アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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幕間 私の中の猫

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

スプリンターズSまで三日。

 

共同風呂。夜。他の子はもう上がって、大浴場には私しかいなかった。湯気で天井がぼやけている。タイルの床が濡れて、照明を返している。

 

湯船に肩まで沈んだ。体の芯が温かい。

 

最近、この時間帯が好きだ。練習が終わって、夕食を食べて、風呂に浸かる。体がほぐれる。頭の中が少しだけ整理される。

 

お腹の底に、意識が向いた。

 

種火。

 

そこにある。十日前、絢原さんの横で見つけた。毎日そこにある。

 

消えない。小さい。抱えているもの全部が燃料だから、たぶん、私が生きている限り消えない。

 

そう思えるようになってから、少しだけ、私の中が静かになった。

 

湯気を見ながら、ぼんやり考えた。

 

私の中には、火と、猫が、別々にある。

 

違うものだって気づいたのは、この数日の間のことだ。練習の時、ふと黒猫が伸びをする瞬間があった。でも、種火は脚まで降りてこなかった。火と猫は、連動していない。別々に動く。

 

猫は本能だ。

 

私の意志の外にある獣。獲物を追う、獰猛なやつ。起こそうと思って起こせるものじゃないし、寝かせようと思って寝かせられるものでもない。条件さえ揃えば勝手に起きる。それだけ。

 

きっと、"火"なんだと思う。

 

火があれば、猫が反応する。火がなければ、猫は寝ている。それだけのシンプルな構造。昔からそうだった。ずっとそうだった。

 

オークスの時も、そうだった。

 

母の幻影を焼き殺すつもりだった。自分で火をつけて、猫を呼んだ。2400メートル、全部燃やしながら走った。

 

制御不能だったんじゃない。制御しなかった。母の幻影を焼き尽くせるなら、自分の本能ごと、一緒に灰になればいいと思っていた。

 

私は全部を火にくべた。そして、猫——本能のようなものは、限界まで燃え上がって、燃え尽きた。

 

——そう思っていた。

 

実際、そうだったのかもしれない。

 

それ以降、火がつかなくなった。当たり前だ。全部燃やし尽くした後なんだから。燃料も、火種も、何も残っていないと思っていた。

 

阪神カップで、不思議な感覚に襲われた。誰かが外から私の中に火を投げ込んできた感じ。あれで猫が起きた。勝った。

 

フェブラリーでも、似たようなことが起きた。

 

高松宮では、バクシンオーさんが、強すぎる背中で、私の中に火を投げ込んできた。あの時の猫は、本気の本気で目を覚ました。コースを追いかけるだけで精一杯だった。クビ差で届かなかった。三日くらい、脚が震えてた。

 

——でも、どれも、私がつけた火じゃない。

 

外から投げ込まれた火。

 

投げ込まれないと、燃えない。相手任せ。状況任せ。

 

セントウルSの時、マーちゃんは本気で来た。全力で、容赦なく、差しに来た。

 

それでも、私の中に火は灯らなかった。

 

きっと、マーちゃんが弱かったからじゃない。

あの子は本気だった。差す力も、その資格も、ちゃんとあった。

 

私の中に、火がなかった。それだけ。

 

マーちゃんの本気を受け止められるだけのものを、私の中に持っていなかった。

 

湯が、ちゃぷっと鳴った。

 

膝を抱えて、腹の底を見た。

 

種火はそこにある。

 

十日前、絢原さんと芝の上で、これに気づいた。私の中に残っていたもの全部が、燃料になる。その仕組みは、あの時に分かった。

 

あの日の続きを、今、考えている。

 

種火は、私の火だ。外から投げ込まれた火じゃない。

 

爆発はしない。オークスの時みたいに、全部を焼き尽くす勢いはない。熾火。小さい。

 

でも、消えない。燃料は切らない限り、ずっとある。

 

——これがあれば。

 

腹の底で、種火がじんわり温かい。

 

これがあれば、外の火を待たなくていい。

 

種火だけでも、私はちゃんと走れる。今までの抑えた脚じゃなくて、種火があれば、この脚の本当の全開が出せる。

 

そして——。

 

湯気の向こうを見つめた。

 

——火があれば、猫は起きる。本能だから。

 

種火の火に、猫が反応しないはずがない。小さい火でも、火は火だ。

 

自分の火で、自分の猫を呼ぶ。

 

オークス以来、やっていないこと。

 

三日後、マーちゃんと走る。

 

あの子は本気で来る。全力で、また差しに来る。

 

セントウルSの時、私はあの子の本気を受け止めきれなかった。燃料になるものが、私の中になかったから。

 

今は違う。

 

マーちゃんの本気を、ちゃんと受け止める。並んで走る。あの子が全力なら、私も全力。それが対等っていうこと。

 

そのために、私は種火を使う。

 

種火を脚に降ろす。火が起きる。猫が反応して起きる。

 

高松宮の時の猫みたいに、本気の本気で起きるかは、分からない。たぶん、種火はまだ小さいから、猫も軽く伸びをする程度かもしれない。

 

でも、外から投げ込まれた火じゃない。私の火だ。

 

私の火で、私の猫を起こして、マーちゃんと並んで走る。

 

——それが、スプリンターズSの私の走り。

 

湯から上がった。

 

タオルを体に巻いて、脱衣所に出た。鏡に映った自分を見た。

 

湯気で少しぼやけている。

 

でも、目の奥は、透き通っていた。

 

お腹の底の種火はそこにある。三日後まで、ちゃんと、そこにある。

 

脱衣所の隅で髪を乾かしていたら、マーちゃんが入ってきた。さっき夜ご飯の後、日誌を書くと言って部屋に残っていた子が、今頃になって風呂に来た。

 

「モエちゃん、まだいたんですね」

 

「のぼせそうになるまで入ってた」

 

「ダメですよ、のぼせたら」

 

「分かってる」

 

マーちゃんが脱衣カゴに荷物を置いた。カメラバッグも持ってきている。

 

「お風呂場で撮る気?」

 

「撮りません。脱衣所に置いておくだけ。部屋に置いてくると心配で」

 

「カメラ命だね」

 

「はい」

 

マーちゃんがにへらっと笑った。

 

私は髪を乾かし続けた。マーちゃんは風呂場の方へ歩いていく。その背中に、声をかけた。

 

「マーちゃん」

 

「はい?」

 

「三日後、よろしく」

 

マーちゃんが振り返った。少し驚いた顔。それから、いつもの柔らかい笑顔。

 

「……はい。こちらこそです」

 

それだけ交わして、マーちゃんは風呂場に入っていった。

 

髪が乾いた。ドライヤーのスイッチを切った。

 

部屋に戻る廊下で、お腹の底に意識が向いた。

 

種火は、そこにある。

 

三日後、使う。




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