アリアがマルシェで出会った3人の少女たち。
心護の先輩漁師の娘とその友人という、若干遠くてそれなりの接点しかない少女たちの中で、藍愛という少女だけは他の2人とは少しだけ違う感情を心護に向けていると感じた。本当に、何となく。藍愛の視線が、駒幸や多佳音よりも心護を追いかけていると何となくそう感じていただけだった。
けれども、藍愛がアリアにこっそりと話しかけたその言葉で
「ねぇねぇ。心護ってさ……カッコいいよね」
「ええ。シンゴは、カッコいいわ」
「だよねー! あ、今の話、心護にナイショね! 誰にも言わないでね!」
「うん。ナイショ」
照れ臭そうに唇に指を立てて「ナイショ」のジェスチャーをする仕草が愛らしい。アリアも同じく「ナイショ」の仕草をすれば、藍愛は頬に塗った薄いチークよりも美しく頬を紅潮させながら嬉しそうに微笑んだ。
嬉しそうなのは、仲間を見つけたから。好きなものを好きと言ってくれると人と会えたから。
アリアは理解してしまった。アリアの耳元でそっと言葉を交わした藍愛の声色は、ラブ・ソングの登場人物たちと同じものだった。
神話の神々さえも抗うことのできない恋の魔力に満ちた朗らかな乙女。初々しくも弾ける笑顔は美しく、わたしの奥底が締め付けられるように痛みが走る……眩しく、麗しく、それでいて、懐かしくて、寂しくて、苦しい。
この痛みは知っている。知っているけれど、思い出せない。
召喚事故のせいかしら。真名に関する記憶は、蓋を閉じて鍵をかけてしまったかのように何も現れてはくれなかった。けれど、アイナに対する不快感はなく。むしろ、生命力に溢れた若葉のような少女たち―――他の2人も含めた3人の少女たちは微笑ましくも愛おしかった。
この時は、そうだった。
あれから夜を越えて、わたしの中の鍵は壊れ始めてしまった……シンゴの血を摂取したあの夜から、鍵は少しずつ壊れて、固く閉じられていた蓋が微かに開いてしまった。
知っている味。
懐かしい味。
あの味は、
それでも、わたしは知らないフリをした。
蓋をして閉じ込めていたものを直視したくなかったから。
シンゴに「わたし」を知られるのが怖かったから。
歌うことしかできない空っぽで伽藍堂で虚ろなわたしの“素材”は、英霊などという崇高な存在ではない。
わたしは、歌うことしかできない。わたしは、歌うように嘆き叫ぶことしかできない。
それでも……それでもわたしは、シンゴのサーヴァントでいたかった。
虚ろなわたしがトゥーランドット姫にも、メデアにも、ルチアにもなれるなら……わたしはシンゴが名付けてくれた「アリア」のままでいたかった。
平べったいメンダコのポーチが、中身が詰め込まれてふくふく太っていくように、「アリア」にはたくさんのものを与えられて空っぽな中身は満たされていった。
だけど、だけど……「わたし」の衝動を抑えることはできなかった。
地上の暖かい光が届かない、地底のように暗く冷たい地下金庫にアイナはいた。「わたし」は、どうしようもなく彼女に手を伸ばして外へ連れ出したかった。
藍愛を背負った心護を送り出したアリアは、キャスターが差し向けた敵エネミーを片っ端から処分していた。
彼らを絶対に商店街から脱出させるため、視界に入る者は全て『
しかし、アリアも『復讐の魔女』も長くはない。
マスターと距離ができたことによる魔力不足もそうだが、キャスターの毒は未だアリアの
不思議と痛みはなかった。否、違う……脆い
「メデア、メデア……あなたはどうだった? 短剣を手にした自分を、復讐の魔女として完遂してしまった自分を、子供たちは見られたくはなかった……? わたしは、今の自分をシンゴに見られたくはない。
身体の線を覆い隠すドレスと表情を隠すヴェールのお陰で見え難くはなっているが、アリアの喉の穴は歪な姿で塞がり始めていた。今、『復讐の魔女』の役を脱いでしまったら、歪な姿がはっきりと目視できてしまうだろう……その姿を、心護に見られたくなかった。
心護は絶対に戻ってくると言ってくれた。藍愛を安全な場所に連れて行ったら、心護は絶対に戻ってくる。今の姿を心護には見られたくないけれど、敵エネミーに囲まれたままの今の状況で戻って来た心護に危険が及ぶ方が嫌だった。
歌うことしかできないサーヴァントの喉が潰された現状で、空っぽの中に招き入れた『復讐の魔女』のお陰でこうして敵エネミーを屠ることができているが、そろそろ限界が来た。儀式によって大幅な強化がされているキャスターの使い魔は手強く、中には黒炎が効かない個体もいたのだ……竜騎兵がエメラルドグリーンの鉱物で出来たマスケット銃を構えて、アリアを狙って鉱物の弾丸を連射する。黒炎で壁を張っても、魔力が枯渇した状態では壁は薄く、弾丸は黒炎の壁を貫いてアリアに被弾した。
左肩に、右脇腹に、黒炎を操る細身の短剣を握る右腕に。背後にあった地銀の支店跡地の壁にアリアの血飛沫が飛んだ。
アリアが『復讐の魔女』を演じられなくなったら、彼女に残されるのは歌だけ……歌うことだけならできる。しかし、今の自分の歌は完全に別物になっている確信があった。
それでも、今は歌うしかできない。黒炎の壁を突き抜けて迫ってくる竜騎兵を目にして、アリアは唇を開いた。歌詞は乗せない、旋律も響かせない。ただ、喉を振るわせて空気を震えさせて、聞こえない音を敵エネミーに向けて歌ったのだ。
人間の耳では聞き取れない高周波の超音波。バーサーカーとの戦いで魅せた高音の完全なる上位互換。ヒトの声帯では出すことは到底適わぬ、不可視にて不可聴の音波だった。
それを近距離で浴びせられた竜騎兵たちは、一瞬でヒビだらけになる。鉱物で出来た身体のあちこちに細かいヒビが走り、脆くなった身体からはボロボロと欠片が毀れてゆっくりと崩れていった。キャスターの魔力を受信する器がなければ、もう動けない……けれども、毀れる器ではなかった食虫植物や毒花は音波では対処し切れなかった。
毒を吐く花に、牙が生え揃った口から消化液を垂らすどう見ても危険な植物の群れの中に、スイセンの花に似たものがあった。そう言えば、藍愛や他の人々が監禁されていた地銀の支店跡地の付近にもスイセンが咲いていた……。
「……ああ。とても、忌々しい」
溜め込んでいたモノを吐き出すようなアリアの呟きは、商店街のアーケードをぶち壊す音にかき消されて誰にも届くことはなかった。
結果として、アリアは心護を脱出させることに成功していた。藍愛を涼乃に託してから心護は再び商店街へ突入すると、一目散にアリアと別れた地銀の支店跡地を目指したが……つい数分前、10分にも満たない離脱の間に、様子はガラリと変わってしまっていたのである。
アウターを着るのも億劫で腰に巻きながら駆けた心護は急ブレーキで脚を止めた。奴らがいる……心護の目の前には、あの魚の怪異たちが大量に蔓延っている。どうやらアーケードを突き破って降ってきたようだ。路上に瓦礫が落ちてきて、オレンジと緑の二色の街灯の残骸が転がっている。
また湧いて出たのか、こんな忙しい時に……と、悪態の一つでも許されそうな乱入であったが、どうにも様子はおかしかった。魚の異形たちは心護を攻撃してくることはなかった。それどころか、彼の障害になりそうな敵エネミーたちを片っ端から踏みつけ、毒にやられて相打ちになりながらも噛み千切って屠っているのだ。
そして、魚の異形たちはアリアを攻撃することもなかった。ざっと20匹はいそうな魚の異形たちが敵エネミーを食い止めて、アリアの周囲を安全地帯にしているようにも見えたのだ。
無理をしたのか『復讐の魔女』はとっくに退場してしまい、薔薇色のドレスを着た歌姫が己の血痕で汚れていた。
「アリア! 大丈夫か、藍愛は無事だ。涼乃さんに任せて来た。怪我もないって!」
「……良かったぁ。でも……」
「でも?」
「……ごめんなさい。
原因は、アリアだった。自分のせいで魚の異形たちが深潮に出没していたのだと、アリアは自覚したのだ。
心護が思い出したのは昨日の出来事だ。『玉乃湯』の駐車場で目撃したカマドウマが、魚の異形に似た姿に変形して絶命した。あれがアリアのせいだとすると、
俯きながら「ごめんなさい」を繰り返すアリアに、心護は自身のアウターを被せた。きっと、首元のソレを見られたくないから、顔を上げないのだ。
「今じゃなくていい。後でゆっくり、時間をかけて話そう。敵は退治されて、誘拐された人たちが監禁されている地銀の建物は無事だ。今はこれでいい」
「シンゴ……」
「藍愛を助けるって目的を果たしたから、俺たちはこのままキャスター討伐からは降りてもいいけど……杏華さんに恩を返さないのも不義理だ」
「そう、ね。彼女にアイナの居場所を教えてもらったから。それに……きっと、あちらにも
「こいつらがアリアのせいだっていうなら、俺たちがどうにかするぞ。アリアなら、なんとかできるのか?」
多分……そう言いかけて、アリアは言葉を飲み込んだ。
アサシンのサーヴァントでいたいなら、心護のサーヴァントの「アリア」でいたいなら、そんな曖昧で弱気な言葉を吐いては駄目だと脳内にリフレインする。
心護が必要としてくれるなら、わたしはまだ「アリア」でいられる。
悲観するのも、絶望するのも、安堵するのも後でいい。後でゆっくり時間をかけると心護は言ってくれた。後で、全部、「わたし」の真名も含めての全部を心護と話そう。
だから、今は―――
「……できる。ううん、やる」
「行こう。このまま降りちゃ駄目だ」
今は、まだ
心護に手を引かれてアリアは立ち上がる。彼女の喉には、
***
キャスターの真名は杏華によって看破された。
真名を知られることはサーヴァントの弱体化に繋がる。だが、杏華の推理を肯定したキャスターは狼狽えもせず、されど真名を看破した杏華を始末しようともせず、真名を看破されて嬉しいと言わんばかりに魔女としての真の姿を現したのだ。
緑のマーメイドラインドレスによく映える赤い天鵞絨のショールには金糸で派手な刺繍が施されている。かつての彼女は、この衣装を身に纏って自身を演出することにより、神秘を纏った占い師として活動していた……魔女を名乗り、霊薬を売買して黒ミサの儀式を行った魔術使い―――ラ・ヴォワザン。
17世紀のパリを騒がせた毒殺事件の中心にいた魔女であり、犯罪者である。
「ラ・ヴォワザン……ああ、彼女か。時計塔にも気づかれずに各種薬効害毒の霊薬を流通させた魔術使い。なるほど、時計塔も警察も欺いた隠蔽工作がスキルで昇華されたのかな。それで、予兆を把握できなかったのか」
「恥ずかしながら、近代の魔術師の知見には乏しく……彼女は、反英霊とみてよろしいでしょうか。マスター」
「ああ、間違いない。彼女はフランスを騒がせ多くの毒殺事件に凶器を提供した反英霊だ。そして、魔女と名乗ることだけはある……アーチャー、攻撃を継続してくれ。彼女は火炙りで処刑された。
アルジュンの判断は正しかった。ラ・ヴォワザンは魔女として火刑で処された。故に、サーヴァントである彼女は当然、自身を焼き尽くす炎が弱点だ。
死因はサーヴァントにとって弱点と直結する。どんなに強力なサーヴァントも一度は死んだ存在だ。つまり、死んだ事実には抗うことはできず、サーヴァントとしての物語に従って死因に身を委ねるしかないのだ。
そして、ラ・ヴォワザンを火刑に導いた物語が再現されようとしている。儀式の最中に抜け出した裏切りが出た。1人の裏切り者が警察にラ・ヴォワザンを密告したことによって、芋蔓式に彼女の悪事は太陽の下に晒されることとなる。
「私の真名を言い当ててくれてありがとう。神話に記された高名な魔女になった心地よ。悪くないわ」
「お前の場合は犯罪者として有名なだけだろ。世界の凶悪犯リストとか、そういうのに載る魔女だ。でも、黒ミサ……いや、そんな大層なものじゃないか。この儀式で強化されたキャスターは、正しく魔女だぞ。かつての毒薬流通ルートだってそうだ。そう簡単に崩せるものじゃない」
「……どうでしょうね。
「たった1人を、連れ出せるものならやってみろ!」
ラ・ヴォワザンを象徴する宝具、『
彼女が顧客の求めに応じて執り仕切った黒ミサの証言が昇華された、魔女が支配する絶対的な儀式を開宴する。「
この儀式はそう簡単に傾きやしない。呪いが効かないというバグみたいな存在がいても、理解が追いつかない能力を持つアサシンがいても、アドバンテージは圧倒的に自分たちにある。
だったのに、杏華の言った
ここで魚の異形がアーケードの穴から侵入してくるのは、あまりにもワンパターンで、飽き始めた展開だった。
アサシン陣営、どっちも聖杯戦争におけるバグ説。