いや1話の分量を減らしたらぜんぜんいくんですけどね。
8月の陽射しが、ブラインド越しにトレーナー室の床を焼いている。
室内には、外の猛暑とは裏腹な冷え切った沈黙が漂っていた。
ソファに座るカレンモエは、スポーツドリンクのボトルを弄びながら、どこか虚ろな目で宙を見つめている。
先日の未勝利戦で見せた圧倒的なパフォーマンス。世間は未だに沸き立っているが、当の本人はその熱狂から一人だけ取り残されたように冷めていた。
無理もない。あれは勝利ではない。彼女にとっては、自身の体という呪いの確認作業でしかなかったのだから。
だが、立ち止まってはいられない。俺は咳払いを一つして、ホワイトボードの前に立った。
「で、次はどうするの?」
モエが不機嫌そうに足を組んで尋ねてきた。試すような響き。
俺はマジックを走らせた。
「選択肢は二つある」
ボードに大きく「A」と「B」を書いた。
「Aは、このまま短距離路線を進むこと。正直、一番確実だ。小倉2歳ステークスでも函館2歳ステークスでも、重賞タイトルは容易く取れるだろう」
「却下」
即答。食い気味に、吐き捨てるように。
「あんな思いは二度としたくない」
「だろうな」
俺は苦笑しながら「A」にバツ印をつけた。1200メートルで勝つことは、彼女にとって「カレンチャンの娘」を肯定する行為に他ならない。
「なら、Bだ」
「B」の下に新たな文字を書き込んだ。
「阪神ジュベナイルフィリーズ(GⅠ・芝1600m)」
モエの目がわずかに見開かれた。
「阪神JF?」
「2歳女王を決める、マイルのGⅠだ」
ペンを置いて、彼女の方を向いた。
「目標はあくまでティアラ路線だ。だがいきなり2000メートルに再挑戦するのはリスクが高い。だから段階を踏む。まずはマイルを制覇する」
俺は熱っぽく語りかけた。
「カレンチャンは短距離界を席巻した歴史に残るウマ娘だが、実はマイルのGⅠは勝っていない」
「え?」
「本格化してからは1200メートルに専念したからな。つまり、もし君が阪神JFを勝てば、それはカレンチャンが成し遂げられなかった偉業になる」
モエは呆気にとられていたが、次第に瞳に光が宿り始めた。
「ママが勝てなかったレース……」
「どうだ? 悪くない話だろ?」
「……いいかも」
口元を緩め、不敵な笑みを浮かべた。
「ママが届かなかった場所に、私が立つ。最高に気分がいいよ」
「決まりだな」
「うん。……でも」
表情がふと曇った。
「マイルって1600メートルでしょ。1200メートルより400メートルも長い」
自分の足を見下ろした。
「たった400メートル。でもその400メートルが、私には絶壁に見える」
拳を握りしめた。
「2000メートルを走った時、痛いほど思い知らされた。私の体は、ある一定の距離を超えた瞬間、嘘みたいに動かなくなる。全力で踏み続けるしかできないから、燃料が切れた瞬間に全部終わる。ギアを落として巡航するなんて芸当が、この体にはできないの」
未勝利戦の1200メートル圧勝は、燃料が切れる前にゴールできたからに過ぎない。だが1600メートルは違う。全力で走り続ければ1200メートルで燃料が尽きる。かといって抑えようとすれば、存在しないギアを探して体がバラバラになる。
「勢いだけで挑んで、またあんな無様な失速をするのは御免だよ」
「ああ。その通りだ」
俺は彼女の懸念を肯定した。怯えているのではない。自分の体の限界を冷静に見積もっている。だからこそ精神論ではない解決策が必要だ。
「普通のトレーニングじゃ、その問題は解決できない」
正直に告げた。
「だから、もう一度あの人の所へ行こうと思う」
「……あの、マッドサイエンティストのところ?」
「アグネスタキオンだ。悔しいが、君の体を一番理解しているのはあの人だ。頭を下げてでも知恵を借りる」
「はぁ……」
深いため息。嫌そうな顔はしているが、拒絶はしなかった。綺麗事だけで勝てるほど甘い世界ではないと分かっている。
~~
翌朝。俺たちは早朝のトレセン学園を歩いていた。目指す場所は理科準備室。
「気が重いなぁ」
モエがげんなりと呟く。
「また変なスープ飲ませようとしてくるんじゃないの? 前回、蹴りで試験管割っちゃったし」
「タキオンに限って感情的に怒ることはないさ。たぶん」
自信はない。だが行くしかない。
「おーい! カレンモエさーん!」
背後から元気な声が聞こえた。振り返ると、ジャージ姿のサクラバクシンオーが猛スピードで走ってくるのが見えた。
「げっ、委員長」
モエが顔を引きつらせる。
「奇遇ですね! これから朝練ですか!?」
バクシンオーは急停止し、爽やかな笑顔で言った。
「実は私、新しいトレーニングを考案しまして! 名付けて『バクシン的・早朝短距離ダッシュ100本ノック』! これをやればマイルもバクシンできること間違いなしです! ぜひご一緒に!」
「え、えっと、今はちょっと」
「遠慮はいりません! さあ、ジャージに着替えて校庭へ!」
グイグイと来る。悪気がないのが一番タチが悪い。
「トレーナー、走って!」
モエが俺の手を掴んだ。
「逃げるよ! せーのっ!」
理科準備室の方へ駆け出した。
「あっ、待ってください! 逃げるということはトレーニングへの意欲の表れですね!? 追いかけっこですか! 望むところです! バクシーーーン!!」
「ちがーう!!」
モエの叫び声が朝の空気に溶けていった。
~~
バクシンオーの追跡を振り切り(彼女が勝手に別方向へバクシンしていった)、なんとか理科準備室の前に辿り着いた。
「はぁ……はぁ……。朝から疲れた」
モエが膝に手をついて息をする。
「いいウォーミングアップにはなったな」
「ならないよ」
重厚な扉。「立入禁止(推奨)」の張り紙。
意を決してノックした。返事はない。ゆっくりと引き戸を開ける。
室内は予想に反して静謐だった。怪しい蒸気や煙はなく、漂ってくるのは芳醇なコーヒーの香りだけ。同居人のマンハッタンカフェへの配慮か、換気と消臭は徹底されているらしい。
部屋の中央。実験台の傍らの椅子に座り、ノートPCを叩くウマ娘がいた。
アグネスタキオン。
俺たちの気配を感じると、ゆっくりと顔を向けた。驚きはない。来ることを予期していたかのような笑み。
「やあ。戻ってきたね、モルモット君たち」
パタンとパソコンを閉じた。
「おかえり。それで? 科学的不可能を覆す準備はできたのかい?」
「話が早いな」
「君たちのレースは見ていたよ。2000メートルでの無様なガス欠。1200メートルでの圧倒的な蹂躙。私のデータ通りだ」
椅子から立ち上がり、モエの目の前に立った。
「それでもまだ、茨の道を行くつもりかい?」
「行くよ」
モエは力強く言った。
「1200メートルで勝っても、何も嬉しくなかった。私は、私が選んだ道で勝ちたい」
「フッ。非合理だねぇ。だが、嫌いじゃない」
タキオンは黒板に向かい、チョークで図式を書き始めた。
「君の体をマイル仕様に改造する。といっても、薬物で底上げするような野暮な真似はしない。ウマ娘という生命体の可能性の果てが見たいんだ。薬で引き出した数値など、ノイズでしかないからね」
「じゃあ、どうするの?」
「アプローチは二つ。呼吸法と、体の使い方の改造だ」
タキオンは図式を指し示した。
「まず呼吸法。君はスピードが出すぎると無意識に呼吸が浅くなる。スプリントなら持つが、マイルでは命取りだ。トップスピードでも酸素を最大限に取り込めるよう、呼吸のリズムを強制的に書き換える」
「そしてもう一つ。こちらの方が根が深い」
タキオンはチョークを置いて、モエを見た。
「前にも言ったが、君の体は出力の調整が極端に苦手だ。全力か停止か、その二択しかない。1200メートルなら全力で踏み切れるからそれでいい。だが1600メートルでは、どこかで出力を落とさなければ持たない。そして君の体には、その『落とす』機能がない」
「……それは、分かってる」
「分かっているだけでは走れないよ。だから、体に叩き込む。中間出力は作れなくても、全力の持続時間を引き延ばすことはできる。心肺機能の閾値を上げて、体幹を強化して、同じ全力でも消耗を遅らせる」
タキオンの目が光った。
「1200メートル分の燃料で1600メートルを走るのは不可能だ。だが、1400メートル分の燃料があれば——残り200メートルを意志の力で押し切れるかもしれない。その200メートル分の燃料を、どう捻り出すかが私の仕事だ」
「……途中で壊れても、責任は持たないよ?」
脅しではない。事実だ。
俺はモエを見た。止めるべきか。いや、ここまで来て止める権利はない。
「やる」
即答だった。
「今のままじゃ先はないんだから。壊れるくらいがちょうどいいよ」
「威勢がいいね」
タキオンは試験管を差し出した。前回より禍々しい紫色の液体。
「手始めに、これを。超高濃度アミノ酸・改。私の独自配合による完全合法のリカバリードリンクだ。副作用として一時的に視界が——」
「飲むよ」
言い終わる前にモエがひったくった。
「おい、モエ!?」
俺が止める間もなく、躊躇なく一気飲み。試験管が空になってカランと音を立てた。
「んぐっ……! まずっ……!」
口元を押さえて顔をしかめる。
タキオンが目を丸くして、それからニヤリと笑った。
「躊躇なしかい?」
「マシだから」
モエは脂汗を滲ませながら言った。
「勝ったのにちっとも嬉しくなかったあの時の味に比べれば、こんなの何倍もマシ」
タキオンを睨みつけた。
「あんな思いは二度としたくない。あんな思いをするくらいなら、これくらいのリスクいくらでも飲んでやる」
「ククッ……! アハハハハッ!」
タキオンが高笑いした。
「いい! いいねぇ君! その狂気、その執念! ゾクゾクするよ!」
恍惚とした表情でモエの手を握った。
「合格だ、モルモット君! 君のその脚がどこまで耐えられるか、共に地べたを這い、茨の先を目指そうじゃないか!」
「モルモットは余計だけど」
モエは少し引いていたが、手は振りほどかなかった。利害の一致。マッドサイエンティストとアンチ・スプリンター。奇妙な共犯関係の再結成。
「あれ?」
モエがパチパチと瞬きをした。
「なにこれ。トレーナーがキラキラして見える」
不思議そうに俺の顔を覗き込んでくる。
「おや、視界の異常が出ているようだね。副作用というヤツさ」
タキオンが俺とモエを見て頷く。モエは顔を赤らめながら、それでも俺の腕を離そうとしなかった。
「なんか、変な気分」
「薬効は回っているようだね。さあ、地獄のトレーニングを始めようか」
タキオンは不敵に笑った。
新たな標的、阪神JF。心強い協力者、アグネスタキオン。役者は揃った。常識外れの挑戦が、今、幕を開ける。
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