アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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幕間 JC出走会見

 

十一月末。ジャパンカップ出走者会見。

 

記者席の末席に座っていた。

 

スポーツ紙の三面担当。競走面の記者が風邪で倒れたから、代打で駆り出された。正直、トゥインクル・シリーズに詳しいわけではない。出走者の名前は控え室で慌てて覚えた。

 

壇上の一人だけは、知っていた。

 

レゾリュート。

 

欧州中距離の絶対的チャンピオン。今年の凱旋門賞を制した、欧州最強のウマ娘。今季無敗。秋のロンシャンを圧倒したあの走りは、競走面の記者でなくても記憶に残っている。

 

その欧州王者が、ジャパンカップを次のレースに選んだ。

 

日本の競走面は、最初、当惑したそうだ。

確かに招待は送った。 が、本当に来るとは。

凱旋門を獲った直後の王者が、翌年の連覇に向けた調整ではなく、遠い国のGⅠに来る。動機が読めなかった。

 

陣営が声明を出して、ようやく理由が分かった。

 

「ジャパンカップから招待を受けた。招待を断るのは失礼にあたる」

 

それだけ。

 

凱旋門賞を獲ったばかりの王者が、翌年の連覇に向けた長い調整期間の一部を削って、地球の反対側のGⅠに来る。普通なら計算に合わない。それでも受けた。招待された以上、応じるのが筋だと、彼女の陣営は言った。

 

別の記者が後で調べたところ、レゾリュートは招待に応じるレースを、これまで殆ど断ったことがないらしい。スケジュールに余裕がある場合に限られるが、本人の意思として「可能な限り応じる」と決めている。それが彼女の「正しさ」の一つらしい。

 

……そんな子が、今、壇上にいる。

 

壇上には主要な出走者が十数人並んでいた。国内勢。招待枠の海外勢。みんな緊張している。隣に座っているのが誰か、分かっているから。

 

レゾリュートだけが、自然体だった。

 

銀色がかった鹿毛。背筋が真っ直ぐ。目が澄んでいる。威圧しているのではない。ただそこにいるだけで空気が違う。隣に座っている国内勢が、少しだけ椅子を引いている。無意識だと思う。

 

質疑応答が始まった。

 

「レゾリュート選手。凱旋門賞の制覇、改めておめでとうございます。初の日本遠征ですが、日本のレースの印象をお聞かせください」

 

通訳を介して、レゾリュートが答えた。

 

「ありがとう。凱旋門の話は、もう終わった話だ。今日ここにいるのは、ジャパンカップのためだ」

 

声が落ち着いている。大きくも小さくもない。よく通る声。

 

「日本のレースには、正面から戦う文化がある。ラビットを出さない。全員が同じ条件で、同じ距離を、正面から走る。映像で見てきて、それが好きだと思った」

 

記者席が静かになった。

 

社交辞令ではなかった。彼女は本心を言っている。声の調子で分かる。外交的なリップサービスをする目ではない。本当に日本のレースを見て、本当に感心している。

 

「欧州ではラビットを使う陣営が少なくない。私はそれを好まない。レースは全員が全力で走るべきだ。道具として消費される走りがあっていいはずがない」

 

メモを取る手が止まった。

 

隣の先輩記者が小さく唸った。

 

「……本物だな」

 

彼女はたぶん、本当に真っ直ぐなのだ。招待を受けたら応じる。ラビットを認めない。全員が全力で正面から戦うべきだと考える。彼女の中では、全部の辻褄が合っている。

 

質問が続いた。レースプラン、日本の芝への適応、コンディション。レゾリュートは全てに簡潔に答えた。虚勢も謙遜もない。事実を事実として述べる。

 

「直線が長い東京のコースは、私のスタイルに合う。ただし、相手も同じ直線を走る。条件は同じだ。その上で勝ちたい」

 

好感を持った。記者としてではなく、個人として。

 

いい選手だと思った。

 

質疑が終盤に差しかかった頃、ある記者が手を挙げた。

 

「映像をかなりご覧になったとのことですが、日本のレースで特に印象に残ったものはありますか」

 

レゾリュートが少し考えた。

 

「いいレースが多かった。特に今年のスプリンターズSは、スプリント競走の一つの理想形だと感じた。先頭の二人が素晴らしかった」

 

モエとマーちゃんの名は出さなかった。記者席の全員が、誰のことか分かった。

 

「そういえば、一つだけ」

 

レゾリュートが、ふと付け加えた。

 

「理解できないレースはあった」

 

空気が変わった。

 

「去年のレースで、一人で飛ばして体を壊した子がいた」

 

淡々としていた。批判ではない。困惑だった。

 

「ああいうことは、するべきではない。レースは全員で走るものだ。一人で勝手に飛ばして潰れる走りは、周りの走りも歪める。ペースを崩された側は、どう戦えばいい。同じ条件で走ることが、競走の前提のはずだ」

 

一拍置いて、付け足した。

 

「——名前は覚えていない」

 

記者席がざわついた。小さく、しかし確実に。

 

隣の先輩記者が振り向いた。目が合った。言わなくても分かった。

 

カレンモエ。

 

この場にいる記者で、あれが誰のことか分からない人間はいない。だがレゾリュートは本当に名前を覚えていないのだろう。興味がないのだ。別世界のスプリンターが一年前にやった、理解できない行為。それだけのこと。

 

レゾリュートにとって、あの話はもう終わっていた。次の質問に移る前に、水を一口飲んだ。それだけ。

 

会見が終わった。

 

記者席を立ちながら、メモを見返した。殴り書きの中に「正面から戦う文化が好きだ」がある。その横に、自分で書いた一言が走り書きされていた。

 

「——正しすぎる人だ」

 

いい記事になると思った。そして、少し怖い記事にもなる、とも思った。

 

原稿を書く時、オークスの件は後ろの方に回すことにした。レゾリュートの本質はそこではない。彼女は招待を受けた以上応じる責任を全うし、正々堂々を信条とし、日本のレースを本気で尊敬してここに来ている。それがメインだ。

 

ただ、デスクに出す前に、一瞬考えた。

 

あの「名前は覚えていない」という一言が、どれだけの相手を刺すだろう、と。

 

カレンモエは今、復帰している。フェブラリーSを勝ち、高松宮記念で二着に入り、スプリンターズSを獲った。あの子の周りでは、もう誰もオークスの話をしない。本人も触れない。

 

でも、今日の会見がニュースに流れる。ウマスタにも、ネットニュースにも、切り抜きが上がる。あの子の目に入る可能性は、ゼロじゃない。

 

入った時、どう受け止めるんだろう。

 

そこまで考えて、やめた。

 

記者の仕事は、事実を書くこと。書いた後のことは、書いた人間が背負うべき領分の外にある。そこまで背負ったら、この仕事は続けられない。

 

メモを閉じた。

 

デスクに向かう電車の中で、スマホで今年の凱旋門賞の映像を開いた。レゾリュートの走りを、もう一度見た。

 

最終直線。集団が崩れて、前に誰もいなくなった場所で、彼女は変わらない脚で走り続けていた。前を見て、真っ直ぐに、誰に合わせるでもなく。

 

彼女にとって、レースは正義そのものなのだ。

 

招待には応じる。ラビットは認めない。正面から戦う。全員が同じ条件で走る。一つ一つの行動が、レゾリュートの中では「正しさ」として繋がっている。

 

——だからこそ、オークスの走りは理解できない。

 

カレンモエが去年やったことは、レゾリュートの価値観の対極にある。一人で飛ばして、全体のペースを歪めて、自分だけ潰れる。それは彼女の目には、競走を壊す行為にしか映らない。

 

正しいのは、レゾリュートの方だ。

 

世間もそう書いた。批評家もそう書いた。モエ自身、今でもたぶんそう思っている。

 

それでも——。

 

カレンモエの去年のオークスには、たぶん、何か事情があったのだろう。あの走りは、普通ではなかった。追い込まれた子が自分の脚で地獄に飛び込んだ——そう見えた、としか言えない。正しくはない。けれど、あの走り方を選ばざるを得ない何かが、あの子の側にあったのだと思う。外から見ていた人間には、本当のところは分からない。

 

その事情を、レゾリュートに説明する機会はたぶん来ない。欧州王者は欧州王者の世界に帰る。ジャパンカップを走って、翌年の凱旋門賞連覇に向けて、また自分のレースに戻る。

 

カレンモエとは、たぶん、二度と交わらない。

 

——そう思っていた。

 

原稿を書いた。「名前は覚えていない」の一言は、結局、一番後ろに小さく入れた。メインは「正面から戦う文化が好き」の方。

 

記事の見出しは、デスクが決めた。

 

——「英雄(ヒーロー)、来日」。

 

手垢のついた言葉だとは思った。けれど、今日の会見を見ていた記者たちには、誰よりも彼女に似合う言葉だとも思った。

 

記事は翌朝、紙面に載った。




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