それからの日々、チェシャ猫はいつの間にかヘルガの家に居ついた。
ただ「いる」だけではなく、まるで彼自身の生活がそこで回りはじめたかのように、日常のあちこちへ当然のように顔を出す。
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朝。
ヘルガが朝露の残る薬草園に足を踏み入れると、いつものように背後から気配が降ってきた。
「っ……! もう……驚かせないでって言ってるのに」
「驚いたほうが悪い」
辛辣な返事とは裏腹に、尻尾はやわらかくヘルガの足首に触れ、すぐに消える。
そのささやかな仕草の意味を、ヘルガはまだ知らなかった。
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昼。
台所でスープを煮込んでいると、気づけば果物が宙に浮かんで自動的に切り刻まれている。
「きゃっ! あぶなっ! もう、チェシャ猫! 料理中なんだから手を出さないでって言ったでしょ!」
「手は使ってない。魔法だ」
「そういうことじゃないの!」
「あと、これ入れた方が美味しい」
「そういうことでもないの!」
呆れているのに、その声色はどこか甘い。
自分でも理由が分からないまま、ヘルガは彼の“居場所を許してしまっていた”。
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夜。
調合に失敗して肩を落としていると、チェシャ猫は何も言わずに隣へ座る。
言葉はないが、その沈黙は妙に落ち着く。
夜の静けさが、彼の気配をより柔らかくした。
(あなた、本当に……不思議な子ね)
そんな思いが胸によぎった。
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だが、彼が懐くのはヘルガだけだった。
ある日の午後。
ヘルガの古い友人が訪ねてきて、「その魔法生物を見てみたい」と言った瞬間──
チェシャ猫は完全に気配を断ち、跡形もなく消えた。
「まあ……逃げちゃったわ」
「ごめんなさい。警戒しているだけなの」
「気にしないで、珍しい魔法生物なんだもの。きっととても警戒心は強いんだろうなとは思ってたから」
そう言いながら、ヘルガは胸の奥に小さな疑問を抱いた。
(あれほど警戒心が強いのに……どうして、私のそばにいてくれるんだろう?)
それはヘルガの中で生まれた純粋な疑問だった。
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その夜、ヘルガが暖炉の前で毛布を畳んでいると、チェシャ猫がふわりと降りてきた。
「お客さんが来て無理させてごめんね。……嫌だったわよね」
黙って近づいてくる小さな影。
ヘルガはおそるおそる手を伸ばした。
(触れても……いい?)
頬へ触れた瞬間、チェシャ猫は目を細めた。
「……今日は、逃げないのね?」
「気が向いただけだ」
そっぽを向いて答えるくせに、尻尾の先はそっとヘルガの手首へ触れる。
それは、彼なりの信頼の仕方だった。
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数日後、森で薬草を採っていたときのこと。
巨大なイノシシ型の魔獣が突進してきた。
「っ……!」
杖を構える暇もなかったが、その瞬間──
チェシャ猫が影から飛び出し、ヘルガの前に立ちはだかった。
ふわり、と金色の薄膜のような魔力が彼の周囲を包む。
魔獣の突進はそれに触れた途端、柔らかな壁にぶつかったように威力を失い、静かに弾き返された。
魔獣は恐怖に震え、逃げていった。
「今の……護りの魔法……?」
「試してみただけだ」
そっけない返事をしながらも、尻尾はヘルガの足にふにゃりと巻きついている。
それが、この魔法生物なりの「信頼」の印なのだと、ヘルガははっきり理解した。
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「どうして、あなたって他の人が来たらすぐに消えるのに私の側にはいてくれるの?」
「なんとなく見えるんだ。」
「?」
「その人の感情のようなものが、その人の周りに見える」
「大抵はいろんなものがごちゃ混ぜになっているものだが、君の感情、心はとても綺麗だ」
「心・・・」
誰にも懐かないはずの魔法生物が、自分で選び、自分の意思で寄り添っている。
その事実が、ヘルガの胸に小さな決意の種を落とす。
(もし、この子みたいに居場所のない子たちが
いつか現れたなら……その子たちが安心できる場所を作れたらいいな)
その思いは、やがて“ハッフルパフ寮”という形となって育っていく。
そんな思いが胸に浮かんだときだった。
ヘルガがふとチェシャ猫を見ると、
彼は暖炉の前で尻尾を揺らしながら、じっと彼女を見返していた。
その金色の瞳には、どこか──
寂しさとも、期待ともつかない光が宿っている。
「・・・どうしたの?」
問いかけても、猫は答えない。
ただ、ほんのわずかに口元が動いた。
まるで言いかけて、やめたように。
(・・・居場所のない子供みたい)
『私には名前がない』
出会った日にそう言っていた言葉が、ふいに頭をよぎる。
(名前がないって……もしかしたら、私が思う以上に寂しいことなのかもしれない)
この猫には、いつか呼ばれるべき“名前”がある。
そして──
できればその名前を、自分が与えられる存在でありたい。
ヘルガは、そっとそう願った。
暖炉のオレンジ色の炎が、二人の影をゆるく、優しく重ねていた。