数週間が過ぎ、チェシャ猫とヘルガの生活はゆっくりと形を成し始めていた。
けれど・・・ひとつだけ問題があった。
チェシャ猫は家のどこにでも現れた。
台所、薬草棚の上、暖炉の中、屋根裏・・・
気に入った場所に気まぐれで現れ、気に入らなければふっと消える。
その気ままさをヘルガは咎めない。
むしろ、毎回の登場に思わず微笑んでしまうほどだった。
だが、ある雨の夜、ヘルガはふと気付く。
「・・・あなた、寝る場所がないのね」
暖炉の横で丸くなったチェシャ猫は、柔らかい毛をしっとりと濡らしていた。
消えてどこかで休むこともできるはずなのに、なぜか今日は消えなかった。
「雨、嫌いなの?」
「・・・気に食わないだけだ」
そっけない言葉なのに、耳はしゅんと下がっている。
ヘルガはそっとしゃがみ込み、タオルで濡れた毛並みを優しく拭いた。
そのあたたかさに触れながら、彼女の胸に静かな思いが宿る。
(この子に・・・“帰る場所”をあげたい)
翌日、ヘルガは作業台に小さな革のカバンを置いた。
古びてはいるが、どこか手に馴染む質感のカバンだ。
その内側に複雑な魔法陣を刻みながら、ヘルガは呟く。
「この中を・・・あなたの巣にできるようにしたいの」
チェシャ猫はカバンの上に座りこみ、つまらなそうに言う。
「・・・狭い」
「中は狭くないわ」
ヘルガが笑い、最後の呪文を唱えると、
ぱぁんっと柔らかな光が弾け、カバンの口がゆっくりと開いた。
その向こうには、広がる森があった。
荒々しい森ではない。
柔らかな芝生、静かな湖、光を落とす花々・・・
薬草園のような香りが漂い、小さな魔法生物が隠れられる巣穴もある。
そして正面には、ふわふわと浮かぶ大きなクッション。
「・・・このクッション、勝手に生えたな?」
ヘルガは吹き出しそうになりながら首をかしげた。
「あなたの魔力に反応したのかもしれないわね」
チェシャ猫は無言で世界を眺め、
やがて静かに一歩、また一歩と足を踏み入れた。
芝生に肉球が沈む。柔らかくて、暖かくて・・・安全だった。
気付けば猫はクッションの上で転がっていた。
「・・・にゃ〜、ん、悪くない」
「んふふ。ありがとう」
ぷい、とそっぽを向いてみせるが、
尻尾は穏やかに揺れている。
自然な流れの改稿部分
数日後の朝、ヘルガは巣の入口に置いた餌皿を見て首をかしげた。
「・・・あれ?また空っぽ。昨日もたっぷり入れたのに・・・今日1日分を朝に食べ切るなんて・・あなた、そんなに大食いだったかしら?」
チェシャ猫はぷいと目をそらす。
「知らない。俺は普通だ」
「普通でこれって・・・ちょっと食べすぎじゃない?」
「俺じゃない」
その言い方があまりにもそっけなくて、ヘルガは眉をひそめた。
「じゃあ誰が・・・」
不思議に思いながら巣の中を覗いた瞬間──
「・・・あら」
そこには、ヘルガが知識でしか見たことのないような珍しい魔法生物たちが、
ふわふわの芝生の上で好き勝手にくつろいでいた。
中には絶滅危惧種すら混ざっている。
「あなた・・・これ、どういうこと?」
チェシャ猫はわずかにしっぽを揺らしながら言う。
「勝手に入ってきただけだ」
「・・・あなたが連れてきたんじゃなくて?」
「知らない。ついてきただけだ」
(これ絶対に“俺が守ってやったら勝手に住みついた”って流れよね・・・)
とは思いつつ、魔法生物たちが安心したように眠っている姿を見ると、ヘルガは何も言えなくなってしまった。
むしろ胸がほっこりしていく。
(この子・・・本当に、優しい子なんだわ)
その夜、ヘルガは暖炉の前でチェシャ猫の頭を撫でながらつぶやく。
「もし・・・あなたやあなたが助けた子達みたいに居場所をなくした子がいつかもっとたくさん増えたら・・・」
チェシャ猫の耳がぴくりと揺れる。
「私、その子たちが安心できる場所を作りたいの。あなたが巣を好きでいてくれるみたいに・・・ほかの子にも“帰る場所”をあげたい」
チェシャ猫はしばらく考え、そっけなく言った。
「・・・なら、大きな家をつくればいい」
淡々とした声なのに、不思議と背中を押された気がした。
ヘルガは小さく笑う。
(大きな家・・・)
やがて彼女が創る「寮」の原型は、この瞬間に生まれたのだ。
その夜、巣の草原でチェシャ猫は丸くなって眠っていた。
薬草の香りに包まれた大きな魔法のクッションの上、まるで初めて安心して眠れる場所を得た子どものように。
目を閉じる直前、猫は小さくつぶやいた。
「・・・悪くない」
(いや、悪くないどころじゃない・・・心地よすぎる)
そんな照れ隠しめいた感情とともに、
チェシャ猫は静かに眠りについた。
巣には、安らかな呼吸がひとつ続いていた。