7章 無茶をする人
ヘルガが村へ向かったのは、夏の始まりを告げる柔らかな風が吹いた日のことだった。
最近、人間達の間では魔法使いへの不信が高まり、ヘルガの治癒魔法を頼る魔法族の子どもたちが日に日に増えている。
「魔法族の子が、マグルに襲われて怪我をしたみたいなの。私、助けに行ってくるわ。あなたはここにいて……もし私を頼って来る人がいたら、治してあげて」
「……わかった」
行き先が危険であることは明らかだ。
それでもヘルガは、いつも通りの柔らかな笑みを浮かべた。
その笑顔が、チェシャ猫の胸に小さなざわつきを残す。
(また……無茶をする)
止める言葉は喉まで出たのに、結局何も言えなかった。
「すぐ戻るからね」
ヘルガは軽く手を振り、扉を閉じた。
……静寂が降りる。
チェシャ猫は家の中を何度も往復し、落ち着かず巣へ潜り込んでは飛び出し、また歩き回った。
太陽が傾き、空が赤に染まったころ――
家の扉が勢いよく開いた。
「ヘルガ……?」
倒れ込むようにして運び込まれたのは、血の匂いと、ぐったりとした小さな体。そして震える声。
「助けて! ヘルガさんが……守ってくれて……!」
チェシャ猫の視界が真っ白に染まった。
胸の奥がぎゅうっと縮み、呼吸が浅くなる。
ヘルガの腕と腹には深い切り傷。
滴り落ちる血の音が、耳の奥を刺す。
(やっぱり……無茶をしたんだ)
「……どいてくれ」
猫の声は低く、ひどく静かだった。
子どもが驚いて下がる。
チェシャ猫はヘルガの傷に顔を寄せ、静かに魔力を解き放つ。
水のような淡い光が彼女を包み込み、骨の奥から傷が閉じていく。
護りの魔法は、時に“命を繋ぐ魔法”にもなる。
血が止まり、呼吸が安定するのを確かめると、チェシャ猫はその場にへたりと座り込んだ。
「……ヘルガ。よかった」
薄く目を開いたヘルガは、弱々しく微笑む。
「あなた……助けてくれたのね……ありがとう」
その笑顔が胸に刺さり、同時に胸の奥に渦巻くのは――怒り。
その瞬間、外から怒声が響いた。
「ここだ! ここが魔女の家だ!」
「捕らえろ! 黒魔女め!」
チェシャ猫の耳がぴくりと動く。
(……こいつらが)
ヘルガは起き上がろうとする。
「まだ……戦えるわ。あの子を守らないと――」
「無茶をするな」
チェシャ猫の声が荒れた。
ヘルガは驚いたように目を丸くする。
彼が声を荒げるなんて、今までなかったからだ。
チェシャ猫は深く息を吐く。
「……逃げるぞ。今は」
ヘルガも我に返り、小さく頷いた。
チェシャ猫が尾をひと振りすると、家を包むように空気が揺れ、結界がぱん、と弾ける。
次の瞬間には――村から何マイルも離れた深い森の奥へ移動していた。
疲れたように壁にもたれたヘルガは、安堵の息をつく。
「……助かった。ありがとう、あなたがいなかったら……」
チェシャ猫は視線をそらす。
胸の奥ではまだ怒りが熱を上げたままだ。
魔女狩り。
人間の悪意。
そして傷を負ったヘルガ。
どれも許せなかった。
だが、ヘルガは静かに言う。
「ねぇ……チェシャ猫。このまま逃げるだけじゃ誰も救えないわ。
“魔女狩り”という文化そのものを……終わらせないと」
彼女はまだ人間を憎んではいない。
憎んでいるのは“憎しみが連鎖する仕組み”そのものだ。
チェシャ猫は彼女をじっと見つめる。
(また無茶を言う。でも……その無茶を止めたくないのは、なんでだ)
「……俺は手伝うとは言ってないぞ」
「ふふ。でもあなた、ついてくるでしょう?」
「…………」
ぷいっと顔を背ける。
耳の先が、ほんのり熱かった。
気づけば、傷の癒えたヘルガの手を、尾でそっと支えていた。
夜の森に月の光が落ちる。
二つの影は寄り添いながらゆっくりと歩き出す。
魔女狩りの時代に抗う、たった二つの小さな灯火のように。