アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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ジュニア期が30話って言ったんですが、プロット整理したらそれなりに減りました。
いや1話の分量を減らしたらぜんぜんいくんですけどね。


9話 新たな標的

8月の陽射しが、ブラインド越しにトレーナー室の床を焼いている。

 

室内には、外の猛暑とは裏腹な冷え切った沈黙が漂っていた。

 

ソファに座るカレンモエは、スポーツドリンクのボトルを弄びながら、どこか虚ろな目で宙を見つめている。

 

先日の未勝利戦で見せた圧倒的なパフォーマンス。世間は未だに沸き立っているが、当の本人はその熱狂から一人だけ取り残されたように冷めていた。

 

無理もない。あれは勝利ではない。彼女にとっては、自身の体という呪いの確認作業でしかなかったのだから。

 

だが、立ち止まってはいられない。俺は咳払いを一つして、ホワイトボードの前に立った。

 

「で、次はどうするの?」

 

モエが不機嫌そうに足を組んで尋ねてきた。試すような響き。

 

俺はマジックを走らせた。

 

「選択肢は二つある」

 

ボードに大きく「A」と「B」を書いた。

 

「Aは、このまま短距離路線を進むこと。正直、一番確実だ。小倉2歳ステークスでも函館2歳ステークスでも、重賞タイトルは容易く取れるだろう」

 

「却下」

 

即答。食い気味に、吐き捨てるように。

 

「あんな思いは二度としたくない」

 

「だろうな」

 

俺は苦笑しながら「A」にバツ印をつけた。1200メートルで勝つことは、彼女にとって「カレンチャンの娘」を肯定する行為に他ならない。

 

「なら、Bだ」

 

「B」の下に新たな文字を書き込んだ。

 

「阪神ジュベナイルフィリーズ(GⅠ・芝1600m)」

 

モエの目がわずかに見開かれた。

 

「阪神JF?」

 

「2歳女王を決める、マイルのGⅠだ」

 

ペンを置いて、彼女の方を向いた。

 

「目標はあくまでティアラ路線だ。だがいきなり2000メートルに再挑戦するのはリスクが高い。だから段階を踏む。まずはマイルを制覇する」

 

俺は熱っぽく語りかけた。

 

「カレンチャンは短距離界を席巻した歴史に残るウマ娘だが、実はマイルのGⅠは勝っていない」

 

「え?」

 

「本格化してからは1200メートルに専念したからな。つまり、もし君が阪神JFを勝てば、それはカレンチャンが成し遂げられなかった偉業になる」

 

モエは呆気にとられていたが、次第に瞳に光が宿り始めた。

 

「ママが勝てなかったレース……」

 

「どうだ? 悪くない話だろ?」

 

「……いいかも」

 

口元を緩め、不敵な笑みを浮かべた。

 

「ママが届かなかった場所に、私が立つ。最高に気分がいいよ」

 

「決まりだな」

 

「うん。……でも」

 

表情がふと曇った。

 

「マイルって1600メートルでしょ。1200メートルより400メートルも長い」

 

自分の足を見下ろした。

 

「たった400メートル。でもその400メートルが、私には絶壁に見える」

 

拳を握りしめた。

 

「2000メートルを走った時、痛いほど思い知らされた。私の体は、ある一定の距離を超えた瞬間、嘘みたいに動かなくなる。全力で踏み続けるしかできないから、燃料が切れた瞬間に全部終わる。ギアを落として巡航するなんて芸当が、この体にはできないの」

 

未勝利戦の1200メートル圧勝は、燃料が切れる前にゴールできたからに過ぎない。だが1600メートルは違う。全力で走り続ければ1200メートルで燃料が尽きる。かといって抑えようとすれば、存在しないギアを探して体がバラバラになる。

 

「勢いだけで挑んで、またあんな無様な失速をするのは御免だよ」

 

「ああ。その通りだ」

 

俺は彼女の懸念を肯定した。怯えているのではない。自分の体の限界を冷静に見積もっている。だからこそ精神論ではない解決策が必要だ。

 

「普通のトレーニングじゃ、その問題は解決できない」

 

正直に告げた。

 

「だから、もう一度あの人の所へ行こうと思う」

 

「……あの、マッドサイエンティストのところ?」

 

「アグネスタキオンだ。悔しいが、君の体を一番理解しているのはあの人だ。頭を下げてでも知恵を借りる」

 

「はぁ……」

 

深いため息。嫌そうな顔はしているが、拒絶はしなかった。綺麗事だけで勝てるほど甘い世界ではないと分かっている。

 

 

 

~~

 

 

 

翌朝。俺たちは早朝のトレセン学園を歩いていた。目指す場所は理科準備室。

 

「気が重いなぁ」

 

モエがげんなりと呟く。

 

「また変なスープ飲ませようとしてくるんじゃないの? 前回、蹴りで試験管割っちゃったし」

 

「タキオンに限って感情的に怒ることはないさ。たぶん」

 

自信はない。だが行くしかない。

 

「おーい! カレンモエさーん!」

 

背後から元気な声が聞こえた。振り返ると、ジャージ姿のサクラバクシンオーが猛スピードで走ってくるのが見えた。

 

「げっ、委員長」

 

モエが顔を引きつらせる。

 

「奇遇ですね! これから朝練ですか!?」

 

バクシンオーは急停止し、爽やかな笑顔で言った。

 

「実は私、新しいトレーニングを考案しまして! 名付けて『バクシン的・早朝短距離ダッシュ100本ノック』! これをやればマイルもバクシンできること間違いなしです! ぜひご一緒に!」

 

「え、えっと、今はちょっと」

 

「遠慮はいりません! さあ、ジャージに着替えて校庭へ!」

 

グイグイと来る。悪気がないのが一番タチが悪い。

 

「トレーナー、走って!」

 

モエが俺の手を掴んだ。

 

「逃げるよ! せーのっ!」

 

理科準備室の方へ駆け出した。

 

「あっ、待ってください! 逃げるということはトレーニングへの意欲の表れですね!? 追いかけっこですか! 望むところです! バクシーーーン!!」

 

「ちがーう!!」

 

モエの叫び声が朝の空気に溶けていった。

 

 

 

~~

 

 

 

バクシンオーの追跡を振り切り(彼女が勝手に別方向へバクシンしていった)、なんとか理科準備室の前に辿り着いた。

 

「はぁ……はぁ……。朝から疲れた」

 

モエが膝に手をついて息をする。

 

「いいウォーミングアップにはなったな」

 

「ならないよ」

 

重厚な扉。「立入禁止(推奨)」の張り紙。

 

意を決してノックした。返事はない。ゆっくりと引き戸を開ける。

 

室内は予想に反して静謐だった。怪しい蒸気や煙はなく、漂ってくるのは芳醇なコーヒーの香りだけ。同居人のマンハッタンカフェへの配慮か、換気と消臭は徹底されているらしい。

 

部屋の中央。実験台の傍らの椅子に座り、ノートPCを叩くウマ娘がいた。

 

アグネスタキオン。

 

俺たちの気配を感じると、ゆっくりと顔を向けた。驚きはない。来ることを予期していたかのような笑み。

 

「やあ。戻ってきたね、モルモット君たち」

 

パタンとパソコンを閉じた。

 

「おかえり。それで? 科学的不可能を覆す準備はできたのかい?」

 

「話が早いな」

 

「君たちのレースは見ていたよ。2000メートルでの無様なガス欠。1200メートルでの圧倒的な蹂躙。私のデータ通りだ」

 

椅子から立ち上がり、モエの目の前に立った。

 

「それでもまだ、茨の道を行くつもりかい?」

 

「行くよ」

 

モエは力強く言った。

 

「1200メートルで勝っても、何も嬉しくなかった。私は、私が選んだ道で勝ちたい」

 

「フッ。非合理だねぇ。だが、嫌いじゃない」

 

タキオンは黒板に向かい、チョークで図式を書き始めた。

 

「君の体をマイル仕様に改造する。といっても、薬物で底上げするような野暮な真似はしない。ウマ娘という生命体の可能性の果てが見たいんだ。薬で引き出した数値など、ノイズでしかないからね」

 

「じゃあ、どうするの?」

 

「アプローチは二つ。呼吸法と、体の使い方の改造だ」

 

タキオンは図式を指し示した。

 

「まず呼吸法。君はスピードが出すぎると無意識に呼吸が浅くなる。スプリントなら持つが、マイルでは命取りだ。トップスピードでも酸素を最大限に取り込めるよう、呼吸のリズムを強制的に書き換える」

 

「そしてもう一つ。こちらの方が根が深い」

 

タキオンはチョークを置いて、モエを見た。

 

「前にも言ったが、君の体は出力の調整が極端に苦手だ。全力か停止か、その二択しかない。1200メートルなら全力で踏み切れるからそれでいい。だが1600メートルでは、どこかで出力を落とさなければ持たない。そして君の体には、その『落とす』機能がない」

 

「……それは、分かってる」

 

「分かっているだけでは走れないよ。だから、体に叩き込む。中間出力は作れなくても、全力の持続時間を引き延ばすことはできる。心肺機能の閾値を上げて、体幹を強化して、同じ全力でも消耗を遅らせる」

 

タキオンの目が光った。

 

「1200メートル分の燃料で1600メートルを走るのは不可能だ。だが、1400メートル分の燃料があれば——残り200メートルを意志の力で押し切れるかもしれない。その200メートル分の燃料を、どう捻り出すかが私の仕事だ」

 

「……途中で壊れても、責任は持たないよ?」

 

脅しではない。事実だ。

 

俺はモエを見た。止めるべきか。いや、ここまで来て止める権利はない。

 

「やる」

 

即答だった。

 

「今のままじゃ先はないんだから。壊れるくらいがちょうどいいよ」

 

「威勢がいいね」

 

タキオンは試験管を差し出した。前回より禍々しい紫色の液体。

 

「手始めに、これを。超高濃度アミノ酸・改。私の独自配合による完全合法のリカバリードリンクだ。副作用として一時的に視界が——」

 

「飲むよ」

 

言い終わる前にモエがひったくった。

 

「おい、モエ!?」

 

俺が止める間もなく、躊躇なく一気飲み。試験管が空になってカランと音を立てた。

 

「んぐっ……! まずっ……!」

 

口元を押さえて顔をしかめる。

 

タキオンが目を丸くして、それからニヤリと笑った。

 

「躊躇なしかい?」

 

「マシだから」

 

モエは脂汗を滲ませながら言った。

 

「勝ったのにちっとも嬉しくなかったあの時の味に比べれば、こんなの何倍もマシ」

 

タキオンを睨みつけた。

 

「あんな思いは二度としたくない。あんな思いをするくらいなら、これくらいのリスクいくらでも飲んでやる」

 

「ククッ……! アハハハハッ!」

 

タキオンが高笑いした。

 

「いい! いいねぇ君! その狂気、その執念! ゾクゾクするよ!」

 

恍惚とした表情でモエの手を握った。

 

「合格だ、モルモット君! 君のその脚がどこまで耐えられるか、共に地べたを這い、茨の先を目指そうじゃないか!」

 

「モルモットは余計だけど」

 

モエは少し引いていたが、手は振りほどかなかった。利害の一致。マッドサイエンティストとアンチ・スプリンター。奇妙な共犯関係の再結成。

 

「あれ?」

 

モエがパチパチと瞬きをした。

 

「なにこれ。トレーナーがキラキラして見える」

 

不思議そうに俺の顔を覗き込んでくる。

 

「おや、視界の異常が出ているようだね。副作用というヤツさ」

 

タキオンが俺とモエを見て頷く。モエは顔を赤らめながら、それでも俺の腕を離そうとしなかった。

 

「なんか、変な気分」

 

「薬効は回っているようだね。さあ、地獄のトレーニングを始めようか」

 

タキオンは不敵に笑った。

 

新たな標的、阪神JF。心強い協力者、アグネスタキオン。役者は揃った。常識外れの挑戦が、今、幕を開ける。




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