している柳洞神社の霊脈から延びる霊脈の上。バーサーカー魔力供給の半分以上を霊脈から補って負担を最小限に抑えてはいるが、涼乃の腕には痺れが走り始めていた。だが、長期戦は無理だ。
聖杯戦争に身を投じると決めたならば、持てる手札の出し惜しみをしてはいけない。
間髪入れず、涼乃は次の一手に移った。
「ひふみよいむなやこともちろらねしきるゆゐつわぬそをたはくめかうおえにさりへてのますあせゑほれけ」
人の気配のない静寂な夜の下に響く凛とした涼乃の声が繰り返すこと
更に続くは、神への祈り。バーサーカーが柳洞神社に紐づけられているなら、神社に仕える旧き血縁である柳蔵の祈りに応じて……ほんの少しだけでいいから、加護を賜うために涼乃は奏上する。
「掛けまくも畏き天宇受賣命――」
柳洞神社の主神は猿田毘古神である。
『古事記』に記された伝承にて、天孫降臨の際に天照御大神に遣わされた
そして、柳洞神社の敷地内には、猿田毘古神の妻神である天宇受賣命の祠が鎮座している。
天岩戸にお隠れになった天照大御神を誘い出すために舞い踊った最古の踊り子は、神事芸能の女神の神格を有している。転じて、演劇や音楽を始めとした芸能に携わる者たちからの信仰を得ている。
『音楽の天使』と称賛されるほどの類まれなる才能を持つ怪人へ、夫婦神に仕える巫女からの祝詞を奏上する……どうか、芸能の女神の加護が、歌姫に恋に狂ったオペラ座の怪人へも与えられますように。
「
恋に狂って誘拐監禁殺人にまで手を染めた怪人に、女神の加護など与えられないかもしれないが……涼乃の祈りは真摯だった。
思わず聞き惚れてしまいそうになるほどの涼やかで清らかな声を受けて、バーサーカーは黒炎の渦中に立つ。整えられた舞台の上で、怪人は物語の惨劇を再現する。
「与えられた真心に、きちんと応えさせてください……!」
宝具、発動――
『
心護とアリアの目の前から、幻影の如くバーサーカーが消えた。
降り注ぐ月光に溶けたかのように、忽然と姿を消したのだ。
一体どこに消えたのかと心護の意識が少しの錯乱を見せたと同時に、アリアの背後に黒い影が伸びる……影が伸びるのは、アリアの背後にある曇ったカーブミラーからだった。
心護がそれを理解する前に、怪人の鈎爪はアリアに振り下ろされた。『
バーサーカーは再び姿を消した。次に出現したのは、アリアの真正面。そこは、心護にもよく見える場所に、アリアの真正面に立つ汚れた鏡面のカーブミラーからバーサーカーが這い出て来たのだ。
バーサーカーは鏡を移動している。
カーブミラーだけではなく、放置された教習車のサイドミラーも使用して瞬時に動き回りアリアに攻撃を仕掛けて来る。鏡の中に入り込んで黒炎を避け、鏡と鏡を自由に行き来して鈎爪を血に染める……これが、バーサーカーの宝具だった。
『
ファントム・オブ・ジ・オペラは、オペラ座の地下に住まう怪人だ。一説にはオペラ座の設計者とも語られるその者は、オペラ座があっての存在でもあり、劇場のみならずその地下に広がる湖の迷宮の隅々さえも知り尽くす。そして、彼はオペラ座に数多くの罠や隠し通路などの仕掛けを施しており、楽屋の姿見の裏に仕掛けた隠し通路からクリスティーヌを誘拐したと物語に記されていた。
逆説的に言えば、オペラ座の怪人が立つ場所は
「ここは私のオペラ座。私の迷宮……その舞台に立つ歌姫は、愛しきクリスティーヌただ1人。プリマ・ドンナはお前ではない、カルロッタ……! 共に歌おう、クリスティーヌ。愛しき君よ、この歌を君に捧げよう。最高の歌姫たる君に、美しき声の君に……」
歌うように、惑うように、舞台の中心に立つ怪人は高らかに唄を響かせた。
「我が真名は、ファントム・オブ・ジ・オペラ。地獄より産声を上げた異形、音楽の天使に焦がれる者……恋に狂い、怒りに狂い、愛を渇望する醜き怪人である。我が歌はクリスティーヌのために、我が狂気は……マスターのために」
紳士然とした礼をした怪人の両手の鈎爪は、アリアの血に塗れていた。
生々しい血の匂いが黒炎に燻されて、心護は嫌というほど実感した。
やはり、これは“戦争”なのだと。
普段のサブタイトルは映画タイトルをモチーフにしていますが、各陣営を象徴するタイトルはその限りではありません。
私にだけ優しい殺人鬼と言うには、どちらも結構無理している。