田舎の漁師町の夜は酷く静かだ。海が奏でる波音と、遠くから木霊する車のエンジン音しか聞こえないような
心護の自宅からそう遠くはない防波堤沿いの道路。夜空は薄い雲で覆われていて、細い月の光が遮られてしまっている。等間隔に建つ街灯も、経年劣化のためかぼんやりとした光しか灯さない。先ほど通り過ぎた街灯は、電球が切れてしまっていた。
自宅を出てから、2人の間に会話はなかった。沈黙が続く2人とは真逆に、深潮市全体とテレビの中では大騒ぎになっている。つい2時間ほど前に完遂された、『深潮商店街』におけるキャスター討伐戦が騒ぎの元凶だ。
聖杯戦争の運営側の偽装工作により、『深潮商店街』を中心とした一帯において大規模なガス漏れが発生し、更には商店街と震源地とした地震によって水道管の破裂を始めとした崩壊が起きたと報道されていた。奇跡的に死者も重傷者もゼロである。県内のローカルニュースのみならず、全国ニュースでも報道され騒ぎは加速した。
林市の総合病院に搬送された藍愛を始めとした人々も、徐々に目を覚ましているが、彼らが真実を知ることは恐らくないだろう。両親と姉たちに囲まれたベッドで目を覚ました藍愛も、商店街を通り抜けて近道をしようとしたら、ガスを吸って倒れたという記憶になっているはずだった。
「……名前」
「名前?」
「シンゴが名前を訊ねてくれた時、わたしは自分の真名が分からなかった。それは本当。
アリアが意を決したように小さな声で囁き始めた。波の音にかき消されそうなほど小さな声は、隣を歩く心護にしか聞こえていなかった。
アリアが召喚された当初、心護に名前を訊ねられたが、彼女は自身の真名が分からなかった。否、自分がどんな存在なのかを理解していなかった。ただ、聖杯から与えられた知識と、自分は「アサシンのサーヴァントである」という大前提しか認識していなかったのだ
だが……本当は、彼女には
はっきりと理解してしまった。口にした心護の血がトリガーとなり、本能が刺激されるが如く己の正体と在り方が全身にインストールされてしまったのだ。
「わたしは……そもそも、
「じゃあ、アリアは何だったんだ?」
「英霊でも反英霊でもない……ううん、そんな崇高な存在にはなれない、役目を終えたらただ朽ちて消えていくだけの、物語の影」
英霊に至れなかった存在。本来ならばサーヴァントとして成立することができない下級霊の如き存在。それは、とある世界線の言葉を借りれば『幻霊』と呼ぶことができる。
そもそも、サーヴァントこと『
英霊の名の通り、星の記憶に刻まれるほどの偉業を成し、後世の人々から信仰された者たちだ。そこに招かれるのはほんの一握りだけ。それは反英霊も同じで、信仰を得るほどの悪を成した者たちである。
簡単に言えば、サーヴァントを召喚するためには『英霊の座』にアクセスしなければならないのだ。しかし……接続不良や何らかの事故により、サーヴァントの召喚術式を起動する際に『英霊の座』のアクセスできなかったら?
アクセスできなかった場合は、サーヴァントの召喚は失敗ということだ。
英霊に至れない幻霊が召喚され、霊基数値が足りずに現界のための肉体を保つことができない。ただそこにいるだけの低級霊のようなモノが召喚されてしまうだけだ。
マスターの頭数が足りないからと聖杯戦争に巻き込まれた心護においては、準備も何もせずに突発的な事故としてサーヴァントの召喚が行われてしまった。それ故に、術式は酷く不安定で『英霊の座』への接続も悪く、アサシンのサーヴァントの召喚は失敗に終わるはずだった。
術式にバグでもあったのだろうか。本来ならばエラーになるはずの処理だったのに、聖杯は幻霊を無理矢理サーヴァントに仕立てて召喚したのだ。
その結果、アリアはココにいる。
「聖杯は、殻を用意した。かろうじて英霊の座に招かれるかもしれない彼女の殻に、
英霊に至ることはできない物語の影。
英雄たちに退治されて朽ちていく存在。
その真名は、個としてではなく群生する化け物の名―――
「わたしの真名は、セイレーン―――海に棲む怪鳥の概念が歌姫の殻に詰め込まれて出力された、非公式なサーヴァント。わたし……わたし、人間を食べる化け物だったの」
心護とアリアの間を潮風が通り過ぎた。
冷たい湿った風がアリアが着ている心護のアウターをはためかせると、暗い空の下でも彼女の首元がしっかり見えた。毒で爛れた穴を塞いでいるのは鈍い色をした羽毛だ……その色は、天候の悪い海の色によく似ている。
セイレーン―――その名を知る者も多いだろう。ギリシャ神話に語られる女性の顔を持つ鳥の怪物だ。
海辺に棲むセイレーンたちは美しい歌声で船乗りたちを誘い込み、血肉を貪り食って白骨の山を築いたと記されている。一度聴いてしまったら、歌の虜になってしまうほど美しく魅力的な歌声。発狂したかの如くセイレーンの歌を求め、セイレーンの餌となってもその死に顔は歌に酔い痴れた恍惚としたものだった。
セイレーンの歌には人間を感動させ、魅了して、発狂させる魔力がある。
それは、感動によって心を殺されたともいう状況だろう。アリアの歌とまるきり同じなのだ。
だが、神話の怪物とは、多くは英雄たちに退治されて乗り越えられる障害でしかない。アルゴノーツやオデュッセウスのような英雄たちは機転を利かせてセイレーンを出し抜いている。知る者も多い化け物ではあるが、ただの物語の敵エネミーの群れでしかないセイレーンは幻霊にしかなれない存在だった。
それを無理矢理にサーヴァントとして召喚したのが、「アリア」と名付けられたアサシンだったのだ。
自身の真名を打ち明けたアリアの表情は、今にも泣き出しそうな目をしていた。しかと心護と視線を合わせているが、海色の瞳が揺れている……マスターに拒絶されるかもしれないという不安と、己の本性が化け物だったという真実への恐怖が入り混じっている、哀しい目をしていた。
「でも……ただの化け物じゃないだろう。セイレーンは、元は女神だったはずだ」
心護は小さく口を開いた。アリアの瞳が驚きの感情で塗り替えられる。
心護の母が遺した本棚にギリシャ神話の漫画があった。幼い頃の心護が読んだその漫画にセイレーンは登場していたが、アルゴノールとオデュッセウスの冒険譚以外の物語にも、セイレーンの名前が登場していたのを覚えていたのだ。
「知っているの?」
「セイレーンたちは、元はペルセポネに仕える女神たちだった。けれど、ペルセポネがハデスに誘拐されるのを止められなかった罰として、怒ったペルセポネの母親に化け物に変えられたって。俺が読んだ神話にはそう書かれていた」
「そう伝わっている神話もあるのね。半分正解で、半分違う。確かに、わたしたちはペルセポネ様―――コレー様に仕えるニュンペーだったわ。でも、わたしたちに呪いをかけたのはデメテル様じゃあない」
セイレーンたちは、元は河の神と
彼女たちは、豊穣の女神デメテルの娘コレーに仕えていた。ある日、美しいスイセンに近づいたコレーが地下の冥界へと連れ去られてしまった。全ては、コレーに恋をした冥界の神ハデスの犯行だった。
彼女たちは、コレーの側にいたのにハデスの犯行を気づくことができなかった。コレーの悲鳴を聞いただけで、犯人の姿すら目撃していなかったのだ。
彼女たちは、何もできなかった。ただ、コレーがいなくなったことを哀しむことしかできなかったのだ。
いなくなったコレーを探し求めて彷徨い歩くデメテルの痛々しい姿を目にして心を痛めた。
コレーを連れ去った犯人がハデスだと分かると、冥界に連れ去られたコレーはもう二度と地上に戻ってこられないと嘆き泣いた。
彼女たちは、哀しんで泣くことしかしなかった。
それが、愛の女神の逆鱗に触れた。
何故、哀しんでいるのです?
コレー様が、姿を消してしまわれたのです。
何故、哀しみを理由に、恋を放棄したのですか。
哀しみに染まった、陽光のない凍てつく世界で恋などできません。
涙が枯れることがありません。
後悔は絶えず湧き溢れてきます。
デメテル様がコレー様の名を呼ぶ声を耳にする度に、心は打ちひしがれてこの身を
ならば、これからは海で生きなさい。
哀しみを理由に恋を放棄した。
恋をして、愛を育み、子を産み、次の世代へと生命を繋ぐことを放棄したあなたたちは、ただのケダモノです。
もう二度と、恋を手に入れることはできない。
もう二度と、愛を理解することはできない。
彼女たちは、愛の女神アフロディーテによって神性を剥奪された。女神の呪いにより、怪鳥へと堕ちた。
嘆き哀しむ声は怪鳥の鳴き声となり、女神の歌声は獲物を誘い出して発狂させる化け物の歌声となった。
恋を放棄して、次の世代へと生命を繋ぐことを放棄してケダモノとなった彼女たちは、人間と交わることによって次の世代へと生命を繋いでしまった。
怪鳥セイレーンの血も化け物としての衝動も、神の時代が過ぎ去った後も残り続けた。その身から羽根がなくなっても化け物の本性に呑まれた者たちは海に棲み、歌で餌を誘い出しては貪った。その姿は人魚にも見えただろう。時代が下るに連れてセイレーンの姿が鳥から人魚に変移したのは、そんな目撃情報があったのが原因かもしれない。
殻となった歌姫こと、アリアの外見として生成された女性もセイレーンの末裔だった。故に、ちょうどいい殻となってしまったのだ。
女神から零落した人食いの怪鳥―――それが、アリアの真実。
感動で心を殺し、餌として貪り殺すが故に、セイレーンはアサシンのサーヴァントとして召喚されたのだ。
「わたしたちは女神には戻れない。飽きるほど人間を食べた化け物だから……野木のマダムが選んでくれた服が似合う姿も本来の姿じゃない、トレースをしただけの殻。みんなが喜んでくれた歌声は、餌を狩るためのもの。聴き続けてしまったら、いつかはあの魚たちのようになってしまうかもしれない。シンゴの血だけじゃない、シンゴの肉を食べたくなってしまうかもしれない。だから……」
「俺は」
拒絶して。
化け物がまた皮膚に牙を立ててしまう前に、その令呪で自害するように命じて。
わたしが、まだ「アリア」でいるうちに。
シンゴの前から消えるなら、わたしは「アリア」のままで消えたい。
シンゴが名付けてくれて、深潮のみんなが呼んでくれた「アリア」というわたしが好きだから―――
アリアがその言葉を言ってしまう前に心護が遮った。
心護の言葉に呼応するように、空を覆っていた薄い雲が潮風に流れて細い月が顔を出す。仄かな月光が照らした心護の表情には嫌悪も恐怖もなく……その顔貌は、緊張しているような愛しい者を眺めるような、それでいて、どこか困ったように微笑んでいたのだ。
「俺は、今のアリアが良い。テレビから知らない曲が流れると画面に釘付けになって、電子レンジの中で回る皿をジーっと見つめて、メンダコのポーチを大切そうに撫でて、バイクの後ろに乗れば痛いぐらい力を入れて腕を回してきて、実は俺のことを抱きかかることができるし、カラオケの採点機能に文句を言う……今のアリアが良い。だから、アリアがセイレーンでも女神でも、そもそもサーヴァントでも関係ない。もし、アリアの願いが、「俺に拒絶してくれ」とかだったら、それは絶対に叶えないからな」
「……でも、わたしは」
「化け物だって、言いたいんだろう。もっと言う……俺は、化け物のアリアが良い」
心護はアリアを抱き寄せた。
ゆっくりと、繊細なガラス細工に触れるように、アリアを自身の胸の中に抱き寄せたのだ。
サーヴァントの力なら簡単に振りほどけて逃げ出せたのに、アリアが大人しく心護の胸に収まったのは、彼の心臓の音が早く激しく鳴っていたから……今、アリアが顔を見上げれば、心護の顔は夜の帳では隠せないほど真っ赤になっていたのをはっきりと確認できただろう。
「最近になって、自覚したんだけど。それに、アリアの姿が本当の姿じゃないって言っているのに、こんなことを言ったら嫌かもしれないけど……」
白銀の満月の下に現れた薔薇色の乙女。月の光を受けてキラキラと輝く、心護が夜空で見つけた一番星のような乙女はとても美しく、共に過ごしてみればとても愛らしかったのだ。
「一目惚れだ」
心護の胸の中で、アリアは一筋の涙を零した。それを皮切りにボロボロと雫が落ち続け、心護の背中に腕を回して服をギュっと掴んだ。
アリアは聖杯にかける願いをまだ心護に伝えていなかった。彼女の中に漠然と存在していた願いだが……それは、セイレーンの誰かの願いなのか?
それとも詰め込まれた情報の残滓なのか?
はたまた殻となった歌姫の願いだったのか?
それでも、今ならはっきりと言える……「アリア」の願いも、彼女たちが抱いたそれと同じだと。
恋をしたい。愛されたい。
化け物の血脈に根付いた女神の呪いは人間と交わっても消えることはなく、非公式なサーヴァントとなっても色濃く残ってしまっている。一度手放したものを手に入れたいと願う恥知らずなケダモノを呪いから解放するには、女神の呪いを消し去ることは、聖杯に願わなければならない奇跡なのだ。
だから、聖杯を手にしたい。願いを叶えたい。
サーヴァント、アサシン。真名はセイレーン。
彼女が聖杯にかけるのは……このまま、心護と共に恋をして、愛したい―――
そんな、乙女のような願いだった。
アリア(アサシン)のスキル:
○愛女神の呪いA
女神によってその血脈にかけられた呪い。
古の女神は、嘆き哀しむがあまり恋をすることを放棄し怪鳥へと堕ちた。一度手放したものを再び手にすることができない呪い。即ち、恋を手に入れることができない呪い。
恋をすることができず、例え真実の恋に巡り合っても成就することができない女神の呪い。
解除することは不可能だが、別な呪いで上書きすることは可能と見込まれる。
殻として生成された歌姫は先祖返りとしてセイレーンの血が濃く、呪いも濃く、どんなに望んでも恋を手に入れることはできなかった。愛されることもなかった。
恋をして、自身を削って尽くしても、愛する人は歌姫を使い潰してから離れていった。呪いの延長で家族からも愛されることはなく、幼い頃から食い潰されて消費されることを愛だと思い込まされた。
どんなに舞台の上で輝き、歓声と称賛を浴びても、孤独な歌姫は恋を手に入れることができず、真実の愛を理解することができず、最期は1人で灰になり怪鳥たちと同じように海へと還っていった。
ムードと照れ隠しのためになんかずっとくらいとこで抱き合っている。
真名を臭わせたタイミングでデメテル様の実装が発表されて椅子から滑り落ちそうなほど動揺し、『春の終わりに君を待つ』の開催中は公式で登場してしまうんじゃないかと戦戦慄慄していました。
ちなみに私はハデペル推しです。