途中、数ヶ月更新できない時期がありました。
それでも戻ってきた時に読んでくださる方がいて、また書き始めることができました。
本当にありがとうございます。
続きもまだまだ書き続けるつもりでいます。
よろしければ感想や評価など、お聞かせいただけると嬉しいです。
九月。
セントウルステークス。阪神。芝1200メートル。GⅡ。
来月のスプリンターズSに向けた前哨戦。
高松宮記念から半年。
マーチャンが出る。
同じレースに、マーチャンがいる。
記録する側じゃなくて、走る側に。
カメラを置いて、体操服を着て、同じゲートに入る。
嬉しい。素直に、嬉しい。
~~
控室で体操服に着替えた。GⅡだから勝負服じゃない。枠番の差し色が入った白い体操服。
隣の着替えスペースから声がした。
「モエちゃん、寝癖やばいんですけど」
「……どこ?」
「後ろ。自分じゃ見えないとこ」
カーテンを開けて、マーチャンの後頭部を確認した。確かに一房、ぴょんと跳ねている。手櫛で押さえて、整えた。同室のルーティン。寮でもよくやる。
「ありがとうです」
「うん」
マーチャンが振り返った。カメラを持っていない。
「……今日、カメラないの、変な感じする」
「マーちゃんもです。手が軽くて落ち着かないです」
にへら、と笑った。いつもの笑顔。
「モエちゃん」
「ん」
「手加減しないでくださいね」
「するわけないでしょ」
「……うん」
マーチャンが少し間を置いてから頷いた。その間が、いつものマーチャンと少し違った気がした。
でも、すぐにいつもの顔に戻る。
「行きましょうか」
先にドアを開けた。
~~
パドック。
九月の阪神。まだ暑い。
出走は十二人。ブリーズシャトル。フライフィールド。シャレミーリズム。短距離の常連たち。
その中に、マーチャン。三メートル先でストレッチをしている。
いつもはファインダー越しに見ている子が、同じ体操服を着て、同じ芝の上に立っている。
NHKマイルCを勝った子。あの細い体のどこにあんな末脚が入っているのか分からない子。
今日、久々にあの子と走れる。
高松宮記念のバクシンオーさんとは違う。あの時は「追いかけたい人」がいた。
今日は「一緒に走りたい人」がいる。
絢原さんがパドックの脇に来た。
「体の状態は」
「いい。すごくいい」
「そうか」
それだけ。何かを言いかけて、やめたように見えた。気のせいだろうか。
ゲートに向かう。マーチャンと並んで歩いた。
言葉は交わさなかった。
~~
ゲートイン。
7番ゲート。マーチャンは5番。
金属の箱の中。狭い。冷たい。
でも、怖くない。高松宮記念の前の緊張感とは全然違う。
呼吸。自分のリズム。
マーチャンが二つ隣のゲートにいる。
あの子と同じレースを走るのは、桜花賞以来だ。
少しだけ、心臓が速い。
楽しみだ。マーチャンと走るのが。
ファンファーレ。九月の空が高い。
ガコン。
――Live: Announcer
スタートしました! セントウルステークス、芝1200メートル、GⅡ!
十二人が一斉にゲートを飛び出す!
先手を取ったのはブリーズシャトル! 内枠から好スタートで先頭へ!
二番手にシャレミーリズム! 三番手フライフィールド!
カレンモエは五番手、好位の外!
アストンマーチャンは七番手、中団に構えています!
――Anti-Hero: Curren Moe
五番手。
風が顔に当たる。九月の阪神。芝の弾力が脚に伝わってくる。蹴れば跳ね返してくれる。
走れている。体の状態はいい。夏合宿で砂浜を走り込んだ脚。ちゃんと動いている。
後方に、マーチャンの気配がある。
七番手。中団。脚を溜める位置。
同じレースを走っている。
同じ風を浴びて、同じ芝を蹴って。
それだけで、走るのが楽しい。
でも。
脚の奥が、静かだった。
高松宮記念の時は、ゲートが開いた瞬間から体の底が熱かった。バクシンオーさんの背中が視界に入った瞬間、腹の底から何かがせり上がってきて、全身が変わった。
フェブラリーSでも、エスポワールシチーさんたちの闘志を浴びた瞬間に、体の芯が発火した。
今日は——静かだ。
楽しい。またマーチャンと走れて楽しい。
でも、あの火は来ない。
楽しいのに、来ない。
前を走るブリーズシャトルさんの背中を見ても、脚の奥が疼かない。シャレミーリズムさんの呼吸を聞いても、何も湧いてこない。
第三コーナー。
周りのウマ娘たちが動き始めた。ペースが上がる。仕掛けどころ。
体が反応しない。
外に持ち出す。五番手から三番手へ。普通の判断。普通の加速。
ブリーズシャトルさんをかわす。フライフィールドさんをかわす。
先頭に出た。
直線に入る。前に誰もいない。風が正面から来る。
走る。蹴る。1200メートルのスプリンター。この距離なら、体が全部知っている。
でも、それだけだった。
体が全部知っている。だから走れている。
走れているけど、燃えていない。
――Live: Announcer
直線に入りました!
先頭カレンモエ! 第三コーナーから進出して先頭を奪取!
安定した先頭! しかし——この子らしい爆発力が、今日はまだ見えてこない!
残り200!
ここでアストンマーチャンが動いた!
七番手の外から一気にスパート! フライフィールドをかわして三番手、二番手!
アストンマーチャンが来た! カレンモエを射程に捉えた!
――Anti-Hero: Curren Moe
残り200。
後ろから、足音。
マーチャン。
来ている。外から。七番手にいたはずのマーチャンが、ここに来て一気に仕掛けてきた。
速い。
あの子のスパート、こんなに速かったっけ。
足音が近づいてくる。一馬身。
脚を回す。もっと速く。
クビ差。
マーチャンが、横に並んだ。
視界の端に、マーチャンの横顔が入った。
汗だく。前髪が額に張りついている。歯を食いしばっている。
こんな顔のマーチャンを、見たことがない。
残り150。
マーチャンが、もう一段、伸びた。
前に出た。
マーチャンの背中が——目の前にある。
小さな背中。いつも隣で笑ってる子の、体操服の背中。
前に背中がある。
高松宮記念の直線。バクシンオーさんの桜色の背中を見た瞬間、腹の底から何かが爆発した。
許せない。捕まえたい。食い殺したい。あの衝動が、あの人の背中を見た瞬間に来た。
マーチャンの背中が、目の前にある。
……来ない。
何も来ない。
マーチャンの背中を見ているのに、脚の奥が静かなまま。
あの子が前にいるのに、体が変わらない。
残り100。
マーチャンの背中が、少しずつ遠ざかっていく。
半馬身。一馬身。
追いつけない。
体は動いている。でも、あの「もう一段」がない。
ゴール板。
マーチャンの背中が、先に通過した。
――Live: Announcer
ゴールイン!!
アストンマーチャン一着!! カレンモエ二着! 一馬身差!
これは驚きの結果です!
高松宮記念二着のカレンモエが、まさかの敗北!
アストンマーチャン、NHKマイルCに続く重賞制覇!
1200メートルの舞台でも、この末脚は本物です!
――Anti-Hero: Curren Moe
ゴール板を通り過ぎた。
二着。一馬身差。
負けた。
体は問題なかった。脚も動いていた。
でも、あの火が一度も来なかった。
減速しながら、前を見る。
マーチャンが、少し先で歩いていた。
振り返らない。こちらに来ない。
おかしい。
いつもなら真っ先に駆け寄ってくる子だ。レースが終わったら、勝っても負けても「モエちゃん」と声をかけてくる子だ。
背中を向けたまま、歩いている。
「……マーチャン」
声をかけた。
マーチャンが足を止めた。
振り返る。
知らない顔だった。
おっとりした笑顔が、ない。にへらっとした緩い目元が、ない。
汗と砂で汚れた顔の上に、見たことのない表情が張りついている。
怒っている。
この子が、怒っている。
「……マーチャン?」
「…………」
「おめでと——」
「怒ってます」
おめでとう、を最後まで言わせてもらえなかった。
声のトーンが違う。平坦で、低い。いつもの声じゃない、硬い声。
「……なんで」
「モエちゃん、今日、本気じゃなかったでしょう」
「……本気だったよ。手は抜いてない」
「手を抜いたなんて言ってません。本気じゃなかった、って言ってるんです」
「……何が違うの」
「全然違います」
マーチャンの目が、真っ直ぐこちらを射抜いた。
「マーちゃん、モエちゃんの写真をずっと撮ってきました。同室になった時から」
「……うん」
「モエちゃんが本気で走ってる時、目が変わるんです。猫みたいな目になる。獲物を追いかけてる猫の目」
胸がざわついた。
「バクシンオーさんの背中を追いかけてる時。エスポワールシチーさんたちの間を突き抜ける時。あの時のモエちゃんの目は、全部同じです。本気の目」
「今日のモエちゃんは、きっと一度もあの目をしてなかったはずです」
反論できなかった。
分かっている。今日、あの火は一度も来なかった。自分でも分かっている。
「……さっき、マーちゃん、わざと前に出ました」
「え?」
「残り150で、もう一段伸ばして、モエちゃんの前に出ました。背中を見せました」
マーチャンの声が、少しだけ揺れた。
「バクシンオーさんの背中を見た時、モエちゃんは変わったんでしょう。あの高松宮記念の直線で」
「……うん」
「だから、マーちゃんの背中を見たら、もしかしたら」
言葉が途切れた。
「もしかしたら、マーちゃんにも来てくれるかもって」
もしかしたら。
合宿の夜を思い出した。
大部屋で布団を並べて寝ていた。私が転がっていくと、マーチャンは文句も言わずに端に寄ってくれた。
あの夜、この子は何を考えていたんだろう。
もしかしたら、って。ずっと信じていたんだろうか。
「来なかったですね」
静かに言った。
「マーちゃんの背中じゃ、ダメだったみたいです」
「そんなこと——」
「嘘つかないでください」
マーチャンが、一歩、近づいた。目が赤い。
「マーちゃんだって、GⅠ勝ってるんです。NHKマイルC。……ちゃんと、強いんです」
声が震えていた。おっとりした声がボロボロに崩れていた。
「同室で、毎日一緒にご飯食べて、寝癖直してもらって。それでも、レースの相手としては見てもらえないなら」
鼻をすすった。一回だけ。
「……ムカつきます」
初めて聞いた。マーチャンの口から「ムカつく」。
——ああ。
好きだ。
この子が好きだ。
寝癖を直す時の柔らかい髪。ミルクティーを入れてくれる時の「どうぞです」。布団に転がっていくと文句も言わずに端に寄ってくれるところ。マーちゃん人形を食堂にも持ってくるところ。カメラを構える時だけ目が変わるところ。
大好きだ。
なのに、この顔をさせた。
この子に「ムカつきます」と言わせた。
信じてくれていた「もしかしたら」を、私の体が殺した。
自分が嫌いだ。こんな自分が、大嫌いだ。
「……マーちゃんもね」
マーチャンが、自分の脚を見下ろした。
「今日、七割で走る予定だったんです。スプリンターズSがあるから、前哨戦はセーブしろって、トレーナーに言われてて」
「……」
「でも、モエちゃんの背中が見えた瞬間、気づいたら全力で押してました。予定なんかどっかに行っちゃって」
七割の予定で、最後に本気で押し込んだ。
あのスパートは、そういうスパートだった。
「本気で押して、前に出て——それでも、モエちゃんの目は変わらなかったんです」
声が少し震えた。
「マーちゃんが、合理性を捨ててまで本気で押し込んでも、モエちゃんの中の何かは、マーちゃんを認めなかった。……それが、今日です」
「……」
「スプリンターズSがあります」
マーチャンが涙を拭った。拭って、顔を上げた。
泣きそうな顔の上に、NHKマイルCを勝ったウマ娘の目が載っていた。
「次は、本気で来てください。マーちゃんのこと、ちゃんと見て」
「……」
「じゃないと、マーちゃん、ずっとこのままです」
「……ごめん」
「謝らないでください。謝られたら、もっとムカつきます」
「……分かった。ごめん、は撤回する」
「はい」
「スプリンターズS。本気で行く」
「当たり前です」
マーチャンが、もう一度鼻をすすった。
「……モエちゃん」
「ん」
「マーちゃんはモエちゃんのこと、好きですよ。すごく。……だから怒ってるんです」
「……うん」
好きだと言ってくれた。
怒りながら、泣きながら、好きだと。
その言葉が、今は刺さる。
好きだと言ってくれる子を、体の底では獲物と認められなかった。
好意を向けてくれる子の背中を見ても、何も燃えなかった。
最低だ。
「……ライブ、行きましょう。マーちゃん、センターですから」
目を拭って、振り返って、先に歩いていった。
小さな背中。さっきゴール板の向こうに消えていった、あの背中。
追いかけた。今度は、自分の脚で。
~~
ウイニングライブ。
GⅡ。一着マーチャン。センター。
私は二着。隣。
ステージ衣装に着替えた。照明が点く。音楽が始まる。
マーチャンが踊っている。
センターで。にこにこ笑って。いつもの、あのおっとりした笑顔で。
観客に手を振って、ステップを踏んで、「マーちゃんでーす!」と叫んで、歓声を浴びている。
さっきまで泣きそうな顔で「ムカつきます」と言っていた子が。
この笑顔がどれだけのものの上に載っているか、私は知っている。
NHKマイルCを勝った日も、この子はこうやって笑っていた。
全部見届けて、全部受け止めて、笑う。それがこの子の矜持だ。
私は隣で踊りながら、さっきの顔が頭から離れなかった。
好きな子を泣かせた。
大好きな子に「ムカつきます」と言わせた。
あの子は怒る前に、信じてくれていた。もしかしたら、って。
この子の隣で踊る資格が、今の私にあるのか分からない。
曲が終わった。歓声。拍手。
マーチャンが客席に向かってぺこりとお辞儀をした。
ぴょこん、と跳ねた後ろ髪。朝、私が直した寝癖と同じ場所。
胸が潰れそうだった。
ステージを降りる。通路。
マーチャンが隣を通り過ぎた。
一瞬だけ目が合った。
笑っていた。いつもの笑顔。
でも、目の奥が、さっきと同じだった。
「……お疲れ様です、モエちゃん」
いつもの声。いつもの語尾。
「……お疲れ。マーチャン」
それだけ言うのが精一杯だった。
もっと何か言いたかった。ごめんも、ありがとうも、大好きも。
でも、ごめんは禁止された。ありがとうは軽すぎる。大好きは、今言ったら、嘘みたいになる。
何も言えないまま、マーチャンの背中を見送った。
~~
帰りの車。
絢原さんがエンジンをかけた。
しばらく、何も言えなかった。
窓の外を見ていた。信号が赤から青に変わった。車が動き出した。
「……トレーナー」
「ん」
「私、最低だ」
絢原さんは何も聞かなかった。黙って待っていた。
「マーチャンに怒られた。本気じゃなかったでしょって」
「……」
「手は抜いてない。でも、あの火が来なかった。高松宮記念でもフェブラリーSでも来たのに、今日は一度も」
「相手が違うからか」
「……たぶん。私の中の何かが、マーチャンを——本気の相手だと認めてなかった」
言葉にしたら、胃の底が冷えた。
「マーチャンはわざと前に出て、背中を見せてくれたの。私の中の何かが目を覚ますかもしれないって。合宿の頃からずっと、もしかしたらって信じてくれてたんだと思う」
「……」
「何も起きなかった」
信号が赤に変わった。車が止まった。
「大好きな子なの。毎日一緒にいて、毎日笑ってくれて、毎日隣にいてくれた子」
声が震えた。
「なのに、体の底では、この子は獲物じゃないって。そう判断してた。私の意志じゃないところで」
「舐めてたんじゃない、って言いたい。でも、結果がそうだった。体がそう答えた」
絢原さんが少し考えてから言った。
「課題が見えた」
短い。いつもの絢原さん。
「一ヶ月ある」
「分かってる」
信号が青に変わった。車が動き出した。
九月の阪神を離れて、街路樹の影が流れていく。
さっきのライブの笑顔が、まだ目の裏に残っている。
あの笑顔の下に、あの涙がある。
こんな自分が大嫌いだ。
大好きな子にあんな顔をさせた自分が。
スプリンターズSまで一ヶ月。
この一ヶ月で、相手を選ばずに火をつけられる走り方を、見つけなきゃいけない。
でなきゃ、マーチャンにも、これから先の全部の相手にも、失礼だ。
何より、もう一度あの子に