日曜日の午後3時頃、心護とアリアはおすそ分けいただいたおかずのタッパーやアラ汁の鍋を返却しに野木家を訪れていた。玄関先で女将さんと雑談していると、家の奥から携帯電話を片手に持った野木が血相を変えて顔を出したのが、異変の始まりだった。
「今、ザキから電話が来てて、商店街でガス漏れが起きてあそこ一帯が閉鎖されているってよ!」
「ガス漏れ?」
「やだ、怖い。そう言えば、漁協の
「佐原と連絡が取れないんだよ。ザキたちが探しているんだ。金物屋の夫婦も電話に出ないって! 心護、総務の佐原を見なかったか?」
「いえ、見てないっス」
嫌な予感がした。
『深潮商店街』は、アーケードを除いた箇所を含めてもそれなりな長さだ。しかも、八割がシャッターを下ろした無人店舗なので、十数人の住人が避難したという話もなくガス漏れだけで一帯が閉鎖されるだろうか?
そう言えば、岳野町の山林が爆発で禿山になった騒動は、LPガスボンベの爆発で片付けられていた……まさかと思った心護は、野木たちへの挨拶もほどほどにアリアを連れて商店街までバイクを飛ばした。パトカーや消防車が並び、黄色い立ち入り禁止のテープよりも頑丈そうなバリケードが商店街の前に設置されている。
バリケードの周囲には心護たちにように噂を聞きつけた住民たちで混雑していた。
「危険です、下がってください!」
「バリケードから離れてください!」
少人数の警察官や消防隊員がいたが、どうにも言動が不自然に見えた。この時、心護は気づいていなかったが、警察官の制服の襟には小さな十字架のバッジが着けられていた。彼らは警察や消防内部に潜伏している聖堂協会の息がかかった者たちであり、聖杯戦争の事後処理を担当している者たちでもある。あと少しもすれば、魔術師が施した人除けの魔術が効果を発揮して商店街を中心とした一帯から野次馬は消え去るだろう。
心護の嫌な予感は当たっていたのだ。
「シンゴ……あちらから、強い魔力を感じる。あの向こうに、ナニかあるわ」
「……聖杯戦争って、夜にやるルールじゃなかったっけ? どこかがルール違反したってことか、もしかして」
「お父さん! 藍愛のチャリあった!!」
ほどほどに声を張る警察官たちよりも大きな声が心護の耳に届いた。酷く焦っている声がした方へ視線を向ければ、バリケード近くの路上に倒れている自転車に駆け寄る少女と中年男性。自転車に近くには、エコバッグと紙パックの牛乳が落ちている。
心護にはその自転車に見覚えがあった。深潮中学校の通学ステッカーが貼られているそれは、丸みを帯びたパステルブルーのフレームが可愛らしい印象を与える自転車だ。姉のおさがりが壊れたから新品を買ってもらったと、女子テニス部3人組と遭遇した時に藍愛が自慢していた。
「藍愛……?」
自転車の前で必死に電話をかけているのは高校生の方の藍愛の姉。警察官に詰め寄っているのは藍愛の父親だった。
藍愛がおつかいに出たきり帰って来ず電話も出ない。まさかガス漏れに巻き込まれていないかと探しに来たら、自転車と買った牛乳だけが見つかった現状だ。自転車はあったのに、藍愛の姿はどこにもない。
このタイミングで、心護の携帯電話に着信が入った。相手は涼乃だった。
「涼乃さん。今、市内で起きているガス漏れって……」
『詩ノ宮くん、急ぎ神社に来てください。
こんな時でも、涼乃の声は凛としていた美しかった。
涼乃の指示通り、急ぎ柳洞神社へ向かえば既に3陣営が集まっていた。アーチャー陣営とランサー陣営とライダー陣営。アルジュンと杏華は、各々のサーヴァントと共に鳥居の向こうに見える本殿の前にいた。一方、桐月とライダーは、彼らからは少し離れた場所で静観するように煙草を吹かしている。彼の背後にある社務所の跡地を囲む赤い三角コーンが、随分と場違いのように見えた。
「やあ、昨夜ぶり」
「どうも。二日酔いにはなっていないみたいっスね」
「
心護がアルジュンと言葉を交わしていると、境内の玉砂利と砂埃を舞い上げてナニかが飛び込んできた。
砂埃の向こうからむくりと立ち上がったのは、翼の意匠がデザインされた白銀のプレートアーマーの騎士は見覚えがある。そして、騎士の肩に乗るハーリキンチェックのタイを締めた少女にも見覚えがあった。登場がダイナミックエントリーすぎる。
「あなた、セイバー……」
「こんにちは、アリアさん。はい! わたし、セイバーのマスターのレィム・ロホルト・ウーサです」
「公民館にいた、アリアの友達の……?」
「あ、黙っていた訳じゃないんですよ。ちょっと、言い出せなくて……別に、アリアさんを騙そうとした訳でも、お兄さんを罠にかけようとした訳でもなくて……」
「別に。アリアが仲良くなった友達って以上のことには、あんまり興味ないんで」
「そっかぁ……それはそれで、何か寂しいなー」
セイバー陣営がやって来たことにより、これで5陣営が集結した。残りの1騎のサーヴァント……バーサーカーが脱落した今、この場にいないのはキャスターとそのマスターだ。
もし本当に、心護の予想通りにどこかが聖杯戦争のルールを破ったのならば、この場にいない誰かなのではないか。その予想が確認に変わったのは、巫女姿の涼乃がマスターたちの前に現れてからだ。
「みなさん、集まりましたね」
「涼乃さん、髪短くなりましたね。かわいい!」
「本当だ! 前より似合っています~!」
「それは後でお願いします。あと、神社敷地内は禁煙です」
女性陣のやり取りは一旦横に置いておく。
涼乃に注意をされた桐月が携帯灰皿で吸っていた煙草をもみ消すのを待つと、彼女が監督役としてマスターたちを呼び出した真相を語り始めた。
「本日、深潮商店街においてキャスターが多くの住民を誘拐しました。現在に至るまで解放されていません」
「っ!」
「聖杯戦争は夜に開戦するのが掟。それを破り、更には多くの人々を拿捕し神秘の秘匿に抵触したキャスターのサーヴァントとそのマスター、エルウィン・トキシカ・グラスフィード……聖堂教会と魔術協会は双方の協議により、彼らの討伐を決定しました。此度の聖杯戦争の監督を委託されました柳蔵の勅令により、他5人のマスターのみなさんにはキャスターを討伐していただきます」
心護の心臓が大きく跳ねた。
涼乃に訊きたいことは色々あった。
どうしてキャスターとそのマスターがルールを破ったのか。
誘拐された人たちはどうなったのか、その中に藍愛や商店街の住人がいるのか。
そして、討伐とは……他5陣営が協力して、キャスターを討てと解釈すれば良いのだろうか。
逸った心護は手を挙げて涼乃に訊ねそうになった。学生時代に、授業で教師の質問に回答したように。だが、アリアが心護のアウターの袖を引っ張ったことによって、挙手は未然に防がれた。顔を見合わせたアリアは小さく首を振る。まだ、涼乃の話は続いているから。
「魔術協会の調査により、現在の深潮商店街一帯はキャスターの工房と化しているそうです。誘拐された深潮の住人は、商店街に居住している人たちや商店街の周囲を通りかかった人たち、年齢関係なく総勢38人」
「彼らは皆、工房内に監禁されていると考えてよろしいかな」
「何のために、38人も誘拐されたんスか?」
「まあ、考えられるとしたら生贄かな」
「生贄?!」
「サーヴァントはマスターの魔力によって現界する。霊脈からでも魔力を補給できるが、人間の魂や血肉そのものを喰らっても魔力になる。魂食いという奴だ」
「じゃあ、キャスターの魔力のための生贄にされたってことかよ……!」
「まだ分からない。ただ、魔術的な観点からの一般論としてはそう考えるということかな。キャスターのマスター……グラスフィード家の彼は、没落気味とは言え生粋の魔術師だ」
「いや、でも……」
アルジュンの説明に杏華が割り入った。
魔術師的な観点から言えば、住人たちは魔術の生贄として誘拐されたと考えるのはスタンダードだ。実行犯がキャスターのサーヴァントで、マスターも生粋の魔術師であるならば凶行に反対する可能性も低い。実際、過去に冬木で行われた聖杯戦争においては、キャスター陣営による生贄目的の誘拐もあれば、ただの殺戮目的のために日中に魔術を行使して討伐対象となったこともあったのだから。
だが、生贄が目的ならば、
杏華の疑問はそこだった。
「寂れたとは言え、現場となった商店街は深潮市の中心部にありますよね。近隣には団地もスーパーもある。生粋の魔術師であるマスターが、神秘の秘匿を侵してまであの場所を工房として生贄を確保するでしょうか? というか、白昼堂々
「罠か」
桐月がポツりと呟いた一言で、マスターたちの中でキャスター陣営がやろうとしていることの検討がついた。
聖杯戦争開幕から、大きな動きを見せなかったキャスターがここにきて大きな花火を打ち上げた。その花火に惹かれてわざわざ集まって来た他のマスターとサーヴァントを、自身が用意した会場に閉じ込めて爆発させて一網打尽にでもするつもりか。
キャスターのサーヴァントが持つスキル『陣地作成』。魔術師として自らに有利な陣地を作り上げるクラス固有のスキルだ。商店街は、今やキャスターの腹の内。彼女の指先一つで自在に動く伏魔殿……自前の馬力では他のサーヴァントに劣るキャスターにとっては、工房と化したあの場所で魔術を奮うことがもっとも効率的な戦い方だ。
「つまり、俺たちを商店街に引きずり込もうとしているってことっスか?」
「己に有利な陣地に相手を誘い出すのがキャスタークラスの戦い方だからね」
「キャスターが単独で行ったのか、それともマスター公認なのか。今のわたしたちは、なんにも分からない状況です。もし、調べるために中に入っちゃったら……日本語でなんて言いましたっけ? 飛んで火にはいる虫……でしたっけ?」
「『飛んで火にいる夏の虫』っスね。惜しい」
「キャスターが張った罠かもしれません。でも、深潮の者としても監督する立場としてもこの状況を見過ごせない……勿論、ただ勅令を出す訳ではありません。キャスターを討伐した方には、それ相応の褒章を与えます」
そう言って涼乃は自身の右手の甲を掲げた。涼乃はバーサーカーを失ったが、令呪は二画しか使用していなかったのだ。点対称だった三つ巴の弧は、赤い弧が一画だけ残っている。
「キャスターを討伐した方には、私が残した令呪一画。こちらを差し上げます」
「令呪って三画以上持てるんだ」
「お互いの譲渡の意志があれば可能です。どうですか、悪い話じゃないと思いますが」
「確かに、悪い話じゃない」
膨大な魔力の塊であり、サーヴァントへの絶対命令権である令呪は基本的にマスター1人につき三画が聖杯から与えられる。だが、監督役からの褒章として一画貰えるということは、他のマスターよりも一画分の戦力が増えるということだ。既に一画を使用してしまっている心護にとっても魅力的な話だった。
実際に、桐月は分かりやすく目の色を変えた。アルジュンも俄然興味が湧いたようだ。
マスターたちの空気はキャスター討伐に向いている。彼らに隣にいるサーヴァントも同じ。鎧を着ているライダーとセイバーの表情を窺い知ることはできないが、マスターが動くならば従うだろう。
「ちなみに、マスターの生死に条件はあるかな?」
「それについては……」
「あの、できればマスターの子はこちらで保護したいのですが。キャスターのマスターはまだ18歳。日本の基準では未成年です。キャスターの討伐が完了次第、こちらで保護します」
横から口を挟んできたのは、本来の監督役である柳蔵だった。彼の意向により、キャスターは討伐すればマスターであるエルウィンは保護して神社に引き渡すことが条件として加わった。
現場となった『深潮商店街』は、外側からの調査では何も分からなかった。内部がどんな状況になっているかも、本当に誘拐された人々は商店街内にいるのかも、キャスターが何を仕掛けているかも分からなかった……それでも、躊躇する者はその場に1人もいなかった。心護の目についた杏華も「まあ仕方ないか」という表情をしている。
心護にとっては令呪が増えるのは魅力的だったが、キャスター討伐事体にはあまり意欲はない。心護にとっての懸念は、誘拐された住人たちの中にいるはずの藍愛のことだった。
でも、心護とアリアだけでは藍愛1人でさえ助け出せるか不安が募る……咄嗟に、協力して欲しくて杏華に縋ろうと手を伸ばしたがランサーに止められてしまった。
「女の背後を取るとは無粋だな、坊主」
「杏華さん……藍愛が、マルシェにいた女子中学生3人組の、細身で髪が長いの。誘拐された住人たちの中にいる。多分!」
「あの子……心護くん、めちゃくちゃ焦っている色してますね。嘘じゃないし、十中八九
「今はまだ生きてても、これから先、生贄にされるかもしれない……! 38人全員を助けるのは無理かもしれない、なら藍愛だけでも商店街から連れ出したい! お願いします、協力してください」
ランサーに捕まれた腕が酷く痛い。しかもミシミシと音がする。少しでも心護が抵抗すれば簡単にへし折られてしまうだろう。その状態で心護は杏華へ頭を下げた。
心護にとって、笹山藍愛という少女は妹分とも言えないただの顔見知りの関係でしかない。職場の同僚の娘の友人。市内で出会えば大体3人組で行動していて、見つかればだる絡みされる。彼女たちはテニス部に所属しているが、テニスラケットを握っている姿も試合すらも見たことがない……そんな関係だ。
ただそれだけの関係だ。
それでも、
漁協の総務部に勤める佐原の両親も38人の中にいるかもしれない。藍愛の他にも心護の知人が誘拐されているかもしれない。色々な懸念が脳内でぐるぐる回って沸騰しかかっているが、キャスターのマスターが未成年であることを理由に保護されるのならば、まだ14歳の藍愛だって真っ先に保護されなければならないはずだと、心護の思考回路はそう主張していた。
「キョウカさん、ランサー。お願いします。アイナ……彼女は、わたしの声をかわいいと言って褒めてくれたの。それに……っ、わたしも、あの子を助けたい。お願いします」
「2人揃って頭を下げられたら、とても居心地が悪いんですけど……基本的に、ランサーの助けは期待しない方がいいですよ。そして私も、できる時しか協力できません。それでよかったら」
杏華が小さく頷いてくれただけで、十分だった。
聖堂教会から監督役の委託が来た際、涼乃パパこと柳蔵さんが真っ先に思ったのは「敗北したマスターの保護もするのか。来客用の布団を干して、シーツと枕カバーを洗濯しておこう」でした。
今ならフカフカのお布団で寝れる。