ヘルガの村での評判は、森の周辺にもよく響いていた。
若く、才能があり、やさしく、困っている者を放っておけない──
そんな彼女を慕う人は多かった。
けれど、その光を疎ましく思う者もいる。
その男は、ヘルガのやさしさが自分だけに向けられたものだと勝手に思い込み、求婚めいた言葉まで口にして断られた。それを恨みに思い、密かに悪評を流していた。
「ヘルガ・ハッフルパフは危険な魔法を使う女だ」
「人の心を操る術を持っているらしい」
根も葉もない噂は、湿った土のようにじわりと広がっていく。
***
ある日、家に戻ってきたヘルガは珍しく顔色が悪かった。
「……村で、ちょっとね。あまり楽しい話じゃなかったの」
チェシャ猫はしばらく黙ってヘルガの顔を見ていた。彼女の笑顔が曇っている。
そのことが、胸の奥をざわつかせる。
胸の奥が、ざらりと逆立つ。
(ヘルガの顔だ。暗い……嫌だ)
どうすればいいのかわからない。
でも、なにか“変えたくて”魔法をひとつ見せた。
言葉にできない衝動に突き動かされ、
チェシャ猫はそっと尾を振った。
すると──
空気が水面のようにゆらりと揺れ、
家の中に“見たことのない庭”が一瞬だけ重なった。
淡い青と金の光の粒が散り、
それらは宙で小さな蝶の姿に変わっていく。
ふわり、ふわりと舞い、
一匹がそっとヘルガの肩に止まった途端──
蝶はとけるように光の粉へ変わり、
ヘルガの胸の奥にすっとしみ込んだ。
あたたかい。
心が、優しくなでられたようなあたたかさ。
「……っ、すごい……
今の……私、世界が一瞬だけ変わったみたいだった」
ヘルガの頬がふわりとほころぶ。
チェシャ猫は目を細めた。
「見た目を誤魔化しただけだ。
中身は変わってない」
「十分よ。慰めてくれたのね?」
「……気が向いただけだ」
そっけなく言いながらも、
尾の先はヘルガの足元をそっとくすぐるように揺れていた。
「……さっきよりはマシな顔になったな」
「慰めてくれたの……?」
ヘルガの胸はふっと温かくなる。
だがチェシャ猫の胸中は、逆に冷えていった。
夜の森の外れ、月に照らされた細い獣道を、ひとりの男がふらつくように歩いていた。
例の、噂の元凶だ。
「っはははは! ざまあみやがれ、ヘルガめ!」
男は肩を震わせながら笑った。
「俺を振るからだ! 村のやつらもチョロいよなぁ、あんな作り話を信じやがって……」
しかしその足元で──
にゅるり、と濃い影が生き物のように伸びた。
「……え?」
叫ぶ暇もなく、世界が裏返った。
空は渦を巻き、地面は飴細工のように歪み、
時計の針は逆さに垂れ、溶けながら空へ逆流していく。
森はねじれ、
青い薔薇が根ではなく空に向かって咲き、
ピンクと紫の縞模様が雲のように漂っていた。
「こ、これは……なんだ……!?」
木々の影から、黄色い目がふたつ浮かび上がる。
空気そのものがくすくすと笑うように揺れた。
『・・・歓迎しよう。不思議の国へ』
声は低く、どこか愉快げで、
けれど少しも笑っていなかった。
男は逃げた。
だが逃げる先すべてが同じ場所──終わらないお茶会へとつながっていた。
白ウサギの狂った時計が甲高く鳴り、
足元からはトランプ兵の影が伸び、
赤い女王の怒号が森の天井から反響する。
「で、出せ……! ここから出せぇえええっ!」
叫びは吸い込まれ、数分後、男は元いた森へと放り戻された。
村へ転がるように駆け戻り、息を切らしながら叫ぶ。
「見たんだ! 空に紫の猫が……っ!
トランプの兵隊が……逆さの森が……!」
だが周囲は眉ひとつ動かさない。
「また酒か?」
「つまんねえぞ、その話」
それどころか──
「つかよ、ヘルガが二股なんてするはずねーよなって急に思ったんだよ」
「うちの店とか手伝ってくれてんのに、そんな暇あるわけないし」
「明日、皆で謝りに行くつもりなんだ」
男は目を剥いた。
「な、なんで……さっきまで信じて……!」
「いや、急に頭がスッキリしてさ。お前の話、酒のせいだったんじゃねーの?」
ヘルガへの悪評は、男の醜態とともに一瞬で笑い飛ばされた。
──こうして、ヘルガの噂は消えた。
* * *
その夜。
ヘルガは暖炉の前で、揺れる火を見つめながらそっと息をついた。
「・・・もう大丈夫みたい。変な噂、誰も信じてなかったわ」
チェシャ猫は答えず、わずかに離れた場所で尻尾を揺らすだけだった。
「でも……どうして急に皆、思い直してくれたんだろう?」
彼女は知らない。
チェシャ猫が何をしたのかも。
そして彼も、語るつもりはなかった。
(・・・あいつの顔、二度と見たくない)
胸の奥がざわりと逆撫でされる。
それが“怒り”なのだと、まだ彼は知らない。
ただ、ヘルガを曇らせたものが許せない。
その衝動だけが、熱のように残っていた。
ヘルガは気づかないまま。
彼女のために、誰かがほんの少し牙をむいたことに。