アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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77話 スプリンターズS

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

スプリンターズSの当日。

 

朝早くに目が覚めた。向かいのベッドはまだ暗い。マーちゃんは寝ている。

 

普段より早い時間だった。二度寝しようとしたが、目は冴えていた。窓のカーテンの隙間から、薄い青が差している。夜明け前の色。

 

十日前、絢原さんの横で座り込んで、種火を見つけた。育てると決めた。ここまで、毎日その種火と一緒に走ってきた。

 

今日、それを使う。

 

階段を降りた。

 

並木道。

 

絢原さんが待っていた。

 

黒いジャージの上着。白い息。十月の朝の空気は冷たい。

 

「おはよう」

 

「……おはよう」

 

並んで歩き出した。

 

落ち葉が乾いた音を立てる。赤茶色に変わった葉。あの日、絢原さんの横で座り込んでから、もう十日。

 

右手の指を伸ばした。

 

絢原さんの上着の袖。軽く、指先だけ。

 

絢原さんは気づく。振り払わない。歩幅はそのまま。

 

もう、これが日常だ。

 

この人は、私が「レース前で不安なんだろう」と思っている。だから袖を貸してくれる。教え子の緊張を受け止める、優しいトレーナー。

 

その誤解は、今朝もちゃんと機能している。

 

中山まで、絢原さんの運転する車で移動した。

 

助手席で窓の外を見ていた。高速道路。赤茶色の葉が、風に舞う。

 

「モエ」

 

「ん」

 

「体調は」

 

「問題ない」

 

「脚は」

 

「大丈夫」

 

少し間を置いて、絢原さんが続けた。

 

「今日は、お前が走りたいように走れ」

 

——お前が走りたいように。

 

「勝て」でも「お前らしく」でもなく、「走りたいように」。

 

この人は、今の私に走りたい形が戻ってきていることを見ている。十日前、練習場の端で「コーナーの入り、変わったな」と言った、あの目で。

 

「……うん」

 

頷いた。

 

中山レース場。控室。

 

ケースを開けた。黒い布が畳まれている。

 

一年前と同じ勝負服。新しい勝負服の申請は、まだ通っていない。今日もこの黒を着る。

 

広げた。皺はない。昨日、なんだか落ち着かなくて、何度も確認した。

 

袖を通す。布が体に吸いつく。ファスナーを首元まで上げる。黒い布越しに、鎖骨の形が分かる。

 

鏡の前に立った。

 

黒い。全身が黒い。

 

母と同じ道を拒絶するために選んだ色。反抗の鎧。カレンチャンの娘ではない自分を、この色で宣言するつもりだった。

 

——あの頃の私も、今ここにいる。

 

逃げたくて黒を選んだ私。負けて泣いた私。崩れた私。全部、今、この黒の中に一緒にいる。

 

抱いたまま、今日も走る。

 

鏡の中の私が、少しだけ笑った。

 

隣の着替えスペースから、布の擦れる音がした。

 

カーテンが開いた。

 

マーちゃん。

 

NHKマイルCの勝負服。赤いカーディガン、白いフリルのワンピース。赤いサッシュを斜めがけ。紺のリボンタイ。

 

顔が違う。にへらっとした緩い目元が、ない。静かな顔。カメラを構えて被写体を見定める目。

 

「モエちゃん」

 

「ん」

 

「寝癖、ないですね。今日は」

 

「……気合い入れたから」

 

「そうですか」

 

マーちゃんが自分の後頭部に手をやった。私が直す前に、自分で直してきたらしい。

 

「マーちゃんもないね」

 

「今日は自分で直しました」

 

少し間。

 

「……同室の人に直してもらうのは、レースの日はやめようと思って」

 

同室の私に甘えない、という宣言。

 

「そっか」

 

「はい」

 

マーちゃんが鏡の前で勝負服の襟元を整える。丁寧な指の動き。

 

「行きましょうか」

 

先にドアを開けた。セントウルSの時と同じ。

 

廊下に絢原さんが立っていた。

 

ストップウォッチ。クリップボード。いつもの格好。

 

「体調は」

 

「問題ない」

 

「脚は」

 

「大丈夫」

 

朝と同じやり取り。

 

絢原さんが、三秒くらい私を見つめた。

 

「……走りたいように走れ」

 

車の中と同じ言葉。念押し。

 

「うん」

 

マーちゃんが少し先を歩いている。赤と白の背中。廊下の蛍光灯に照らされている。

 

絢原さんの横を通り抜ける時、視界の端で、この人の横顔を捉えた。

 

真剣な顔。教え子をGⅠに送り出すトレーナーの顔。

 

この顔を、私のものにする。

 

他の子の隣に座って、他の子を勝たせる絢原さんなんて、いらない。この人が真剣な顔で見る相手は、私だけでいい。

 

今日、そのために、勝つ。

 

絢原さんには見せない。見せる必要がない。

 

ゲート裏。

 

鉄の枠。左右に他のウマ娘の息遣い。GⅠの空気は重い。セントウルSのGⅡとは別物。全員が本気で来ている。

 

1200メートル。私の距離。

 

息を吸った。吐いた。

 

最後に、お腹の底を確かめた。

 

種火は、そこにある。十日間育てたもの。まだ小さいけど、確かに、そこにある。

 

ゲートが閉まった。鉄の音。

 

芝の匂い。十月の乾いた空気。

 

ゲートが開いた。

 

――Live: Announcer

 

スタートしました!!

スプリンターズステークス、芝1200メートル!

 

好スタートはカレンモエ! 内枠から飛び出した!

身のリードを取って先頭に立ちます!

 

外からフライフィールド、ブリーズシャトルが追走、半身差で二番手三番手!

シャレミーリズムが四番手!

 

アストンマーチャンは中団の外目、八番手あたり!

じっくり構えています! 前走セントウルSと同じ、末脚勝負の構え!

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

先頭。

 

風圧が顔を叩く。ウマ耳が後ろに倒れる。芝が蹴るたびに跳ね返してくる。十月の中山。乾いた芝。硬い。

 

200メートル通過。

 

脚が動いている。リズムがいい。体幹が安定している。夏合宿で絞った体が反応している。

 

400メートル。

 

速い。自分でも分かるくらい速い。素のスプリント能力。タキオンさんがリビルドしてくれた体。火がつかなくても、この距離ならこの速度は出る。

 

でも、それだけ。

 

中が空っぽ。

 

走れている。タイムも出ている。エンジンの中には何もない。殻だけ回っている。練習の一本目と同じ感覚。

 

種火はある。腹の底にちゃんとある。脚まで降りてきていない。

 

600メートル。レースの半分。

 

後ろにマーちゃん。NHKマイルCを勝ったGⅠウマ娘。セントウルSで私に勝った子。

 

体の底が静かなまま。黒猫が寝ている。

 

セントウルSと同じ。

 

第三コーナー。遠心力で体が傾く。内側の脚を踏み込む。

 

このまま行けば、また空っぽのまま直線を迎える。タイムだけ出る。マーちゃんの末脚が来たら差される。あの子の背中を、また見送ることになる。

 

セントウルSの後、マーちゃんは泣いた。

 

「今度は本気で来てください」

 

あの時、返事ができなかった。今日、空っぽのまま走って、また差されて、またあの子を泣かせることになったら——それは、あの子への裏切りだ。

 

嫌だ。

 

本気で来ている子に、本気で返さないのは、間違っている。

 

ついでに言えば、スタンドで見ている絢原さんに、また「負い目で力んでるな」なんて誤解されるのも、癪だ。

 

第四コーナー。

 

脚が地面を蹴る。反力が膝に返ってくる。芝の繊維が靴底を押し返す。

 

この感触を知っている。

 

デビュー戦から。未勝利から。新潟の1200で大差勝ちした日から。ファンタジーステークスでハナ差で勝った日も。阪神JFでウオッカの背中を見た日も。

 

全部、この感触で走ってきた。

 

オークスの直線を歩いた脚と、今走っている脚が、同じ脚だ。

 

抱えたまま、走っている。切り離そうと、しない。

 

——今。

 

お腹の底に意識を下ろした。

 

種火を、脚に降ろす。

 

じんわり温かい何かが、胸から腹へ、腹から脚へ、降りてくる。抱えているもの全部が燃料になって、燃える。

 

小さな火。高松宮記念の爆発とは別物。フェブラリーSの全身を焼く熱狂でもない。熾火。静かで、小さい。

 

でも、私のもの。

 

外から投げ込まれた火じゃない。自分で点けた火。

 

——それに、あいつが反応した。

 

体の奥で、何かが動いた。寝ていたものが、伸びをする。

 

黒猫。

 

火に反応して目を覚ます、本能。

 

起きた。一つ伸びをして、「にゃあ」と鳴いた。

 

「お前が呼んだのか」と問われた気がした。

 

自分の火で、自分の猫を起こした。

 

オークス以来、初めてのこと。

 

直線に入った。

 

残り340メートル。中山の短い直線。

 

脚の回転が変わった。ストライドが伸びた。地面を蹴る力が違う。

 

――Live: Announcer

 

最終直線に入りました!

 

先頭カレンモエ! 逃げ切りを図る!

残り300メートル! リードは一身半!

 

おっと、ここでカレンモエの脚色が変わった!

直線に入ってからさらにもう一段、加速しています! これは!

 

だがアストンマーチャンも動いた!!

外から一気に進出! 前走セントウルSと同じ大外からの強襲!

フライフィールドをかわして三番手! ブリーズシャトルをかわして二番手!

 

アストンマーチャンが来る! カレンモエに迫る!

残り200! 差は一身!

 

詰まっていく! 半身! 並んだ! 並んだか!?

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

横に来た。

 

マーちゃん。

 

足音。息遣い。歯を食いしばる気配。腕を振る音。全力で走っている空気が、すぐ隣にある。

 

視界の端に、赤と白。

 

セントウルSと同じ。横に並んできた。汗だく。前髪が額に張りついている。顔が歪んでいる。全力で来ている。

 

セントウルSでは、火がつかなかった。体の底が冷たいまま、差されて、追いつけなかった。

 

今は違う。

 

火が消えない。

 

マーちゃんが来ても消えない。

 

強くなっている。

 

この子が隣で全力を出している。「本気で来てください」と泣きながら言った子が、本気で来ている。

 

それが、火を育てる。

 

残り100。

 

マーちゃんが半歩前に出た。

 

嫌だ。

 

渡したくない。この子の全力の横で、私も全力でいたい。

 

「本気で来てください」と泣いた子が、今、本気で来ている。その本気に、本気で返さないと、この子に失礼だ。

 

腹の底から、もう一段。

 

小さな火が膨らんだ。

 

脚を回す。

 

もう一歩。靴底が芝を蹴る。

もう一歩。膝が前に出る。

もう一歩。腕を振る。

 

ゴール板が迫る。並走している。白と黒。

 

50メートル。30メートル。

 

歯を食いしばった。全身の筋肉を絞り出した。

 

体を投げ出した。

 

――Live: Announcer

 

ゴールイン!!

 

カレンモエか! アストンマーチャンか!!

 

写真判定!! 写真判定です!!

 

両者ほぼ同時にゴール板を通過!

セントウルSに続いてこの二人の壮絶な叩き合い!!

 

会場が揺れています! どよめきが止まりません!

 

掲示板が——

 

点灯します——

 

一着、五番、カレンモエ!!

 

カレンモエが制しました!! クビ差!!

スプリンターズステークス、カレンモエ!!

GⅠ2勝目! スプリント女王の座に就きました!!

 

 

 

 

 

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

勝った。

 

クビ差。

 

膝に手をついた。汗が芝に落ちる。脚が震えている。ふくらはぎが痙攣しかけている。

 

勝負服の黒が汗で重い。

 

掲示板の「5」が光っている。一着。カレンモエ。

 

立ち上がった。

 

スタンドを見た。

 

遠すぎて顔は見えない。絢原さんの位置は分かる。今日はあの辺で見ていたはず。

 

見えない顔を、想像した。

 

ストップウォッチを握っている手。口元。目。

 

「コーナーの入り、変わったな」と言った時と、同じ目で、見ていたか。

 

確かめるのは後でいい。今日の夜、並木道で袖に指を添える時、この人の顔で確かめる。

 

視線を下ろした。

 

マーちゃんが数メートル先に立っていた。肩で息をしている。赤と白の勝負服が汗で揺れている。

 

振り返った。

 

こちらを見た。

 

泣いてない。怒ってない。

 

笑っていた。

 

おっとりした笑顔じゃない。セントウルSの怒った顔でもない。

 

歯を見せて、息を切らしながら、笑っている。レースを走り切った獣の顔に、この子特有の柔らかさが乗っている。

 

「……モエちゃん」

 

「ん」

 

「今日の、本気だったでしょ」

 

「うん」

 

「分かった」

 

それだけ。

 

マーちゃんが目を拭った。汗なのか涙なのか分からない。拭って、にへらっと笑った。いつもの笑顔と、さっきの歯を見せた笑いが混ざっている。綺麗だった。

 

「マーちゃん、悔しいです」

 

「……ごめん」

 

「それ禁止って言いましたよね」

 

「……うん」

 

「もう一回やりましょう。今度は、マーちゃんが勝ちます」

 

マーちゃんが手を伸ばした。小さい手。汗で湿っている。NHKマイルCを勝った手。

 

握り返した。この子の手は、見た目よりずっと強い。

 

「ライブ、行こう」

 

「はい。今日はモエちゃんがセンターですよ」

 

「……うん」

 

手を繋いで、花道を歩き出した。

 

スタンドの歓声が降ってくる。二人の名前が混ざって聞こえる。

 

胸が熱い。レースが終わって、火は消えている。

 

熱が残っている。

 

抱えているもの全部が燃料になる、あの火。使った。勝った。消えていない。

 

十月の空。高い空だった。

 

黒い勝負服が、日差しを吸って温かい。

 

~~

 

ライブの後、関係者ゾーンに戻った。

 

絢原さんが通路の端に立っていた。

 

クリップボードを抱えている。いつもの格好。顔が少し違う。普段のトレーナーの顔の奥に、別の何かが混ざっている。隠しきれていない。

 

近づいた。

 

「……お疲れ様」

 

絢原さんが先に言った。声の温度が、いつもより少し高い。

 

「うん」

 

三秒、こちらを見ている。「コーナーの入り、変わったな」と言った時と、同じ目。

 

見ていた。ちゃんと、見ていた。

 

腹の底で、種火がじんわり温かくなった。

 

「直線で、変わったな」

 

「……うん。自分でも分かった」

 

「何が起きたんだ」

 

「秘密」

 

言ってしまってから、自分で少し驚いた。

 

絢原さんも少し驚いた顔をした。

 

「……秘密か」

 

「うん。でも悪いものじゃないから、心配しないで」

 

「分かった」

 

それ以上は聞かなかった。「悪いものじゃなさそうだ」という顔。

 

右手の指を伸ばした。上着の袖。汗ばんだ指先で、軽く触れた。

 

振り払わない。朝と同じ。こちらを見て、小さく頷いた。

 

「寮まで送る」

 

「うん」

 

~~

 

――Trainer: Ayahara

 

夜。トレーナー室。

 

モエは寮に送った。マーちゃんと食堂に行くと言っていた。あの二人が笑い合っているのを見て、少し安心した。

 

クリップボードを広げた。今日のレースデータを転記する。

 

スプリンターズS。一着。1分8秒3。クビ差。

 

横に並べた。今年の1200メートルの記録。

 

復帰戦OP。1分9秒8。火なし。

高松宮記念。1分7秒9。火あり。二着。バクシンオーにクビ差。

函館スプリントS。1分7秒5。火なし。流し。

セントウルS。1分8秒9。火なし。二着。

スプリンターズS。1分8秒3。火あり。一着。

 

ペンが止まった。

 

函館。

 

火をつけてGⅠを全力で走った今日より、火なしで流した函館の方が速い。高松宮記念で覚醒して出した1分7秒9より、さらに速い。

 

中山と中京で条件は違う。函館もコースが違う。それでも、火ありで中京GⅠ、火ありで中山GⅠの数字を、火なしで流した函館が上回っている。

 

0.4秒と0.8秒。

 

場が違う。函館は洋芝で重い。普通は重い場でタイムが落ちる。落ちるはずが、速い。しかも余力を残して。

 

ペンを置いた。

 

今日のあいつの走りを思い出した。

 

第四コーナーを抜ける瞬間、走りが変わった。空っぽの走りから、中身のある走りに。自分で何かを見つけた走り方。

 

「秘密」と、あいつは笑って言った。

 

それでいい。今のあいつには、言葉にしない方がいい何かがある。全部聞き出そうとすると、逃げる。聞かずに走りの中身だけ見ておく。それが俺の仕事。

 

袖に指を添えられた感触が、まだ残っている。

 

朝も、夜も、今日あいつは同じことをした。

 

教え子の不安の延長、と受け取っている自分がいる。

 

今日の走りを見た後だと、別の可能性が頭の片隅に浮かぶ。

 

深追いはしない。深追いする仕事じゃない。今日あいつはGⅠを自分の意志で勝った。見届けて、送り届けた。俺の仕事はそこまで。

 

スマホを取った。

 

三回のコール。

 

「やあ、トレーナーくん。今日はいいレースだったねぇ」

 

「タキオン。一つ聞きたい」

 

「ほう」

 

「函館のタイムが引っかかっている。洋芝で、流して、1分7秒5。今日より速い」

 

電話の向こうで、少し間があった。

 

「面白いデータだよ」

 

それだけ。

 

「……それだけか」

 

「今の彼女に答えても、意味がないんだよ」

 

短い。迷いのない声。

 

電話の向こうで、紅茶を啜る音が聞こえた。

 

こいつは何かを知っていて、黙っている。データが足りないのではない。答える意味がないと判断している。

 

電話を切った。

 

クリップボードの数字を、もう一度見た。

 

1分7秒5。

 

この数字の意味は、まだ分からない。タキオンは分かっている。分かっていて、意味がないと言った。

 

ファイルを閉じて、トレーナー室の電気を消した。

 

~~

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

夜。寮の食堂の後、部屋に戻った。

 

シャワーを浴びて、髪を乾かして、ジャージに着替えた。マーちゃんは自分のベッドで、マーちゃん人形を並べ直している。

 

窓際に座り込んだ。

 

カーテン越しに外を見た。並木道は暗い。街灯が並んでいる。絢原さんはもうトレーナー棟に着いた頃。

 

トレーナー棟の窓に、一つだけ灯りがついている。

 

十日前と同じ風景。同じ窓。同じ灯り。

 

あの日、ここで、お腹の底の種火を確かめた。育てると決めた。離さないと決めた。

 

十日経って、種火は育った。小さかったものが、少し大きくなった。今日、それで走って、勝った。

 

絢原さんは、私の走りを「変わったな」と見てくれた。真剣な顔で。「秘密」と言ったら、そのまま受け取ってくれた。

 

袖に指を添えても、振り払わなかった。朝も、夜も。

 

計画通り。

 

お腹の底を確かめた。種火はある。レースで使ったのに、消えていない。少し、大きくなっている。

 

抱えているものが燃料。使っても、尽きない。

 

今日、自分で火を点けて、自分の猫を起こした。小さい火、軽い猫。でも、二つが一緒に動いたのは、オークス以来初めてだった。

 

次は、もっと火を育てる。

 

お風呂、マーちゃんが先に上がってきたから、次は私。立ち上がって、タオルを掴んだ。

 

「お先」

 

「いってらっしゃいです」

 

部屋を出た。廊下の向こうから、湯気の匂いがしてくる。

 

次のレース。

 

種火を、もっと大きく育てる。猫を全力で燃やせるところまで。

 

いつか、マーちゃんともう一度、今日とは違う走りを見せたい。

 

歩きながら、そう思った。




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