十月半ば。夜。
トレーナー室。
絢原は一人、クリップボードを机に置いた。
練習場のタイムシート。今日のモエの三本。全部、遅い。遅いと言っても、フォームが崩れているわけではない。ストライドも安定している。呼吸も乱れていない。
ただ、火がない。
数字の上では普通に走れている。むしろきれいに走れている。でも、この子の走りを一年以上見てきた人間には分かる。中が空っぽで回っているだけだ。
ラモーヌに会ったと報告を受けた日から、もう一週間が経つ。その日から、練習の空気が変わった。空振りの日々。モエは何も言わない。練習が終わると黙って帰っていく。寮に戻っているのかどうかも分からない。
机の上にある別のファイルを開いた。
過去のレースデータ。一番上が高松宮記念。
タキオンが「奇跡的な一戦」と評したデータ。第四コーナーから最終直線、心拍と筋電の跳ね上がり方。その後、ゴール後のバイタル推移が長い時間、高めで安定している。興奮が続いている。恐怖や急落のパターンではない。
あの日、あいつは確かに何かを受け入れた。
レース後、ターフで一人立っていた時の顔を覚えている。遠目にしか見えなかったが、泣いているのとも違う、笑っているのとも違う、もっと深い顔をしていた。ファンの歓声の中で、一人だけ別の時間を生きていた。
後で本人が言っていた。
食い殺したかった、楽しかった、どっちもごちゃまぜで分けられなかった、と。それを「醜い」と思ったが、「歓迎しない」と思ったが、それでも「おかえり」と言った、と。
あの時、あの子は自分の中にあるものを全部抱え直した。
「全部、私」——そう書いてよこした。翌日、俺宛の短いメッセージに、たった一行だけ。
だから、受け入れはできている。そのはずだった。
ペンを置いた。
次のファイルを開いた。九月のセントウルS。マーチャンと走って、二着で負けたレース。
あの日のデータは、高松宮とは違う。心拍の跳ね上がりがない。筋電も平坦。体が、反応していない。
「マーちゃんの背中じゃ、ダメだったみたいです」
マーチャンに言われた言葉を、あいつは俺に一度だけ話した。ぽつりと、練習場の帰り道で。それきりその話はしていない。
あの日から、あの子は壊れ始めた。
高松宮で「全部、私」と抱え直したはずだった。醜いものにも「おかえり」と言ったはずだった。でもセントウルSで、抱え直したはずのものが、ほころんだ。
マーちゃんを獲物と認めなかった自分の冷たさ。体が勝手に相手を選ぶという仕組み。あの子は、それを「全部、私」の範疇に収められなかった。
タキオンが言った「獲物を選ぶ」という言葉。あれはデータで示されただけで、あいつはまだ「おかえり」と言えていない。
ラモーヌの「愛しているわ」が、その上に重なった。
「楽しい」までたどり着いた子に、その先があると示された。でも、そこにたどり着くには、高松宮の受容では足りない。もう一段、深い場所に、まだ触れていないものがある。
何だろうか。
あいつが触っていない場所。
考えて、その答えに、すぐ辿り着いた。
触れていないのは、オークスだ。
桜花賞は、16着。あいつはメディアにぶちまけられ、心を折られた。それは話せる。話したくはないが、話せる。
オークスは違う。
あいつは、あの日のことを、ほとんど話さない。入院中も、退院してからも、復帰してからも、高松宮で目覚めてからも。
触れない。話さない。
でも——「失敗した」とも、一度も言っていない。
退院してから今日まで、あの子の口から「オークスを失敗した」という言葉は、一度も聞いたことがない。「壊れた」とも、「間違いだった」とも、「後悔している」とも。
世間は失敗と呼ぶ。メディアは「灰になった天才」と書いた。俺も、心のどこかで、あれを失敗だと呼んでいる。止められなかった自分の罪として、ずっと抱えてきた。
あいつはそれを聞いて、何も言わなかった。違うとも、そうだとも。ただ黙って入院していた。
ペンを握り直した。
……いや、違うな。
言葉にできないんだ、あの子は。
「間違いだった」と認めてしまったら、自分の中で何かが崩れる。あの日、自分の意志で2400メートルに突っ込んだ。母の幻影を振り切るためだった。その結果、体は壊れた。脚は持った。でも、自分で自分を壊した事実は、呑み込むには重すぎる。
だから、言葉にしない。触れない。判定を下さない。棚の奥に仕舞ったまま、今日まで走ってきた。
オークスを呑み込めていないのは、肯定しているからじゃない。言葉にできないほど、失敗だと思っているからだ。
俺と同じだ。
俺はあの日を「止められなかった罪」として抱えている。あの子は「自分で自分を壊した罪」として抱えている。俺も、あの子も、同じものを違う角度から抱えている。二人とも、あの日に触れられないまま生きてきた。
「全部、私」と言った時、あの子が抱えたのは高松宮までの自分だ。壊れる前の自分。覚醒した自分。楽しかった自分。醜かった自分。全部「私」だ、と。
でも、あの日の自分だけは、まだ「私」に入れていない。一番重い塊を、あの子は今も棚の奥に抱え込んでいる。
それに触れなければ、「愛している」までは届かない。ラモーヌが見た先は、そこにある。
壁に貼ったカレンダーを見た。十月十二日。スプリンターズSまで、あと十二日。
ペンを置いた。
スマホを取った。
三回のコールで出た。
「やあ、トレーナーくん。珍しいね、この時間に」
「タキオン」
「ふむ。声が重い。何かあったかい」
軽い声だった。モニター越しの観察者の声。データを眺めている時のトーン。
「モエは、未だに掴めていないようだ」
「知っているよ」
即答だった。
「心拍データも筋電位も、すべて計測している。君より先に気づいているかもしれないね」
こいつは本当に憎たらしい。でも、そういう奴だからこそ、今こいつに相談している。
「……何が起きてる」
「君の見立ては?」
逆に問い返された。こいつはいつもこうだ。まず相手の観察を確認する。
「高松宮で受け入れたはずのものが、ほころんでる」
「ほう」
「あいつは高松宮で『全部、私』と抱え直した。醜いものにも『おかえり』と言った。でも、セントウルSで分かった。あの受容は、高松宮までの自分の範囲だった」
「続けたまえ」
「『獲物を選ぶ』という体の仕組みが、あの子の中で『おかえり』と言える場所に入っていない。マーちゃんを獲物と認めなかった冷たさが、入っていない」
電話の向こうで、紅茶を啜る音がした。
「そして、それだけじゃない」
「ほう?」
「オークスだ」
電話の向こうで、音が止まった。
「……続けたまえ」
「あいつは、オークスを呑み込めていない。『失敗』と口に出したこともないが、受け入れているわけでもない。触れないまま、棚の奥に仕舞って生きてきた」
「……」
「言葉にできないんだと思う。『間違いだった』と認めたら、自分で自分を壊した事実を正面から引き受けることになる。それは、あの子には重すぎる。だから封印している」
「……」
「高松宮で『全部、私』と言った時、あの子が抱えたのは高松宮までの自分だ。壊れる前の自分、覚醒した自分、楽しかった自分、醜かった自分。でも、オークスの自分だけは、まだ棚の奥にある。一番重い塊を、まだ呑み込めずにいる」
「……」
「ラモーヌの『愛しているわ』が突き刺さったのは、その先があると示されたからだ。『楽しい』より深い場所がある、と。でも、そこに届くには、高松宮の受容では足りない。棚の奥のあの塊を、呑み込まないといけない」
電話の向こうで、ゆっくりとした拍手が聞こえた。
「見事な観察だよ、トレーナーくん」
いつものタキオンの声に、皮肉の温度がなかった。
「……ただし」
「?」
「あの子がオークスを呑み込めずにいるのは、君の言う通りだ。それは間違いない」
「……」
「だが——その重さの出所が、君が思っているものと同じかどうかは、私には分からない」
「……どういう意味だ」
「そのままの意味さ。彼女がオークスを呑み込めていないことは間違いないんだろう。でも、なぜ呑み込めないのかは、データでは分からない。仮説はいくつか立てられる」
「……」
「君の仮説は、その中の一つだ。正解かもしれないし、違うかもしれない。私には判断できない」
絢原は黙った。
ペン先で、机を軽く叩いた。
そこに何かがあるような気がした。タキオンが口にしなかった、別の仮説。でも、それが何かまでは見えない。
「で、私に何の用かな」
タキオンが話題を戻した。
「……データは、何か、他に言ってるのか」
「言っているよ。でも、今君が欲しがっている答えは、データにはない」
「なら、あいつに何をすればいい」
電話の向こうで、長い間があった。
紙をめくる音。マグカップを置く音。
「……トレーナーくん」
「ああ」
「君は、データで彼女を動かしたいのかい」
「そうじゃない」
反射で答えた。答えた後で、自分で自分の答えに少し驚いた。
「じゃあ、何で動かしたいんだい」
「……」
答えられなかった。
「データではないなら、何だい」
タキオンが、柔らかく追い込んでくる。この女は答えを知っていて聞いている。それが分かった。
「……言葉、なのか」
「ほう?」
「言葉……か」
「君自身が今、そう言ったじゃないか」
ペンを握り直した。握った時、自分の手が少し汗ばんでいることに気づいた。
「俺は、あいつのトレーナーだ。データはお前の仕事だ。俺はあいつのタイムを上げるのが仕事だ」
「そうだね」
「でも、今のあいつには、タイムの話は届かない」
「そうだろうね」
「だとしたら」
「だとしたら?」
「俺が言葉をかけるしかない」
言い終わってから、タキオンが電話の向こうで静かに笑ったのが分かった。いつもの高笑いではない。口角だけを上げたような、短い笑い。
「……やっと、辿り着いたね」
「何に」
「君にしか言えないことがある、という事実にだよ」
マグカップを置く音がした。
「いいかい、トレーナーくん。私は彼女の体を知っている。心拍、筋電、血中酸素、ストライド、全部。だが、私が知っている彼女は、数値の彼女だ。君が知っている彼女は、言葉の彼女だ」
「……」
「数値は、彼女の今の状態を説明できる。でも、彼女の過去は説明できない。オークスの日に、あの子の脇で立っていた人間を、データは描けない。それは君の仕事だよ」
電話の向こうで、もう一度紅茶を啜る音がした。
「君は共犯者だ。『灰になるまで、アクセルを踏み続けろ』と言った人間だ。あの日のあの子を、止めなかった人間だ。あの日のあの子を、一番近くで見ていた人間だ」
「……やめろ」
「やめないよ。これは事実だ」
タキオンの声は、妙に穏やかだった。
「君は、あの日のあの子のことを一番知っている。データを読むより、君の記憶の方が、彼女の『閉じている場所』には近い。その場所に触れられるのは、君だけだ」
「……」
「言葉だ、トレーナーくん。君の言葉だ」
「俺の言葉で、あいつは動くのか」
「分からない」
即答だった。
「でも、言葉以外では動かないよ。データは見せても彼女は引き返せない。私が『獲物を選ぶ』と告げた時のあの子の顔を、君は見ただろう?」
七月の理科準備室。タキオンがグラフを並べて告げた時。モエは黙って頷いて、「分かりました」と言った。その日から、空振りが始まった。
「私の言葉は、彼女を立ち止まらせることしかできなかった。動かせるのは、君の言葉だ」
「……」
「明日、隣に座りたまえ」
具体的だった。珍しく。
「隣?」
「隣だよ。向かい合うんじゃない。並んで座る。話しかけなくていい。ただ、隣にいる。共犯者は、向かい合う相手じゃない。隣にいる相手だ」
ペンを置いた。
机の木目を、しばらく見ていた。
「……それでいいのか」
「分からない」
タキオンは同じ言葉を繰り返した。
「私に分かるのはデータだけだ。データは今、ほとんど停滞している。彼女は今、言葉を待っているのではないかね。でも、どんな言葉が彼女を動かすかは、データでは分からない。それは、君が現場で決めることだ」
「……」
「頑張りたまえ、トレーナーくん。君の番だよ」
電話が切れた。
トレーナー室が、急に静かになった。
机の上のクリップボード。今日のタイムシート。三本、遅くはない、でも火のない数字。
その横に、高松宮記念のデータファイル。あの日、あいつが「おかえり」と言った証拠。
そして、その下に閉じられたままのファイルがある。オークスのデータ。
俺は一度も開いていない。開けなかった。
あいつも、開いていないはずだ。開けずにいるはずだ。俺と同じように。
——その重さの出所が、君が思っているものと同じかどうかは、私には分からない。
タキオンの言葉が、ペン先に残っていた。
だが、あいつが別の仮説を口にしなかった以上、俺の仮説で動くしかない。
明日、あの子の隣に座ろう。
声はかけなくていい。タキオンがそう言った。
ただ、隣に座る。
何を話すかは、明日の自分が決める。いや、決めないで行く。あの子の隣に座って、あの子の顔を見て、その時に口から出たものが、きっと正解だ。
それで間違っていたら、間違っていたで、また次の日に座りに行く。
クリップボードを閉じた。
電気を消した。
トレーナー室の窓から、練習場の方が見える。遠くに、街灯が二つ、三つ。今日はもう誰も走っていない。
明日、あの子の隣に座る。
何を話すか、決めていないまま。
ただ、隣に。
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