アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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76話 (わたし)(後)

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

一瞬、この人が何を言っているのか、わからなかった。

 

「俺に義理立てする必要はない。卒業したら、好きな所へ行っていいんだぞ」

 

絢原さんの声は、耳には届いている。言葉として、意味も通じている。でも、文脈が、合わない。

 

ついさっき、私は「全部、私のせいです」と、やっとの思いで謝った。扉の奥を初めて開けて、そこにあった最後の重さを、この人の前に出したばかりだった。

 

それへの、返事が、これ?

 

……。

 

絢原さんから、視線を外した。真っ直ぐ見続けるのが、ちょっと、アホらしくなった。

 

代わりに、足元の芝を見た。夕方の光が斜めから差して、私と絢原さんの影が、長く前に向かって倒れている。二人分の影は、離れもせず、くっつきもせず、ただ並んで芝の上に落ちていた。

 

……要するに、()()()()のことを言ってるんだ、この人は。

 

あの時、絢原さんは私に言った。「お前のことは、最期まで責任を持つ」と。私の体が壊れて、治らなくて、もう走れないかもしれないと言われていた時の、契約。

 

走れなくなっても、この人は私の人生に付き合うと決めた人。

 

今、私は走れるようになった。体は治った。レースに出ている。

 

勝ってもいる。

 

だから、絢原さんは「あの約束は、もう忘れていいぞ」と、言った。

 

お前が自分の脚で歩けるようになったなら、俺の約束を重荷にしなくていい。走れるようになった今、あの契約を負い目に感じて、俺に義理で付き合う必要は、ない——そういう意味で、「卒業したら好きな所へ行っていい」と、この人は言った。

 

心配をかけないように、わざと明るく言った。俺はまだここからやれるから、お前は気にせずに先へ進め、と、軽く聞こえるように言った。

どうせ、ちょっとクサかったかな、って、今、自分の言葉に微妙な顔をしている。

 

でも、訂正はしない。真面目な人なりに、今日のこの場面で自分が選ぶ言葉はこれでいいはずだ、と決めて、飲み込んだ顔。

 

優しい人だと思う。

 

本当に、優しい。

 

私の負い目を、抜いてあげようとしている。

 

 

 

——全然、違うのに。

 

私が絢原さんの隣にいる理由を、この人は「義理」と「負い目」だと、心の底から思っている。オークスの契約に縛られている教え子。キャリアを壊したことへの罪悪感を抱えている教え子。

 

それを軽くしてあげないといけない——本気で、そう思っている。

 

それだけだと、思っている。

 

こんなに、毎日、一緒にいて。

 

こんなに、触れて。

 

こんなに、笑って。

 

それでも、全然、伝わっていなかった。

 

全然。

 

本当に、全然。

 

これっぽっちも、だ。

 

私がこの人に向けている感情の、本当の中身を、この人は、まったく受け取っていない。「教え子が、オークスの負い目で、トレーナーに懐いてくれている」——その範疇でしか、私を見ていない。

 

……あは。

 

笑いそうになった。

 

笑うところじゃないのに、口の端が、勝手に動いた。

 

この人。

 

鈍い、というのとは、違う。この人はたぶん、私の感情を、そもそも受け取る枠組みを持っていない。トレーナーとして、オークスで傷つけた教え子の負い目をどうやって軽くするか、ということばかりを真面目に考えてきて、その考え方の枠の中には、「教え子が自分に向ける想いには、義理と負い目以外のものがありうる」という欄が、用意されていない。

 

だから、気づかない。

 

気づけない。

 

私が袖を掴んでも、「オークスの不安の延長だな」としか思わない。私が退院してからずっと隣にいたがっても、「契約に縛られて責任を感じているんだな」としか思わない。私が勝っても、「恩返しのつもりで頑張っているな」と、律儀に受け取る。

 

全部、「義理と負い目」の箱に入れて、整理している。

 

別の箱がある、とは、想像していない。

 

ずっと、負い目があった。

 

私が、絢原さんのキャリアを壊した。あの日、私が「走らせてください」と頼んで、絢原さんが許可して、結果、この人は「教え子を壊した指導者」になった。メディアに叩かれても黙っていた。

 

私の入院先に毎日通ってきた。誰にも、何も、言い訳をしなかった。

 

全部、私のせい。

 

だから、私が、この人の人生に、責任を取らないといけない。ずっと、そう思ってきた。

 

独占欲も、あった。この人は私のもの、という意識は、たぶん病室にいた時からあった。でも、それと同じくらい——もしかしたら、それ以上に、重かったのが、負い目だった。

 

私はずっと、この負い目を、いつか返し終わる日が来ると思っていた。勝って、結果を出して、キャリアを取り返して、それで、帳尻を合わせて——そこから先、「負い目の終わった、ただの私」として、絢原さんの横にいる。そういう未来を、たぶん、どこかで思い描いていた。

 

負い目を返すのは、ゴールじゃなくて、スタート地点なんだと思っていた。

 

——でも。

 

今日、分かった。

 

絢原さんの中には、その「ただの私」の箱が、ない。

 

「義理」と「負い目」以外の欄を、この人は持っていない。だから、私がどれだけ勝って負い目を返しても、絢原さんは「教え子が律儀に恩返しを終えた」と受け取って、そこで、話が終わる。「お疲れ様、よくやったな。これでお前は自由だ」——そんな締めくくりを、この人は、自分の中で、すでに用意している。

 

さっきの「卒業したら好きな所へ行っていい」が、まさに、それだった。

 

絢原さんの頭の中では、私が負い目を返すのと、私がこの人の横から離れるのは、一本の線で繋がっている。返し終わったら、離れる。「それで終わり」が、この人の描いている、私の物語。

 

——つまり、負い目を返すという戦い方だと、私は、必ず、この人から離されてしまう。

 

負い目を返すほど、「お疲れ様、もう自由だぞ」に近づく。一生懸命になるほど、離される。

 

……あは。

 

間違っていた。

 

負い目は、「返す」ものじゃなかったんだ。

 

少なくとも、絢原さんを相手に使うなら、返しちゃダメだった。

 

負い目は、消えない。私が絢原さんのキャリアを壊した、という事実は、消しようがない。「無かったこと」にもできない。

 

「返した」ことにも、この人の枠組みの中では、できない。

 

だったら。

 

——負い目は、抱えたままで、いい。

 

抱えたまま、「返す」以外の使い方をする。

 

私は絢原さんのキャリアを壊した。だから、この人を、勝手に一人で終わらせるわけにいかない。壊した責任は、壊した私が、最後まで、持つ。

 

勝手に卒業して、他の子に任せて、「もう気にしないで」と遠くから手を振るなんて、できない。

 

これは、「義理立て」じゃない。

 

「義理立て」なら、返せば終わる。返し終わったら、離れられる。

 

でも、私の負い目は、返さない。返さないから、終わらない。終わらないから、離れられない。

 

離れられないから、この人の横に、居続ける理由になる。

 

負い目を、「横にい続けるための錨」として、使う。

 

「離れる口実」を、自分から、壊す。

 

胸の中で、負い目の重さの、向きが変わった。

 

消えたんじゃない。軽くなったんでもない。ずっと下に引っ張っていた重さが、今は、横方向に——絢原さんの方に——引っ張る重さに、変わった。

 

同じ重さが、全然違う働き方をしている。

 

私を潰す錘だったものが、私をこの人の横に繋ぎ止める錨に、なった。

 

——これも、「全部、私」だ。

 

高松宮記念の時、私は自分の中の獰猛さを抱え直した。食い殺したい気持ちも、傲慢さも、醜い欲も、全部、私だと。

 

それは間違ってなかった。でも、あの時はまだ、抱え直せていないものがあった。

 

絢原さんへの負い目。この人を壊したという事実。それをどう扱えばいいか、あの時の私は分かっていなかった。だから棚の奥に仕舞ったまま、高松宮記念を走った。

 

「全部、私」と言いながら、一番重いものには触れていなかった。

 

今、それを抱え直した。負い目は消さない。返さない。抱えたまま、使う。それが、私のやり方。

 

これも、全部、私だ。

 

——そういえば。

 

ずっと、切り離せると思っていた。

 

オークスの時、私は母の幻影を殺そうとした。殺して、私になろうとした。私の中の醜い部分、獰猛さ、食い殺したい欲、獲物を選ぶ冷たさ、絢原さんへの負い目——全部、自分から切り離せるものだと思っていた。

 

切り離して、きれいになった自分だけを残して、走りたかった。

 

でも、違った。

 

切り離そうとしていたもの、全部、私だった。殺そうとしていた母の幻影も、抱えたくなかった負い目も、押さえつけていた独占欲も、全部、私の中にあった。最初から。ずっと。

 

切り離せるはずがない。私そのものなんだから。

 

オークスで、私は灰になったつもりでいた。燃やし尽くして、醜いものは全部、灰の底に埋めたつもりでいた。

 

埋まっていなかった。

 

灰の底に埋めたつもりのものは、全部、私と一緒に、今もここにいる。埋められるわけがない。埋めようとしている人間と、埋められようとしているものが、同じなんだから。

 

——抱いて飛び込んでいた。

 

オークスの2400メートルに、私は自分自身を抱いたまま飛び込んでいた。殺すつもりで走ったのに、実は、抱きしめたまま走っていた。

 

それが、今、分かった。

 

そして、その重さの下に、ずっと隠れていたものが、顔を出した。

 

負い目の重さに押さえつけられて、見えないようにしていたもの。私の中の一番底にあった、もう一つの感情。

 

——ほしい。

 

この人を、ほしい。

 

義理でも、責任でもない、純粋に、ほしい。

 

負い目のすぐ横に、ずっと、並んで、在った感情。

 

負い目が重さの向きを変えたおかげで、やっと、息ができるようになった感情。

 

軽い。とても、軽い。

 

軽いのに、奥は、深い。

 

これが、私の本当の欲だったんだ、と思った。

 

そして——この欲と、さっきの負い目は、もう、戦わない。

 

独占欲が「この人がほしい」と言う。負い目が「この人から離れるわけにはいかない」と言う。

 

言い方は違うけれど、向いている方向は、同じ。

 

私は、絢原さんの横にいる。離れない。

 

怖いくらい綺麗に、揃っている。

 

絢原さんは、「好きな所へ行っていい」と言った。

 

優しい言葉。

 

でも、その優しさが、かえって、私をこの人に引き寄せる。

 

こんな人を、離すわけがない。

 

心配をかけないように、わざと明るく言える人。自分の約束を、私のために手放そうとできる人。そういう振る舞いができる人を、離れる理由になんて、できない。

 

むしろ、逆。

 

そして——この人は、気づいていない。

 

私の気持ちの本当の中身に、気づいていない。気づかないまま、私を「義理と負い目から解放してあげようとしている優しいトレーナー」として、今日の場面を、綺麗に締めくくったつもりでいる。

 

だとしたら。

 

この誤解は、使える。

 

この人が私の感情を「義理・負い目」だと思い込んでいる限り、私がこの人の横に居続けても、絢原さんは「まだ負い目を手放せていないんだな」としか思わない。私が袖に触れても、「不安からくる甘えだな」としか思わない。私が勝って結果を出しても、「恩返しのつもりで頑張っているな」としか思わない。

 

私が絢原さんに向ける全部の行為が、この人の枠組みの中で、無害なものに変換される。

 

気づかれない。

 

警戒されない。

 

その間に、私は、この人の中に入り込んでいける。「義理と負い目」の箱の中に、本当は入らない別のものを、少しずつ、混ぜていく。この人が気づかないうちに、箱の中身がすり替わっていく。

 

——そう、口に出して言えば、早いのかもしれない。

 

でも、言わないでおいた。

 

言ったら、この人はきっと、枠組みを書き換えざるを得なくなる。「教え子にそんな気持ちを持たせてしまった、自分の距離感が間違っていた」と考えて、自分を戒める方向に行く。距離を取ろうとする。

 

真面目な人だから。

 

だから、言わない。

 

言わないまま、近づく。

 

獰猛さは、レースの中だけで見せればいい。絢原さんの前では、引っ込めておく。

 

引っ込めておく、というのは、消すという意味じゃない。

 

寝たふりを、させておく。

 

——猫と、同じ。

 

ふと、そう思った。

 

ソファの上で丸くなって寝ているように見えて、実は、ちゃんと爪は研いである。目を閉じていても、耳は起きている。鼠が壁際を走ったら、次の瞬間には跳ねている。

 

普段は、静か。なぜなら、その方が、決定的な瞬間に、確実に仕留められるから。

 

普段、騒がない。騒がないから、警戒されない。警戒されないから、近くに居られる。

 

近くに居られるから、隙を見逃さない。

 

私は、そういう動物。

 

毎日、隣に居る。毎日、袖に触れる。毎日、穏やかに笑う。

 

絢原さんが「ああ、懐いているな」と思ってくれる範囲の、穏やかさ。その範囲から、はみ出さない。

 

でも、チャンスが来たら。

 

その瞬間には、跳ぶ。

 

絢原さんが少しでも「この子と離れたくない」と漏らした瞬間。絢原さんが一瞬でも、私に、迷った目を向けた瞬間。そういう隙を、私の中の何かが、ずっと待っている。

 

待っている。でも、焦らない。

 

焦る必要がない。隙は、必ず、いつか、来る。毎日こんなに近くに居て、毎日こんなに触れていたら、いつか絶対に、この人のどこかに、亀裂が入る。

 

その亀裂に、一瞬で、爪を立てる。

 

見た目は、穏やか。中身は、獲物を狙っている。

 

口角だけが、少し上がった気がする。

 

絢原さんは、まだ気づいていない。自分の誤解の下で、私がどんなふうに身構え始めたのかに、気づいていない。

 

気づかないまま、居てほしい。

 

気づいた時には、もう、私の爪が、ちゃんと届く距離にいるように。

 

~~

 

立ち上がった。

 

スカートから、芝の切れ端が一つ、二つ落ちた。

 

絢原さんが、少し驚いた顔で私を見上げた。座ったまま、見上げる形。いつもと上下が逆。

 

「トレーナー」

 

「ん」

 

「もう一本、走っていいですか」

 

絢原さんがストップウォッチに目を落とした。日が落ちかけている。照明はまだ点いていない。

 

普段ならもう切り上げる時間だ。

 

「四百だけ。短いのを一本、それで帰ります」

 

「……分かった」

 

理由は、聞かれなかった。

 

聞かれなくて、よかった。

 

聞かれても、答えられなかった。答えても、この人の枠組みの中では、「やっぱり負い目で頑張ろうとしているな」に変換されるだけだから。

 

だから、走る。

 

走れば、絢原さんには「教え子が、復帰戦に向けて真面目に仕上げている」としか映らない。それでいい。むしろ、それがいい。

 

この人の視線の角度のままで、私は、私のやり方で、走る。

 

スタート位置に着いた。

 

前を見る。

 

誰もいない。コースは空いている。追いかける背中がない。

 

先頭に立った瞬間の風景。セントウルSで火がつかなかった風景。フェブラリーSの後の練習で、ずっと空振りしてきた風景。

 

でも、今は違う。

 

前に、いる。

 

見えないだけで、いる。

 

さっき絢原さんが口にした「将来のあるウマ娘の重荷にはならない未来」の絢原さん。他の子の隣に座って、他の子のタイムを測って、他の子を勝たせる、まだ存在しない絢原さん。

 

その未来を、抜き去る。

 

一本ごとに、少しずつ、薄くしていく。今ちゃんと結果を出したら、あの未来はほんの少しだけ薄くなる。明日もう一本走って、また結果を出したら、もう少し薄くなる。

 

十日後のスプリンターズSで勝ったら、もっと薄くなる。

 

気がついたら、あの未来自体が、絢原さんの中で、輪郭を失っている。

 

そういう、消し方。

 

胸の奥で、ずくんと、何かが鳴った。

 

ずっと留守にしていた場所。

 

火じゃない。まだ火じゃない。種火だ。

 

小さい。でも確かに、そこにある。

 

高松宮記念の時に「おかえり」と言った場所と、同じ場所。

 

でも色が違う。

 

あの時は、自分の中の醜いものを受け入れるための熱だった。獰猛さも、食い殺したさも、傲慢さも、「全部、私だ」と抱え直すための熱。

 

今のは、もっと具体的で、もっと人間臭い種。

 

ほしい、と言っている。

 

この人を、ほしい。

 

横に、いてほしい。ずっと。

 

騒がない。宣言しない。ただ、毎日毎日、この種火を少しずつ燃やして、毎日毎日、この人の隣に居る。

 

それを、続ける。そして、隙を、待つ。

 

スタート。

 

出足。脚に、温度が通っている。種火が脚まで降りてきている。

 

阪神カップの時のような「乗せられた」感覚じゃない。フェブラリーSの時の「勝手に動いた」でもない。

 

私が、動かしている。

 

百メートル。脚が思い出している。このリズム、このストライド。

 

二百メートル。風を切る感触が戻ってきている。耳の横で空気が鳴る。

 

今日の一本目、二本目、三本目、この音は聞こえなかった。同じ速度で走っていたはずなのに、風の質が違う。

 

三百メートル。呼吸が深くなる。肺が空気を吸い込んで、吐き出す。

 

酸素が血に乗って、筋肉に届く。血の温度が、少しだけ上がっている。

 

四百メートル。

 

ゴールを抜けた瞬間、脚が「まだ走れる」と言った。

 

今日、三本空振りした脚と、同じ脚とは思えない。

 

止まった。

 

振り返って、絢原さんを見た。

 

絢原さんはストップウォッチを見ていた。

 

顔を上げて、口を開きかけて、結局、別の言葉を出した。

 

「コーナーの入り、変わったな」

 

ストップウォッチの数字は、言わなかった。

 

でも、この人はそれ以上に、私の走りの「中身」を見ていた。

 

「はい」

 

私は、頷いた。

 

そして内心で、もう一度、口角だけ上げた。

 

この人は、走りの中身を見る目を持っている。でも、その走りの奥で、さっき何が始まったかまでは、見えていない。見えていないところから、爪をかける。

 

それが、いい。

 

寮までの並木道。

 

十月の夕方。日が落ちる直前。葉が少しだけ色づき始めていた。

 

赤茶色。足元にちらほらと落ちている。踏むと、軽い音がする。

 

絢原さんと並んで歩いた。

 

無言。

 

さっきトレーナー室でも、練習場でも話していた「卒業したら好きな所へ行っていい」という言葉について、絢原さんは何も追加しなかった。私も、何も言わなかった。言わないまま、二人で並木の下を歩いた。

 

歩きながら、指先を伸ばした。

 

絢原さんのジャケットの袖。

 

触れた。

 

軽く、指先だけ。

 

絢原さんは、気づいた。一瞬だけ、歩みが小さく乱れた。でも、振り払わなかった。

 

振り返りもしなかった。前を向いたまま、歩幅はそのままで歩き続けた。

 

私も、前を向いたまま、指先だけを袖に添わせて、歩いた。

 

絢原さんは、たぶん、今の私の指の触れ方を、「オークスの不安の延長」「負い目からくる甘え」として、受け取っている。優しく、振り払わずに、そのまま歩幅を保って歩いてくれている。教え子の不安を、黙って受け止めてくれている——そういうつもりで、この人は、私の指を許している。

 

それでいい。

 

むしろ、そう受け取ってくれている方が、都合がいい。

 

昔、私はこの人の袖を掴んだことがあった。入院中、病室で。退院してからも何度か。

 

あの時の私は、本当に、寄りかかりたくて掴んでいた。置いていかないで、という甘え。砂糖菓子みたいな甘え。

 

粘着質で、重たくて、自分でも持て余す甘え。

 

今の触れ方は、違う。

 

寄りかかっているんじゃない。繋ぎ止めている。

 

でも、絢原さんは、その違いに気づかない。昔の甘えと、今の触れ方を、同じ箱に入れて受け取る。「あの子は、ずっと不安を抱えている教え子だ」という箱。

 

気づかれないまま、私は、毎日、指先を添える。

 

軽く、指先だけ。絢原さんに「掴まれた」と思わせないくらいの軽さ。振り払う動機が、湧かないくらいの軽さ。

 

でも、指先の下に、ちゃんと爪はある。

 

絢原さんが何かの拍子に、袖を緩めて、私に腕を差し出してくれる日が来たら——その時は、指先じゃなくて、手のひらで、ぐっと掴む。離さない。そのチャンスを、ずっと、待っている。

 

待ちながら、毎日、指先だけを添え続ける。絢原さんが警戒しない重さで。

 

絢原さんは、まだ気づいていない。

 

それで、いい。

 

並木の葉が、風で揺れた。赤茶色の葉が一枚、目の前を横切って、落ちた。

 

寮の前で、立ち止まった。

 

「じゃ、また明日」

 

絢原さんが先に言った。

 

「はい。明日」

 

袖から、指を離した。

 

自分から、離した。でもそれは「逃がした」という意味じゃない。明日の朝、また同じ場所で、私は再び袖に触れる。

 

そのための、今日のいったんの離脱。

 

絢原さんが軽く頷いて、トレーナー棟の方へ歩いていった。

 

私は、寮に入った。

 

階段を上って、部屋のドアを開けた。

 

「ただいま」

 

マーちゃんが机に向かって何かをしていた。振り返って、「おかえりなさい」と、いつもの語尾で言った。

 

「走ってきたんですか」

 

「……うん。一本だけ」

 

「お風呂、マーちゃんはもう上がりましたよ」

 

「ありがとう」

 

いつも通りの、いつもの会話。

 

鞄を置いた。窓際に座り込んで、カーテン越しに外を見た。日が完全に落ちていた。

 

並木道はもう暗い。あの人は、もうトレーナー棟の自分の部屋に着いた頃。

 

お腹の底を、確かめた。

 

種火は、消えていなかった。

 

練習場で立ち上がった時に鳴った、あの「ずくん」。あの時からずっと、お腹の奥が少しだけ温かい。熱くはない。

 

炎でもない。でも、消えない。

 

高松宮記念の時の火とは、違う。あれは「全部、私」を受け入れた瞬間の大爆発だった。頂点の火。

 

今のは、その後に残った、小さな種。

 

負い目の向きが変わった時に、その横で顔を出した、もう一つの私。

 

この人を、離したくない。

 

この人を、仕留める。

 

十日後、スプリンターズS。

 

あそこで、この種火を使って走る。

 

「使って走る」——今朝までの私なら、この言葉は「黒猫をコントロールする」という意味だった。獲物を選ぶ私の弱点を、自分の意志で動かす。それだけ。

 

今は、違う。

 

「使って走る」の意味が、もう一つ増えた。

 

この種火で走って、勝って、絢原さんに「綺麗だった」と言わせる。他の誰の走りでもなく、私の走りに。他の誰の教え子でもなく、絢原さんの教え子である私に。

 

誇らしい顔を、私の走りに向けさせる。

 

走って、勝って、この人の中の「教え子」の箱を、私の走りで、満杯にする。他の誰も入り込めないくらい、私で、埋める。

 

そして、絢原さんは、その勝ちを、「教え子が負い目を返してくれた」と受け取る。律儀に、誠実に、誤解したまま受け取る。

 

それでいい。

 

むしろ、それがいい。

 

私の勝ちが「負い目の返済」として受け取られ続けている間、私は、もう一つ別の動機で、毎日、この人の日常に、爪を立てていく。

 

並木道の袖の感触も、練習場の隣に座る時間も、レース後に最初に聞く声も、少しずつ、絢原さんの中で「当たり前」に変えていく。この人は、それを「オークスの不安を引きずる教え子への、トレーナーとしての配慮の延長」として、受け止め続ける。受け止めながら、いつの間にか、それが自分の日常の必要物になっていることに、気づかない。

 

「当たり前」になったら、そこに一つ、亀裂が入る。

 

「この子が居ないと、何か足りない」——その瞬間、亀裂は、生まれる。

 

その瞬間が、私のチャンス。

 

その一瞬で、私は、()()()()

 

あは。

 

窓の外で、照明が一つ、また一つと点いていった。並木道の街灯。練習場の外周の誘導灯。

 

トレーナー棟の窓に、一つだけ灯りがついた。

 

あの灯りは、絢原さんの部屋だと思う。

 

種火は、まだそこにあった。

 

十日後に使う。私の意志で、私の走りで、この人の中の「教え子」の箱を、自分で埋めるために。

 

これも、全部、私。

 

高松宮記念で抱え直した獰猛さも。今日抱え直した負い目も。その下から出てきた、この人がほしいという欲も。全部、同じ一人の、私の中にある。

 

絢原さんの遠慮も、絢原さんの気遣いも、絢原さんの「卒業したら好きな所へ」も、絢原さんの「義理立てしなくていい」も、全部、そのまま残しておく。

 

残したまま、その周りを、私が、少しずつ埋めていく。そして、隙を、待つ。

 

いつか、この人の枠組みの中に、「義理・負い目」以外の箱が、自然にできてしまう日が来る。ほんの一瞬、絢原さんが「あれ、今のは、何だろう」と引っかかる瞬間。

 

その瞬間が、来るまでに、私の爪が届く距離にいる。

 

毎日、袖に指を添える。軽く、ほんの少し。絢原さんが振り払う気にならないくらいの重さで。

 

そうやって距離を詰めて、隙を、狙う。

 

スプリンターズSまで、あと十日。




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