それは夢ではなく、過去の逆流であった。
狠子と呼ばれ畏怖された男も、老爺となれば角が取れかつての凶暴さもなりを潜めたか。かつての弟子も養い子たちも独立し、都会の賑わいからは距離を置いた老爺は故郷の農村で子供たちや見所のある青年に武術を教えながら慎ましく暮らしていた。
そんな凪の日々に少しの波が現れる。生徒の少年が盗みを働いたという報せが入ったのだ。
貧しい農家の中間子。武術の才能の欠片もないが愚直に継続ができるその生徒は、頭にたん瘤ができた状態で老爺の前に立っていた。泣きべそをかきつつも口元には饅頭の食べカスが付着していて、生徒の隣には彼の母でも姉でもない女性が立っていた。
鄙びた農村には似つかわしくない美しい顔立ちの小柄な女性。とんでもない美女という訳ではないが、色白の顔のパーツの一つ一つが整っていて品がある。年齢は30歳を過ぎたぐらいだろうか。
彼女が老爺の前に生徒を連行してきた。盗みの被害者……という訳ではなく、生徒が盗みを働いた現場に居合わせ、頭をぶん殴って止めたらしい。たん瘤の製作者だったようだ。
空腹に耐えかねて盗みを働いた生徒をぶん殴って止め、饅頭を食わせて師父の前に突き出した。直接親のところへ連れていけば、たん瘤などでは済まない折檻が待っていると察し、緩衝剤になってくれることを期待して老爺の元へ連れてきたのだ。
老爺は彼女のことを知っていた。と言っても、彼女自身と言葉を交わすのは初めてである。彼女はこの村では有名人だったのだ……婚家から追い出された出戻りとして。
田舎には勿体ない佳人であったこともあり、彼女の親戚連中はどこからか良家との縁談を持ってきた。10年ほど前のことである。都市の良家に嫁いでいったが、子供ができずに離縁され出戻ってきたと、話し好きの婦人たちは口さがなく噂していた。
しかし、老爺にとっては彼女が出戻りだろうが未亡人だろうが関係がない。不祥の生徒が世話になった恩人、ただそれだけだ。
それから、老爺と彼女の交流が始まった。と言ってもそう密接な関係ではなく、ただ茶を飲みながら世間話をするだけの関係だ。老爺の独り暮らしに気を利かせてか、作りすぎたと夕飯のお裾分けをいただいたりもした。
ただそれだけの関係は、季節が二つ過ぎる直前まで続いた。彼女に再び縁談が持ち込まれたのだ。
再びどこからそんな縁談を持ってきたのか、次の夫となる相手は裕福な商人らしい。先妻に先立たれ幼い子供が3人いるという。継母となる後妻を探していたようだ。嫁入り道具の準備が出来次第、村を出発すると温い茶を飲み干した彼女は呟いた。
「ありがたいことなんです。出戻りの年増をもらってくれるって、とても良い縁談なんです。ただ……また、殴られたら嫌だなぁ」
子供を産まなかった彼女が以前の嫁ぎ先でどのような扱いを受けていたかは、ボロボロの指先と袖から覗く古傷だらけの腕で察することができた。額にも薄らと傷跡が見える。
彼女に拒否権はなく、ただただ、次の夫や継子たちが佳い人間であればいいと祈るしかなかった。
「……連れ戻してやろうか」
「?」
「嫁ぎ先で、またかつてのような扱いを受けたならば、婚家の連中を鏖にして連れ戻してやろう」
「ふふ、
「呵々、冗談ではないぞ。主にはうちの悪餓鬼が世話になったからな。それに、爺の茶にも付き合ってくれた恩がある」
「それじゃあ、辛くなったら手紙を出します」
ああ、そうか。彼女は
窮奇が老いて牙が抜かれて、角が取れて丸くなったなんて、そんなことはなかった。拳は鈍りを見せず、槍は錆もせず、穏やかで慎ましい凪の日々の中でも腹の中に生来の凶暴性を飼い続けていたのだ。
殺し合いの中に悦を見出し、殺し合いのために理を求めた魔拳士の本性は、老いなどでは削ることなどできなかったのだ。
彼女が助けを求める手紙を出せば、老爺は必ず実行する。嫁ぎ先の者たちを鏖にして彼女を連れ戻すだろう……このクソジジイは。
結果として、その約束は果たされなかった。
約束が果たされなかったから、“今”がある。
約2年後、老爺に彼女から手紙が届いた。娘が生まれたという報せだった。
夫は佳い人間だった。継子たちは彼女を母と慕い、腹違いの妹をとても可愛がっている。夫の商売のため、近々家族で台湾に渡ることになったため、こうして連絡を取れるのも最後かと思い手紙を出したと書かれていた……この一通の手紙で、老爺と彼女の交流は幕を引いたのだった。果たされなかった約束と、未だ返せていない恩を置いてけぼりにして。
これも、一つの呪いのようなものだなと、目覚めた杏華は寝ぼけ眼でそう、感じたのだった。
***
深潮市で最も新しくて綺麗な公共施設は、市立図書館である。
元々存在していた町立図書館が老朽化していたこと、合併した町村には図書館がなかったことがあり、合併して市制へ切り替わったと同時に新設が計画された市立図書館は今年で開館9年目を迎えた。
最近の杏華は、ここの郷土資料コーナーに入り浸っている。霊地としての深潮を歴史的な視点から調べるためだった。
一口に霊地と言っても、大まかには二通りの霊地が存在する。
一つは、土地から豊富な
だが、天然ものの霊地というのは遅かれ早かれ魔術師の管理下にあり、そう易々と手に入れることはできないものだ。世界規模になれば魔術協会の管轄に置かれている霊地がほとんどである。
もう一つは、小規模な霊脈から湧き出る
代表的な例としては、日本の首都である東京が挙げられる。元々は湿地であった江戸を埋め立てて拓く際、魔術的な意味でも土地を開発し、各地の霊脈からの
遥か昔から同じことをしていた。土地を鎮め、繁栄を願い、陰陽道などの視点も加えて都を造って来た。
だが、これは水道のインフラを整備するようなもので、循環させるための水道管が壊れてしまえば水が届かず都市としての機能を失ってしまう。霊地も同じで、施された術式が何らかの原因で破損してしまったり、管理するものが途絶えてしまったら
深潮の霊脈がこの状態だった。心護の自宅を通っていた霊脈も、施されていた術式が破損していた影響で
このような術式の破損は、深潮全域でよく見られた。よくあることだ。霊脈の要となる祠を壊してしまって土地が枯渇し、
だが、深潮を巡る霊脈はちょっと様子がおかしいのだ。
『霊脈が巡る経路は至ってシンプル。多くの霊脈が交差するジャンクションに当たるポイントに柳洞神社があって、ここで浄化された魔力が各地へ循環される。神社から距離のある霊脈も繋げていた形跡があったけど、土地の開発の際に破損したのかな……全盛期は、山奥から沖合の島まで魔力を循環させていたことになる。でもこれ、小規模な都レベルの術式なんだよなぁ』
杏華が疑問に感じたのは、術式の規模と都市の規模が釣り合わないことだった。
簡単に言えば、大都市レベルの霊地として発展できる術式が敷設されているのに、現状の深潮市はあまりにも寂れているのである。術式の一部が破損した程度でここまでの衰退は疑わしい。人体だって、健康体が複数個所に擦り傷を負ったぐらいで寝たきりになる訳がない。
杏華の目には、霊地としての深潮の術式が土地に全く還元されていないように見えた。
なので、図書館の郷土資料を漁っていつからこの術式が敷設されたのかを調べることにしたのだ。
図書館の職員に依頼して、深潮の歴史……それも、できるだけ古い時代のことが分かる資料を出してもらい、机の上に大量に積み上げた結果、この土地の始まりは奈良時代まで遡れることが判明した。マジか。
かつてのこの土地は、朝廷や伊勢へ海産物を献上するための漁場だったらしい。漁師たちが集まり村ができて、中央の役人がやって来て管理され、恐らくこのタイミングで最初の敷設がされたのだ。
杏華の手元には、江戸時代中期の深潮市の地図が載った郷土史がある。
柳洞神社を始めとした社の位置は現在と大きく変わりはなく、どこかのポイントが壊され・無理に追加された訳でもない。それなのに、この頃は貧しい漁村だったらしい。魔術的な見地から
それはまるで、クーラーは正常に動いているのに部屋はまったく冷えていないようなもの。では、原因はなにか?
「……分からん」
杏華は郷土史を閉じて資料の返却を始めた。行き詰ってしまったので今日はこれで終わりである。
この土地の霊脈は不可解なことが多すぎる。都市に釣り合わない術式もそうだが、聖杯戦争をできるはずのない規模の霊地で7騎のサーヴァントが召喚されてしまっているし、そしてなにより……サーヴァントが召喚されたにしては、霊脈の動きが静かすぎるのだ。
アルジュンとドリンクバー片手に会話をした時は、どこか別のところから魔力を吸い上げているのかもしれないと考察したが、それがどこにあって何なのかは検討がつかない。何か、膨大な魔力に該当するナニかが深潮の外から持ち込まれたのかもしれないと、嘘か真か判断することのできない会話の真実へは未だに辿り着けていない。
資料の返却を終えた杏華は館内にいるはずのランサーを探しに行った。杏華が郷土史と格闘している間は、いつも気ままに図書館の敷地内にいるのだが、今日は簡単に見つからない。雑誌コーナーも視聴覚コーナーも覗いていないなーと館内を歩いていたら、児童書コーナーからランサーの声がする……児童書コーナーの隅にある絨毯敷きの小さなスペースは、子供に絵本や紙芝居を読み聞かせができるコーナーだ。
「悟空がお釈迦様によって岩の下に封印されて500年後、経典を手にするために天竺へ旅をしていた三蔵法師というお坊さんが……む」
「あ、お構いなく。続けてください」
ランサーは読み聞かせコーナーで小さな男の子に絵本の読み聞かせをしていた。手にしている絵本は『西遊記』だ。
杏華がこそっと観客に加わったことで、悟空が三蔵法師と出会った場面で一時止まってしまったが、男の子が続きを強請ったことにより読み聞かせは再開される。その後、もう1人もっと幼い男の子が増え、その子の母親が増え、三蔵法師ご一行が天竺から経典を持ち帰った場面で『西遊記』は大団円を迎えた。ランサーはちょっと照れ臭そうに絵本を閉じた。
「おじちゃんありがと。バイバイ」
「気をつけて帰れよ」
「子供好きなんですよね、確か」
「幼い頃に読み親しんだ本があったため、懐かしさに手に取っただけだ」
「ふーん。晩年は、近所の子供たちに武術を教えていたって聞きますけど」
「む」
ランサーは母親に手を引かれて帰る男の子を図書館の正面玄関で見送った。小さな手には、図書館で借りた『西遊記』の絵本を大切そうに抱えている。
生前は多くの弟子がいたこともあり、元来世話好きなところがあるのだろう。勿論、弟子には「殺されるかと思った」と言われるほど厳しかったらしい。それでも、子供たちに慕われるいい先生であったのは、記録と杏華の中に流れて来た過去の逆流で分かっている。
そして、彼がどれほど義に篤いか……生徒が世話になった恩を、お茶に付き合ってくれた礼を英霊になってまで持ち続け、本人ではなくその血縁者に返そうとしてくれた義理堅さも。
「……以前、生徒さんがお世話になった女性がいましたよね。一緒にお茶をして、しばらくしたら嫁いで行って、娘が生まれたって手紙をくれた台湾に渡った女性。その生まれた娘さん、今もご存命です」
「ッ」
「台湾で育って、戦時中に日本人の役人と結婚しまして。戦後は日本で暮らしていましたけど、旦那さんに先立たれた後は末の息子が本家の養子になったこともあって、現在は台湾で暮らしています。数年前にお会いした時は、
「……そうか」
久々に会った曾祖母は杏華のことを長女と間違えたが、周囲が長女の孫だと声をかければ、すぐに杏華の名前を思い出してくれた。長女の若い頃にそっくりだと、亡くなった自身の夫にも似ているととても嬉しそうにしていたのをよく覚えている。
触媒もなにもなしにランサー――李書文が杏華のもとへと召喚されたのには、理由があった。杏華の血縁そのものが触媒であったのだ。
杏華は、生前の書文が約束をした女性の玄孫である。
生前に返すことのできなかった恩が、彼女が辛い時には敵意ある者たちを一族郎党鏖にしてやろうという約束が果たされずに英霊の座にまで持ち込まれてしまった結果、今がある。
中国滄州の片田舎から日本まで、それも聖杯戦争に巻き込まれるような魔術に関わる家にまでその血縁が繋がって、あろうことか数世紀の時を経てかつての先祖の恩を返す機会が巡ってくるとは……実に、奇妙な話だった。
「もしかして、召喚された時点で気づいていましたか? 私が、彼女の玄孫だって」
「まあな。妙なところで似ている。肝が据わっているところなどがな」
「似てますか? 夢に出て来たひいひいおばあちゃん、昭和の女優さんみたいな綺麗な方でしたけど」
「……」
「あ!」
彼女――杏華の高祖母は、家族で台湾に渡り同地で没した。子供たちに囲まれ、現地の人々に慕われ、娘の独り立ちを見届けて自分の人生を生き切った。
杏華は彼女と会ったことはないが、夢で見た過去の逆流で垣間見た彼女は杏華から見ても美しく優しく強い女性であった。そんな彼女が自分の先祖であることが、どこか照れ臭くて擽ったい。
そんな彼女と杏華を「似ている」と称した書文だったが、杏華と視線を合わせずにそっぽを向いたまま消えた。もしかしたら、彼もどこか照れ臭いのだろうか。
果たされない約束というものは、呪いのようにいつまで残ってしまうものなのかもしれない……だが、杏華がその呪いによって聖杯戦争を生き残っているのは、紛れもない事実であった。
先祖が知らずに化け物と契約しちゃったとかそんな感じの「呪い」
恩を返せておらず約束も果たされなかったのが触媒として機能するため、杏華さん以外の彼女の血縁者でも万が一に英霊召喚となった場合は李書文先生が召喚される。李書文先生確定ガチャではなく、李書文先生しか召喚されないガチャ。
杏華さんは自身と一番相性が良い若いランサーが召喚された。ランサー枠が埋まっている場合は、二番目に相性が良い老人のアサシンが召喚される。
ちなみに、杏華さんとひいひいおばあちゃんは顔も体型も似ていないけど雰囲気が激似。