アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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76話 (わたし)(前)

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

十月。スプリンターズSまで十日。

 

午後の練習場。

 

今日も、火がつかなかった。

 

一本目。コースに出て、加速した。前に誰もいない。

 

当たり前だ、一人で走っているんだから。追いかける背中がない。体は動く。

 

タイムも出る。でも中が空っぽのまま回っている。燃料が入っていないエンジンみたいだ。

 

芝を蹴る音と、自分の呼吸と、風の音。それだけが走っている証拠。体の底は静かなまま。

 

惰性で残りを走って、止まった。

 

二本目。意識を変えてみた。追いかけるんじゃなくて、自分から行く。先頭を取りに行く走り。

 

ラモーヌさんはああしていた。前に誰もいなくても、あの表情ができていた。追いかけなくても走れる人。

 

できなかった。脚は動く。でも中が空っぽのまま回っている。

 

体は走っているのに、どこにもいない感じがする。スタートからゴールまで、ただ通過しただけだった。

 

三本目。何も考えずに走った。頭を空にして、脚に任せた。

 

それが一番マシだった。でも、マシなだけだ。火はつかない。

 

黒猫は寝たまま。

 

三本走って、三本とも空振り。

 

「愛しているわ」。

 

ラモーヌさんの言葉が、まだ頭のどこかにある。追いかけなくても走れる人。前に誰もいなくても、あの顔ができる人。

私には、まだその場所が見えない。「楽しい」と言えるようになった。「食い殺したい」も受け入れた。でも、「愛している」には届かない。走ることの中にある醜いものが邪魔をしている。醜いものを全部受け入れたはずなのに、その先がない。

 

三本目の後、コースの端の芝に座り込んだ。

秋の日差しが低い。靴底についた芝の屑を、指でむしる。汗が冷えて、首筋が少しだけ寒い。

 

絢原さんが隣に来た。声もなく、荷物を置いて、腰を下ろした。それだけ。

 

しばらく黙って、二人でコースを眺めていた。

遠くで誰かが練習している。影が長い。もう夕方に近い。練習場の照明はまだ点いていない。日没までの残り時間を、空の色が教えてくれる。

 

もう少し何かをしたいわけじゃない。ただ、すぐ帰る気になれない。今日も何もできなかったという事実を、もう少しだけここに置いておきたかった。

 

絢原さんは何も聞かない。「どうだった」とも「次はこうしよう」とも。三本走って三本とも空振りだったことは、コースの端で見ていれば分かる。

 

分かっていて、黙って隣に座っている。

 

風が吹いた。十月の乾いた風。芝が揺れて、さらさらと音を立てた。

 

「……トレーナー」

 

「ん」

 

「私が走ってる時、どう見えますか」

 

絢原さんが少し間を置いた。

 

「どういう意味だ」

 

「そのまんまの意味です。外から見てて、どう見えるか」

 

また間。この人は答えを探す時、こういう間を作る。ストップウォッチの数字ではなく、自分の目で見た何かを、言葉に変換しようとしている。

 

「……速い」

 

「それだけですか」

 

「……強い」

 

「それだけですか」

 

黙った。今度は長い沈黙。芝の上に落ちる影が、少しだけ伸びた。

 

風の音だけがある。遠くの練習場で、誰かが走っているのが小さく見える。

 

「……楽しそうに」

 

声が変わった。さっきまでと違う音だった。言葉を選ぶ声ではなく、こぼれた声。

 

「獰猛に走ってる時のお前は、好きだ」

 

静かだった。

 

風が吹いている。遠くで誰かが走っている。

 

絢原さんは前を向いたままだった。こちらを見なかった。言ってしまったことに気づいている顔。

 

でも訂正はしない顔。コースの向こうの木立を見つめている。

 

胸の中で何かが動いた。

 

楽しそうに。獰猛に。

 

この人はずっと見ていた。デビュー戦から。未勝利から。

 

ファンタジーステークスから。JFも、チューリップ賞も、桜花賞も。全部。

 

ストップウォッチを持って、コースの端に立って、ずっと。

 

獰猛に走ってる時のお前は、好きだ。

 

それは、いつの私だろう。

 

高松宮記念で、バクシンオーさんの背中を追いかけていた時。フェブラリーSで、エスポワールさんたちの間を切り裂いていた時。阪神カップで、体が勝手に動いた時。

 

全部見ていた人が、好きだと言った。

 

なら。

 

一番——激しく走ったのは、いつだろう。

 

答えは分かっている。考えるまでもなく、体が知っている。

 

「……オークスも」

 

口が動いた。自分でも止められなかった。

 

「オークスの時も、そう見えましたか」

 

聞いてしまってから、自分の声の温度に驚いた。震えてはいない。でも、低かった。

 

絢原さんが黙った。

 

長い沈黙。今度の沈黙は、さっきとは種類が違う。言葉を探しているのではない。

 

言葉があるのに、出せない。

 

あの日のことを思い出しているんだと分かった。

 

東京。五月。2400メートル。壊れると分かっていて出走を許した。「灰になるまで、アクセルを踏み続けろ」と言った。共犯者として。

その結果を、スタンドから見ていた。先頭を走っていた私が第四コーナーで崩壊して、一人だけ歩くようにゴールに向かうのを。最下位でタイムオーバーで、そのまま倒れたのを。

 

「楽しそう」とは言えない。「獰猛だった」とも言えない。あれは楽しさでも獰猛さでもなかった。壊れかけの体を引きずって、何者でもなくなって、ただゴール板まで歩いた。走ったとすら呼べない。

 

絢原さんに「好きだ」とは言わせられない。あれについては。

 

風の音だけがあった。長い風だった。芝が波のように揺れて、コースの向こうの木立がざわめいた。

 

「……好きとは、言えない」

 

間があった。

 

「あんな走り方、二度とさせない」

 

声が、少し低くなった。

 

「……あの時のお前が、忘れられないほど綺麗だったとしてもだ」

 

それだけだった。

 

好きとは言えなかった。あの走りを肯定する資格が、送り出した側にはない。それを分かっている。

 

でも、「二度とさせない」と言った。

 

未来形だった。過去形じゃなかった。この人はあの日、私を止められなかった自分を、今も責めている。

 

もう二度と、あんな走り方をさせない——それは自分に対する誓いだった。

 

そして、その上で「綺麗だった」と言った。

 

肯定じゃない。許しでもない。でも、見惚れていた自分を、隠さなかった。

 

止めるべきだった瞬間に見惚れていた自分を、認めた上で、それでも私に伝えた。

 

この人の中に、あの直線がまだ刺さったまま残っている。

 

コースを見つめた。

 

遠くで練習していた誰かが、いつの間にか帰っていた。練習場に二人だけが残っている。日差しが傾いて、芝の色が変わっている。

 

緑が、少しだけ金色がかっている。

 

胸の奥で、何かが緩んだ。

 

泣きたいのとは違う。怒りでもない。もっと深い場所の、もっと古い何かが、ほんの少しだけ動いた。

 

ずっと固く閉じていたものが、ほんの少しだけ。

 

ずっと、オークスは「触ってはいけないもの」だった。失敗の記録。壊れた証拠。

 

繰り返してはいけない禁忌。あの日から、体は自分ではあの火を起こさなくなった——気がする。誰かに煽られないと燃えない。

 

阪神カップで、フェブラリーSで、高松宮記念で、外からの刺激がきて初めてタガが緩んだ。それ以外では、ずっと静か。

 

たぶん、リミッターみたいなものだ。

 

オークスで壊れた体が、自分で自分にかけた枷——なのかもしれない。二度とあんな思いをしないように。もうあそこには近づくなと、体が頭に言い聞かせているのかもしれない。

 

だから自分では火を起こせない。起こそうとすると、あの日の記憶が胸を押さえつけにくる気がする。

 

セントウルSで火がつかなかったのも、タキオンさんが言った「体が獲物を選ぶ」も、根っこは同じなんじゃないか。オークスが、ずっと体のどこかに残っていて、そこが枷を作っている。

 

ちゃんとは分からない。タキオンさんならデータで説明できるのかもしれない。でも私は、体の中で何が起きているのかを数字で知っているわけじゃない。

 

ただ、そう感じる。

 

棚の奥に仕舞ったつもりで、仕舞えていなかった。体の真ん中で、ずっと鍵をかけていたのかもしれない。

 

でも、絢原さんは——あの日を、綺麗だったと言った。

 

失敗でも禁忌でもなく、見惚れていたと。止めるべき瞬間に、見惚れてしまった自分を、隠さなかった。

 

棚の奥の扉が、少しだけ開いた気がした。

 

扉の奥を、初めて見た気がした。

 

棚の奥に仕舞っていたのは、壊れた体の記憶だけじゃなかった。もう一つ、その奥に、もっと重いものがあった。

 

絢原さんを、巻き込んだ。

 

あの日、私は自分の意志で2400メートルに突っ込んだ。ママの影を焼き尽くすために。でも、一人で突っ込んだわけじゃない。

 

絢原さんは「灰になるまで、アクセルを踏み続けろ」と言った。送り出した側になった。共犯者として、隣に立った。

 

私が壊れることで、この人のキャリアに傷がついた。教え子を壊した指導者、と書かれた時期があった。絢原さんは何も言い返さなかった。

 

ただ黙って、私の入院先に通ってきた。

 

あれは、私のせいだ。

 

壊れた体は治った。実際、走れるようになった。でも、絢原さんに刻んだ傷は、私では消せない。

 

それが、ずっとつかえていた。

 

謝ればよかったのに、謝れなかった。謝ったら、あの日のことを正面から認めることになる。自分で自爆して、この人を巻き込んだ事実を、全部引き受けることになる。

 

重すぎて、避けていた。

 

——今、言える気がする。

 

さっき、絢原さんは「綺麗だった」と言った。あの日の私を、止めるべき瞬間に見惚れていた、と。

 

ラモーヌさんと同じだ。

 

「灰に成っても走る子がいるのね」——ラモーヌさんはそう言った。絢原さんも、同じところを見ていた。

 

私が灰の底に埋めたつもりでいたものを、二人とも、見ていた。

 

だから、私も隠さなくていい。

 

口に出して、いい。

 

「……トレーナー」

 

「ん」

 

「あの、オークスのこと」

 

声が、少しかすれた。

 

「ごめんなさい」

 

絢原さんが、少し間を置いた。

 

「何がだ」

 

「全部、です」

 

「……」

 

「あの時、私を走らせるって、トレーナーに決めさせました。壊れて、入院して、毎日通わせました。メディアに『教え子を壊した』って書かれても、トレーナーは何も言い返さずに、私のことだけ考えてくれていた」

 

「……」

 

「私がトレーナーに負わせたものは、それだけじゃないと思うんです。口に出ないだけで、もっとたくさんある。私、それをずっと、見ていました」

 

「……」

 

「その上で、今も……トレーナーのキャリアには、あの日のことが残っている。本当は、今の私が勝てているのは、トレーナーの指導のおかげなのに、世間は『カレンモエの才能』としか書かない。トレーナーの名前は、ほとんど出ない」

 

「……」

 

「このまま私が卒業したら、トレーナーには、あの日のマイナスだけが残る」

 

声が、少し震えた。

 

「全部、私のせいです。ずっと、謝れずにいました」

 

言ってしまった。

 

扉の奥でつかえていた重さが、ずっしりと、でも確かに、口から出ていった。謝れた。やっと、謝れた。

 

~~

 

――Trainer: Ayahara

 

絢原は、前を向いたまま、少し間を置いた。

 

意外な言葉だった。

 

オークスの話を切り出されるとは思っていた。あの日のことに触れないまま、スプリンターズSに向かうのは無理だろうと思っていた。だから、さっき「綺麗だった」と口にした。

 

あの言葉が、閉じていた扉を開ける鍵になればいい、と思っていた。

 

開いた。

 

でも、開いた先に、こんな言葉があるとは思わなかった。

 

——全部、私のせいです。

 

この子は、そこまで見ていたのか。

 

オークスの翌日、病院のベッドの上でこの子は声を失っていた。脚は繋がっていた。でも、立てなかった。

 

検査のたびに小さく震えていた。俺が来ると、泣きそうな顔をした。でも泣かなかった。

 

泣いたら何かが終わる、とでも思っているような顔だった。

 

毎日、病室に通った。通ったというより、通わなければ自分が保たなかった。俺の決断でこの子をこうしたという事実を、一日でも離れたら抱えきれなくなる気がした。

 

週刊誌が出た。ネットで動画が切り取られた。「教え子を壊したトレーナー」と書かれた。

 

反論はしなかった。反論できなかった。事実だと思っていた。

 

あの子は、そのどれも、自分のことで手一杯で見る余裕なんかなかったはずだと思っていた。ベッドの上で、自分の脚のことだけを考えているはずだと。

 

違った。

 

この子は、全部、見ていた。俺がどんな顔で病室に入ってきたか。世間がどう書いたか。

 

俺がそれをどう受け止めていたか。自分の体がボロボロだった間も、俺の方を見続けていた。

 

決断を負わせたこと。病室に通ったこと。叩かれても黙っていたこと。

 

口に出ないもっと多くのもの。そしてキャリアの評価。——全部、俺が受けていた負荷として、あの子の中に溜まっていた。

 

俺はずっと、あの日を「止められなかった罪」として抱えてきた。それがあの子にも伝わっていたと思ったことはない。あの子は自分が壊れたことで精一杯で、俺のことまで気が回っていないと思っていた。

 

違った。

 

この子は、俺のことを、俺が思っていたよりずっと深く見ていた。自分が壊れたことより、俺に負わせた重さの方を、重く抱えていた。

 

それだけじゃない。

 

「このまま私が卒業したら、絢原さんには、あの日のマイナスだけが残る」——この子は、そこまで先を見ている。今の自分の走りが、俺のキャリアを戻せていないことまで、分かっている。

 

俺のキャリアのことを、俺より先にこの子が考えていた。

 

——なら。

 

この子が抱えているものに、俺が応えなきゃいけない。この子が重さを降ろせるように。これ以上、俺のことで、この子の走りを重くしないように。

 

この子が俺に感じている負い目を、俺の側が利用してはいけない。「お前には責任がある」と仄めかして、この子の進路を俺の近くに繋ぎ止めるようなことは、絶対にしちゃいけない。それは、ウマ娘をトレーナーの私物にする行為だ。

 

俺が一番、そうなっちゃいけないと思ってきたことだ。

 

昔、カレンチャンに憧れてトレーナーを目指した。でも、あの人を俺の手で育てたい、とは思わなかった。あの人の走りは、あの人のものだ。

 

その隣で誰かが「俺が育てた」と言う構図を、俺は見たくなかった。ウマ娘の走りは、ウマ娘のものだ。——カレンモエの走りも、この子のものだ。

 

——なら、今、俺が言うべきことは、一つしかない。

 

お前のせいじゃない。気にするな。お前の未来を、俺のことで重くするな。

 

それを言葉にして、返さなきゃいけない。

 

口を開いた。

 

「大丈夫だ」

 

「……」

 

カレンモエは、何も言わなかった。こちらを見ている。言葉の続きを待っているような顔だった。

 

続けた。

 

「俺のことは気にするな。これでも、まだまだ若いつもりだからな。この先、なんとでもなるさ」

 

軽く聞こえるように、少し息を抜いて言った。真面目に受け取って、この子がまた重く抱え直したら、意味がない。

 

モエは、まだ何も言わない。

 

言うべきことは、もう一つある。言っておかないといけない。この子が気にしなくて済むように。

 

この子の未来を、俺のことで狭めないように。

 

少し間を置いて、続けた。

 

「俺に義理立てする必要はない。卒業したら、好きな所へ行っていいんだぞ」

 

コースの端の芝が、風に揺れていた。

 

モエが、信じられないものを見るような顔で俺を見ている。

 

ちょっとクサすぎただろうか。

 

それでも、言うべきことは言った。今の言葉を、ちゃんと受け取ってくれたなら、それでいい。

 

将来のあるウマ娘の重荷にはならない。

 

それがトレーナーの使命ってものだろう。




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