十月。
走れなかった。
練習場に来た。着替えた。コースの脇に立った。
体は万全。脚も問題ない。セントウルSの疲労はもう抜けている。
なのに、走り出せない。
タキオンさんに突きつけられた弱点が、頭にこびりついている。
体が勝手に相手を選ぶ。獲物と認めた相手にしか、あの火はつかない。
分からない。どうすればいいのか。
分からないまま走っても、何も変わらない気がする。セントウルSと同じ走りしかできない。火がつかないまま、普通に走って、普通に終わる。マーチャンの背中を見ても何も感じなかった自分のまま、コースに出るのが怖い。
怖いと思っている自分が、もっと嫌だ。
高松宮記念で「全部、私」と受け入れたはずなのに。あの覚悟は何だったんだ。
高松宮記念の後、「楽しかった」と言えるようになった。あれで変わったと思った。走ることが怖くなくなったと思った。でも、セントウルSで分かった。変わったのは一部だけだ。体が獲物と認めた相手がいれば走れる。いなければ、私はまだ空っぽのままだ。
セントウルSから二週間。
マーチャンとは普通に話している。普通に同室で寝ている。あの子はいつも通りにこにこしていて、食堂で席を取っておいてくれる。
でも——人形の位置が、少し離れていた。
マーちゃん人形を食堂に連れてくる時、前は私のトレイのすぐ隣に置いていた。今は席を一つ挟んだ向こう側にいる。小さな違い。マーチャンは何も言わない。私も指摘できない。指摘したら、この距離が本当だと認めることになる気がして。
寝癖も、あの子は自分で直してくるようになった。「レースの日はやめようと思って」と言われた通りに、レース以外の朝も自分で直している。私が手を伸ばす前に、もう整っている。
ぎくしゃくしているのではない。表面上は元通り。ただ、あの子の中に「ここから先には踏み込まない」という線がうっすら引かれていて、私はその線を越えられないでいる。
「マーちゃんの背中じゃ、ダメだったみたいです」
あの声が、まだ耳に残っている。
泣きながら「ムカつきます」と言った顔も。
目の前で寝癖を直してあげた朝のことも、ミルクティーを入れてくれた夜のことも、全部覚えているのに、あの顔を上書きできない。あの子を泣かせたのは私だ。私が体の底であの子を「獲物じゃない」と判断したから。意志じゃないところで。
コースに背を向けた。
練習場の外周をとぼとぼ歩く。目的地はない。ただ、じっとしていられなかった。
十月の空。高い。風が乾いている。
練習場の裏手は、木立が続いている。芝のコースから少し離れると、人の気配がなくなる。
歩いていたら、匂いがした。
油の匂い。甘い、重い匂い。絵の具の匂いだ。
それと、ボディオイルの香り。甘くて、冷たい香り。
木立の切れ目に、誰かがいた。
イーゼル。キャンバス。パレットを持った手。
一人のウマ娘が、絵を描いていた。
知っている顔だった。名前も知っている。会ったことはない。
メジロラモーヌ。
トリプルティアラ。史上初のティアラ三冠ウマ娘。
学園で知らない子はいない。テレビでも雑誌でも見る。でも、廊下ですれ違ったことすらない。この人はいつも別の空気の中にいて、近づきがたい。
立ち止まった。
ラモーヌさんはこちらに気づいていないようだった。キャンバスに向かって筆を動かしている。
いや——気づいているのかもしれない。
気づいた上で、振り返る必要がないと判断している。風が吹いたのと同じ。虫が飛んできたのと同じ。いるかいないか、どちらでもいい。そういう温度。
背筋が伸びている。姿勢がいい。
でも力んでいるわけじゃない。体の力が抜けているのに、芯だけが通っている。走っている時の体の使い方に似ている。余計な力がどこにもない。
筆の動きが速い。迷いがない。色を置く。伸ばす。次の色を取る。パレットの上で二色を混ぜた。赤と——黒に近い赤。深い、熱い色。混ぜて、キャンバスに載せた。
何を描いているのか、気になった。
少しだけ角度を変えて、キャンバスの方を見ようとした。
「……不躾ね」
声だけが飛んできた。こちらを見ていない。筆を動かしたまま。振り返らない。
「あ、すみません。覗くつもりは——」
返事はなかった。筆が動いている。会話は成立していない。私が謝ったことすら届いているのかどうか分からない。
少し離れたところに立ったまま、ラモーヌさんが絵を描いているのを見ていた。
静かだった。
練習場の方から、誰かの走る足音が微かに聞こえる。風が木の葉を揺らしている。油絵の具の匂いと、ボディオイルの冷たい甘さが混じって漂ってくる。
ラモーヌさんの手が動いている。筆がキャンバスに触れるたびに、色が重なっていく。動きに無駄がない。迷いがない。一筆ごとに、描きたいものが見えているとしか思えない。
ふと気づいた。この人の筆の動かし方は、走りのフォームに似ている。無駄な力が入っていない。必要な力だけが、必要な場所に、必要なだけ使われている。走ることと描くこと、全然違うことをしているはずなのに、体の使い方が同じだ。
何を描いているのか、この角度からは見えない。見えないけれど、ラモーヌさんの顔は見える。
集中している——だけじゃない。
何だろう、この表情。
目が開いている。まばたきが少ない。口元が微かに緩んでいる。苦しそうではない。楽しそう、とも違う。もっと深いところにある何か。
焦がれている、という言葉が浮かんだ。何かに、焦がれている顔。
走っている時の顔に似ている。
テレビで見たことがある。ラモーヌさんのレース映像。先頭を走っている時の、あの表情。
追いかけてなんかいなかった。
あの人は、先頭を走っていた。前に誰もいない。追いかける背中がどこにもない。なのに、あの表情だった。独りで走っているのに、寂しそうじゃなかった。満たされていた。追いかける対象がいなくても、走ること自体が目的であるかのように。
今と同じ表情。
キャンバスに向かう時も、ターフを走る時も、同じ顔。前に誰がいるとか、後ろから追いかけるとか、そういうこととは関係ない場所で、この人は走っている。
私の弱点が、ここにある。
私の体は、相手を選ぶ。獲物と認めた相手にしか火がつかない。先頭に立った瞬間に、獲物がいなくなる。
この人は違う。前に誰もいなくても、あの顔ができる。獲物なんかいなくても、走れる。
何が違うんだろう。
「……あの」
口が勝手に開いた。
返事はない。筆が動いている。
「……走るのって、楽しいですか」
バカみたいな質問だ。トリプルティアラを達成した人に、「走るのって楽しいですか」って。
筆が止まった。
初めて、動きが止まった。
長い沈黙。風が吹いた。木の葉が揺れた。
ラモーヌさんは振り返らなかった。でも、筆が止まっていた。パレットの上で、絵の具が乾き始めるのも構わずに。
「……愛しているわ」
短く。静かに。キャンバスに向かったまま。
楽しいですか、と聞いたのに、返ってきたのは「愛しているわ」。質問の答えになっていない。でも、ラモーヌさんにとっては、たぶんこれが答えなんだ。
楽しいとか楽しくないとか、そういう次元の話ではない。
この人にとって、走ることは愛することと同じなんだ。
楽しい、のさらに先。食い殺したい、のさらに先。追いかける、追いかけない、のさらに先。
そこに「愛している」がある。
私は高松宮記念で「楽しかった」と言えた。あの一言が暗闇から引き上げてくれた。
でも、「愛している」とは言えない。まだ。走ることを愛しているかどうか、自分でも分からない。走ることの中にある醜いものを知ってしまったから。食い殺したいという衝動。友達の背中を見ても何も感じない冷たさ。
それでも「愛している」と言える場所があるのだとしたら。
筆が動き始めた。
会話は終わった。
立ち去ろうとした。
「……灰に成っても走る子がいるのね」
背後から。独り言のような音量。こちらに向けたのかどうかも分からない。
足が止まった。
灰に成っても走る子。
それは——私のこと?
オークスの後、メディアは「燃え尽きた」と書いた。「灰になった天才」と。この人は、あれを見ていたのか。
振り返った。
ラモーヌさんはキャンバスに向かったまま。一度も、こちらを見ていない。
でも、次の言葉が聞こえた。
「……可哀想に」
筆が動いている。声に抑揚がなかった。冷たい、平坦な声。
同情ではない。もっと遠い場所から、ただ事実を述べているような響き。
可哀想に。
何が可哀想なんだろう。
灰になるまで走った私を、可哀想だと思ったのか。それとも、走ることを愛しているのに気づいていない私を、可哀想だと言っているのか。
聞けなかった。聞いても答えは返ってこない。この人は説明しない。答えは自分で見つけろ、とすら言わない。ただ事実を置いて、それきりだ。
でもその二文字が胸に残った。刺さったのではない。冷たい石が置かれたように、そこにある。重くて、動かない。
「……失礼しました」
頭を下げた。返事はなかった。
木立を離れて、練習場の方に歩き出した。
「愛しているわ」
「可哀想に」
二つの声が、歩調と一緒に頭の中で繰り返された。
あの人は走ることを「愛している」と言う。迷いなく。
私は、「楽しい」とすら胸を張って言えない。楽しいの中に、食い殺したいという衝動が混じっているから。醜いものが混じっているから。
でも、今日、はっきりと分かったことが一つだけあった。
——先がある。
「楽しい」の先。「食い殺したい」の先。追いかけるとか追いかけないとか、そういう衝動の先に、あの人がいる場所がある。走ることを「愛している」と真っ直ぐ言える場所が、確かに、ある。
私はまだそこにいない。「楽しい」にたどり着いたばかりで、しかもその「楽しい」を醜いと思っている。あの場所までは、遠すぎる。今日行って、今日届く距離じゃない。
でも、あると分かった。
それだけで、今日は十分だった。
練習場のコースが見える場所まで戻った。誰かが走っている。遠くから見ると、体操服の白い点がコースの上を動いている。あの子が誰かは分からない。でも走っている。自分の脚で、自分のために。
体操服の裾を直して、コースに入った。
一歩踏み込む。芝の感触。十月の乾いた風。
走り始めた。誰も追いかけていない。誰も前にいない。ただ、走っている。
火はつかなかった。黒い猫は眠ったままだ。脚の奥は静かで、爆発は来ない。
変わらなかった。
ラモーヌさんの走りの話を聞いたところで、今日の私は、やっぱり何も変わらない。先があると分かっても、先に行ける脚がない。知ったことと、できることは、全然別の話だ。
それでも走り続けた。ゴールまで。
走り終えて、芝の上に立った。息を整える。汗が冷える。空の色がゆっくり変わっていく。
「愛しているわ」が、まだ頭のどこかに残っている。
「可哀想に」も、同じ場所にある。
どちらも、今日の私には遠い。
でも、消えない。今日、確かに聞いた。確かにこの人の頭の中に入った。
スプリンターズSまで二週間。
それまでに「愛している」まで辿り着けるとは思っていない。届く気もしない。
ただ、あの声が、胸の奥にもう一つ、小さな場所を作った。
そこにある。動かない。消えない。
今日はそれだけだった。
~~
足音が遠ざかっていく。
ラモーヌは筆を止めなかった。
……灰の底に埋めたつもりでいるのね。あんなに熱いものを。
抱いて飛び込んだものが何か、あの子だけが分かっていない。
可哀想に。
筆が、また動き始めた。
キャンバスの上で、深い赤が滲んでいく。
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