――Anti-Hero: Curren Moe
一瞬、この人が何を言っているのか、わからなかった。
「俺に義理立てする必要はない。卒業したら、好きな所へ行っていいんだぞ」
絢原さんの声は、耳には届いている。言葉として、意味も通じている。でも、文脈が、合わない。
ついさっき、私は「全部、私のせいです」と、やっとの思いで謝った。扉の奥を初めて開けて、そこにあった最後の重さを、この人の前に出したばかりだった。
それへの、返事が、これ?
……。
絢原さんから、視線を外した。真っ直ぐ見続けるのが、ちょっと、アホらしくなった。
代わりに、足元の芝を見た。夕方の光が斜めから差して、私と絢原さんの影が、長く前に向かって倒れている。二人分の影は、離れもせず、くっつきもせず、ただ並んで芝の上に落ちていた。
……要するに、
あの時、絢原さんは私に言った。「お前のことは、最期まで責任を持つ」と。私の体が壊れて、治らなくて、もう走れないかもしれないと言われていた時の、契約。
走れなくなっても、この人は私の人生に付き合うと決めた人。
今、私は走れるようになった。体は治った。レースに出ている。
勝ってもいる。
だから、絢原さんは「あの約束は、もう忘れていいぞ」と、言った。
お前が自分の脚で歩けるようになったなら、俺の約束を重荷にしなくていい。走れるようになった今、あの契約を負い目に感じて、俺に義理で付き合う必要は、ない——そういう意味で、「卒業したら好きな所へ行っていい」と、この人は言った。
心配をかけないように、わざと明るく言った。俺はまだここからやれるから、お前は気にせずに先へ進め、と、軽く聞こえるように言った。
どうせ、ちょっとクサかったかな、って、今、自分の言葉に微妙な顔をしている。
でも、訂正はしない。真面目な人なりに、今日のこの場面で自分が選ぶ言葉はこれでいいはずだ、と決めて、飲み込んだ顔。
優しい人だと思う。
本当に、優しい。
私の負い目を、抜いてあげようとしている。
——全然、違うのに。
私が絢原さんの隣にいる理由を、この人は「義理」と「負い目」だと、心の底から思っている。オークスの契約に縛られている教え子。キャリアを壊したことへの罪悪感を抱えている教え子。
それを軽くしてあげないといけない——本気で、そう思っている。
それだけだと、思っている。
こんなに、毎日、一緒にいて。
こんなに、触れて。
こんなに、笑って。
それでも、全然、伝わっていなかった。
全然。
本当に、全然。
これっぽっちも、だ。
私がこの人に向けている感情の、本当の中身を、この人は、まったく受け取っていない。「教え子が、オークスの負い目で、トレーナーに懐いてくれている」——その範疇でしか、私を見ていない。
……あは。
笑いそうになった。
笑うところじゃないのに、口の端が、勝手に動いた。
この人。
鈍い、というのとは、違う。この人はたぶん、私の感情を、そもそも受け取る枠組みを持っていない。トレーナーとして、オークスで傷つけた教え子の負い目をどうやって軽くするか、ということばかりを真面目に考えてきて、その考え方の枠の中には、「教え子が自分に向ける想いには、義理と負い目以外のものがありうる」という欄が、用意されていない。
だから、気づかない。
気づけない。
私が袖を掴んでも、「オークスの不安の延長だな」としか思わない。私が退院してからずっと隣にいたがっても、「契約に縛られて責任を感じているんだな」としか思わない。私が勝っても、「恩返しのつもりで頑張っているな」と、律儀に受け取る。
全部、「義理と負い目」の箱に入れて、整理している。
別の箱がある、とは、想像していない。
ずっと、負い目があった。
私が、絢原さんのキャリアを壊した。あの日、私が「走らせてください」と頼んで、絢原さんが許可して、結果、この人は「教え子を壊した指導者」になった。メディアに叩かれても黙っていた。
私の入院先に毎日通ってきた。誰にも、何も、言い訳をしなかった。
全部、私のせい。
だから、私が、この人の人生に、責任を取らないといけない。ずっと、そう思ってきた。
独占欲も、あった。この人は私のもの、という意識は、たぶん病室にいた時からあった。でも、それと同じくらい——もしかしたら、それ以上に、重かったのが、負い目だった。
私はずっと、この負い目を、いつか返し終わる日が来ると思っていた。勝って、結果を出して、キャリアを取り返して、それで、帳尻を合わせて——そこから先、「負い目の終わった、ただの私」として、絢原さんの横にいる。そういう未来を、たぶん、どこかで思い描いていた。
負い目を返すのは、ゴールじゃなくて、スタート地点なんだと思っていた。
——でも。
今日、分かった。
絢原さんの中には、その「ただの私」の箱が、ない。
「義理」と「負い目」以外の欄を、この人は持っていない。だから、私がどれだけ勝って負い目を返しても、絢原さんは「教え子が律儀に恩返しを終えた」と受け取って、そこで、話が終わる。「お疲れ様、よくやったな。これでお前は自由だ」——そんな締めくくりを、この人は、自分の中で、すでに用意している。
さっきの「卒業したら好きな所へ行っていい」が、まさに、それだった。
絢原さんの頭の中では、私が負い目を返すのと、私がこの人の横から離れるのは、一本の線で繋がっている。返し終わったら、離れる。「それで終わり」が、この人の描いている、私の物語。
——つまり、負い目を返すという戦い方だと、私は、必ず、この人から離されてしまう。
負い目を返すほど、「お疲れ様、もう自由だぞ」に近づく。一生懸命になるほど、離される。
……あは。
間違っていた。
負い目は、「返す」ものじゃなかったんだ。
少なくとも、絢原さんを相手に使うなら、返しちゃダメだった。
負い目は、消えない。私が絢原さんのキャリアを壊した、という事実は、消しようがない。「無かったこと」にもできない。
「返した」ことにも、この人の枠組みの中では、できない。
だったら。
——負い目は、抱えたままで、いい。
抱えたまま、「返す」以外の使い方をする。
私は絢原さんのキャリアを壊した。だから、この人を、勝手に一人で終わらせるわけにいかない。壊した責任は、壊した私が、最後まで、持つ。
勝手に卒業して、他の子に任せて、「もう気にしないで」と遠くから手を振るなんて、できない。
これは、「義理立て」じゃない。
「義理立て」なら、返せば終わる。返し終わったら、離れられる。
でも、私の負い目は、返さない。返さないから、終わらない。終わらないから、離れられない。
離れられないから、この人の横に、居続ける理由になる。
負い目を、「横にい続けるための錨」として、使う。
「離れる口実」を、自分から、壊す。
胸の中で、負い目の重さの、向きが変わった。
消えたんじゃない。軽くなったんでもない。ずっと下に引っ張っていた重さが、今は、横方向に——絢原さんの方に——引っ張る重さに、変わった。
同じ重さが、全然違う働き方をしている。
私を潰す錘だったものが、私をこの人の横に繋ぎ止める錨に、なった。
——これも、「全部、私」だ。
高松宮記念の時、私は自分の中の獰猛さを抱え直した。食い殺したい気持ちも、傲慢さも、醜い欲も、全部、私だと。
それは間違ってなかった。でも、あの時はまだ、抱え直せていないものがあった。
絢原さんへの負い目。この人を壊したという事実。それをどう扱えばいいか、あの時の私は分かっていなかった。だから棚の奥に仕舞ったまま、高松宮記念を走った。
「全部、私」と言いながら、一番重いものには触れていなかった。
今、それを抱え直した。負い目は消さない。返さない。抱えたまま、使う。それが、私のやり方。
これも、全部、私だ。
——そういえば。
ずっと、切り離せると思っていた。
オークスの時、私は母の幻影を殺そうとした。殺して、私になろうとした。私の中の醜い部分、獰猛さ、食い殺したい欲、獲物を選ぶ冷たさ、絢原さんへの負い目——全部、自分から切り離せるものだと思っていた。
切り離して、きれいになった自分だけを残して、走りたかった。
でも、違った。
切り離そうとしていたもの、全部、私だった。殺そうとしていた母の幻影も、抱えたくなかった負い目も、押さえつけていた独占欲も、全部、私の中にあった。最初から。ずっと。
切り離せるはずがない。私そのものなんだから。
オークスで、私は灰になったつもりでいた。燃やし尽くして、醜いものは全部、灰の底に埋めたつもりでいた。
埋まっていなかった。
灰の底に埋めたつもりのものは、全部、私と一緒に、今もここにいる。埋められるわけがない。埋めようとしている人間と、埋められようとしているものが、同じなんだから。
——抱いて飛び込んでいた。
オークスの2400メートルに、私は自分自身を抱いたまま飛び込んでいた。殺すつもりで走ったのに、実は、抱きしめたまま走っていた。
それが、今、分かった。
そして、その重さの下に、ずっと隠れていたものが、顔を出した。
負い目の重さに押さえつけられて、見えないようにしていたもの。私の中の一番底にあった、もう一つの感情。
——ほしい。
この人を、ほしい。
義理でも、責任でもない、純粋に、ほしい。
負い目のすぐ横に、ずっと、並んで、在った感情。
負い目が重さの向きを変えたおかげで、やっと、息ができるようになった感情。
軽い。とても、軽い。
軽いのに、奥は、深い。
これが、私の本当の欲だったんだ、と思った。
そして——この欲と、さっきの負い目は、もう、戦わない。
独占欲が「この人がほしい」と言う。負い目が「この人から離れるわけにはいかない」と言う。
言い方は違うけれど、向いている方向は、同じ。
私は、絢原さんの横にいる。離れない。
怖いくらい綺麗に、揃っている。
絢原さんは、「好きな所へ行っていい」と言った。
優しい言葉。
でも、その優しさが、かえって、私をこの人に引き寄せる。
こんな人を、離すわけがない。
心配をかけないように、わざと明るく言える人。自分の約束を、私のために手放そうとできる人。そういう振る舞いができる人を、離れる理由になんて、できない。
むしろ、逆。
そして——この人は、気づいていない。
私の気持ちの本当の中身に、気づいていない。気づかないまま、私を「義理と負い目から解放してあげようとしている優しいトレーナー」として、今日の場面を、綺麗に締めくくったつもりでいる。
だとしたら。
この誤解は、使える。
この人が私の感情を「義理・負い目」だと思い込んでいる限り、私がこの人の横に居続けても、絢原さんは「まだ負い目を手放せていないんだな」としか思わない。私が袖に触れても、「不安からくる甘えだな」としか思わない。私が勝って結果を出しても、「恩返しのつもりで頑張っているな」としか思わない。
私が絢原さんに向ける全部の行為が、この人の枠組みの中で、無害なものに変換される。
気づかれない。
警戒されない。
その間に、私は、この人の中に入り込んでいける。「義理と負い目」の箱の中に、本当は入らない別のものを、少しずつ、混ぜていく。この人が気づかないうちに、箱の中身がすり替わっていく。
——そう、口に出して言えば、早いのかもしれない。
でも、言わないでおいた。
言ったら、この人はきっと、枠組みを書き換えざるを得なくなる。「教え子にそんな気持ちを持たせてしまった、自分の距離感が間違っていた」と考えて、自分を戒める方向に行く。距離を取ろうとする。
真面目な人だから。
だから、言わない。
言わないまま、近づく。
獰猛さは、レースの中だけで見せればいい。絢原さんの前では、引っ込めておく。
引っ込めておく、というのは、消すという意味じゃない。
寝たふりを、させておく。
——猫と、同じ。
ふと、そう思った。
ソファの上で丸くなって寝ているように見えて、実は、ちゃんと爪は研いである。目を閉じていても、耳は起きている。鼠が壁際を走ったら、次の瞬間には跳ねている。
普段は、静か。なぜなら、その方が、決定的な瞬間に、確実に仕留められるから。
普段、騒がない。騒がないから、警戒されない。警戒されないから、近くに居られる。
近くに居られるから、隙を見逃さない。
私は、そういう動物。
毎日、隣に居る。毎日、袖に触れる。毎日、穏やかに笑う。
絢原さんが「ああ、懐いているな」と思ってくれる範囲の、穏やかさ。その範囲から、はみ出さない。
でも、チャンスが来たら。
その瞬間には、跳ぶ。
絢原さんが少しでも「この子と離れたくない」と漏らした瞬間。絢原さんが一瞬でも、私に、迷った目を向けた瞬間。そういう隙を、私の中の何かが、ずっと待っている。
待っている。でも、焦らない。
焦る必要がない。隙は、必ず、いつか、来る。毎日こんなに近くに居て、毎日こんなに触れていたら、いつか絶対に、この人のどこかに、亀裂が入る。
その亀裂に、一瞬で、爪を立てる。
見た目は、穏やか。中身は、獲物を狙っている。
口角だけが、少し上がった気がする。
絢原さんは、まだ気づいていない。自分の誤解の下で、私がどんなふうに身構え始めたのかに、気づいていない。
気づかないまま、居てほしい。
気づいた時には、もう、私の爪が、ちゃんと届く距離にいるように。
~~
立ち上がった。
スカートから、芝の切れ端が一つ、二つ落ちた。
絢原さんが、少し驚いた顔で私を見上げた。座ったまま、見上げる形。いつもと上下が逆。
「トレーナー」
「ん」
「もう一本、走っていいですか」
絢原さんがストップウォッチに目を落とした。日が落ちかけている。照明はまだ点いていない。
普段ならもう切り上げる時間だ。
「四百だけ。短いのを一本、それで帰ります」
「……分かった」
理由は、聞かれなかった。
聞かれなくて、よかった。
聞かれても、答えられなかった。答えても、この人の枠組みの中では、「やっぱり負い目で頑張ろうとしているな」に変換されるだけだから。
だから、走る。
走れば、絢原さんには「教え子が、復帰戦に向けて真面目に仕上げている」としか映らない。それでいい。むしろ、それがいい。
この人の視線の角度のままで、私は、私のやり方で、走る。
スタート位置に着いた。
前を見る。
誰もいない。コースは空いている。追いかける背中がない。
先頭に立った瞬間の風景。セントウルSで火がつかなかった風景。フェブラリーSの後の練習で、ずっと空振りしてきた風景。
でも、今は違う。
前に、いる。
見えないだけで、いる。
さっき絢原さんが口にした「将来のあるウマ娘の重荷にはならない未来」の絢原さん。他の子の隣に座って、他の子のタイムを測って、他の子を勝たせる、まだ存在しない絢原さん。
その未来を、抜き去る。
一本ごとに、少しずつ、薄くしていく。今ちゃんと結果を出したら、あの未来はほんの少しだけ薄くなる。明日もう一本走って、また結果を出したら、もう少し薄くなる。
十日後のスプリンターズSで勝ったら、もっと薄くなる。
気がついたら、あの未来自体が、絢原さんの中で、輪郭を失っている。
そういう、消し方。
胸の奥で、ずくんと、何かが鳴った。
ずっと留守にしていた場所。
火じゃない。まだ火じゃない。種火だ。
小さい。でも確かに、そこにある。
高松宮記念の時に「おかえり」と言った場所と、同じ場所。
でも色が違う。
あの時は、自分の中の醜いものを受け入れるための熱だった。獰猛さも、食い殺したさも、傲慢さも、「全部、私だ」と抱え直すための熱。
今のは、もっと具体的で、もっと人間臭い種。
ほしい、と言っている。
この人を、ほしい。
横に、いてほしい。ずっと。
騒がない。宣言しない。ただ、毎日毎日、この種火を少しずつ燃やして、毎日毎日、この人の隣に居る。
それを、続ける。そして、隙を、待つ。
スタート。
出足。脚に、温度が通っている。種火が脚まで降りてきている。
阪神カップの時のような「乗せられた」感覚じゃない。フェブラリーSの時の「勝手に動いた」でもない。
私が、動かしている。
百メートル。脚が思い出している。このリズム、このストライド。
二百メートル。風を切る感触が戻ってきている。耳の横で空気が鳴る。
今日の一本目、二本目、三本目、この音は聞こえなかった。同じ速度で走っていたはずなのに、風の質が違う。
三百メートル。呼吸が深くなる。肺が空気を吸い込んで、吐き出す。
酸素が血に乗って、筋肉に届く。血の温度が、少しだけ上がっている。
四百メートル。
ゴールを抜けた瞬間、脚が「まだ走れる」と言った。
今日、三本空振りした脚と、同じ脚とは思えない。
止まった。
振り返って、絢原さんを見た。
絢原さんはストップウォッチを見ていた。
顔を上げて、口を開きかけて、結局、別の言葉を出した。
「コーナーの入り、変わったな」
ストップウォッチの数字は、言わなかった。
でも、この人はそれ以上に、私の走りの「中身」を見ていた。
「はい」
私は、頷いた。
そして内心で、もう一度、口角だけ上げた。
この人は、走りの中身を見る目を持っている。でも、その走りの奥で、さっき何が始まったかまでは、見えていない。見えていないところから、爪をかける。
それが、いい。
寮までの並木道。
十月の夕方。日が落ちる直前。葉が少しだけ色づき始めていた。
赤茶色。足元にちらほらと落ちている。踏むと、軽い音がする。
絢原さんと並んで歩いた。
無言。
さっきトレーナー室でも、練習場でも話していた「卒業したら好きな所へ行っていい」という言葉について、絢原さんは何も追加しなかった。私も、何も言わなかった。言わないまま、二人で並木の下を歩いた。
歩きながら、指先を伸ばした。
絢原さんのジャケットの袖。
触れた。
軽く、指先だけ。
絢原さんは、気づいた。一瞬だけ、歩みが小さく乱れた。でも、振り払わなかった。
振り返りもしなかった。前を向いたまま、歩幅はそのままで歩き続けた。
私も、前を向いたまま、指先だけを袖に添わせて、歩いた。
絢原さんは、たぶん、今の私の指の触れ方を、「オークスの不安の延長」「負い目からくる甘え」として、受け取っている。優しく、振り払わずに、そのまま歩幅を保って歩いてくれている。教え子の不安を、黙って受け止めてくれている——そういうつもりで、この人は、私の指を許している。
それでいい。
むしろ、そう受け取ってくれている方が、都合がいい。
昔、私はこの人の袖を掴んだことがあった。入院中、病室で。退院してからも何度か。
あの時の私は、本当に、寄りかかりたくて掴んでいた。置いていかないで、という甘え。砂糖菓子みたいな甘え。
粘着質で、重たくて、自分でも持て余す甘え。
今の触れ方は、違う。
寄りかかっているんじゃない。繋ぎ止めている。
でも、絢原さんは、その違いに気づかない。昔の甘えと、今の触れ方を、同じ箱に入れて受け取る。「あの子は、ずっと不安を抱えている教え子だ」という箱。
気づかれないまま、私は、毎日、指先を添える。
軽く、指先だけ。絢原さんに「掴まれた」と思わせないくらいの軽さ。振り払う動機が、湧かないくらいの軽さ。
でも、指先の下に、ちゃんと爪はある。
絢原さんが何かの拍子に、袖を緩めて、私に腕を差し出してくれる日が来たら——その時は、指先じゃなくて、手のひらで、ぐっと掴む。離さない。そのチャンスを、ずっと、待っている。
待ちながら、毎日、指先だけを添え続ける。絢原さんが警戒しない重さで。
絢原さんは、まだ気づいていない。
それで、いい。
並木の葉が、風で揺れた。赤茶色の葉が一枚、目の前を横切って、落ちた。
寮の前で、立ち止まった。
「じゃ、また明日」
絢原さんが先に言った。
「はい。明日」
袖から、指を離した。
自分から、離した。でもそれは「逃がした」という意味じゃない。明日の朝、また同じ場所で、私は再び袖に触れる。
そのための、今日のいったんの離脱。
絢原さんが軽く頷いて、トレーナー棟の方へ歩いていった。
私は、寮に入った。
階段を上って、部屋のドアを開けた。
「ただいま」
マーちゃんが机に向かって何かをしていた。振り返って、「おかえりなさい」と、いつもの語尾で言った。
「走ってきたんですか」
「……うん。一本だけ」
「お風呂、マーちゃんはもう上がりましたよ」
「ありがとう」
いつも通りの、いつもの会話。
鞄を置いた。窓際に座り込んで、カーテン越しに外を見た。日が完全に落ちていた。
並木道はもう暗い。あの人は、もうトレーナー棟の自分の部屋に着いた頃。
お腹の底を、確かめた。
種火は、消えていなかった。
練習場で立ち上がった時に鳴った、あの「ずくん」。あの時からずっと、お腹の奥が少しだけ温かい。熱くはない。
炎でもない。でも、消えない。
高松宮記念の時の火とは、違う。あれは「全部、私」を受け入れた瞬間の大爆発だった。頂点の火。
今のは、その後に残った、小さな種。
負い目の向きが変わった時に、その横で顔を出した、もう一つの私。
この人を、離したくない。
この人を、仕留める。
十日後、スプリンターズS。
あそこで、この種火を使って走る。
「使って走る」——今朝までの私なら、この言葉は「黒猫をコントロールする」という意味だった。獲物を選ぶ私の弱点を、自分の意志で動かす。それだけ。
今は、違う。
「使って走る」の意味が、もう一つ増えた。
この種火で走って、勝って、絢原さんに「綺麗だった」と言わせる。他の誰の走りでもなく、私の走りに。他の誰の教え子でもなく、絢原さんの教え子である私に。
誇らしい顔を、私の走りに向けさせる。
走って、勝って、この人の中の「教え子」の箱を、私の走りで、満杯にする。他の誰も入り込めないくらい、私で、埋める。
そして、絢原さんは、その勝ちを、「教え子が負い目を返してくれた」と受け取る。律儀に、誠実に、誤解したまま受け取る。
それでいい。
むしろ、それがいい。
私の勝ちが「負い目の返済」として受け取られ続けている間、私は、もう一つ別の動機で、毎日、この人の日常に、爪を立てていく。
並木道の袖の感触も、練習場の隣に座る時間も、レース後に最初に聞く声も、少しずつ、絢原さんの中で「当たり前」に変えていく。この人は、それを「オークスの不安を引きずる教え子への、トレーナーとしての配慮の延長」として、受け止め続ける。受け止めながら、いつの間にか、それが自分の日常の必要物になっていることに、気づかない。
「当たり前」になったら、そこに一つ、亀裂が入る。
「この子が居ないと、何か足りない」——その瞬間、亀裂は、生まれる。
その瞬間が、私のチャンス。
その一瞬で、私は、
あは。
窓の外で、照明が一つ、また一つと点いていった。並木道の街灯。練習場の外周の誘導灯。
トレーナー棟の窓に、一つだけ灯りがついた。
あの灯りは、絢原さんの部屋だと思う。
種火は、まだそこにあった。
十日後に使う。私の意志で、私の走りで、この人の中の「教え子」の箱を、自分で埋めるために。
これも、全部、私。
高松宮記念で抱え直した獰猛さも。今日抱え直した負い目も。その下から出てきた、この人がほしいという欲も。全部、同じ一人の、私の中にある。
絢原さんの遠慮も、絢原さんの気遣いも、絢原さんの「卒業したら好きな所へ」も、絢原さんの「義理立てしなくていい」も、全部、そのまま残しておく。
残したまま、その周りを、私が、少しずつ埋めていく。そして、隙を、待つ。
いつか、この人の枠組みの中に、「義理・負い目」以外の箱が、自然にできてしまう日が来る。ほんの一瞬、絢原さんが「あれ、今のは、何だろう」と引っかかる瞬間。
その瞬間が、来るまでに、私の爪が届く距離にいる。
毎日、袖に指を添える。軽く、ほんの少し。絢原さんが振り払う気にならないくらいの重さで。
そうやって距離を詰めて、隙を、狙う。
スプリンターズSまで、あと十日。
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