――Anti-Hero: Curren Moe
十一月。
スプリンターズSから二週間が経った。
六時半。向かいのベッドは空っぽ。マーちゃん人形が枕元で笑っている。マーちゃんは朝が早い。
洗面所で顔を洗った。鏡の中の自分と目が合った。
……悪くない顔。
最近、朝起きた時の体の温度が違う。以前は目覚めた瞬間から冷えていた。今は違う。熱くはないけど、冷たくもない。抱えているものが、ちゃんと温かい場所に収まっている感じ。
並木道。
絢原さんが待っていた。
黒いジャージの上着。白い息。十一月の朝は、十月よりさらに冷える。
「おはよう」
「……おはよう」
並んで歩いた。
右手の指を伸ばした。上着の袖。軽く、指先だけ。
絢原さんは気づく。振り払わない。歩幅はそのまま。
これが日常。朝と夜、この並木道でこの触れ方をする。絢原さんは「教え子の緊張の延長」と受け取っている。それでいい。
この誤解の中で、私はちゃんと、この人の横にいる。
食堂。
マーちゃんが席を取ってくれていた。きつねうどん、おにぎり二つ。
「おはようです、モエちゃん」
「おはよ」
トレーを置いて座った。トーストと卵スープ。
マーちゃんがこちらを見ている。うどんを啜る手が止まっている。
「……何」
「いえ。モエちゃん、最近顔色いいなぁって」
「そう?」
「うん。スプリンターズSの前とは違います。なんか、すっきりしてる」
「……そうかも」
マーちゃんがにへらっと笑った。いつもの笑顔。
「マーちゃん、悔しいのは消えてないですけどね」
「消えなくていいよ」
「はい。次は勝ちます」
「うん」
マーちゃんがうどんを啜った。私はトーストを齧った。いつもの朝。でも、セントウルSの後の重い空気は、もうない。
「マーちゃん、次のレースは?」
「トレーナーと相談中です。年内にもう一本走りたいんですけど」
「どこ?」
「まだ決まってないです。でも、いつかまたモエちゃんと同じレース走りたいなぁ」
「……うん。走ろう」
「約束ですよ」
「約束」
マーちゃんがスマホを構えた。
「朝ごはんのモエちゃん、撮ります」
「トースト齧ってる顔撮らないでよ」
「記録です」
パシャ。
食堂を出て、廊下を歩いていたら、共有スペースのテレビが点いていた。
スポーツニュース。ジャパンカップの特集。十一月下旬。もうすぐだ。
ウオッカの名前がある。ダービーも天皇賞も勝った化け物。2400メートルも平気で走る。
隣のソファに座っていたキング先輩が、雑誌から顔を上げた。
「ウオッカの相手、見た? 欧州から来るのよ」
画面が切り替わった。銀色がかった鹿毛。真っ直ぐな背筋。記者会見の映像。
テロップ。「欧州王者レゾリュート、ジャパンカップへ」
「……誰、あの子」
「レゾリュートよ。欧州の中距離チャンピオン。今季無敗。今年の凱旋門賞、勝ったばっかり。来年の連覇も本命って言われてるわ」
「へえ」
画面の中のレゾリュートが何か喋っている。通訳の声がかぶさる。
「日本のレースには、正面から戦う文化がある。それが好きだ」
声がよく通る。
「……ふーん」
「興味なさそうね」
「2400メートルの子でしょ。関係ない」
テレビの音量が小さくて、レゾリュートのその後の話は聞き取れなかった。通訳が何か続けて喋っていたけど、音が途切れた。
画面が切り替わって、別のニュースに移った。
「……行こ。授業始まる」
共有スペースを離れた。
廊下を歩きながら、さっきのレゾリュートの目が頭に残った。真っ直ぐな目。揺るがない目。あの種類の目を持つ人を、私は知らない。
関係ない。2400メートルの子。
そう言い聞かせて、教室に向かった。
放課後。第一練習場。
絢原さんがストップウォッチを構えている。
「今日は三本。1200メートル。間隔は十分」
「うん」
走った。
一本目。前に誰もいない。いつも通り。体が動く。種火は腹の底にある。
二本目。コーナーで膝が地面を蹴る。反力が返ってくる。この感触。
三本目。流した。楽に走れた。
「タイムは」
「悪くない。三本目が一番良かった」
絢原さんがクリップボードを見せてくれた。三本分のタイムが並んでいる。
「スプリンターズSの後、フォームが安定している。余計な力が抜けた。特にコーナーの入り方が変わった」
「変わった?」
「前は力で曲がってた。今は体を預けてる。信頼してるみたいに見える」
「体を信頼、か」
「ああ。スプリンターズSで何か掴んだんだろう。データにも出てる。コーナー通過の速度が上がってるのに、心拍数が下がってる。楽に走れてる証拠だ」
「……自分でも分かる。体が楽」
「いい傾向だ。この調子なら年内にもう一戦いける」
タオルで顔を拭いた。十一月の空気は冷たくて、汗が乾くのが速い。
走った後の体が、前と違う。以前は三本走ったら脚の裏が重くなった。今日は軽い。余力がある。
抱えているものが燃料で、そう簡単には消費しきれない。そういう走り方になっている。
「……もう一本走りたいくらい」
「気持ちは分かるが、今日はここまで。話がある」
「話?」
「食ってから来い」
食堂。
マーちゃんが先に席に着いていた。夕食の時間。鍋焼きうどん、炊き込みご飯、小鉢二つ。マーちゃんの食事はいつも品数が多い。
「モエちゃん、練習終わりですか」
「うん。そのあとトレーナーに呼ばれてる」
「何の話ですか?」
「分かんない。年内にもう一戦って言ってたから、レースの話かも」
「わくわくしますね」
マーちゃんがうどんを啜りながら目を細めた。
私は定食を手早く食べた。気になって仕方がない。
トレーナー室。
ドアを開けたら、絢原さんがモニターの前に座っていた。画面に書類が映っている。
「座れ」
座った。
「二つある」
絢原さんが指を二本立てた。この人が数字で話し始める時は、話が長くなる。
「一つ目。勝負服」
「え?」
「URAから連絡が来た。変更申請が通った」
「……!」
立ち上がりかけた。
「慌てるな。届くのは来週だ」
「来週!? もうすぐじゃん!」
「ああ。次のレースから着られる。……長かったな」
長かったな、の一言で、声が少し柔らかくなった。四月に色を選んでから、半年以上待った。この人もずっと待っていた。
「……やっと」
声が少し震えた。泣きそうじゃない。嬉しいだけ。
絢原さんが少し間を置いて、二本目の指を立てた。
「二つ目。香港スプリントのオファーが来ている」
「……香港?」
「十二月。沙田レース場。芝1200メートル。GⅠ。高松宮記念の二着と、スプリンターズSの一着で、国際招待の枠に名前が挙がった。正式なオファーだ」
画面の書類を指差した。英語と日本語が並んでいる。「HONG KONG SPRINT」の文字。
「……行きたい」
即答した。
自分でも驚くほど、迷わなかった。
「だって。海外のGⅠ。1200メートル。私の距離」
絢原さんが少し笑った。口の端が上がっただけ。
「お前ならそう言うと思った」
「ダメ?」
「ダメなら見せてない。馬場は日本より重い。函館に近い」
「函館みたいなら走りやすいじゃん」
「ああ。お前のタイムデータを見ると、重い馬場の方が数字がいい。理由はまだ分からないが、傾向としてはっきり出ている。合わないってことはないだろう」
「じゃあ決まりね」
「体の状態を確認して、問題なければ受ける。海外は初めてだから、移動も含めて準備が要る。パスポート、時差、食事、気候。そのあたりは全部俺がやる。お前は走ることだけ考えていい」
「……トレーナー」
「ん」
「ありがと」
「礼はレースが終わってからだ」
クリップボードに何か書き込んだ。ペンが走る音。
立ち上がりかけて、止まった。
「……トレーナー」
「ん」
「勝負服、届いたら、最初に見てほしいのはトレーナーがいい」
絢原さんが少し目を逸らした。クリップボードをいじっている。
「……分かった」
「約束ね」
「ああ」
最初に見てほしいのはトレーナー。それを口に出して言った。
この人はたぶん「教え子の節目を共有したい気持ち」として受け取っている。それでいい。誤解の中で、私はちゃんとこの人に約束を結んでもらえた。
ほかの誰にも、この最初の瞬間を渡さない。
トレーナー室を出た。
廊下。窓の外は暗い。十一月の夜は早く訪れる。
でも来週、空色の勝負服が届く。
香港。海外のGⅠ。1200メートル。
胸の中で何かがざわめいている。黒猫が目を覚ましたわけじゃない。もっと手前の、もっと素朴な何か。
わくわくしている。
走りたい。新しい場所で。新しい勝負服で。抱えているものを全部、連れて。
寮に戻る途中、食堂の前を通りかかった。共有スペースのテレビがまだ点いていた。ジャパンカップの枠順発表らしい。
ウオッカとレゾリュートの名前が並んでいる。
レゾリュートの顔が画面に映った。朝と同じ真っ直ぐな目。
あの目が、また少し引っかかった。理由は分からない。
2400メートルの子。私には関係ない。
そう繰り返して、通り過ぎた。
部屋に戻ると、マーちゃんがベッドでスマホをいじっていた。足をぱたぱたさせている。
「マーちゃん」
「はい」
「勝負服、来週届くって」
マーちゃんがスマホを放り出して起き上がった。
「ほんとですか!? 空色の!?」
「うん」
「見たいです! マーちゃん一番に見たいです!」
「……二番」
「え?」
「一番はトレーナー。約束したから」
マーちゃんが少し膨れた。
「……じゃあ二番目に見ます。マーちゃん二番は悔しいけど、トレーナーなら仕方ないです」
「ありがと」
「写真、撮っていいですか? 届いたら」
「いいよ」
「百枚くらい撮ります」
「多い」
「全角度を記録するのです。マーちゃんの使命です」
マーちゃん人形を持ち上げて、くるくる回している。嬉しそう。
「あと、香港スプリントのオファーが来た」
「香港!? 海外ですか!?」
「うん」
「すごいすごい! モエちゃん、世界に行くんですね!」
「大げさだよ」
「大げさじゃないです! マーちゃんも行きたいなぁ、海外」
「マーちゃんも招待されるよ、そのうち」
「そうですかね」
「NHKマイルC勝ってるんだから。実力は十分でしょ」
マーちゃんがにへらっと笑った。
「……モエちゃんに言われると、ほんとだって思えます」
「ほんとだよ」
窓の外が暗くなりかけている。十一月の日没は早い。
空色の勝負服。香港のGⅠ。マーちゃんの笑顔。絢原さんの「分かった」。
黒い勝負服で走るのは、あと少し。
次に走る時は、あの空の色を着ている。黒を脱ぐわけじゃない。黒も抱えて、空色を羽織る。反抗の鎧を脱がない。脱がずに、上から新しい色を乗せる。
抱えているものは、一つも手放さない。
ベッドに座って、お腹の底を確かめた。
種火はある。今夜も、明日の朝も、来週も、香港でも、ずっとある。
窓ガラスに、自分の顔が映っていた。目の奥で、猫が少し目を細めていた。
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