森の奥で、ヘルガ・ハッフルパフは立ち止まった。
霧が晴れたように、ぽっかりと世界の色が変わる。
そこに──
灰青色の毛並みをまとい、月光のように淡く輝く瞳をした、不思議な猫が浮かんでいた。
ゆらり、と輪郭が揺れ、
まるで煙のように半透明になったかと思えば、次の瞬間にははっきりと形を結ぶ。
ヘルガは息をのんだ。
「・・あなた、とても珍しい魔法生物なのね。文献を探してもあなたのような魔法生物は載っていなかったわ」
猫は瞼ひとつ動かさず、ヘルガを観察するように見つめ返す。
警戒。
不信。
興味。
全部が混ざったような目だった。
ヘルガはゆっくり膝をつき、手を伸ばすでもなく、ただ暖かい声で問いかける。
「名前を、聞いてもいい?」
猫は尾をゆらりと揺らした。
そして、ふっと笑うように目を細める。
「チェシャ猫」
「それは、種族の名前でしょう?」
ヘルガは優しく首を傾げる。
「あなた自身の名前は、なんていうの?」
猫の身体が一瞬だけ揺らぎ、輪郭が不安定になる。
名前。
(・・・ない。思い出せない。思い出したくないのかもしれない。それか私には名前をつけてくれる人なんていなかったのかもしれない。)
胸の奥が、痛むほど静かだった。
だがその痛みをヘルガに悟られたくなくて、猫は無言で視線をそらした。
ヘルガは急かさない。
ただ穏やかな声で言う。
「言いたくなければ、言わなくてもいいのよ。できたらいつか教えてね。あなたが心地よくいられれば、それでいいわ」
その優しさに、猫の心がわずかに揺れる。
ヘルガはそっと微笑み、手のひらを地面に置いた。
「でもね・・もしあなたが帰る場所を探しているなら、少しのあいだ、わたしのところにくる?」
猫はヘルガの表情をじっと見つめた。
その顔には、
「所有したい」
「利用したい」
という気配はまったくなく、
ただ──
迷子を見つけた人間の、真っ直ぐな優しさだけがあった。
猫は無言で、ふわりとヘルガの隣に降り立つ。
(・・・初対面、のはず、なのに)
その一歩は
長い放浪の終わりであり
帰る場所の始まりだった。
ヘルガは嬉しそうに微笑む。
「ようこそ、チェシャ猫。
わたしと一緒に帰りましょう」
猫はあえて何も答えなかった。
名乗れない名前より
まだ落とせない記憶より
今はただ──ヘルガの歩幅に合わせて歩いた。
そして静かに思う。
(・・この人が、俺を見てくれるなら。しばらくは・・・ここにいても、いいかもしれない)
その日から、ヘルガとチェシャ猫の共同生活は始まった。