アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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75話 焦がれる

十月。

 

走れなかった。

 

練習場に来た。着替えた。コースの脇に立った。

体は万全。脚も問題ない。セントウルSの疲労はもう抜けている。

 

なのに、走り出せない。

 

タキオンさんに突きつけられた弱点が、頭にこびりついている。

 

体が勝手に相手を選ぶ。獲物と認めた相手にしか、あの火はつかない。

 

分からない。どうすればいいのか。

 

分からないまま走っても、何も変わらない気がする。セントウルSと同じ走りしかできない。火がつかないまま、普通に走って、普通に終わる。マーチャンの背中を見ても何も感じなかった自分のまま、コースに出るのが怖い。

 

怖いと思っている自分が、もっと嫌だ。

高松宮記念で「全部、私」と受け入れたはずなのに。あの覚悟は何だったんだ。

 

高松宮記念の後、「楽しかった」と言えるようになった。あれで変わったと思った。走ることが怖くなくなったと思った。でも、セントウルSで分かった。変わったのは一部だけだ。体が獲物と認めた相手がいれば走れる。いなければ、私はまだ空っぽのままだ。

 

セントウルSから二週間。

 

マーチャンとは普通に話している。普通に同室で寝ている。あの子はいつも通りにこにこしていて、食堂で席を取っておいてくれる。

 

でも——人形の位置が、少し離れていた。

 

マーちゃん人形を食堂に連れてくる時、前は私のトレイのすぐ隣に置いていた。今は席を一つ挟んだ向こう側にいる。小さな違い。マーチャンは何も言わない。私も指摘できない。指摘したら、この距離が本当だと認めることになる気がして。

 

寝癖も、あの子は自分で直してくるようになった。「レースの日はやめようと思って」と言われた通りに、レース以外の朝も自分で直している。私が手を伸ばす前に、もう整っている。

 

ぎくしゃくしているのではない。表面上は元通り。ただ、あの子の中に「ここから先には踏み込まない」という線がうっすら引かれていて、私はその線を越えられないでいる。

 

「マーちゃんの背中じゃ、ダメだったみたいです」

 

あの声が、まだ耳に残っている。

 

泣きながら「ムカつきます」と言った顔も。

 

目の前で寝癖を直してあげた朝のことも、ミルクティーを入れてくれた夜のことも、全部覚えているのに、あの顔を上書きできない。あの子を泣かせたのは私だ。私が体の底であの子を「獲物じゃない」と判断したから。意志じゃないところで。

 

コースに背を向けた。

練習場の外周をとぼとぼ歩く。目的地はない。ただ、じっとしていられなかった。

 

十月の空。高い。風が乾いている。

練習場の裏手は、木立が続いている。芝のコースから少し離れると、人の気配がなくなる。

 

歩いていたら、匂いがした。

 

油の匂い。甘い、重い匂い。絵の具の匂いだ。

それと、ボディオイルの香り。甘くて、冷たい香り。

 

木立の切れ目に、誰かがいた。

 

イーゼル。キャンバス。パレットを持った手。

 

一人のウマ娘が、絵を描いていた。

 

知っている顔だった。名前も知っている。会ったことはない。

 

メジロラモーヌ。

 

トリプルティアラ。史上初のティアラ三冠ウマ娘。

学園で知らない子はいない。テレビでも雑誌でも見る。でも、廊下ですれ違ったことすらない。この人はいつも別の空気の中にいて、近づきがたい。

 

立ち止まった。

 

ラモーヌさんはこちらに気づいていないようだった。キャンバスに向かって筆を動かしている。

 

いや——気づいているのかもしれない。

気づいた上で、振り返る必要がないと判断している。風が吹いたのと同じ。虫が飛んできたのと同じ。いるかいないか、どちらでもいい。そういう温度。

 

背筋が伸びている。姿勢がいい。

でも力んでいるわけじゃない。体の力が抜けているのに、芯だけが通っている。走っている時の体の使い方に似ている。余計な力がどこにもない。

 

筆の動きが速い。迷いがない。色を置く。伸ばす。次の色を取る。パレットの上で二色を混ぜた。赤と——黒に近い赤。深い、熱い色。混ぜて、キャンバスに載せた。

 

何を描いているのか、気になった。

少しだけ角度を変えて、キャンバスの方を見ようとした。

 

「……不躾ね」

 

声だけが飛んできた。こちらを見ていない。筆を動かしたまま。振り返らない。

 

「あ、すみません。覗くつもりは——」

 

返事はなかった。筆が動いている。会話は成立していない。私が謝ったことすら届いているのかどうか分からない。

 

少し離れたところに立ったまま、ラモーヌさんが絵を描いているのを見ていた。

 

静かだった。

 

練習場の方から、誰かの走る足音が微かに聞こえる。風が木の葉を揺らしている。油絵の具の匂いと、ボディオイルの冷たい甘さが混じって漂ってくる。

 

ラモーヌさんの手が動いている。筆がキャンバスに触れるたびに、色が重なっていく。動きに無駄がない。迷いがない。一筆ごとに、描きたいものが見えているとしか思えない。

 

ふと気づいた。この人の筆の動かし方は、走りのフォームに似ている。無駄な力が入っていない。必要な力だけが、必要な場所に、必要なだけ使われている。走ることと描くこと、全然違うことをしているはずなのに、体の使い方が同じだ。

 

何を描いているのか、この角度からは見えない。見えないけれど、ラモーヌさんの顔は見える。

 

集中している——だけじゃない。

 

何だろう、この表情。

 

目が開いている。まばたきが少ない。口元が微かに緩んでいる。苦しそうではない。楽しそう、とも違う。もっと深いところにある何か。

焦がれている、という言葉が浮かんだ。何かに、焦がれている顔。

 

走っている時の顔に似ている。

テレビで見たことがある。ラモーヌさんのレース映像。先頭を走っている時の、あの表情。

 

追いかけてなんかいなかった。

 

あの人は、先頭を走っていた。前に誰もいない。追いかける背中がどこにもない。なのに、あの表情だった。独りで走っているのに、寂しそうじゃなかった。満たされていた。追いかける対象がいなくても、走ること自体が目的であるかのように。

 

今と同じ表情。

 

キャンバスに向かう時も、ターフを走る時も、同じ顔。前に誰がいるとか、後ろから追いかけるとか、そういうこととは関係ない場所で、この人は走っている。

 

私の弱点が、ここにある。

 

私の体は、相手を選ぶ。獲物と認めた相手にしか火がつかない。先頭に立った瞬間に、獲物がいなくなる。

この人は違う。前に誰もいなくても、あの顔ができる。獲物なんかいなくても、走れる。

 

何が違うんだろう。

 

「……あの」

 

口が勝手に開いた。

 

返事はない。筆が動いている。

 

「……走るのって、楽しいですか」

 

バカみたいな質問だ。トリプルティアラを達成した人に、「走るのって楽しいですか」って。

 

筆が止まった。

 

初めて、動きが止まった。

 

長い沈黙。風が吹いた。木の葉が揺れた。

 

ラモーヌさんは振り返らなかった。でも、筆が止まっていた。パレットの上で、絵の具が乾き始めるのも構わずに。

 

「……愛しているわ」

 

短く。静かに。キャンバスに向かったまま。

 

楽しいですか、と聞いたのに、返ってきたのは「愛しているわ」。質問の答えになっていない。でも、ラモーヌさんにとっては、たぶんこれが答えなんだ。

 

楽しいとか楽しくないとか、そういう次元の話ではない。

この人にとって、走ることは愛することと同じなんだ。

 

楽しい、のさらに先。食い殺したい、のさらに先。追いかける、追いかけない、のさらに先。

そこに「愛している」がある。

 

私は高松宮記念で「楽しかった」と言えた。あの一言が暗闇から引き上げてくれた。

でも、「愛している」とは言えない。まだ。走ることを愛しているかどうか、自分でも分からない。走ることの中にある醜いものを知ってしまったから。食い殺したいという衝動。友達の背中を見ても何も感じない冷たさ。

 

それでも「愛している」と言える場所があるのだとしたら。

 

筆が動き始めた。

会話は終わった。

 

立ち去ろうとした。

 

「……灰に成っても走る子がいるのね」

 

背後から。独り言のような音量。こちらに向けたのかどうかも分からない。

 

足が止まった。

 

灰に成っても走る子。

 

それは——私のこと?

 

オークスの後、メディアは「燃え尽きた」と書いた。「灰になった天才」と。この人は、あれを見ていたのか。

 

振り返った。

 

ラモーヌさんはキャンバスに向かったまま。一度も、こちらを見ていない。

 

でも、次の言葉が聞こえた。

 

「……可哀想に」

 

筆が動いている。声に抑揚がなかった。冷たい、平坦な声。

同情ではない。もっと遠い場所から、ただ事実を述べているような響き。

 

可哀想に。

 

何が可哀想なんだろう。

 

灰になるまで走った私を、可哀想だと思ったのか。それとも、走ることを愛しているのに気づいていない私を、可哀想だと言っているのか。

 

聞けなかった。聞いても答えは返ってこない。この人は説明しない。答えは自分で見つけろ、とすら言わない。ただ事実を置いて、それきりだ。

 

でもその二文字が胸に残った。刺さったのではない。冷たい石が置かれたように、そこにある。重くて、動かない。

 

「……失礼しました」

 

頭を下げた。返事はなかった。

 

木立を離れて、練習場の方に歩き出した。

 

「愛しているわ」

「可哀想に」

 

二つの声が、歩調と一緒に頭の中で繰り返された。

 

あの人は走ることを「愛している」と言う。迷いなく。

私は、「楽しい」とすら胸を張って言えない。楽しいの中に、食い殺したいという衝動が混じっているから。醜いものが混じっているから。

 

でも、今日、はっきりと分かったことが一つだけあった。

 

——先がある。

 

「楽しい」の先。「食い殺したい」の先。追いかけるとか追いかけないとか、そういう衝動の先に、あの人がいる場所がある。走ることを「愛している」と真っ直ぐ言える場所が、確かに、ある。

 

私はまだそこにいない。「楽しい」にたどり着いたばかりで、しかもその「楽しい」を醜いと思っている。あの場所までは、遠すぎる。今日行って、今日届く距離じゃない。

 

でも、あると分かった。

 

それだけで、今日は十分だった。

 

練習場のコースが見える場所まで戻った。誰かが走っている。遠くから見ると、体操服の白い点がコースの上を動いている。あの子が誰かは分からない。でも走っている。自分の脚で、自分のために。

 

体操服の裾を直して、コースに入った。

 

一歩踏み込む。芝の感触。十月の乾いた風。

 

走り始めた。誰も追いかけていない。誰も前にいない。ただ、走っている。

 

火はつかなかった。黒い猫は眠ったままだ。脚の奥は静かで、爆発は来ない。

 

変わらなかった。

 

ラモーヌさんの走りの話を聞いたところで、今日の私は、やっぱり何も変わらない。先があると分かっても、先に行ける脚がない。知ったことと、できることは、全然別の話だ。

 

それでも走り続けた。ゴールまで。

 

走り終えて、芝の上に立った。息を整える。汗が冷える。空の色がゆっくり変わっていく。

 

「愛しているわ」が、まだ頭のどこかに残っている。

「可哀想に」も、同じ場所にある。

 

どちらも、今日の私には遠い。

 

でも、消えない。今日、確かに聞いた。確かにこの人の頭の中に入った。

 

スプリンターズSまで二週間。

 

それまでに「愛している」まで辿り着けるとは思っていない。届く気もしない。

 

ただ、あの声が、胸の奥にもう一つ、小さな場所を作った。

そこにある。動かない。消えない。

 

今日はそれだけだった。

 

~~

 

足音が遠ざかっていく。

 

ラモーヌは筆を止めなかった。

 

……灰の底に埋めたつもりでいるのね。あんなに熱いものを。

 

抱いて飛び込んだものが何か、あの子だけが分かっていない。

 

可哀想に。

 

筆が、また動き始めた。

キャンバスの上で、深い赤が滲んでいく。




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