アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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78話 空色

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

十一月。

 

スプリンターズSから二週間が経った。

 

六時半。向かいのベッドは空っぽ。マーちゃん人形が枕元で笑っている。マーちゃんは朝が早い。

 

洗面所で顔を洗った。鏡の中の自分と目が合った。

 

……悪くない顔。

 

最近、朝起きた時の体の温度が違う。以前は目覚めた瞬間から冷えていた。今は違う。熱くはないけど、冷たくもない。抱えているものが、ちゃんと温かい場所に収まっている感じ。

 

並木道。

 

絢原さんが待っていた。

 

黒いジャージの上着。白い息。十一月の朝は、十月よりさらに冷える。

 

「おはよう」

 

「……おはよう」

 

並んで歩いた。

 

右手の指を伸ばした。上着の袖。軽く、指先だけ。

 

絢原さんは気づく。振り払わない。歩幅はそのまま。

 

これが日常。朝と夜、この並木道でこの触れ方をする。絢原さんは「教え子の緊張の延長」と受け取っている。それでいい。

 

この誤解の中で、私はちゃんと、この人の横にいる。

 

食堂。

 

マーちゃんが席を取ってくれていた。きつねうどん、おにぎり二つ。

 

「おはようです、モエちゃん」

 

「おはよ」

 

トレーを置いて座った。トーストと卵スープ。

 

マーちゃんがこちらを見ている。うどんを啜る手が止まっている。

 

「……何」

 

「いえ。モエちゃん、最近顔色いいなぁって」

 

「そう?」

 

「うん。スプリンターズSの前とは違います。なんか、すっきりしてる」

 

「……そうかも」

 

マーちゃんがにへらっと笑った。いつもの笑顔。

 

「マーちゃん、悔しいのは消えてないですけどね」

 

「消えなくていいよ」

 

「はい。次は勝ちます」

 

「うん」

 

マーちゃんがうどんを啜った。私はトーストを齧った。いつもの朝。でも、セントウルSの後の重い空気は、もうない。

 

「マーちゃん、次のレースは?」

 

「トレーナーと相談中です。年内にもう一本走りたいんですけど」

 

「どこ?」

 

「まだ決まってないです。でも、いつかまたモエちゃんと同じレース走りたいなぁ」

 

「……うん。走ろう」

 

「約束ですよ」

 

「約束」

 

マーちゃんがスマホを構えた。

 

「朝ごはんのモエちゃん、撮ります」

 

「トースト齧ってる顔撮らないでよ」

 

「記録です」

 

パシャ。

 

食堂を出て、廊下を歩いていたら、共有スペースのテレビが点いていた。

 

スポーツニュース。ジャパンカップの特集。十一月下旬。もうすぐだ。

 

ウオッカの名前がある。ダービーも天皇賞も勝った化け物。2400メートルも平気で走る。

 

隣のソファに座っていたキング先輩が、雑誌から顔を上げた。

 

「ウオッカの相手、見た? 欧州から来るのよ」

 

画面が切り替わった。銀色がかった鹿毛。真っ直ぐな背筋。記者会見の映像。

 

テロップ。「欧州王者レゾリュート、ジャパンカップへ」

 

「……誰、あの子」

 

「レゾリュートよ。欧州の中距離チャンピオン。今季無敗。今年の凱旋門賞、勝ったばっかり。来年の連覇も本命って言われてるわ」

 

「へえ」

 

画面の中のレゾリュートが何か喋っている。通訳の声がかぶさる。

 

「日本のレースには、正面から戦う文化がある。それが好きだ」

 

声がよく通る。

 

「……ふーん」

 

「興味なさそうね」

 

「2400メートルの子でしょ。関係ない」

 

テレビの音量が小さくて、レゾリュートのその後の話は聞き取れなかった。通訳が何か続けて喋っていたけど、音が途切れた。

 

画面が切り替わって、別のニュースに移った。

 

「……行こ。授業始まる」

 

共有スペースを離れた。

 

廊下を歩きながら、さっきのレゾリュートの目が頭に残った。真っ直ぐな目。揺るがない目。あの種類の目を持つ人を、私は知らない。

 

関係ない。2400メートルの子。

 

そう言い聞かせて、教室に向かった。

 

放課後。第一練習場。

 

絢原さんがストップウォッチを構えている。

 

「今日は三本。1200メートル。間隔は十分」

 

「うん」

 

走った。

 

一本目。前に誰もいない。いつも通り。体が動く。種火は腹の底にある。

 

二本目。コーナーで膝が地面を蹴る。反力が返ってくる。この感触。

 

三本目。流した。楽に走れた。

 

「タイムは」

 

「悪くない。三本目が一番良かった」

 

絢原さんがクリップボードを見せてくれた。三本分のタイムが並んでいる。

 

「スプリンターズSの後、フォームが安定している。余計な力が抜けた。特にコーナーの入り方が変わった」

 

「変わった?」

 

「前は力で曲がってた。今は体を預けてる。信頼してるみたいに見える」

 

「体を信頼、か」

 

「ああ。スプリンターズSで何か掴んだんだろう。データにも出てる。コーナー通過の速度が上がってるのに、心拍数が下がってる。楽に走れてる証拠だ」

 

「……自分でも分かる。体が楽」

 

「いい傾向だ。この調子なら年内にもう一戦いける」

 

タオルで顔を拭いた。十一月の空気は冷たくて、汗が乾くのが速い。

 

走った後の体が、前と違う。以前は三本走ったら脚の裏が重くなった。今日は軽い。余力がある。

 

抱えているものが燃料で、そう簡単には消費しきれない。そういう走り方になっている。

 

「……もう一本走りたいくらい」

 

「気持ちは分かるが、今日はここまで。話がある」

 

「話?」

 

「食ってから来い」

 

食堂。

 

マーちゃんが先に席に着いていた。夕食の時間。鍋焼きうどん、炊き込みご飯、小鉢二つ。マーちゃんの食事はいつも品数が多い。

 

「モエちゃん、練習終わりですか」

 

「うん。そのあとトレーナーに呼ばれてる」

 

「何の話ですか?」

 

「分かんない。年内にもう一戦って言ってたから、レースの話かも」

 

「わくわくしますね」

 

マーちゃんがうどんを啜りながら目を細めた。

 

私は定食を手早く食べた。気になって仕方がない。

 

トレーナー室。

 

ドアを開けたら、絢原さんがモニターの前に座っていた。画面に書類が映っている。

 

「座れ」

 

座った。

 

「二つある」

 

絢原さんが指を二本立てた。この人が数字で話し始める時は、話が長くなる。

 

「一つ目。勝負服」

 

「え?」

 

「URAから連絡が来た。変更申請が通った」

 

「……!」

 

立ち上がりかけた。

 

「慌てるな。届くのは来週だ」

 

「来週!? もうすぐじゃん!」

 

「ああ。次のレースから着られる。……長かったな」

 

長かったな、の一言で、声が少し柔らかくなった。四月に色を選んでから、半年以上待った。この人もずっと待っていた。

 

「……やっと」

 

声が少し震えた。泣きそうじゃない。嬉しいだけ。

 

絢原さんが少し間を置いて、二本目の指を立てた。

 

「二つ目。香港スプリントのオファーが来ている」

 

「……香港?」

 

「十二月。沙田レース場。芝1200メートル。GⅠ。高松宮記念の二着と、スプリンターズSの一着で、国際招待の枠に名前が挙がった。正式なオファーだ」

 

画面の書類を指差した。英語と日本語が並んでいる。「HONG KONG SPRINT」の文字。

 

「……行きたい」

 

即答した。

 

自分でも驚くほど、迷わなかった。

 

「だって。海外のGⅠ。1200メートル。私の距離」

 

絢原さんが少し笑った。口の端が上がっただけ。

 

「お前ならそう言うと思った」

 

「ダメ?」

 

「ダメなら見せてない。場は日本より重い。函館に近い」

 

「函館みたいなら走りやすいじゃん」

 

「ああ。お前のタイムデータを見ると、重い場の方が数字がいい。理由はまだ分からないが、傾向としてはっきり出ている。合わないってことはないだろう」

 

「じゃあ決まりね」

 

「体の状態を確認して、問題なければ受ける。海外は初めてだから、移動も含めて準備が要る。パスポート、時差、食事、気候。そのあたりは全部俺がやる。お前は走ることだけ考えていい」

 

「……トレーナー」

 

「ん」

 

「ありがと」

 

「礼はレースが終わってからだ」

 

クリップボードに何か書き込んだ。ペンが走る音。

 

立ち上がりかけて、止まった。

 

「……トレーナー」

 

「ん」

 

「勝負服、届いたら、最初に見てほしいのはトレーナーがいい」

 

絢原さんが少し目を逸らした。クリップボードをいじっている。

 

「……分かった」

 

「約束ね」

 

「ああ」

 

最初に見てほしいのはトレーナー。それを口に出して言った。

 

この人はたぶん「教え子の節目を共有したい気持ち」として受け取っている。それでいい。誤解の中で、私はちゃんとこの人に約束を結んでもらえた。

 

ほかの誰にも、この最初の瞬間を渡さない。

 

トレーナー室を出た。

 

廊下。窓の外は暗い。十一月の夜は早く訪れる。

 

でも来週、空色の勝負服が届く。

 

香港。海外のGⅠ。1200メートル。

 

胸の中で何かがざわめいている。黒猫が目を覚ましたわけじゃない。もっと手前の、もっと素朴な何か。

 

わくわくしている。

 

走りたい。新しい場所で。新しい勝負服で。抱えているものを全部、連れて。

 

寮に戻る途中、食堂の前を通りかかった。共有スペースのテレビがまだ点いていた。ジャパンカップの枠順発表らしい。

 

ウオッカとレゾリュートの名前が並んでいる。

 

レゾリュートの顔が画面に映った。朝と同じ真っ直ぐな目。

 

あの目が、また少し引っかかった。理由は分からない。

 

2400メートルの子。私には関係ない。

 

そう繰り返して、通り過ぎた。

 

部屋に戻ると、マーちゃんがベッドでスマホをいじっていた。足をぱたぱたさせている。

 

「マーちゃん」

 

「はい」

 

「勝負服、来週届くって」

 

マーちゃんがスマホを放り出して起き上がった。

 

「ほんとですか!? 空色の!?」

 

「うん」

 

「見たいです! マーちゃん一番に見たいです!」

 

「……二番」

 

「え?」

 

「一番はトレーナー。約束したから」

 

マーちゃんが少し膨れた。

 

「……じゃあ二番目に見ます。マーちゃん二番は悔しいけど、トレーナーなら仕方ないです」

 

「ありがと」

 

「写真、撮っていいですか? 届いたら」

 

「いいよ」

 

「百枚くらい撮ります」

 

「多い」

 

「全角度を記録するのです。マーちゃんの使命です」

 

マーちゃん人形を持ち上げて、くるくる回している。嬉しそう。

 

「あと、香港スプリントのオファーが来た」

 

「香港!? 海外ですか!?」

 

「うん」

 

「すごいすごい! モエちゃん、世界に行くんですね!」

 

「大げさだよ」

 

「大げさじゃないです! マーちゃんも行きたいなぁ、海外」

 

「マーちゃんも招待されるよ、そのうち」

 

「そうですかね」

 

「NHKマイルC勝ってるんだから。実力は十分でしょ」

 

マーちゃんがにへらっと笑った。

 

「……モエちゃんに言われると、ほんとだって思えます」

 

「ほんとだよ」

 

窓の外が暗くなりかけている。十一月の日没は早い。

 

空色の勝負服。香港のGⅠ。マーちゃんの笑顔。絢原さんの「分かった」。

 

黒い勝負服で走るのは、あと少し。

 

次に走る時は、あの空の色を着ている。黒を脱ぐわけじゃない。黒も抱えて、空色を羽織る。反抗の鎧を脱がない。脱がずに、上から新しい色を乗せる。

 

抱えているものは、一つも手放さない。

 

ベッドに座って、お腹の底を確かめた。

 

種火はある。今夜も、明日の朝も、来週も、香港でも、ずっとある。

 

窓ガラスに、自分の顔が映っていた。目の奥で、猫が少し目を細めていた。




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