心護の母・
夏の暑さが和らいだと同時に、酷い湿気で空気が重苦しく感じたのをよく覚えている。否、天候だけではなく、真っ黒な喪服を着た親族たちが詰め寄り俯く人々の感情により更に一層の苦しさに満ちていた。その最前列で、人目も憚らず大声で泣いているのは心護の母方の祖母――歌祈の母親だった。あんなにも泣く大人を幼い心護は初めて見た。
歌祈は地方の名家の末娘だった。両親にもきょうだいにも愛され、心護を愛してくれた人。愛してくれたからこそ、心護の身代わりになったかのように海に連れていかれたのだ。
ちらほらと、「お子さんだけでも助かって良かった」と安堵する声が囁かれている。父の隣で大人しく座っている心護は、幸いにも後遺症も何もなく慣れない黒い服に着られていた。顔も名前も知らない親戚が来る度に、手を握られたり頭を撫でられたりされるのがちょっと嫌だった。
海で繋いだ母の手の温かさが、知らない人の熱で上書きされそうだったから。
「心護! 心護ちゃん……!」
ただ泣いているだけだった祖母が、急にその存在を思い出したかのように心護の前へやってきた。
「歌祈の分まで生きるのよ。天国のお母さんのために、立派な大人になりなさい……!」
祖母は涙で濡れてぐしゃぐしゃになったハンカチと一緒に心護の小さな手を両手で握り込み、震える声でそう言った。遅れてやってきた歌祈の父に当たる母方の祖父もその言葉に大きく頷いて、周囲の人々はハンカチを取り出して目頭を押さえ始めていた。
それはまるで、ドラマか映画のワンシーンのようだった。
感動して泣く場面。何か良い感じのBGMや主題歌が挿入される場面。上手い子役だったら、ここで両目を潤ませながら大きく返事をする指示が監督から出されるのだろう。だが、心護は何も言わなかったし、祖母の手を振り払うこともなかった。
「……やめてください」
なんか良い感じの場面を中断させたのは、心護の父・
この時の声色がどこか怒っているような恐い声だったのを今でも覚えている。
「心護の人生は心護のものです。歌祈さんの分までとか、誰かの代わりにとか、この子の人生に奉仕や対価を強いるようなことはやめてください」
眞清の言葉で葬儀場の空気が一変した。幼かった心護はどうしてこんな
「あの子が報われないじゃない!」
「じゃあどうして歌祈は死ななきゃならなかったんだ!」
「あの子が命に代えて助けたのに……!!」
壁を突き抜けて微かに聞こえてきた泣き喚くような祖父母の声は覚えていたが、この時の心護はその意味までは分からなかった。ちょっとだけ思い出してから、隣で寝ている父にピッタリとくっついて、夏にはちょっと暑いぐらいの熱を感じながら一番安心できる場所でぐっすりと眠ったのだ。
それ以降、母方の親族とはすっかり疎遠になってしまった。
音信不通や絶縁とかではなく、心護の進学や卒業などの節々になるとお祝いのお金が送られて来るぐらいの関係性に落ち着いた。受け取った心護は、当たり障りのないお礼と近況報告を兼ねた手紙を便箋一枚に収めて送り返すのを大学卒業まで続けて、深潮に移住してからはサッパリスッキリ途絶えてしまっている。
母が亡くなってから、心護のためにという理由で持ち込まれる再婚話も全て断って、父は男手一つで心護を育ててくれた。箸の使い方や礼儀等はちょっと厳しく躾けられ、ぎこちない手料理と弁当を用意してくれて、心護が成長してからは分担して台所に立って、水泳を続けさせてくれて大学も出してくれたのだ。
母を亡くした傷も痛みも、2人で日常を過ごして生活を営む時間が流して癒してくれた。いつまでも哀しんで後悔し続けるには、親子2人の日々は忙しなかったし楽しかったからできなかったのだ。
父が心護を愛してくれたのは確かである。それは言い切れる。
それと同時に……今ならはっきりと分かる。はっきりと、理解した。
あの日、雨の日の葬儀の場で、父は心護が呪いにかからないように守ってくれたのだ。
命に代えて助けてくれた人のために生きろというのは。
生き残ってしまった者が誰かのために生きなければならないということは。
亡くなった人のために生きた証を遺せるような立派な人間にならなければならないということは。
それは、悪意なく……むしろ、愛故にかけられる呪いである。
歌祈は愛されていた。愛されていたから、歌祈の両親は娘が生きた証と死んだ意味を求めたのだ。
30年にも満たなかった娘の人生は、心護を守るためにあったのだと。娘が命に代えても助けた心護は、誰かを助け・救い・愛する立派な人間になるはずだと。
娘の死は無駄ではなかったと、そう思いたいが故に祖父母は無意識に呪いをかけようとしていたのだ。
幼い記憶を掘り起こした心護がその事実に気づいたのは、中学生の頃だった。中学生の頃に通っていたプールで出会った他校の女子との交流で気づいてしまったのだ。
心護が通っていた中学校のプールの老朽化により、この頃の水泳部は外部施設のプールで練習をしていた。そこで出会った彼女は、競技ではなく健康のために水泳をやっていると言っていた。かつては心臓病によって水泳どころか日常生活もままならなかったという彼女は、臓器移植によってこうして学校に通うことも泳ぐことも出来ていると言っていた。そして、あと少しでプールに来なくなるとも言っていたのだ。
「もうすぐ本格的に受験勉強が始まるから。私ね、〇〇大付属高校に行って医学部に進学して医者になるの。この心臓の持ち主にもお医者さんにも家族にも、たくさんの人たちに助けられたから、今度は私がたくさんの人を助けられる医者になるの」
彼女とはそれきりだ。高校受験が成功したかも、医学部に入学できたかも、今は研修医をしているかさえも分からない。でも、もしかしたら……あの日、父が口を挟まなかったから、心護も彼女と同じような道を選んでいたかもしれないと、漠然と感じ取った。
彼女と同じような道を選んでいたら、今頃は海上保安庁や海上自衛隊で溺れている誰かを救う人間になっていたかもしれない。だけど、実際の心護は選ばなかった。もし、誰かを救って死んでしまったら、父が悲しむだろうなと思ったからだ。
愛故に呪いをかけるなら、呪いから守るのもまた愛である。
父が送ってくる海難・水難防止のお守りと、帰省の最終日に玄関で投げかけられる「元気でな」の一言は、父から与えられる純粋な愛なのだ。
聖杯戦争が終わったら、父に電話をしよう。
父に教わったお湯割りの湯気を頬に感じながら、心護とアルジュンの奇妙な宅飲みは日付が変わる前にお開きとなった。
「美味しい料理だったよ。作ってくれたマダムによろしく伝えてくれ!」
「それでは失礼します。ご馳走様でした。マスター、車を呼びますのでフラフラしない!」
「お湯割りも良かったよ~!」
「二日酔いには気をつけろ」
「おやすみなさい」
結局、アルジュンは梅干し入りの焼酎のお湯割りを三杯飲んだ。随分と気に入ったようである。すっかり酔いが回ったらしく、褐色の頬を酒精で紅潮させながらフラフラと千鳥足で玄関を出てアーチャーに叱られた。
心護は『玉乃湯』の駐車場で目撃したことをアルジュンに相談しようかと思ったが、結局は相談しなかった。否、できなかったというべきかもしれない。
大学生の頃のように他愛のない会話を交わしながら酒を飲む空気は、随分と懐かしく楽しかったから。アルジュンが心護を友人判定したように、心護も友人と一緒に飲んでいるようで楽しかったのである。何となくこの空気を壊したくなくて言えなかったのだ。
それに……。
「……皿洗って寝るか」
「後片付けしましょう」
何となくこの空気を壊したくなかったし、それに……何となく、
心護が目撃してしまったものを誰かに言ってしまったら、ナニかが壊れてしまいそうだったから。
『玉乃湯』の駐車場で目撃したカマドウマ。およそ自然現象とは思えない変化をしたと思ったら、頭が吹き飛んで絶命した。その亡骸は、散々目撃した魚の異形に似た姿となっていたのだ。そっと、道路脇の茂みに転がしておいた。
カマドウマと魚の異形との関連性は分からないが、深潮では誰も知覚できないようなナニかが起きている。やはり、それは聖杯戦争の影響なのだろうか……?
心護は自宅の玄関に鍵をかけた。アリアと並んで宅飲みの後片付けをして、微かに酒が入った身体で横になる。アリアにも言えない秘密を抱え、酒でも飲み込めないカマドウマの最期をただ、隠しておいた。
***
あの日、雨の日の葬儀の場で、父は心護が呪いにかからないように守ってくれた。
それは疑う余地のない真実である。だが、
父が守ってくれたから、心護は呪いにかかららなかった。のではなく、父が守っても守らなくても
本人の自覚がなければ興味もない天才的な呪術の才能は、この頃から片鱗を見せていた。呪詛返しだけではなく、そもそも心護は呪いにかからないポテンシャルがあったのだ。故に、愛を発端としたどんな濃い呪いも心護を蝕むことはないのである。
しかし、呪術師としての心護の能力が、その身で眠っていた魔術回路が稼働するきっかけになったのは、歌祈の葬儀の場であったのは確かだ。
魔術に関係のない生い立ちで神秘に触れることもない育ちである心護は、本来ならば魔術回路が稼働することはなく本人の自覚のない才能と共に生涯を終えるまで死蔵されるはずだった。はずだったのに、祖父母からの呪いに曝されて父に防がれたという体験が、魔術回路の萌芽となってしまったのだ。
本格的に起動する訳ではない。例えるならば、電源を入れただけ。
起動させるスイッチは入れてはいないけれど、逆に言えばスイッチさえ入れればいつでも起動できる状態にある……それが、心護の魔術回路の状態だ。だから素人レベルではない結界が自宅に張れたのだ。
何か、魔術回路を本格起動させるためのきっかけや強制的な起動さえあれば、心護は知識も経験もなく天性の才能で呪術を行使することができる。何でこんなバグみたいなのが今まで野放しにされていたんだ。
そして現状。聖杯戦争という、魔術と神秘が飛び交う坩堝にいる現状で、萌芽は水と日光を与えられるかの如く微かな成長を見せた……呪術師として開花するその場面が現れるのなら、きっとそう、遠くはない。
翌日、日曜日。
深潮聖杯戦争は大きな動きを見せることとなる。
心護が幼少期から可愛がってもらった大伯父(父の伯父)は、実は母の元上司で両親の出会いをセッティングした人。母が亡くなった後も何かとお世話になっていた。
心護が大学生の頃に大伯父は亡くなったが、妻とは今も交流があり獲れた魚を送ったら喜ばれた。